第三章:彼の知らない彼の素顔
翌朝、重い体を引きずるように出社した詩織は、始業前の誰もいないオフィスで、衝動的に検索エンジンを開いていた。指が勝手に『橘 蓮 エンパイア・ドリンク』と打ち込んでいる。
表示された検索結果は、詩織の胸騒ぎを肯定するものだった。
『エンパイア・ドリンクの若きエース、橘蓮氏が語るグローバル戦略』
『海外MBA帰りの風雲児、ヒット商品を連発する橘氏の仕事術』
添えられた写真には、間違いなくあの男が、自信に満ちた冷たい笑みを浮かべて写っている。数々の輝かしい経歴。社内では『氷のプリンス』と呼ばれ、その合理性と結果至上主義から敵も多いが、その実力は誰もが認めるところだ、と記事は結ばれていた。
やはり、あの橘蓮だったのだ。京都の夜の彼が、幻ではなかったと証明された安堵と、なぜ彼が、という混乱が詩織の中で渦を巻く。
「――おはよう、詩織。見た、橘の経歴?」
出社してきたチームの同僚、佐藤が疲れきった顔で声をかけてきた。彼女の手には、同じ記事が印刷された紙が握られている。
「うん、今…」
「もう最悪。こんなエリート中のエリートが相手なんて、勝てるわけなくない?昨日、うちのチームの連中も、みんな意気消沈しちゃって」
佐藤の言葉通り、続々と出社してくるチームメンバーの表情は暗い。たった一度の会議で、あの男は私たちの士気までも見事に打ち砕いてしまったのだ。
「弱気にならないで!彼のやり方がすべてじゃない。私たちは私たちのやり方で、いいものを作ればいいんだから」
詩織は、自分自身に言い聞かせるように、メンバーを鼓舞した。しかし、その後の打ち合わせで、詩織は蓮の策略に翻弄されることになる。
彼が指摘した『ターゲット層の曖昧さ』。それを補強するために、詩織のチームは追加の市場調査データを洗い出していた。しかし、どんなデータを提示しても、後日蓮から送られてくるメールには、さらにその上を行く緻密な分析と、詩織たちの調査の穴を的確に指摘する言葉が並んでいた。まるで、こちらの思考をすべて先読みされているかのようだ。
彼の仕事ぶりは、悔しいほどに完璧だった。ロジックに一切の隙がなく、情や感傷が入り込む余地を微塵も与えない。詩織が大切にしている「物語」や「想い」は、彼の前では単なるノイズとして処理されてしまう。
打ち合わせのたびに、蓮は冷たい視線で詩織を射抜き、容赦ない言葉で追い詰めてくる。
「そのデータでは不十分だ。感情論で顧客は財布を開かない」
「前例のない挑戦、と言えば聞こえはいいが、要は無謀なだけでしょう」
その言葉に、カッと頭に血が上る。何度も反論しようとした。でも、彼の指摘はいつも正論で、ぐうの音も出ない。悔しい。どうして、こんな人が。
そう思うのに。
ある日の夕方、立て続けの会議で疲れ果てた詩織が給湯室で一息ついていると、偶然、蓮もコーヒーを淹れに入ってきた。一瞬、気まずい沈黙が流れる。
詩織はすぐにその場を去ろうとした。しかし、その時、窓の外に広がる夕焼けを眺める彼の横顔が、ふと目に入った。
会社では決して見せない、どこか寂しげな、遠くを見つめるような表情。その瞳に浮かぶ憂いの色は、まるで三年前、京都のバーで隣に座っていた彼のそれと、ぴたりと重なった。
あの夜、彼は「常に何かと戦っている」と言っていた。彼は今、一体何と戦っているのだろう。その完璧すぎる鎧の下には、一体どんな素顔が隠されているのだろうか。
「――何を見ている」
不意に、冷たい声が詩織の思考を中断させた。ハッとすると、蓮が訝しげな顔でこちらを睨んでいる。いつもの『氷のプリンス』の顔に戻っていた。
「…っ、別に!」
詩織は慌てて背を向け、逃げるように給湯室を後にした。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
悔しい。腹が立つ。あの男は、私の仕事の最大の障壁だ。そう頭では分かっているのに、ふとした瞬間に見せる彼の寂しげな表情に、京都の夜の優しい彼が重なって見えてしまう。
そのたびに、詩織の心は、どうしようもなくかき乱されるのだった。




