第二十章:もう一度、始めよう、この場所から
すべてが終わり、喧騒が嘘のように静まり返った頃。詩織は一人、フロンティア・ビバレッジの会社の屋上で、沈みゆく夕日を眺めていた。
頬を撫でる風が、心地いい。プロジェクトは、最高の形で採択された。仲間たちと、手を取り合って喜んだ。けれど、心のどこかに、ぽっかりと穴が空いたような感覚が残っていた。
「…ここにいると思った」
不意に、背後から優しい声がした。振り返るまでもなく、それが誰なのかは分かっていた。
そこに立っていたのは、スーツを少し着崩した、蓮だった。
詩織は、何と言えばいいのか分からなかった。感謝、謝罪、そして、まだ伝えきれていない想い。たくさんの感情が渦巻いて、言葉にならない。
先に口を開いたのは、蓮だった。彼は、詩織の隣に立つと、気まずそうに頭を下げた。
「…ごめん。遠回りさせた」
その不器用な一言に、詩織の心の堰が、決壊した。
「ばか…」
瞳から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「馬鹿ね。私も、あなたを信じきれなかった…。ひどいこと、たくさん言った。ごめんなさい…」
嗚咽を漏らす詩織の頬に、蓮の大きな手がそっと伸びて、優しく涙を拭った。その手つきは、山小屋で抱きしめてくれた時と同じくらい、温かかった。
「君が謝ることじゃない。俺が、ちゃんと言葉にしなかったせいだ。君を守るためには、それしか方法が思いつかなかったんだ。…不器用で、すまない」
「ううん…」
詩織は、首を振った。もう、言葉はいらなかった。彼の瞳を見れば、すべてが伝わってくる。
夕日が、二人をオレンジ色に染めていく。しばらくの沈黙の後、蓮が少し照れたように、未来の話を始めた。
「俺、会社を辞めることにした」
「え…?」
詩織が驚いて顔を上げると、蓮は吹っ切れたような、晴れやかな顔で笑っていた。
「祖父も、許してくれた。これからは、エンパイアっていう大きな看板がなくても、やっていけるかって。もっと自由に、本当に作りたいものを作るためにな」
彼の決意は、固いようだった。それは、とても彼らしい選択だと思えた。
「…そう」
詩織は、寂しさと、誇らしさが入り混じったような気持ちで、小さく頷いた。
すると、蓮は、詩織の肩をそっと抱き寄せ、まっすぐに目を見つめて、言った。
「だから、詩織」
彼は、真剣な声で、詩織の名前を呼んだ。
「もう一度、俺と始めてくれないか?」
その言葉に、詩織の心臓が大きく跳ねる。
「ライバルとしてじゃなく、パートナーとして。仕事も、そして…これからの人生も」
それは、今まで聞いたどんな言葉よりも、ストレートで、心のこもったプロポーズだった。
詩織は、涙と笑顔がぐちゃぐちゃに混じった顔で、力強く、何度も頷いた。
「…はい」
その返事を聞いて、蓮は、安堵したように、心の底から優しく微笑んだ。そして、詩織を強く、固く、抱きしめる。
三年前の京都での、一夜の出会い。最悪の形で再会し、ぶつかり合い、すれ違い、そして、ようやくたどり着いたこの場所。
遠回りだったかもしれない。けれど、二人にとっては、必要な時間だった。
東京の街が、夕闇に包まれていく。屋上の冷たいコンクリートの上で、二人はただ、互いの温もりを確かめ合うように、いつまでも固く抱きしめ合っていた。
もう一度、ここから始めよう。二人の物語を。




