第二章:忘れられない京都の夜
しん、と静まり返ったオフィスに、パソコンのキーボードを叩く音だけが響いている。会議が終わった後も、詩織は一人、会社に残っていた。橘蓮に突きつけられた課題――企画の甘さを克服するための、具体的なデータと戦略を練り直さなければならなかったからだ。
しかし、モニターに並ぶ無機質な数字を眺めていても、思考は一向にまとまらない。脳裏にちらつくのは、あの冷徹な男の顔。そして、どうしても蘇ってきてしまう、三年前の記憶。
あれは、詩織が社会人三年目の秋だった。初めて任された新商品の企画が、最終段階で頓挫した。寝る間も惜しんで心血を注いだ企画だっただけに、挫折感は大きかった。何もかもが嫌になって、衝動的に休みを取り、一人で京都へ向かったのだ。
観光客で賑わう昼間の喧騒を避け、詩織はあてもなく路地裏をさまよった。夕暮れ時、ぽつりぽつりと降り出した雨は、あっという間に本降りになった。雨宿りの場所を探して駆け込んだのは、先斗町の裏通りにひっそりと佇む、小さなジャズバーだった。
重い木の扉を開けると、燻したような木の香りと、心地よいベースの低音が詩織を包んだ。客はまばらで、詩織はカウンターの一番端の席に腰を下ろした。
「――お一人ですか?」
不意に、隣から穏やかな声がした。見ると、同じように一人でグラスを傾けている男性が、こちらに微笑みかけていた。それが、彼との出会いだった。
今日の橘蓮と同じ、色素の薄い髪。整った顔立ち。でも、その目に宿る光は、氷のように冷たいものではなく、どこまでも優しく、穏やかだった。
初対面のはずなのに、なぜか、ずっと昔から知っているような不思議な感覚があった。仕事で失敗したこと、自分の無力さが情けないこと。普段、誰にも見せない弱音を、詩織は自然と彼に打ち明けていた。
「……飲む人の一日を、ほんの少しだけ幸せにするような、そんな飲み物を作りたいんです。でも、私には才能がないみたい」
自嘲気味に呟く詩織に、彼は静かに耳を傾けていた。そして、バーボンの入ったグラスをそっと揺らしながら、こう言ったのだ。
「才能なんて、結果論だ。君がそうやって誰かの幸せを本気で願えること、それ自体が一番尊い才能だと思うけどな」
その言葉が、ささくれ立っていた詩織の心に、じんわりと染み渡った。彼の声は、店内に流れるジャズの音色のように、心地よくて、安心できた。
彼もまた、仕事で少し疲れているのだと言った。具体的な内容は話さなかったが、常に何かと戦っているような、そんな雰囲気があった。でも、その夜の彼は、鎧を脱いだ無防備な一人の男だった。
バーを出る頃には、雨はすっかり上がっていた。ひんやりとした夜の空気が心地いい。二人はどちらからともなく、静かな鴨川のほとりを歩き始めた。等間隔に並んで座るカップルたちを横目に、私たちはただ、並んで歩いた。
水面に映る月が、ゆらゆらと揺れている。
「……綺麗ですね」
詩織が呟くと、彼は詩織の顔をじっと見つめた。その真剣な眼差しに、心臓がドキリと音を立てる。
「ああ。君も」
吐息が触れ合うほどの距離で、彼が囁いた。次の瞬間、彼の顔が近づいてきて、唇に柔らかい感触が触れた。驚きに目を見開く詩織の頬を、彼の大きな手が優しく包み込む。それは、名前も知らない相手との、一夜限りの、魔法のようなキスだった。
結局、私たちは最後まで名前を名乗らなかった。連絡先も交換しなかった。夜が明けたら、この魔法は解けてしまうと、お互いに分かっていたからだ。だからこそ、あの時間はあまりにも完璧で、甘く、そして切なかった。
「――水野さん?」
不意に背後から声がして、詩織はハッと我に返った。振り返ると、警備員が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。
「あ、すみません。もうこんな時間でしたか」
慌ててパソコンの電源を落とし、荷物をまとめる。オフィスの窓から見える東京の夜景は、煌びやかで、どこか無機質だ。
あの穏やかだった彼と、今日の傲慢な橘蓮が、どうしても結びつかない。
もし、本当に同一人物なのだとしたら、彼はなぜ、あんなにも冷たい仮面を被っているのだろう。そして、なぜ、私のことに気づかないふりを…? いや、もしかしたら、彼は本当に私のことなど忘れてしまっているのかもしれない。所詮は、旅先での一夜の出来事。そう思うと、胸の奥がきりりと痛んだ。
どちらにせよ、感傷に浸っている暇はない。彼は敵だ。私の大切な企画を、「おままごと」と切り捨てた男。
詩織はぎゅっと唇を結んだ。忘れなければならない。あの京都の夜も、あの優しいキスも。明日からは、フロンティア・ビバレッジの水野詩織として、エンパイア・ドリンクの橘蓮と戦うのだ。
そう決意したはずなのに、帰り道、唇に残る幻のような感触が、いつまでも詩織を惑わせ続けていた。




