第十三章:週末のデートと、忍び寄る影
二次プレゼンを間近に控えた、束の間の休日。詩織と蓮は、仕事の緊張感から解放されるように、初めて水族館でデートをすることにした。
「わぁ…!」
巨大な水槽の中を、ジンベイザメが悠然と泳いでいく。色とりどりの魚たちが作り出す幻想的な光景に、詩織は子供のようにはしゃいだ。
「すごい、蓮さん! 見てください!」
詩織が興奮して蓮の腕を引くと、彼は「ああ、すごいな」と答えながらも、その視線は魚ではなく、きらきらと目を輝かせる詩織の横顔に注がれていた。その優しい眼差しに気づいた詩織は、少し照れくさくなって顔を赤らめる。
普段、会社で見せる冷徹な『橘蓮』と、今、隣で微笑んでいる『蓮さん』。そのギャップが、詩織の心をどうしようもなくくすぐる。
館内を歩いていると、イルカショーが始まるというアナウンスが流れた。
「イルカショー、見たいです!」
「子供か、君は」
蓮は呆れたように言いながらも、その口元は緩んでいる。結局、彼は詩織の手を引いて、一番前の席へと向かった。
水しぶきを浴びながら、ダイナミックなジャンプを繰り返すイルカたちに、詩織は夢中で拍手を送った。ショーが終わった後、蓮がお土産物屋で、真剣な顔で何かを選んでいる。
「何してるんですか?」
「別に」
詩織が覗き込むと、彼は慌てたようにそれを隠した。
出口の近くに、クレーンゲームのコーナーがあった。景品の中には、さっきショーで見たイルカのぬいぐるみが並んでいる。
「あ、イルカ…可愛い」
詩織がぽつりと呟いた、その一言を聞き逃さなかった蓮は、何を思ったか、クレーンゲームの前に仁王立ちになった。
「ちょっと待ってろ」
そう言うと、彼は財布から百円玉を取り出し、真剣な顔つきでゲームに挑戦し始めたのだ。
「え、ええ!? 蓮さんがクレーンゲーム!?」
その意外すぎる光景に、詩織は目を丸くした。合理性と効率を何よりも重んじるはずの彼が、この世で最も不確定要素の多いゲームに挑んでいる。
しかし、氷のプリンスの実力は、こんなところでも発揮されるらしかった。彼は、アームの動き、重心の位置、景品の角度などを、まるで仕事のデータ分析でもするかのように冷静に見極めている。
「そこじゃない、右に0.5ミリ…よし」
ぶつぶつと呟きながら、何度か失敗を繰り返す。そのたびに「くそっ…!」と本気で悔しがる姿は、普段の彼からは想像もつかないほど子供っぽくて、詩織は思わず笑ってしまった。
そして、十数回の挑戦の末。アームはついに、イルカのぬいぐるみをがっちりと掴み、ゴトン、と音を立てて取り出し口に落とした。
「…ほら」
蓮は、少し乱れた髪を直しながら、何でもないことのように、そのぬいぐるみを詩織に差し出した。その顔は無表情を装っているが、耳は真っ赤に染まっている。
「ありがとうございます…! 大切にします!」
詩織は、イルカのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。それは、ただのぬいぐるみではなかった。彼が、詩織のために見せてくれた、不器用で、愛おしい優しさの結晶だった。
水族館を出て、海辺の公園を二人で歩く。夕日が、二人をオレンジ色に染めていた。
「…楽しかった」
蓮が、ぽつりと呟いた。
「私もです」
「君といると、忘れてたことを思い出す。こうやって、ただ笑ったり、何かに夢中になったりすることの…大切さを」
彼の言葉に、詩織の胸が温かくなる。二人はどちらからともなく、手を繋いだ。
幸せな時間だった。仕事のことも、ライバルであることも、すべてを忘れられる、ただの恋人としての時間。
しかし、その幸せな二人を、少し離れた場所から、一台の望遠レンズが捉えていた。
カシャ、カシャ、と乾いたシャッター音が、静かに響く。
木戸が雇った探偵は、水族館ではしゃぐ二人、クレーンゲームに夢中になる蓮、そして、夕日の中で手を繋ぎ、親密そうに微笑み合う二人の姿を、確実にフィルムに収めていた。
二人の純粋な想いは、すでに敵の掌の上で、悪意に満ちたスキャンダルの材料へと変えられようとしていた。忍び寄る影は、もうすぐそこまで迫っていたのだ。




