第十二章:彼のチームの不穏な動き
エンパイア・ドリンク社内。橘蓮が率いる企画チームの空気は、ここ最近、どこか張り詰めていた。蓮が持ち帰ってくる新しいアイデアは、確かに斬新で、これまでのエンパイアのやり方とは一線を画すものだった。しかし、その変化を快く思わない者もいた。
その筆頭が、蓮の右腕とされる先輩社員、木戸俊介だった。
木戸は叩き上げの実力主義者で、蓮の祖父である創業者からの信頼も厚い、古参の社員の一人だ。彼は、蓮が海外から鳴り物入りで入社して以来、彼の教育係兼監視役のような立場でチームにいた。蓮の合理性と冷徹さを誰よりも評価していたのは、木戸自身だった。
しかし、最近の蓮は、明らかに「変わってしまった」と木戸は感じていた。
「橘くん、このプロモーション案だが…少し情緒的に過ぎるんじゃないか? 我々のターゲット層は、そんな感傷的なストーリーを求めているとは思えんが」
会議の席で、木戸はあからさまに不快感を示した。蓮が提案したのは、茶葉の生産者のドキュメンタリー映像を大々的に使うという、フロンティア・ビバレッジの詩織のやり方に近いものだったからだ。
「木戸さん、時代は変わっています。消費者は今、モノの裏にあるストーリーを求めている。データだけでは人の心は動かせません」
蓮は、臆することなく反論する。その言葉に、木戸の眉間のしわが、さらに深くなった。
「…フロンティアの水野とかいう小娘に、感化でもされたか?」
探るような木戸の視線に、蓮は一瞬、表情をこわばらせた。だが、すぐにポーカーフェイスに戻り、「競合の分析から導き出した、合理的な判断です」と冷たく言い放った。
木戸は、それ以上何も言わなかった。だが、彼の疑念は確信に変わりつつあった。橘蓮は、何かを隠している。そして、その原因は、競合のあの女に違いない。
木戸にとって、蓮の祖父である創業者への忠誠は絶対だ。彼は、創業者から「蓮をエンパイアにふさわしい後継者として鍛え上げろ。甘さは徹底的に排除しろ」と密命を受けていた。蓮の最近の「甘さ」は、木戸にとっては許しがたい裏切り行為だった。
それに、木戸自身にも野心があった。もし、蓮が後継者の座から滑り落ちれば、自分にチャンスが巡ってくるかもしれない。そのためなら、手段は選ばない。
その日の夕方、木戸は部下の一人を自席に呼びつけた。
「おい、最近の橘くんの動向、何か気づいたことはないか?」
「え…? 特に、相変わらずお仕事は完璧ですが…」
「そうか? 俺には、少し浮かれているように見えるがな。特に、フロンティアとの会議の後は」
木戸は、意味深な笑みを浮かべた。
「少し、彼の身辺を洗ってみろ。特に、あの水野詩織という女との接点をな。何か面白いことが分かるかもしれんぞ」
部下は、木戸の冷酷な目に射すくめられ、こくりと頷くしかなかった。
木戸は、それだけでは飽き足らなかった。彼は、会社の役員フロアへと足を運ぶと、蓮と対立関係にある役員の一人に声をかけた。
「――専務。橘くんのプロジェクトの件ですが、少し気になる動きがありまして」
木戸は、蓮のやり方がいかにエンパイアの伝統から逸脱しているか、そして、その裏に競合との不適切な関係がある可能性を、巧みに匂わせた。
「ほう、それは面白い話を聞いた。引き続き、情報を頼むよ、木戸くん」
専務は、口元に卑劣な笑みを浮かべた。
こうして、蓮と詩織が知らないところで、巨大な組織の権力闘争と、嫉妬に満ちた悪意が、静かに、だが確実に動き始めていた。それは、二人のか細い秘密の恋を、いとも簡単に引き裂いてしまうほどの、巨大な渦となって。
木戸は、自席に戻ると、デスクの引き出しから一枚の写真を取り出した。それは、以前、部下が偶然撮影した、古書店で親しげに話す蓮と詩織の姿だった。
「氷のプリンスも、恋にうつつを抜かせばただの男か。…面白い。実に、面白い」
木戸は、その写真を眺めながら、蛇のように冷たい笑みを浮かべた。彼の策略の網は、すでに静かに張られ始めていたのだ。




