第十章:名前を呼んで、あの夜のように
翌朝、嘘のように雨は上がっていた。空には大きな虹がかかり、濡れた木々の緑が朝日にきらきらと輝いている。
土砂崩れの復旧作業には、村の男たちが総出であたっていた。詩織と蓮も、じっとしていることなどできず、高坂さんから借りた長靴と軍手を身につけ、作業を手伝うことにした。
「お嬢ちゃんたち、無理はせんでええからのう」
村の人々は、都会から来た二人を温かく受け入れてくれた。蓮は、黙々と土嚢を運び、シャベルで土砂を掻き出している。スーツ姿の彼とはまるで別人のように、その姿は頼もしかった。詩織も、流木を片付けたり、炊き出しの手伝いをしたりと、夢中で体を動かした。
昨夜、互いの心の内を明かしたことで、二人の間の空気は明らかに変わっていた。ぎこちなさは消え、自然に言葉を交わし、視線が合うと、どちらからともなく微笑みがこぼれる。まるで、三年前の京都の夜に戻ったかのような、穏やかで心地よい時間が流れていた。
作業の途中、詩織はぬかるんだ斜面で、運んでいた荷物の重さに耐えきれず、大きく体勢を崩した。
「危ない!」
悲鳴を上げる間もなく、強い力で腕を引かれ、体がたくましい胸の中にすっぽりと収まった。泥と汗の匂いに混じって、彼自身の匂いがふわりと香る。見上げると、至近距離に蓮の真剣な顔があった。
「……大丈夫か?」
低い声が、頭上から降ってくる。詩織の心臓が、大きく音を立てた。彼の腕に抱かれたまま、その心配そうな瞳を見つめ返す。時間だけが、止まってしまったかのようだった。
周囲の喧騒が、遠くに聞こえる。
もう、我慢できなかった。詩織は、たまらず口を開いた。
「……どうして」
声が、震える。
「どうして、あの時…最初の会議で、気づいているって、言ってくれなかったの…?」
ずっと胸の内にあった、一番聞きたかったこと。それを口にしてしまったら、もう後戻りはできない。
蓮の表情が、苦しげに歪んだ。彼は、詩織を抱く腕の力を、わずかに強める。
「……言えるわけないだろう」
彼の声もまた、かすかに震えていた。
「あんたの、あの真っ直ぐな目を見てたら…俺は…」
言葉を詰まらせる蓮。仕事上の自分と、本当の自分との間で、彼がどれほど葛藤していたのかが、痛いほど伝わってくる。ライバルとして再会してしまった戸惑い。惹かれる気持ちに蓋をしなければならなかった苦しさ。
もう、いい。もう、仮面を被らなくていい。
詩織は、覚悟を決めて、彼の名前を呼んだ。それは、初めて呼ぶ、彼の名前。
「――蓮さん」
その響きに、蓮の肩が微かに震えた。まるで、固く閉ざされていた心の扉が、その一言で開かれたかのように。彼の瞳が、驚きと、喜びと、そして愛おしさがない混ぜになったような、複雑な色を帯びて揺らぐ。
長い、長い沈黙の後。
蓮の唇が、ゆっくりと動いた。
「……詩織」
呼ばれた自分の名前が、まるで特別な魔法の言葉のように、甘く、切なく響く。
次の瞬間、蓮は詩織の頬にそっと手を添え、顔を近づけてきた。抵抗なんて、できなかった。いや、する気もなかった。
三年前の、あの夜以来のキス。
でも、それは一夜限りの魔法のようなキスとは違った。確かで、熱くて、お互いの存在を確かめ合うような、優しいキスだった。
村の人々の声も、土砂を掻き出す音も、すべてが遠くに消えていく。世界に、まるで二人だけしかいないような気がした。
唇が離れた後も、二人はしばらくの間、お互いの額を寄せ合ったまま、見つめ合っていた。
「ごめん」と蓮が囁いた。「遠回りさせた」
「ううん」と詩織は首を振った。「私も、信じきれなかった」
どちらが悪いわけでもない。ただ、不器用すぎただけだ。
復旧したばかりの青空の下で、二人の時間は、ようやく、三年前のあの夜から再び動き始めた。まだライバルという関係も、それぞれの会社の事情も、何も解決はしていない。けれど、今はただ、この温もりだけを信じていたかった。




