第一章:最悪の再会は会議室で
登場人物紹介
◆水野 詩織
大手飲料メーカー「フロンティア・ビバレッジ」商品開発部所属。28歳。情熱的で、"人の心に寄り添う一品"を作ることを信条とする努力家。少し不器用で恋愛には奥手。三年前、一人旅先の京都で出会った名も知らぬ男性が忘れられないでいる。
◆橘 蓮
業界最大手「エンパイア・ドリンク」のエース企画マン。29歳。海外帰り、クールで合理的。結果至上主義者で、詩織とは真逆のタイプ。皮肉屋で何を考えているか分からないが、実は仕事に対するプライドは誰よりも高い。彼もまた、京都での一夜を鮮明に記憶している。
◆木戸 俊介
「エンパイア・ドリンク」に所属する蓮の先輩社員。蓮の右腕として働きながらも、結果のためなら手段を選ばない冷酷な一面を持つ。蓮の祖父である創業者からの信頼も厚く、蓮のやり方を快く思っていない。
「――以上が、我が社フロンティア・ビバレッジが総力を挙げて提案する、新プロジェクト『次世代クラフトティー・結』の概要です」
張り詰めた空気の漂う、だだっ広い会議室。水野詩織は、背筋を伸ばし、集まった役員たちをまっすぐに見据えた。手にしたポインターが示す先には、渾身の企画書がスクリーンに映し出されている。
「『結』のコンセプトは、”心をつなぐ一杯”。多様化するライフスタイルの中で、孤独を感じやすい現代人に、そっと寄り添うような、温かい物語のあるお茶を届けたい。それが、私の、私たちの願いです」
情熱が、言葉になってあふれ出す。二十八歳、商品開発部に所属して六年。これが、私が本当に作りたかったものだ。誰かの心をほんの少しだけ温める、そんな飲み物を。社の命運を賭けたこの一大プロジェクトの責任者に抜擢されたことは、重圧であると同時に、最高の栄誉だった。
ざわめきが好意的なそれに変わっていくのを感じ、詩織は小さく息をつく。あとは最大の懸念事項だけだ。
「――素晴らしいコンセプトだ。だが水野くん、分かっているとは思うが」
温厚なことで知られる営業担当役員が、重々しく口を開いた。
「最大の障壁は、業界トップのエンパイア・ドリンクだ。彼らも同様のクラフトティー市場に、近々参入するという情報が入っている。我々が勝つには、彼らを上回る何かが必要だ」
ゴクリと、喉が鳴る。もちろん、分かっている。怪物、エンパイア・ドリンク。業界のガリバーであり、彼らが本気を出せば、我々のような中堅メーカーの企画など、一瞬で飲み込まれてしまうだろう。
今日のこの会議は、エンパイア社との共同開発の可能性を探るための、第一回折衝の場でもあった。競合ではあるが、流通や原料調達の面で協業できれば、双方にメリットがあるという上層部の判断だ。
しかし、詩織は内心、その判断に懐疑的だった。あの結果至上主義のエンパイアが、我々の”心”を重視する企画に乗ってくるだろうか。
その時、重厚な会議室の扉が静かに開かれた。
「遅れて申し訳ありません。エンパイア・ドリンクの橘です」
凛とした、それでいてどこか冷ややかさを帯びた声が響く。全員の視線が、入り口に立った一人の男に注がれた。
すらりとした長身に、寸分の隙もなく着こなしたチャコールグレーのスーツ。陽光を反射してきらめく、色素の薄い髪。そして、すべてを見透かすような、怜悧な光を宿した瞳。まるで作り物のように整った貌には、温度というものが感じられなかった。
彼が、エンパイアが送り込んできた担当者――橘蓮。
彼の姿を認めた瞬間、詩織の心臓が、大きく、痛いほどに跳ね上がった。
嘘だ。どうして、彼がここに。
時が止まったような感覚。周囲の音が遠のき、彼の姿だけがスローモーションのように目に焼き付く。三年間、脳裏から一度だって消えたことのない横顔が、そこにあった。
「……橘さん、お待ちしていました。さっそくですが、こちらが弊社の企画担当、水野です」
上司に促され、詩織は弾かれたように立ち上がった。足が震える。平静を装え。これは仕事だ。ここで動揺を見せるわけにはいかない。
「……フロンティア・ビバレッジ、商品開発部の水野詩織です。よろしくお願いいたします」
絞り出した声は、自分でも驚くほど上ずっていた。差し出した名刺を持つ手が、かすかに震えているのが自分でも分かった。
橘蓮は、詩織を一瞥すると、表情一つ変えずに名刺を受け取った。その指先が触れた瞬間、ビクリと肩が跳ねる。彼の瞳が、値踏みするように詩織の顔を、企画書を、交互に見た。
「橘蓮です」
短くそう名乗った彼の唇が、皮肉な弧を描く。
「企画書、拝見しました」
彼は、悠然と席に着くと、テーブルに置かれていた企画書のコピーをこともなげに指で弾いた。
「”心をつなぐ一杯”、ですか。ずいぶんと情緒的なコンセプトですね」
その一言で、会議室の空気が凍り付いた。役員たちの顔から、先ほどまでの好意的な色が消える。
「情緒的、とはどういう意味でしょうか」
詩織は、反射的に言い返していた。震えは、いつの間にか怒りに変わっていた。この人は、私の、私たちの想いを、踏みにじろうとしている。
「言葉通りの意味ですよ、水野さん」
橘蓮は、わざとらしくため息をついた。「ビジネスにおいて、最も排除すべきものが何かご存じですか? 感傷と、非効率です。この企画は、その二つで構成されているように見受けられる。ターゲット層は曖昧、コスト意識は希薄、マーケティング戦略に至っては、夢物語のレベルだ」
一言ひとことが、鋭い刃となって詩織の胸に突き刺さる。悔しさで、唇を噛みしめた。
「私たちは、ただ売れればいいものを作りたいわけではありません! 飲む人の一日に、少しでも豊かさをもたらせるような、そんな……」
「豊かさ、ですか」
蓮は、フンと鼻で笑った。「結構。ですが、それはビジネスではなく、ボランティア活動の領域だ。我々エンパイア・ドリンクは、おままごとに付き合う気はありません」
最悪だ。
詩織は、目の前の男を睨みつけた。クールで、傲慢で、人の心を土足で踏み荒らす、最低の男。
それなのに。
ライトに照らされた彼のシャープな顎のライン。思索にふけるように細められた目。そのすべてが、記憶の中の”彼”と寸分たがわず重なって、詩織の心を容赦なくかき乱す。
まさか、あの夜の人…?
いや、そんなはずはない。あの夜の彼は、もっと穏やかで、優しくて……。
激しい動揺を悟られまいと、詩織はテーブルの下で強く拳を握りしめた。今はこの戦いに集中するんだ。あの夜のことは、ただの幻。そう自分に言い聞かせなければ、立っていることすらできそうになかった。
会議室の窓から差し込む西日が、火花を散らす二人の間を、まるで境界線のように分かっていた。




