駄目な常連が、駄目な作家を育成する。
以前は、切れ味も鋭く、独特の感性を見せてくれていた投稿者たちが、最近、その持ち味を失ってきているように感じる。原因は、おそらく「常連の読者」たちの影響なのではないかと推測される。
創作の前提条件として「作者の孤独性」というものがある。
自身が持つ消化しきれない感情を、どうしようもない気持ちから、アウトプットする。それが「心情の吐露」であるわけだが、なまじっか常連の読者などというものを得てしまうと、そういったことにもブレーキがかかる。
常連の読者がどう思うか、ばかりを考えて書いていると、やがて誰にも響かない文章を書くことにもなる。
常連の「理解者」というやつは、新しい作品に対しても、初めから「作者そのものへの理解」というバイアスを持って、作品に触れる。そして「私はこの投稿も理解できます」といった、作者の新奇性をも否定する感想を残す。
作品に必要なのは、純全たる批評である(日記的エッセイ等は別としても)。仲間内だけで褒め合うのは、批評をクローズドなものにし、狭く、狭く絞り込んでいく檻にしかならない。
満ち足りた者が書く文章は、常に退屈だ。
飢えた言葉にこそ、核心が宿る。
もし、本当に満ち足りているのなら、それはそれでかまわない。しかし、満ち足りたふりをしながら、それっぽい文章をただ書き連ねているのなら、それは自分で自分の作家性を砂漠化させる、緩い自死とも同じである。
「本当にそんな文章で満足なのか?」
宛名のない手紙として、ここに記す。
信者は、ポイントを儲ける装置にはなっても、苦言を呈してくれる友人にはならない。




