トイレットペーパーの持ち帰りはご遠慮ください
『トイレットペーパーの持ち帰りはご遠慮ください』
目の前の壁に貼られている、赤い文字を目で追った。四つの角がセロハンテープで止められていて、年季が入ったポスターだとわかる。
ああ、どうしよう。
隣の個室からはガラガラとトイレットペーパーを巻き取る音が聞こえてくる。人がいたことを意識した途端、罪悪感のようなものを感じてしまう。
ポカポカした陽気な春だと言うのに、トイレの中は肌寒く、身震いがするほどだった。いつもなら湿った匂いが鼻をつくはずなのに、今日は何も感じなかった。
それは私が花粉症だからだ。鼻が詰まっているのに、鼻水が止まらない。何とも矛盾したことが自分の体の中で起こっていて、気持ちも落ち着かなかった。
私のカバンの中にあるポケットティッシュは後、1枚しかなかった。今の時間から夜まで、このポケットティッシュ1枚でやり過ごさないといけなかった。それは無理な話だった。
だからこそ、私はトイレットペーパーを拝借する必要がある。
壁に書いてある『トイレットペーパーの持ち帰りはご遠慮ください』の表記は、おそらく1ロールのことを指すのだろう。トイレットペーパーのストックを、勝手に家に持ち帰ることは、悪い行為であることを、私たちに強く伝えている。
そういえば、実家暮らしだった時、お隣の日村さんが、トイレットペーパーの持ち帰りの常習犯であることが有名だった。近所に知れ渡っていたけど、あれはどうしてだったのだろうか。誰か見たというのだろうか。私の母が「いやぁねぇ」と、苦い顔をして言っていたのが印象に残っている。
……。
ならば、トイレットペーパーをカラカラと10回ほど巻き取って、カバンの中に入れて持ち帰るのは罪になるだろうか。ストックを家に持ち帰るわけではない。私の鼻水が床に垂れないように、保険として手元に持っておきたいだけだ。
バタンと隣の個室から人が出る音がする。歩き方が乱暴だから、きっと急いでいるのだろう。ゴォォと手を乾かす音が聞こえた後、しんと静かになる。
私は目を閉じる。覚悟を決める必要があった。
重い瞼を開けると『トイレットペーパーの持ち帰りはご遠慮ください』の文字が目に入る。そのポスターの中には、挿絵が描いてあった。トイレットペーパー自身が泣いていて、人間に悲しみを訴えていた。サイコパスは、この絵を目にしても、構わずにトイレットペーパーを持ち帰るのだろうか。
私はカラカラとトイレットペーパーを数回巻き取った。力を入れ、ふーーーーんと鼻をかんだ。個室から外に音が漏れて、トイレ全体に響き渡っている気がした。
鼻をかんだトイレットペーパーは、水洗トイレに流した。一人頷いた私は、潔く個室を出た。
私はトイレットペーパーを持ち帰らずに、トイレ内で事を済ませる方法を選んだ。ティッシュが欲しいなら、この店で買えば良い。堂々とした態度でいられることに気づいた私は顎を引いて、猫背をやめた。
その時、トイレットペーパーを2個抱えたおばさんが個室から出てきて目が合った。誰もトイレ内にいないと思っていたから、完全に不意をつかれてしまった。
おばさんは50代くらいで、上品な漆黒のワンピースを着ていた。耳には赤いシックなイヤリングを付けている。
あっ。トイレットペーパー泥棒だ。私は直感で悟った。
でもこの人が?
お金持ちに見えるおばさんで、何一つ不自由ない生活を送っているように見える。人は見かけによらないな。
私に見られたおばさんは動揺するどころか、鋭い目を向けて睨んできた。弱い私は反射的に目を逸らす。
さっさとトイレから出ようとしたら、後ろでガチャンとトイレの鍵が閉まる音がした。どうやら、おばさんが入ったらしい。私に見られたことで気まずくなり、とりあえず個室に入って、やり過ごすことにしたのかな。
私は先ほど、鼻をかむためにトイレットペーパーを持ち出しても良いものか悩んでいた。このおばさんのように澄ました顔をして生きていけたら、人生楽しいだろうか。
手を洗った後、手洗い乾燥機を使っていると、ゴォォとまるで飛行機を思わせる音がトイレ内に響いた。
「あーあ!!!!」
私はため息とも言えない、不思議な声を出していた。ピリッとトイレ内に音が反響して消えた。その後、無言でトイレを出た。
それはトイレットペーパーを抱えたおばさんに向けたメッセージだった。非難するわけでもなく、見過ごすわけでもない。そもそも自分に当てられているかわからないと感じるかもしれない。だけど、おばさんは何か感じ取ってくれただろうか。
中途半端な正義感からきた行動だった。
昔、隣に住んでいた日村さんは、どういう気持ちでトイレットペーパーを持ち出したのだろうか。それは、ストレス発散かもしれない。家庭が困窮していたからかもしれない。バレなければ良いでしょと軽い気持ちで思ったことかもしれない。
顔も覚えていない日村さんと、ワンピースのおばさんの顔が重なって、ぼやけて消えた。
私は鼻水が垂れそうになって、つい、トイレに戻りたくなった。だけど、気持ちを抑えて前へ進んだ。
ずずずと鼻をすすりながら、カバンの中にある1枚のティッシュを求めた。