第九話 血に染まる、カリブンクルスの冷血公。
今は昔、人の世にまだ吸血鬼が隠れ潜んでいた頃のこと。
世を騒がす存在があった。
その名を、『紅玉の冷血公』────、後の吸血鬼の王のひとりである。
血に飢えた眼を闇夜に光らせ、人も同族も誰彼構わず屠り殺め続けた。
多くの返り血を浴びながら、冷めた月明かりに見せる姿はまさに冷血。
存在する全ての者を呪う、赤い瞳に気をつけよ────。
◇◇◇
ひとり廊下に立つその人は、昨日のようにシャツだけのラフな格好ではなくて、映画俳優よろしく黒のスーツとロングコートで決めた姿をしております。
眩しい。
眩しすぎる────。
ここには太陽も照明もないと言うのに、燦然と全てを照らし尽くす眩さで視界がやられます。
まさに美の化身。私に金とか権力があったら、今すぐにでも画家と写真家を呼んでいたことでしょう。
ちなみにお手軽に記録が残せるようなメディア媒体は持っていません。
これが低階層市民の悲しき現実です。
「昨夜は休めたか? この二人に地下墓地に案内されたと聞いた」
「あはは、バレてましたか」
「使ってない棺桶がたくさんあったので、マイマイも一緒にって思ったんです」
自分の世界に逃避していたのも束の間、届く声の距離に我に帰ります。
今度はこちらが取り残され、三人が一様に私に注目していました。
「──昨日は素敵なお部屋をありがとうございます。棺桶だらけの場所に案内された時は驚きましたが……、ジェイドさんが個室に案内してくれたので快適に過ごせました」
地下墓地と言うだけあって暗く湿度高めの部屋には、所狭しと棺が並んでいたのは一周回って面白かったです。
アデルとリュカ、ブレイズもそこで休んでいるみたいでしたが、他の人は別の部屋だという話でした。
────先ほどジェイドから聞いた話が、頭の中でリフレインしました。
アデルとリュカの話を聞いている姿は、恐ろしい存在にはどうしても見えなくて、ただ色が違うだけの理想的な大人のように見えました。
「……ヴィクター様は、元は第一市民だったと聞きました。だからウラーのことにも詳しいんですか?」
好奇心が言葉を紡ぎました。
もしかしたら、同じ人として、どこか近い場所で暮らしていたのかもと、そんな希望が見えてしまったのです。
「あぁ、聞いたのか。────まだ市民階級が四種類ほどしかなかった時代の話だ。その頃は吸血鬼という存在はまだなく、いたとしても病気として扱われていた」
「……病気、ですか」
考えなしだった自分の質問が、苦く心に落ちました。
出会った時からずっと同じ──。期待を寄せるでもなく、好奇からでもない。不快感もなく、嫌悪感も見せない。どこまでも自然体といった熱くも冷たくもない温度の静かな声。
穏やかな話し方に、こちらの心まで凪いでしまう──。不思議な方です。
「そうだ。中にはこの体質を治そうとしていた者もいたが、科学も技術も医療も発達した現在もなお、誰もなしえなかった。唯一お互いを損ねずに済むのは、人と吸血鬼で分かれて暮らす他ないということだけだ」
事実を述べているだけなのだと思います。
整うお顔は美しく、冷静な語り口は心地よい。
それなのに、────どうして寂しい気持ちになるのでしょう。
「今の話を覚える必要はない。人には人の、我々には我々の社会があり、理がある。────ウラーと今も深く関わりのある相識がいる。彼に助力を頼もう」
「……もしかしてガガテス様にマイマイを頼むんですか?」
「そうだ。癖はあるが、頼まれて無碍にするような連中じゃない。良く取り計らってくれるだろう」
「ガガテス様のところまでは簡単に行けないですよ? ご移動はどうされるんですかー?」
「車がある。しばらく使っていないから、ブレイズとフィルが見に行ってくれている」
着々と、帰らねばならない時が近付いています。
帰ったところで、ここのような穏やかな時間を過ごせることはきっとないでしょう。
もやもやと心に広がった行きます。
帰りたく、ないな……。
「あの、帰る前に何かお礼をさせて下さい。昨日からずっと皆さんのお世話になりっぱなしなので、その────」
「必要ない」
縋るために出た適当な言葉は簡単に一蹴されました。
「ここではお前は餌になる小鳥も同然だ。同じような見た目をしているからと、我々に気安さを持ったところで、この身に刻まれた本能と本性は基本変わらない。ここはお前のいるべき場所ではない」
言い聞かせる言葉が、子どもだった私の心に重く圧し掛かります。
「血の味を覚えた猛獣を、誰もそのまま野に帰したりしない。────飢えを覚えれば誰もが冷静ではいられなくなる。また次を繰り返すだろう」
淡々と語る言葉はどれも、故郷で聞いた話しです。
それをご本人から聞かされる状況が、なんだかおかしいですね。
「また、死の恐怖に支配された者も、────自らの安全を確かめるまで冷静さを欠き、理性すら失ってしまうだろう。……そういう面倒事はもう御免被る」
疲労の滲む言葉が、重く広い廊下に広がるようでした。踵を返すヴィクターの後を、二人がついて行きました。
昨日触れられた跡に触れると、涙もなけば自分の体温で何も残っていない。
『あなたは運がいいわね、マイラ』
昨夜そう言ってくれたジェイドの言葉が、自らの置かれた状況を端的に説明してくれていたようです。
命があるだけマシなのだと。
無事に故郷に戻ることが出来るだけで、自らの幸運に感謝すべきなのだと伝えてくれていたのですね。
別れ際のセリフも、私の平凡な人生へのエールだったのかもしれません。
────これで良かったじゃないですか。
素敵な思い出だけあれば充分だと言い聞かせ、諦めて三人の後を付いて行きました。
「────ヴィクター様!」
廊下の角から、服も顔も汚したブレイズが現れました。
「手間を掛けさせて悪かったな。準備は出来たか?」
昨日のようなツンケンした態度はなく、怒られる前の子どものように元気を失くしたフィルがよろよろと彼の後ろから現れました。
「…………申し訳ありません。今まで保管のために綺麗にしてはいたのですが……」
「誰もずっと整備もしてこなかったので、エンジンが動かないし、オイル漏れもあり、どうにも手がつけられませんでした!」
心底申し訳なさそうに報告するフィルとは対極的に、ブレイズの元気な報告に、いい話なのか悪い話しなのか判断がつきかねました。
「そうか……。それは困ったな」
ぽつりと呟くヴィクターの衝撃に、足が力を失い廊下に膝をつきました。
「マイマイ!? 大丈夫!?」
「急にどうしたんだ────。もしかして貧血か?」
崩れ落ちる私に気付いたアデルとリュカが心配して寄り添ってくれましたが、今はそれどころではありません。
────────『それは困ったな』、だと?
厳しく忠告してくれた姿と違って普通に困っている姿に、心臓が打ち抜かれました。
心臓から頭までドキドキと巡る血が早く、息が苦しい────。
昨日も彼に会ってからこんな調子でしたが、今ハッキリと理解しました。
ヴィクターのことが、好きになってしまったみたいです。
まだ少ししか知らないのに。────語尾が柔らかいのもポイントが高いです。完全無欠な100点満点です。
美しいのに驕るところもなく、吸血鬼なのに牛乳に舌鼓を打ち、種族間の違いを指摘してくれたのに決まらないうっかりさん具合────。
「……すぐに帰れなくてショックを受けてしまったか。後先考えず、急いてしまってすまなかった」
「そのまま心臓が止まってしまえば面倒が少なくて済んだものを」
「フィル! そんな冷たいことを言わないでよ」
見ず知らずの私に手を差し伸べて、安全な場所まで遠ざけようとしてくれる心遣い────。その誰かを思いやる心に、小さい胸が熱くなります。
熱い気持ちが手足の先まで巡ると、自分が『生きている』ことをいまさら実感してしまいました。
人間がいない場所で、何十年も生きていながら改めて『生』を実感するんだなんて……。
おかしいですね。
バカみたいですよね。
私もそう思います。──だけど、どうしても自分の気持ちを理解してしまえば、この不運すら幸運に思えてきます。
いいえ──、ここに来れたことが『幸運』だったのでしょう。最初から、私はツイている。
だとしたら、『普通の幸せ』なんてお役御免です。
新たな機会が訪れたのなら────。
もう少しこの『幸運』のために、私の人生を賭けてみることにします。