第五話 嘘でしょう……? こちとら花の乙女やぞ?
熱い。
喉がつまる。
涙が止まらない。
次々に溢れて止まない恥ずかしさを誤魔化したいのに、両手で拭っても止める事が出来ません。
今日初めて会った人たちの前で、こんな醜態を晒すなんて────。
一生懸命涙を拭っていると、ひんやりとした硬い何かが頬をなぞりました。
それが何かと確かめると、────ヴィクターの顔がすぐそばにありました。
涙で濡れ、熱を持つ顔を冷たい瞳が見つめている。
私の顔に触れてるのは、彼の手のようです。
恥ずかしさで下を向いていたから、咽いでいたのかもしれません。
誰かの冷たい温度と、隠していた顔を上げたせいか、乱れた呼吸が落ち着きを取り戻してきました。
同時に、馬鹿みたいに泣いてる顔を見られ、美しさの塊みたいな人に触れられ、なけなしの乙女心が恥じらいました。
こんなとき、どういう顔をすればいい──?
百戦錬磨の真の乙女ならきっと、適切な振る舞いが出来たでしょう。────残念ながら、私はまだそこまでの境地に至っていません。
頬から顎に指が移動すると、自然と首が上がり、頭の角度が上がりました。目と目が合い、近付く距離からまさか──────。
熱かった顔の温度がさらに上昇していきます。
嘘でしょ待って。
おいくつか分からないし、お互いまだ名前しか知らないのにまさか、でもそんな、人目もあるのにまさかまさか、いやでも、あぁどうしよう────!
指が離れました。
……ちょっとだけ、キスでもされるのかと思いました。
もちろんそんな経験はありません。
乙女に顎クイしたら、ちょっとは期待しちゃってもおかしくないですよね……?
ひんやりとした硬い感触が心地良かっただけに、彼が離れていくと名残惜しい。
でもおかげで涙も引っ込み、呼吸も落ち着きました。
────もしかして、気を紛らわせてくれたのでしょうか。
大人な慰め方に、ドキドキと別の恥ずかしさが湧いていると、
涙を拭ってくれた優しい指が
なぜか、そのまま
口元に運ばれて────?
ペロリとひと舐めされました。
「ヴィクター様!」
「………………………………なんて不味さだ」
温度感の変わらぬ声で、───だけど心底気分を害した悲しみの篭る声でした。
「淡い塩味の中に、雑味の複雑さだけが感じられる……。味の悪さもさることながら、口の中にいつまでも残るえぐみがひどい。……劣悪な環境に過度なストレス、水も食事もまともなものが与えられてないことが容易に伺える」
What’s? ……私めの境遇を哀れに思われたのでしょうか?
「味など見るまでもなく、ドブ川で育った雑魚が臭く不味いのは当然のこと。御身自らが確かめる必要など、ないではありませんか」
「マイマイって不味いんだ。なんだかかわいそう」
「人間は雑食だから仕方がないわ。ネズミと同じね」
WHY? どうしてこんなにディスられているのですか、私。
「体を作るのは食事が肝要とは、このことですか」
「へぇ〜。だからヴィクター様は人間に興味がないんですね〜」
「特にウラーは貧富の格差も強いから、口にできるものに限度があるのでしょう。──だからと言って急にレディの味見をなさるなんて、お行儀がよろしくないのでは、ヴィクター様?」
……自分が決して、恵まれた人生を歩んできていると思ったことはないものの、今日会ったばかりの人たちに置かれた現状を詳らかにされ、恥ずかしさを通り過ぎ、もはや虚無。
フィルに白いナフキンを渡され、口元を覆うヴィクターの表情が歪んでいます。────美しい人は何しても絵になるようで、憂える姿すら心に響きます。
だけど
私って
不味いんだ……。
彼の憂愁に心が引きずられるのか、がっかりした気持ちになってしまいました。
食べられなくて良かったと思うべきなのに……。
「新しいものをどうぞ。そんなどこぞの馬の骨よりずっとマシです」
「あぁ、ありがとうフィル」
いつの間に、どこから持ち込んだのか、フィルが丸みを帯びた足の長いグラスに、白い不透明な液体が入ったものを立派なお盆に乗せ、ヴィクターに差し出していましていました。
ワイングラスのようです。
細い足をつまみ、グラスを揺らすことなく静かに匂いを確かめ、そのまま掲げました。────宝石でも鑑定しているかのような仕草に、思わず見惚れてしまいます。
不透明だから何か透けて見えるわけではなさそうですが、何かのお酒でしょうか。丁寧で繊細な所作が、まるで夢物語に出てくる絵画のよう。
中身の鑑賞が終わると、ヴィクターはそれを口にしました。
「────これは特選シャースチエ牛乳か」
「流石はヴィクター様! すぐにお当てになるとは」
「──ん? 牛乳……?」
『シャースチエ』という言葉に聞き覚えがあります。
《ウラーの地》にはいくつかの定められた農畜産などを行う、第一次産業地帯があります。
人々の暮らしを支える重要な場所ですが、そこで生産されたものが広く人々の手に渡ることはありません。
国に認められた『有能な人間』だけが、手にする権利が得られるご褒美のようなもの──。
美食とは、恵まれた人の嗜好であり贅沢です。
庶民は手にすることは出来なくとも、どんなものが存在するのか話くらいは聞いたことがあります。
シャースチエとは、最高級品につく名前だったはずです。
「────与える食事も水も厳選されたが故の完璧な味わい。柔らかな乳脂肪が、口に含むだけで溶けて広がる。適切な気温管理がなされていなければ、決して作り出せない豊かな風味が素晴らしい。この濃厚な口当たりと美味さこそが、牛たちに極力ストレスを与えないよう手塩をかけていた印だ。育成環境の良さがダイレクトに伝わる、……実に良き品だ」
ヴィクターはいたく感銘を受けておいでのようで淡々とした口調ながらも、私の涙を口にした時よりも饒舌で上機嫌に見えました。
「当然です。粗悪な雑食種なんかよりも、まだ産地も品種も分かっている牛の方が口にする価値はありましょう」
「煮ても焼いても美味しいしねー」
「骨からダシが取れるし、テールスープもボクは好きだな」
「革を鞣せばサンドバッグも作れる。最高だ」
「乳牛にそこまで求めるものではないと思うけれど……、確かに無駄はないかもね」
他の五人も口々に牛を称賛しています。
生き血を啜る吸血鬼、と今まで聞いてきたのに────。
もしかして、最近の牛は血が白かったりするのでしょうか。
仮にそうだったら、私が飲んだのも牛の血ということに……?
「フィル、私たちのグラスはー?」
「僕は小間使いじゃない。欲しいなら自分で取りに行け」
「仕方ない。ボクは親切だからみんなの分を持ってきてあげよう」
席を立ち上がるリュカ、──肉体強化に関心があるのがブレイズのようです。──どうやら私の後ろに部屋があるようで、ヴィクターとフィルの隣を大股で駆け抜け、奥へと姿を消しました。
「ほら、マイマイもおかわりしなよ」
「あ、ありがとう……」
始終人懐っこいアデルが促してくれますが、得体の知れないものへの恐怖が、急に食欲もなにもかもを押しやりました。マグカップを両手で持つと、冷たさが心にまで沁み込んできます。
戻ってきたリュカが人数分の多種多様なグラスと、四角くて見たことのある形をした紙パックのそれを持ってきました。
「空気に触れると鮮度が落ちてしまう。まだあるから好きなだけ飲むといい」
「フン──、ヴィクター様の寛大なお心遣いに平伏しながら口にするがいい人間」
お高そうなデザインをしていますが、そこには『特選シャースチエ牛乳』と書かれています。
成分無調整の、まごうことなき『牛乳』です。
いやまさか、食品表示法違反でもしているのでは? 牛乳と偽った違法な何かなのでは──?
疑えばキリがありません。
まじまじと紙パックを観察してみますが、普段口にしているものがただの乳飲料なので、無駄なものが入れられていない、と言うことしかわかりません。
食品偽装でなければ、やはりこれは牛乳……?
「今日はひとり人数が多いからすぐに飲み切るでしょう」
「いつもブレイズが全部飲んじゃうじゃん」
「はっはっはっ、だが今夜はヴィクター様もご一緒だ。────今宵は客人もいて愉快な晩餐だな」
「────晩餐? へぇ、これが──!」
ブレイズの言葉にアデルとリュカが二人で目を輝かせると、グラスを手にしたこの城の住人たちがそばへとやってきました。
ヴィクターもフィルから新たにそれを注がれており、白いグラスたちが私の周りに集います。
ブレイズがグラスを掲げると、声を張り上げました。
「────カリブンクルスに来た客人の幸運と、我らが主、ヴィクター様の彼方に続く栄光を祝して!」
これは、邪教崇拝における夜会でしょうか。
彼らの主人たるヴィクターは、賑わいに混じるつもりはなさそうですが、ブレイズの言葉に、こちらにグラスを開け傾けていました。側にいるフィルはフイと顔を逸らしていましたが、────ここにいるほとんどの方は私の到来を受け入れてくれているようでした。
「かんぱーい!」
友好的かつ手厚いおもてなしと、ウェルカムな空気に戸惑うばかりですが、みなさん乾杯の声と共に楽しくそれを口にされていたので、どうしようか迷っていると、
「……どうかしたのか? 何か気になることでも」
彼の家族──、とでもいうのでしょうか。歓迎の空気に馴染まない私の元へ、ヴィクターが近付いてきました。
「冷たいものが嫌ならチンすればいい」
「…………チンって、なんですか?」
彫刻のように完成された美しい人から発せられた、似つかわしくない言葉に思わず聞き返してしまいました。
「ヴィクター様ってレンジのことチンって言うの。なんでかな」
「────ここ、レンジもあるんですか?」
「あるよー。すぐ温まるし便利だよね。あっ! マイマイ、ホットミルクがいいなら私がチンしてあげるね!」
元気にマグカップを奪うアデルは風のように奥の部屋へと姿を消しました。──おそらくあの部屋が厨房なのでしょう。
電気があり、この空間に似つかわしくない文明の利器がある、ということにも驚いたのですが、
「……昔は呼び鈴のような音をさせ、多くの人がそう呼んでいた。違うとわかっていても、つい今でも口にしてしまう」
「ヴィクター様がお呼びになる限り、レンジはチンと呼ぶのが相応しいかと」
「フィル……、さすがに私も言い改めた方がいいと思っている。何年も昔の話だ、今の子に伝わらない時点で変えた方が良いだろう」
気まずげに説明されるヴィクターの姿に、その後されたフィルの忠告が何も頭に入ってきません。
美しさで心を掻き乱すだけでなく、
こんな、
こんな、
愛らしさも備えておられるなんて……!
今まで知らなかった。
究極の存在とは、兼ね備えているものなのだと────。
こうして杜若苺來不肖17歳はここ、《ムートの国》で新たな出会いを果たしたのでした。
◇◇◇
「この部屋にあるものならなんでも使っていいわ。使い方は分かるかしら」
「ありがとうございます」
「ひとりが心細かったら私が一緒に──」
「あなたはこっちよ、アデル。私が一緒にいてあげるから、マイラはゆっくり休むといいわ」
ジェイドがアデルを止めてくれると、ウィンクしてくれました。──子どものように懐いてくれるアデルには申し訳ないのですが、薄暗い寝室に案内されるとどっと休みたい気持ちが身体を重くしました。
ヴィクターの次くらいでしょうか。見た目通り大人な振る舞いに、優しい心遣いがとてもありがたかったです。
「……お二人とも、本当にありがとうございます。少し疲れてしまったので、今夜はもう休ませて頂こうと思います」
二人の女性が部屋を出ていくと、見たこともない豪勢なベッドに倒れ込みました。
ふわふわでふかふか。
ここの人たちみたいな、暖かな感触にここであったことを反芻しました。
「……牛に負けた」
ヴィクターに不味いと言われた時を思い出し、口の中に苦々しさが溢れます。
いやいや、他に思い返すべきことはあったはず────。
「………………牛乳に、負けた……」
牛乳を飲み饒舌になるヴィクターの姿と、一緒にいた皆さん────、本当に牛乳しか飲んでいなかったし、あの後また別の銘柄の牛乳を持って来られました。
みなさんが美味しそうに飲んでいた姿が瞼を離れません。
今夜は悔しさのあまりお借りする布団を濡らしてしまうことを、どうかお許し下さい。