第十八話 悔恨の昔話は捨て去って。
今は昔。
埃が積もり、建物も消え失せ、当時を推し量る術はもうない。
あの頃の記録を残せた者は、どこかにいたのだろうか。
目をつけられまいと息を潜めた者がほとんどで、陽の下へ持ち出そうとした輩は痕跡諸共闇夜に消えていった。
◇◇◇
にゃー。
鈴を鳴らし、窓辺に毛玉が上がった。大きな尻尾を優雅に揺らし、窓の外を眺めている。
そこに見えるのは開け放たれた窓と瑞々しい緑色に、銀色に輝くシルエット。動くたび光を反射させ眩しさに目が眩みそうになる。
ふんわりした見た目に好奇心から手を伸ばす。──触れる前に指先に痛みが走り、暗い影の中で焼ける指先を抱え、痛みが引くのを待つしか無かった。
外から声が響いた。歌を口ずさんでいるようで、窓辺に座る毛玉が耳を動かし忙しなく頭部が動いている。
────いったい、外には何があるのだろう。
興味があっても、風が入る窓に近付く事ができない。
何かが聞こえても、確かめることも見る事もできない。
日の当たる明るい窓と影の間には、痛くて熱い壁があった。
あの毛玉が何を見ているのか、知る術はここにはなかった。
◇◇◇
「────ヴィクター! この手はどうしたの……?」
母が骨ばった小さな手を取り、怪我の跡を見つけた。
火傷するほど熱い温度でも、この熱は傷付けてこない。
「……火傷のようです。燭台でも触れてしまったのでしょうか」
「誰かこの部屋に置きましょう。この子ひとりにしておくのは心配だわ」
窓の外が暗くなれば、母と医者がやって来る。他にも人が来ることがあったが、大抵すぐにどこかへ行ってしまう。
「もし伝染病の類でしたら、無暗に感染を広げることになるかもしれません……。最近は北の方でも同じ症状を持つ患者が出たとか。」
「あぁ、ヴィクター……。今はひとりで寂しいでしょうが、きちんとお医者さまに診て貰えばきっと治るわ。……だから、どうかひとくちでいいから口にして頂戴」
採血の後、何かを注射される。
たくさんの料理に果物が今日も運ばれるが、口にしたいと思えない。
いろんな匂いにぐるぐると気分が悪くなる。
「…………一体どうしてこんなことに……」
「奥様……。あまり思い詰められるのはお身体に障ります……」
皆口元を布で覆い隠し、ヴィクターから距離を取る。
いつからか食事が食べられなくなり、日差しに当たることが出来なくなった。
食べないせいで気分が悪いのか、病気のせいで脆弱になってしまったのか分からない。
今は家の端にある、誰も来ない一番遠い部屋にヴィクターは隔離されていた。
小さくても、ひとつのことは理解していた。
「……休みたいので、ひとりにしてくれますか」
悲嘆に暮れる母と打つ手を見つけられない医師を追い出し、自分の終わりをベッドの中で考えた。
たぶんこのまま何も食べれなくて死ぬのだろう。
ドアが閉まる直前、ふわりと空腹を刺激する香りがした。
誰も居なくなった部屋を見回すが、暗がりに浮かぶ部屋の輪郭は、目的の物を見せることはなかった。
◇◇◇
毎日の同じやり取りにうんざりすればするほど、母までどんどん痩せていき顔色が悪くなっていった。
「他の子はなんともないのにどうしてこの子だけが……」
思わず出た本音に慌てて口を閉ざすと、首を振り母はやつれた笑顔を見せた。
「大丈夫よ、ヴィクター。たとえ神様があなたをお見捨てになっても、わたしだけはあなたの味方でいますからね」
母のことは嫌いではない。だが、熱い手で触れられるのは嫌だった。
手を振り払うと、毛玉がベッドに乗ってきた。
「こんなところまで来ていたのね■■■■■■ってば────。ヴィクターの身体に障るわ。誰か追い出して」
にゃーと声を上げると、人々の手をすり抜け逃げていく。
大きな毛玉なのに、小さな鈴の音を立て、捕まえても捕まえても逃げる姿がなんだかおかしい。
不毛なやり取りが、枯れた心をわずかに潤した。
「■■■■■■! あまり騒がせないでちょうだい」
しびれを切らした母が立ち上がると、ようやくひとりが捕まえた。
にゃーとか細い声に憐みを誘う。
「まったく困った子ね……」
母が抱えようとすると小さな悲鳴があがり、毛玉がまたすり抜けて部屋から逃げ出した。
「奥様!」
「大丈夫よ、心配しないで。少し引っかけられただけよ」
唐突に、強烈な匂いが鼻孔をつきヴィクターの空腹を呼び起こした。
甘い花のような、瑞々しい果物のような、好物だった食事を前にしたような、形容しがたく抗い難い強烈な香り────。
乾いた口腔に唾液が我慢出来ず溢れ、ドクドクと心臓から耳の奥、指先まで歓喜で血が巡り踊るように高揚していく。
「どうしたの、あなた。起きて大丈夫なの?」
心配する周囲の声は聞こえなくなり、全ての興味が一点に注がれる。
手から腕に引かれた線から見える、零れる赤い血。
「……ヴィクター?」
それが思い出せなくなった母だった人との別れ。
飢えを満たした少年は途方に暮れ、月夜に消えた。
この後の事を語れる者は、どこにも居なくなってしまう。




