第十六話 これ以上、充実した日々あるかしら。
帰れない。
ここに来てから、そんなことを気にした日はあったでしょうか。
「食費が嵩んでいる」
フィルさんのツンケンした態度も、最早慣れたもの。
わざわざキッチンまで来てご丁寧に釘を刺しに来るあたり、真面目で几帳面だなぁと思わざるを得ません。
誰に対しても嫌味しか言えないらしく、これが彼の通常運行だとか。
一日一回、顔を見に来ては言外に気にかけてくれるので、いい人と言わずなんと呼べばいいのか、素敵な褒め言葉が見つかりません。
「他に娯楽がないのだからいいじゃない。手を動かすのって意外と楽しいわよ」
「誘っても、刃物が苦手だからフィルはキッチンには来ないんじゃない?」
「余計なことを言うな、リュカ」
最近はキッチンでお料理教室を開いてもらっています。
図書室にたくさんある料理本を引っ張りだしては、みんなでエプロンと三角巾をつけ、気になる料理に挑戦するのが午後の習慣になりつつありした。
今はジェイドとリュカが手伝ってくれています。
「パンなら包丁は使わないですよ。あとお菓子作りも。刃物を使うところは私にお任せください!」
自分で何かを作るというのは初めてで、キッチンに立つ心構えやマナーを教えてもらいながら少しずつ覚えているところです。
覚えることも、新しいことに挑戦することも、こんなに楽しいなんて知りませんでした。
「うるさいカタツムリ。……ジェイド、作ったところでお前も食べないだろ」
「マイラとブレイズが食べてくれるわ。美味しいと言われると作り甲斐があるわ」
「ヴィクター様もたまに味見してくれます」
「妙なものをヴィクター様に与えるな!」
食べてくれるとは思っていなかったのです。
初めて作っただけに不恰好な、でも味は悪くないと思ったクッキーを持って行ったら口にしてくれました。
手に取られてから、綺麗過ぎる人に似合わない形の悪いクッキーに急に恥ずかしくなってしまいましたが、悪くないと仰られた言葉がただ嬉しくて──。
また褒めてもらいたいと、そんな下心を抱えパンを捏ねるために力が入ります。
「いつも同じものばかりでは飽きてしまうでしょう? フィルもたまには違うものを口にしたほうがいいわ。その内なんの味も分からなくなってしまうわよ」
「ふん。味覚なんかあってもなくても関係ない」
「傷んだ牛乳をヴィクター様が口にしたら困るでしょう? ちゃんと味の違いが分かる人にならなくちゃ」
何も言わず不機嫌そうに立ち去られると、それはそれで寂しい気持ちに。
「いつかフィルさんとも一緒に作れたらいいな」
「……マイマイってドM?」
「フフッ。ありがとうねマイラ。いつかそういう日が来たら素敵ね」
「ジェイドまで……? フィルが料理してるところなんて、想像するだけでも怖いけど。火だって嫌いなのに」
リュカがパン生地を六つ、細長く伸ばすとあっという間に編み込んで可愛い形にしていきました。
あまりの速さと技術力の高さに、慄くことしか出来ません。
「……それってどうやるの?」
「順番に編み込むだけさ。見てて!」
「上手に焼けたら、みんなのところに持って行きましょう。見回りに行ったアデルたちが、お腹空かせて帰ってくるかもしれないわ」
ジェイドはあまり大きくない鍋やフライパンを使い、何かを作っていました。──あの小さい鍋、ミルクパンと言うらしいです。本当に食べられないパンなのが面白い。
野菜を切っていたかと思うと、フライパンで別のもを炒め、ミルクパンで何かを温めてと、噛み合わない作業をしているうちにお腹の空くいい香りが漂ってきます。
なんだか全部魔法みたいで、日々非現実感が増していきます。
ずっと昔からここで皆さんと暮らしていたんじゃないかって、あり得ないことを考えては嬉しくなってしまうほどに────。
「そろそろオーブンも準備した方がいいんじゃないかしら」
「私がやります!」
ビルトイン式のハイテクオーブンも、ボタン操作で簡単に操作できる事を覚えました。
膝を折り操作していると、真っ黒な鏡面仕上げのドアに私の顔が映り込みます。──私を含めここには三人いるはずなのに、一番近い私だけが映る反転する黒いキッチン。
振り返ればジェイドもリュカもいます。二人とも手元のことに集中してるから、私が見てることに気付いてないみたいです。
私は本当に、ここに存在のでしょうか──?
急にやってきた寂しさを誤魔化すように、勢いよく立ち上がり二人の元へ混ざりに行きました。




