第一話 ごきげんよう、私の名前は杜若。
皆さん、こんばんは。私です、杜若苺來です。近年可愛いと私の中で絶賛盛り上がりを見せている、あの杜若苺來です。気軽にマイラとお呼びください。
あぁ、すみません。今、誰かに語りかけないと正気を保てそうにないので、どうかこの声が届く方がいたら聞いてください。
ですが、自分の心の中で語りかけているのだから、自分しか聞こえていないですよね。
おかしいですね。
バカみたいですよね。
私もそう思います。────だけど考えることをやめたら、この暗くて寒い、どこともわからない場所を彷徨い続けることも出来ません。
前に手を伸ばせば乾いた草木のようかものが触れ、左右に伸ばすと硬い樹木の棘のようなものが刺さって痛かったりしています。立って歩きたくても足元は冷たいものとでこぼこ道で、すぐにバランスを崩してしまいそうになり不安定です。
何も見えない上に最悪な場所です。ここは。
初めは誰かいないかと声を出してみました。でも冷たい空気が身体の中まで凍えさせ、自分の声がぼんやりと反響するだけで、虚しくなってやめました。
しばらく及び腰で歩いていたら、遠くで何かの悲鳴のような声が聞こえ、二度と喋らないと心に誓いました。──何も見えない真っ暗という状況が、こんなに恐ろしいものだと知りませんでした。そして寒い。指先や足先の感覚が失くなってきました。
明るいところで今の私の姿を見たら、さぞかし滑稽でしょう。
転ばないよう腰を低くし、安定感を求めてガニ股になり、暗すぎて見えない前方に向かって手を伸ばしてジリジリと歩く可愛らしい少女──。
想像しただけでも面白い。
通知表にある一年間の先生からのコメントにだって、『今年度中で一番面白い格好でしたね』と、親に見せたところで扱いの困る言葉が載るくらい、今の私は際立っていると思います。──あぁ、早くあの担任が変わって欲しい。
ただ私は可愛いので、ある程度面白さは半減されると思います。
可愛くて良かったです。さすが私。
しかしどうしてここはこんなにも暗く寒いのでしょう。私はただ道を歩いていただけなのに。
バサバサと空気を叩く音が届きました。──鳥でしょうか。気付かれたくなくてピタリとその場で止まります。
しかし、失敗です────。両手を広げ、低い腰を支える足が震えます。
ワイドスクワットのようなポーズで、止まるべきではありませんでした。
普段しない姿勢にプルプルと筋肉が震え出し、倒れてしまいたい欲求に駆られています。足元に広がるふわふわした感触なら、案外倒れても痛く無いかもしれません。
あの音に見つかったら、どうなるんだろう。
このまま、私はワイドスクワット状態に耐えられるのか──。
近付く音に心臓が怖いと叫んでいます。口を噤み、呼吸の音もできるだけ抑えようとするのに、ドクドクと心臓から身体中を巡る血液達が隠れる場所を求めるかのようです。
耳の奥で脈打つ鼓動が、外にまで届いてしまわないでしょうか──。
「────ここで何をしている」
背後から人の声が聞こえ、心臓が痛いくらい驚きました。もし私が虚弱で、心臓の弱い人間だったら今ので心肺停止もありえたでしょう。
私が可愛いだけでない、健康な人間でよかったですね。
ですが真っ暗闇の中、無闇に命を狙うわけでもなく紳士的に声を掛けてくれた相手の人徳に期待をし、二、三度呼吸を整えてから振り返りました。
「────っあの、道に迷ってしまって。こちらに来るつもりはなかったのですが、どうすればいいのか分からなくて……」
声の感じから、若い男性のようだったのですが、振り返っても暗闇が広がるだけで誰もいませんでした。
何も見えないだけなのか、耳を澄ましても先ほど声を掛けてくれた男性の息遣いは聞こえず、手を伸ばしても枯れた草木にカサカサと当たるだけでした。
昔、何かで読んだことがあります。
山奥で、いるはずもない赤子の声が聞こえたり、人の話し声が聞こえたので、確かめようと近付いたら化け物に殺されてしまったという怪談を。
ここが山奥かどうか分かりかねますが、今の声はそういう類のものだったのかもしれません。
────ここで私は死ぬんだ。
そんな言葉が頭の中に浮かぶと、すんなり心がそれを受け止めました。
あぁ──、よかったじゃないですか。
『死にたい』と、考えたことがない訳ではありません。
でも、なんとかここまで思い止まり生きてきました。
ちょっとした現実に対する反抗心と、わずかばかりのプライドだったと思います。
あんな場所で死ぬくらいなら、誰も見てない、知らない場所でひとり寂しく命果てる方がずっとマシだ。
誰かの笑い声が聞こえました。
冷たい身体と真っ白になる頭に、届く声に聞き覚えがあります。────自分の声です。
知らず知らずのうちに、不気味な笑いがこぼれていたようです。
あぁ、本当に滑稽ですね。
自分で自分のことが分からなくなっていることを、冷静に分析する自分が皮肉を言っています。
「……おいおい、大丈夫かそこのお前」
「人間は脆弱だと聞いていたが……、こんな場所で筋トレでもしていたのか? 精が出るな」
「気でも触れているんじゃないのか? だとしたら連れて行くのが面倒だ」
気遣う声に感心する声、億劫そうな声といくつか聞こえました。
もう一度声の元を探すものの、やはり誰かいるようには見えません。
幻聴でしょうか。
それとも都合のいい夢でも見ているのでしょうか。誰かに心配されたいと、わがままな心が望んだことを、ひとりで口にしているのかもしれません。
「……暗闇に、迷えるわたし杜若。思いも全て、ここで消ゆとは」
即興にしては良い辞世の句ではないでしょうか。
できれば死ぬ最後の瞬間まで、大好きな可愛い私でありたいと思い、スクワット状態から姿勢を正しました。
「お見苦しいところをお見せしました。私は杜若苺來と申します」
相手がいようがいまいが関係のないこと。
自分の望む自分でありたいと、ずっと言い聞かせていたはずだ。
スカートの裾をつまみ、暗闇に向かって優雅に一礼した。
死んだっていいじゃないか。
「……できたら一思いに、殺して頂けたら嬉しいです。痛いのも辛いのも、もう十分ですから」
寒さとは、こんなにも痛みを感じるものなのだと、呼吸するたび身に沁みます。
目を閉じて、これから自分の身に降りかかる運命に身を委ねると、この暗闇に意識も溶けてしまいました。
私の人生はここで幕を閉じるはずでした。
全てを諦めて受け入れたはずだったのに、どうしてこんなことになってしまったのでしょう。
もし『運命』というものがあるのなら、きっとそれは時を刻み続ける時計の針のようなものかもしれません。
長針と短針が同じ方向に進む中、重なるように出会ってしまった偶然に、何かあるのではと期待してしまいました。