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Wind song

「嫌っ!」

黒瀬家の台所に結衣の大きな、そしてその硬い意志を確実に他人に知らせるかのような声が響き渡る。

月曜日の夜。夕食を終えた後結衣の母親は娘に駿(おさななじみ)への魔法の指導役をお願いしたが、左頬に大きなガーゼを当てて眼鏡を壊されてかけてない状態で、ムスっとふてくされたかのような表情で帰宅した彼女を見た時に、これはお隣さんと何かあったなぁ…これは難しそうだなぁ、という直感がしていた。それでもあえて訊いてみたが結果はその通りだった。

「土曜日はビンタ喰らって今日は殴り合いして…何考えてんだ駿(あいつ)は!もう知らん!」

「…結衣、何でお隣の駿君とケンカしたの?」

「そりゃあ…」と言いかけて結衣は一瞬我に返ったかのような表情をした「…自分に彼氏ができたから、って言ったら怒りだして…」

急に怒りの勢いが後退して少し恥ずかし気な顔になった。母親から視線をそらして話す口調ももごもご、っという籠り気味に。

「あれ?お母さんはもう結衣はとっくに駿君と付き合ってるものと…」

「付き合ってないっ!」また怒りが復活した「あいつは"弟"なんだから!」

「いーじゃない弟でも。昔はそういう姉弟間でも恋愛はあったものよ」

「っていつの話してるん。もうあと15、6年したら21世紀だっつーのに…」

「恋愛に昔も今も関係ないわよ人間がすることなんだから」

「あいつ彼女いるって言ったから丁度こっちも男の子から言われて付き合いだしたのにいきなり『俺の彼女はお前だ』って言われても何にも聞いてないよそんなの!」

「あらお試し期間で両方付き合っちゃえばよかったんじゃない?」

「んなこと自分出来ません!」

「結衣ったら結構真面目なのね」

「そういう風に育てたのってお母さんでしょうに!いきなり何言いだすかと思ったらフタマタしろって何よ…」

「あら、あたし学生時代お試し期間と称して3人くらいの男の人と付き合ったことあったわよ。女はそれくらい男を手玉に取らないと…」

「無理ムリ!それにお母さんのそんな話聞いたことなかったけど?」

「それ言うの初めてだけど」

「…」

結衣が自分の母親を信じられないような、嫌なものを見る目で見つめた。母親は笑顔から表情を変えていない。

「あの頃は面白かったわぁ…古文書とかと格闘しつつ、息抜きと称してとっかえひっかえスケジュールに都合つけて付き合って…今はそんな気力ないけど二人くらいなら今でも出来るんじゃない?」

「おかーさんそんな遊び人だったんだ…ふしだらなおかーさんや…」

「だって恋愛ってそういうのでしょ?男は選ばないとねぇ」

「じゃあ何で自分や妹をまじめに育てたの?」

「そりゃあ子供は真面目に育ててきちっとした社会人になってもらわないと世間に対して恥ずかしいじゃない。そこは手を抜かなかったわよ」

「はあそうですか…で、お父さんはその中の一人だったの?」

「ううん、また別の件で。ほら、術者は大体養子とるから家に来てくれないと。お父さんはその点OKだったから」

母親にそう言われて結衣はふと、もし今付き合ってる緑川勇樹と将来的に結婚するとなったら養子に来てくれるかなぁ…とぼんやりと思い始めた。彼の方が名字変わるからそうなると『黒瀬勇樹』になるのか…。

「まあ隣の駿君だったら同じ術者だし、結衣をお嫁に出すこともできるんだけどねぇ」

ぼんやりと考えてた結衣が母親のその言葉を聞いて態度を一変させた。一気に怒りの表情が表に出る。

「ハァ?何であいつの嫁にならなきゃならんのよ!第一とにかくあいつの指導役は嫌!あいつの魔法なんてどうでもいい。もう幼馴染でも何でもない他人だって言いやがった奴なんか知らん!」

そう言うと結衣はケンカの最中に壊された、テンプル(レンズを保持するリムと耳にかける部分とを繋ぐ部品)の部分が歪んでダメになった眼鏡を持って自室へと上がっていった。

「あらら…」

足音を大きめに踏み鳴らして階段を上がって行く結衣を見届けつつ、母親は一人ごちた。

「でも似たような感じになったわねぇ…お父さんとは一回大ゲンカして二度と会いたくないって言ったくらいなんだけど、気が付いたらヨリ戻して結婚してたなぁ。まあ、多分結衣もそうなるでしょうけど」

預言者みたいな独り言をつぶやくととりあえず夕食後の片付けを終えた母親は、手に着いた水気をタオルで拭き取りつつ隣の家の方向を見た。

「それじゃ、お隣さんへ伺いますか」

…結衣の母親が支度をして隣の白谷家へ行こうと準備していたその頃、駿は自室の机に向かって宿題の幾つかと格闘していた。

「数学なんて出来る奴は異邦人や…」

手に持ったシャープペンシルをノートに放棄して、頭の後ろで手を組んで、椅子の背もたれに寄りかかってしばし考え事を始めた。考え事をしてる時間の方が長くなってはいたが。

下で来訪者を告げるチャイムが鳴った。母親が出たらしく玄関でにぎやかな話が始まった…と思いきや、下から母親が駿を呼んだ。

こんな時間に何だろう…まあ、気分転換だなと思いながら部屋を出て階段を下りて行くと、玄関には結衣の母親がにこやかな笑顔でたたずんでいた。

駿にとっては、本人ではないので気後れする必要はないのだが…まだ今日の事だし、相手が彼女の母親なのでぎこちなく会釈をすると、

「夜分ごめんなさいね。ウチの結衣がご迷惑をおかけして…」

「あ、いえ…こちらこそ…」

いくら先に手を出したのは彼女の方とは言え、その親からそのように言われると逆に恐縮してしまう。

「駿君、ちょっと…外でお話しできるかしら」

「え…あ、はい…」

近所用のサンダルを履き、結衣の母親に続いて駿も玄関から外へ出る。後ろ手に玄関の引き戸を閉めた。

今日の事に関してかなぁ…白谷は多少の覚悟を持って結衣の母親の話が始まるのを待った。

「早速お話なんですけど…術者の練習の指導役、あたしが結衣の代わりにやります。よろしいかしら?」

「…それは構いませんが…」

予想が外れていくらかは心の重みが外れたせいか、反応が少し遅れた。

「それはよかった。もう言葉(コード)の切れ端はあまり浮かばなくなった頃と思うので、そろそろ初歩的な事でも始めた方がよさそうかと」

確かに前は1日何回か浮かんでいたものが、最近はその頻度は少なくなってきている。もともと夏休みごろからやり始めるというのは聞いていたから、驚きはしなかった。

「で、何処で練習を?」

「家の居間でやりましょ」

「えっ、でもそこは…」駿の脳裏に『二度と家の敷居は跨がせねぇっ!』と彼女に言われた場面が映画のワンシーンのように甦る「結衣…さんから敷居は跨がせない、って言われて…」

「そこはあたしが結衣に言っておくよ、大丈夫」

「いいんですか…?」

「何年あの子の母親やってると思うのよ…それくらいは出来ないと母親やってられないわよ」

自信満々にそう言われると、駿としてはそれを信じるしかなかった。多少の「ホントかなぁ…」という疑問の成分を含んで。

「駿君、確認のために一つ訊いていい?」

「あ、はい…」

「なんで練習受けようと思ったの?」

結衣の母親がストレートに訊いてきた。訊かれた駿は、しばし視線をそらして考え込むと、慎重に言葉を選択しながら答えを紡ぎ始める。

「…俺、5月に学校の窓から落ちた所を結衣…さんに助けられたんですけど、何かそういう力があれば、今度は誰かを助けられるんじゃないかなぁ、と。まだ漠然としたものですけど…」

上手く言葉にできないなぁ、というもどかしさが顔に出てる。

「…今はこういう状況なので恩返しというかそういうチャンスはないですけど、今いる人だけでも…いざとなったらそういうことが出来るようになっていれば…折角もらったというか何というか…」

もどかしさの上に苦笑いが加わる。それを見ている結衣の母親はやや間を開けて言葉を滑り込ませた。

「なるほど、分かった。それだけ言えれば上出来よ」

「…よかった。ダメだと言われたらどうしようかと」

「そういうこと言われてダメ出しするほどあたしは酷くないよ」

はははっ、と笑いながら結衣の母親は駿の肩を軽くたたいた。

「基本は毎日やっていった方がいいけど、そっちの都合もあるから、ダメな日とかあったら知らせて。なるべく合わせるから」

「…わかりました」

「それじゃ明日からでいい?」

「はい、お願いします」

「それじゃ、おやすみなさいね。駿君のお母さんによろしく言っといて~」

駿は結衣の母親が建物の陰に隠れて見えなくなるまで玄関先で見送った。

つい、と空を見上げる。夜でも低めの雲が街の明かりを反射して薄ら明るくなっている。梅雨時期なので雲で埋め尽くされてるようには見えるが、所々隙間があってそこから星が見える。

駿はしばしそれらを眺めた後、玄関の引き戸を開け、中に入った。

…結衣の母親は来たときと同じような歩みの速さで家に戻ると、さっき自室から降りて来たばかりなのか、予備の眼鏡…ウェリントン形の黒縁セルフレームをかけて灰色の着古したスウェットを着た結衣が台所でテレビを見ながら時間を潰していた。

結衣が台所に入ってきた母親を認めると、両の手であごを支えて視線をテレビに固定したまま問いかけた。

「で、何処で練習させるの?家はやーよ」

「ううん。駿君の練習、そこの居間でするから」

けだるそうな結衣の顔の色が一瞬に臨戦体制に移行した。にこやかな笑みを固定したままの母親に言葉でかみつく。

「なんでだよっ!何で家でやるの!」

「そんなご近所に見せびらかすモノじゃないでしょ?術者で風使いが多いわけ知ってるでしょうに…」

「そりゃあそうだけど…」ケンカの時に白谷に言った手前もあって不満の感情が彼女の顔を支配した「人前で使っても判りにくいし、仮に見えたとしても他の人にはそんなことあるかと無視される…見えないモノを使うから術者の()()が確保される、と教えてもらったよね」

なるべく家族以外の普通の人の目にはつかない、見せない。術者は、目立たないようにする…結衣は、母親からそう教えられた。

「そういうこと。だから練習といっても町内に見せびらかすモノじゃないから家でやるの」

「じゃあなんで白谷(あいつ)の家でやらないの?」

「駿君の家は洋室が多くて戸を外しても開口部が少ないし、確保できそうな部屋もいつも使われてるからダメなの。その点ウチは古いせいで特に居間辺りの開口部は大きいから必要量の空気は確保できる。それにその居間普段使ってないでしょ?結衣もテスト明けにこの部屋使ってたし、練習するにはぴったりの部屋じゃない?」

「まあ…そうだけど」

もし、黒瀬と白谷がケンカしてなかったら、彼女もこの部屋を使って練習させようと思っていた。

「2階のベランダでもいいじゃ…あ、自分の部屋の前だ…」

黒瀬の家の2階には8畳間が2つ入るくらいの大きなベランダが作られていて、敷布団や洗濯物をそこでよく干している。まあ、居間より目立つ、という欠点を除けば必要量の空気は事実上無限なので開口部云々の議論は不必要。ただ、ケンカした相手が自分の部屋の前でうろちょろしてるというのは結衣にとっては腹が立つ。それなら自室より離れた違う階の居間の方がまだマシだ。

「じゃあ決定ね。明日から向こうの都合もあるけど、一応、毎日やる予定で」

結衣の顔は不満で埋め尽くされていたが、どうしようもない状況には母親のそれを受け入れるしかなかった。

「家の敷居跨ぐな、って言ったのに…」

まさか2日後に母親から反故にされるとは思ってなかった結衣は、また不満を階段にぶつけるかのように自室へと上がっていった。


「センパイ、遅いですよ~」

「わりぃ、授業が長引いて…」

放課後。生徒玄関につながる廊下で、白谷は収まりの悪そうな髪が腰まである女子…1-3の赤城真由から声を掛けられて軽く謝った。

この前、真由の方から自分の気持ちを告白して、駿はそれを受け入れた。彼氏彼女の関係になってまだ数日。

下駄箱で外履きに履き替えて二人は玄関出口で再合流する。

「2年生ともなると、やはり授業時間多そうですね」

「まあな…何だかんだゆうて来年受験だしなぁ」

「センパイ、進路とかはもう決めてるんですか?」

「そうさなぁ、まだ何も決めてねーな…」うーん、まだ進路決めてないというのもカッコワルイなぁと思いつつ、さりとて具体的な目標がない、のもなぁ…「じゃあ、…真由は何か将来の目的ってある?」

「…実は私もまだです。漠然としてて…」

「だよなぁ。この年で将来決めるというのも早いような気がするんだが…」

「"人生の目標"っていつ頃決めるのがいいんでしょうか?」

「人に依るんじゃないかなぁ。運よく見つけられれば早いだろうし、そうでなきゃ大学行ったとしても決められないだろうし…」

学校の敷地に沿うように隣のお寺の壁が見える。その手前の自転車置き場に入ると二人は自転車を取り出してそのまま引っ張って校門を出る。

「…まあ、そういうことは後にしよう。そうだ…たこ焼き、食べるか?」

「はいっ!」

二人は自転車を引きつつ、校門からさほど離れてない住宅地の中にあるこじんまりとしたたこ焼き屋へと歩みを進めた。

店内はカウンターに4、5席位と、4人掛けテーブルが2つ。校門のそばという立地条件もあって常に半分近くの椅子が埋まっている。丁度テーブルが開いてたのでそこへ二人は相対するように座ってそれぞれたこ焼きを注文する。

「ここってよく来る?」

「友達とですけど、2、3回は来てると思います」

「そっか…俺は久しぶりかなぁ。最近何だかんだで来てなかったなぁ」

店内はたこ焼きを焼いている音と、店のおばちゃんが振るう器具と器具の当たる金属音、店内に掛かっている地元民放ラジオの音、そしておいしそうな匂いで満ちている。

「センパイ…その顔のけがはまだしばらくかかるんですか?」

真由から言われて駿は反射的に左頬を触った。

「愛知先生の話だと一週間はしてた方がいい、って言われた。ガーゼとかは毎日保健室で替えてるけど」

「…あの、訊いていいですか?」

「ん?」

「その…幼馴染の人って、何というか…手が早いんですか?」

「…んー…そんなことはないかもしれないけど、このケンカの時は早かったなぁ…」

店のおばちゃんがたこ焼き出来たよー、って言ってきた。当然セルフサービスなので会話は中断。席を立って8個入りの薄い木の皮で作られた舟を持って席に戻る。

「私、そんなに力ないので鍛えたいなぁ、と思うことあるんですよ…やはり力がある女の子って男の人から見て頼もしいと思うんでしょうか」

「うーん、どっちかというと力のない女の子の方が男としては守ってあげたいと思うからいいんじゃないかなぁ…まあ、一般論、ということで」

「そうですか…」

「それに無理したところで長続きは出来ないと思うぞ」

「そうですね!」

「じゃ、たこ焼き、冷めないうちに食っちまおう」

二人同時にいただきますをして、爪楊枝を使って食べ始めた。


「それでは会議を終了します。お疲れさまでした」

副会長で議長役の芳賀が、会議モードの声で終了を告げる。人によっては『冷徹な声』とも言われる、落ち着いた艶のある声が生徒会室隣の会議室に広がると、出席した生徒会役員や各種委員長、オブザーバーがほぼ一斉に席を立ち、出口へと向かう。

「結衣さん、お疲れさまでした」

「んんー、もう少し解像度上げた方がよかったですかね?」

「まだ6月ですし、あんなもんでしょう」

「よかった。でも来月にはもうちょっと突っ込んだ計画上げないと」

9月の学校祭に向けて動き出した生徒会。中でも中心になるのは文化委員長で、他の時期は暇でも6月から学校祭が終わるまでは夏休みがないと言われるくらい激務になる。

他の各種委員長が出た後、隣の生徒会室に移動してその姿を残してるのは生徒会役員たちと、文化委員長の黒瀬結衣。左頬にはさっき保健室で替えたばかりのガーゼが貼り付けてある。彼女の両目の前には、予備として持っていた黒縁セルフレームのウェリントン型の眼鏡をつけている。

「黒瀬さんお疲れ。また頼むよ」

「はい、今回の修正点踏まえてより詳細な計画出してきますので」

「緑川、ちゃんと彼女サポートしてやれよ」

「了解です。任せてください」

「おお、言うようになったねぇ」

生徒会会長の永井が文化委員長の黒瀬と生徒会書記で黒瀬の彼氏になった緑川勇樹にねぎらいの言葉をかける。

「そりゃあ会長、『らぶぱわー』ですよ『らぶぱわー』」

会議モードからプライベートモードに移行したのか、表情が緩みまくってる芳賀が猫なで声をあげる。

「確かに友人関係から恋人関係に発展すると能力がいくらか増加するという、仮説ですけどそういう研究結果があるくらいなのでこの時期にそういう関係になられたのは、生徒会にとって僥倖ですね」

生徒会会計の北川が書類の束を抱えつつ左手で銀縁ロイド眼鏡の位置を手直しして知識を披露する。

「そっかぁ、そういう研究結果があるのか…」

「まあ、仮説ですが」

「じゃあ北川ちゃん、俺とカレカノの関係になる?」

「会長、いくらラテン系のノリでも言っていいコトと悪いコトがあります」

「ありゃ、振られた」

「かいちょー、もうちょっとひねらないと」

北川にあっさりソデにされた永井に芳賀がツッこんでケタケタ笑い始める。それにつられたのか、北川も口元が少し笑みを含んだものに変化した。

「しかし…生徒会役員ってこんなにバラエティ豊かというか…面白い人たちだったとは」

「ですよねぇ…この中で多分まじめなのは僕だけです」

「ああ、ヒドイっ!彼女と一緒に抜け駆けして」

黒瀬が改めて表向きの生徒会と内向きのギャップの差に驚いてると、その三寸芝居を見ていた緑川がさらっと自分をアピール。芳賀はそれに突っ込んでこのギャップ仲間に引きずり込もうとする。

「それじゃ、ちょっと遅くなってるから各自気を付けて帰るように。学校祭まで気を抜かずに頑張りましょう!」

このままだと平気で夏至の時期にもかかわらず日が暮れるまでダベる可能性もあったので、帰宅を永井が促した。

それに、あと3週間とちょっと後にはもう1学期の期末テスト。ぼちぼち勉強の量を増やしていかないと…。


…6月から7月にカレンダーが変わっても、空模様は相も変わらず梅雨の雨雲が支配していた。しかし、1学期末テストの頃になると、梅雨雲に隠されていた青空がその存在を主張し始める。同時に太陽も、夏モードに切り替えたのか、その日差しを容赦なく地上に照り付け始めた。

期末テストも終わると、後は夏休み。誰それとなく、教室中がそわそわし始める。例えそれが、長い休みの後に襲ってくるやりかけの宿題と過ごしてきた夏を懐かしむと同じくらいの寂寥感が控えていたとしても…。


…1学期の終業式にあと数日に迫った日の昼休み。

あのケンカ以降、黒瀬は前を向いてお弁当を食べるということはしなくなった。大体は後ろの席にいる友人の灰屋と食べてる。

この日も後ろを向いてお弁当を食べていた。

お弁当を食べた後、灰屋は、

「結衣、夏休みの事なんだけど…」

と言うと、後ろを向いて誰かにこっち来てと手招きをした。呼ばれたのは白谷の友人の紺野。彼は灰屋の机まで来るとしゃがんで視線の高さを彼女らと同じくらいにした。

「え?何で紺野くんが…?」

黒瀬が思わず口にする。それに被るように灰屋が、

「海行こうと思うんだけど…25日あたり。空いとる?」

「海?まあ、25日辺りなら今の所家族とか生徒会の予定もないから大丈夫だけど…」

黒瀬はそう言いながら二人をチラチラと見た。

「場所は三国の三国海水浴場で。電車で行けるし」

しゃがんで両の手で体を灰屋の机で支えている紺野が楽しげに話しかける。

「その日辺りなら多分大丈夫とは思うけど…ってあんたらもしかして彼氏彼女の関係(そんなこと)になってるの?」

「うーん、まだそこまでは行っとらん。"お試し期間"ってやつだに」

「お試し期間~?また微妙な…」

母親の発言もあってお試し期間というと眉間にしわを寄らせてしまう黒瀬。まあ、そういう付き合い方でいいんならそれでいいんだろうけど…。

「で、今の所誰が行くの?」

「私(灰屋)と紺野くん、アオ(青野)ちゃん、ユカ(紫野)ちゃん、あと黄谷(きや)くんと深緋(ふかひ)くんも」

「え、ちょっとしゅ…白谷の友達までこっち来るの?」

「紺野くんが行くで他の2人もついでに、って感じかやぁ?」

「オマケかよ…」

灰屋の返答に、黒瀬は黄谷と深緋に少し同情せざるを得なかった。とはいえ、女子からの誘いで海に行くのだから本人らはついでということは思っていないかも。

そういえば、黒瀬は自分が誘われたから、ということで、

「うーん、そうなら勇樹くんの方にも話つなげとくかな」

「あ、そういえば隣のクラスの緑川君、結衣の彼氏じゃん。何気に見たことないに」

「あれ、そうだっけ?」

「ちら、っとはあるけどじっくり見たことは多分ないに」

「そうなると今度の海水浴はお披露目になるのか…」

性格はおとなしめだが身長高いし身なりもこざっぱりして眼鏡かけてておまけに勉強もできる…よくよく考えればこれって思ったよりすごい人と付き合ってるということになるんじゃ、と考えた時に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。あわてて次の授業の準備をする。

廊下からバタバタと誰かが走ってくる音がした。

5時間目の授業担当の先生が姿を現したのと、白谷が血相変えて教室に飛び込んできたタイミングはほぼ同じだった。


黒瀬が友人から海へ行く話をされた時から少し前。

「センパイ、海行きません?」

「海?いいよ。いつ?」

「25日です。場所は三国の三国海水浴場」

「あそこか。遠浅だから悪くないな。おまけに電車で行けるし」

生徒たちで賑わっている食堂で、駿と真由が並んでお昼をとっていた。真由は自分のお弁当で、駿はカレーとラーメン…先月の終わり位から魔法の練習が始まったせいもあってお腹が空いている。時折脳裏に浮かんでた言葉(コード)の切れ端はほぼ出なくなっていた。

「ん…ひょっとして俺と真由だけ(ふたりっきり)?」

「あは…残念ながら友達と一緒です」ちょろっと舌を出して本当に残念そうな顔をする「元は、友達の三笠ちゃんから話が来たので、それに便乗です」

駿は半分残念で半分丁度良かったと思ったのは、海へ行くのは大人数の方が盛り上がるのと、二人で行くならもうちょっと小さいけど重要な行事…例えばクリスマスとか初詣とか、は邪魔が入らない方がいいなと。それに最初はグループでまとまっていても次第にばらけやすくなるから、その時に二人になればいいか、と。遠浅の浜辺だから泳いだり水遊びする領域は広い。

「じゃあ、一緒に行くのは俺と真由と、友達3人位?」

「もう少し増えます。センパイと私と、榛名ちゃん、三笠ちゃん、青葉ちゃん…あと、三笠ちゃんの親戚の人も来るみたいです」

「これはまた大人数だなぁ」

大人数で海へ行ったというのは駿は経験がないわけではない。小学生の時には隣の黒瀬家と合同で今度行く三国海水浴場へ何度も行ったこともある。

「センパイって、こう…女の人と一緒に海とかへ行ったこと、あります?」

「あるっちゃあるんだが…」駿の顔は、どう表現したらいいのかを手探りで探しててそれが見当がついてない状態…という感じ「ゆ…アイツはカウントに入れていいものかどうか…」

駿が口にした人代名詞の意味を真由が正確に汲み取ってはいなかったようで、少し意味が分からなそうな顔になった。

真由の弁当は、いつの間にか空になっていて、駿と話しながら少しづつ片つけてる状態だった。

色々と思考してる内にちらっとそっちを見てから、駿は手元のカレー皿とラーメン丼を見た。ラーメンはスープ含めて完食済みだが、カレーの方はやや室温に近い状態になった一口ほどが残っていたので、一気に口に入れる。咀嚼し、胃袋に送って口をフリーにしてから話を続ける。

「アイツをカウントしないとなると、行ったことはないな…真由と行くのが初めてになるか」

駿は何気なしにそう口にしたが、それを聞いて真由の方は、幸せが1グロス単位でやって一気にやって来たかのような顔になった。

「…うれしいです。センパイの『初めて』に関われるなんて」

…文脈は大したことはないのだが真由の声がやや大きかったせいか、男女が話してる内容で『初めて』なんて言葉が出ると()()()()()()かと思った周囲の他の生徒たちが一斉に駿と真由の方を向いた。もう少しで昼休みが終わるためか人数は少なかったが、それでも急いでご飯を食べる手を止める位に言葉の力はあった。

複数の視線に気づいた彼と彼女はおどろき、ついでそういう意味はないのだが恥ずかしさがにじみ出てきて手元の食器を手早く片つけて駿は返却口へ戻し、真由はお弁当を抱えてすぐさま食堂を出た。

「あいつってこの前教室から落ちた奴じゃなかったっけ?」「女の子1年生っぽい…もう手を出してるのか」「今日あたり学校近くのラブホ行ってたりして」

無責任なうわさ話が声を潜めて飛び交い始めた食堂を2人は後にすると、取りあえず購買を過ぎた廊下まで小走りに走った。通る人はまばらで、購買も売るものがなくて開店休業状態。

「ちょ、ちょっと声大きかったよ」

「スミマセン…」

とはいえ、駿から見ても、真由から見ても、見つめる互いの顔は嬉しいの一択だった。

駿は、ちょっと周りを見回した。体育館からは死角になって、購買からも見える角度から外れている。人通りは今はないし、音もしていない。

彼は真由を引き寄せて相対させると、一瞬互いを見つめる形になった。彼女の方は一体何が起こってるのか判らない顔をしている。

両手で彼女を抱き寄せた。互いの胸が制服を通して体温が伝わると思うくらいに。

「センパイ…」

真由は駿の意図が判ると彼に身を任せた。彼女からは身長差で、顔が駿の胸辺りに来ている。彼女には彼の心の音が聞こえそうだった。

…駿も真由も、結構長い時間抱き合ってたかのようだ…と思いきや足音が廊下に響いてきた。急に現実に引き戻された駿は両手を彼女から離して、真由の方も彼から少し距離を置く。見られたかな?と思うと少し顔の体温が上がるのを二人は感じた。その刹那、

「やばい遅れる!」

目の前を走り抜けた生徒が腕時計を見ながら体育館の方へ抜けていった。続いて何人かも急いで走ってゆく。誰も二人に目をくれない位に急いでいる…ということは。

「やべっ!真由遅れるぞ!」

「あ、しまった!」

二人とも自分の腕時計を見て二人の世界に一瞬でも浸っていたのを少し悔やんだ。駿も真由も、自分らの前を通過した生徒と同じ速さで走り出す。

「じゃあ何かあったら電話してくれ!コール2回ね!」

「判りましたセンパイ!」

走りながら途中で別れた。今時間を計測したら陸上部の人らと互角なんじゃないかと錯覚するくらいの速さで走る。真由の方は教室が近いからまだいいとして、駿の方は反対側の3階。

授業開始のチャイムは3階へ向かう階段の途中で聞く羽目になった。それでも速度を緩めず、廊下に出ると向こう側から担当教師が歩いてくるのを確認した。

…白谷が2-7に飛び込んでくるのと、担当教師が教室に足を踏み入れるのはほぼ同時だった。

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― 新着の感想 ―
 はじめまして、ペンギンの下僕と申します。  ふらりと立ち寄らせていただいたのですが一話の序文、「黒瀬結衣は南風と戦っていた」の出だしに引き込まれて読み始めました。  結衣ちゃん、見てて応援したく…
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