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Blowin'

「好きです…自分と付き合ってくださいっ!」

 心臓がどこかへ行ってしまいそうなくらいの緊張感とプレッシャー。それでも…もしかしたら、と微かな希望を何処かに持ちつつ自分の気持ちを好きな異性に告げる。

 でも…。

『ごめん、君に興味ねぇんだ』

『…いや、何にも思ってないなぁ』

『わりぃ、タイプじゃねーんだわ』

 最初はまだ立ち直れた。しかしそれが続くと…こんなに拒絶されるのは自分のどこかが悪いんじゃないのか?と思い始めた。

 何処なんだろう何処なんだろう何処なんだろう…。

 見つからない。

 それとも、自分では見つからない所にそれがあって、逆にそれは他人にはよく見えるところにあるものなんだろうか…。

 わからなかった。全然。だから次第に自分が嫌になっていった…そんなある日、ラジオから流れてきた曲の歌詞に自分は気が付いた。

 〈愛さなければ、泣くことはない〉

「そうだ、()()()()()()()()()こんなことに悩まなくて済むんだ」

 …それ以降、自分にとっての恋愛は"関係ないもの"になった。

 中学生の時期は誰がカッコイイとか、友人の誰かがあこがれの男子と付き合い始めたとかそういう話が出始める頃だが、自分はそれらの話を聞き流していた。

 初めはそれでも時折その意志はぐらついてはいたが、やがて慣れると何も感じなくなった。男子とも話す機会は減少していったが、別段それは不自由とは思わなかった。

 駿(おさななじみ)を除いて。

 一番身近な異性で、幼稚園の頃から一緒にいて、何かあれば憎まれ口叩いて、端から見たら付き合ってる様にしか見えない。10代半ばだし、普通ならどちらかが恋心抱いてもおかしくない。

 でも、自分は明確に駿も"恋愛とは関係ない"領域に入れている。

 駿は"弟"だから。

 色恋沙汰にはならないし、なるつもりもない。

『ホントに?』

 誰かが割り込んできた。自分と同じ声。

『ホントに、"なるつもりはない"の?』

「も…もちろんよ!」

 誰かからの声に自分が応える。その言葉で迷ってる自分を奮い立たせるかのように。

「初めて"好き"って言われた…初めて言われたんだから!」

 昨日、『好きだ』と彼に言われた瞬間、"恋愛は自分に関係ない"と思い込んでいた、自分を守ってると信じていたモノがあっけなくはじけ飛んだ。

 今まで何だったんだろう、と思うくらいに。

 気が付いた。

 言うことの辛さを思えば、言われることの何という気楽さ。

 選ぶこともできる。捨てることもできる。

 "恋愛は好きになった方が負け"。

『でも駿からも"好き"言われたじゃない』

「言われてないっ、言われてないっ!」

 両の手で耳を塞ぎ、しゃがみ込む。

「言ったとしても冗談で言ってるだけよ、本気じゃないに決まってる!言葉を濁したり、途中で打ち切ったり…。本気なら言い切れるはず!中途半端にしてるってことはどうせ何もできやしないんでしょ?」

『ふーん…』

 誰かの声は、明らかに自分をバカにしている。どこかに引っかかっている何かがそれを言わせてるのに、と言いたげに。

『ホントは勇樹くんより駿の事を独り占めしたいんじゃない?』

「違うっ、そんなんじゃない!」

 触られてないのに、言葉だけで心に閉じ込めたはずのドロドロの感情をかき回されるかのよう。

 自分と同じ声の誰かを否定する。

 けど…どこかに何かが引っかかってる。

 それでも、振り切る。

「もう決めたのよ邪魔だから出て来るな!」

『…素直じゃないんだから』

 せせら笑うかのような口調で言う"もう一人の自分"。声が消えていく…と思った時に目の前が暗転し…。


 目が覚めた。

 …ドレープカーテンの向こう側はすでに明るくなっていた。カーテンの隙間から漏れ出る光が結衣の部屋を漆黒からそれなりに解放していた。

 結衣は枕元に置いてあるはずのフリップ(パタパタ)式目覚まし時計の場所を目視せず手で確認すると、眼鏡をしてないのでうっすらと開けた目で時刻を読んだ。

「…5時半過ぎ…」

 眼鏡の補正無しのため文字盤がにじんだようにしか見えないが、大体は合ってるはずだ。

 まだ少し寝ていよう。布団をかぶる…数十秒経過して上半身を布団から出す。

「…中学の嫌な事ばかり…」

 上半身をベッドから起こし、ぼさぼさになった髪を両の手で整える。それでも、手で撫でつけただけでは髪のぼさぼさは治らない。

「……」

 体を90度回転させて両の足を床に付ける。そのまま体を立ち上がらせて、目覚まし時計の横にある眼鏡を取って着けた。視界のぼんやりが一瞬にシャープになる。

 そのまま自室を出て階段を下りて…途中で歩みを止めた。

『ぼ、僕と付き合ってくださいっ!』

 頭の中でフラッシュバックのように昨日のあのことが再生される。

 彼の、告白する時の必死の顔、姿。

 自分が男の子に告白してた時もあんな風だったのかなぁ…。

『恋愛は、好きになった方が負け』

 確かに力関係ではそうなんだろうけど…。

「…どっちがいいんだろう」

 何気なしにそう言うと、結衣は再び階段を下りだした。

「今日は早めに学校行くか…」


 土曜日、やや早めに学校の生徒玄関に着いた時、登校してきている人はまだ少なかった。大体登校時は白谷と一緒に来ているのだが、今日は夜更かししてたのかまだ寝てるということで、多分遅刻ギリギリに来るだろう。

 …黒瀬は、いつもならまだ起きてこない白谷に対して家の外からまだか!とか喚く所だが、今日はその気にはなれなかった。むしろ、駿は寝坊してるので自分一人で登校する方が色々な意味で気楽じゃないか、と。

 特に今日は。

 彼女は自分の下駄箱に向かい、内履きの靴に替えようと思って…その上に二つ折りした紙が置かれていた。

「?」

 何だろうと思ってその紙をつまみ上げ、折り目を開く。

『黒瀬さん、今日の放課後、教室(2-8)で待ってます 緑川勇樹』

 悪いことをしてないにもかかわらず、黒瀬は左右を急いで見回した後、紙を折りたたんでポケットに入れた。とくん、と心臓が跳ねる。

 …答えは、出ている。

 あとは告げるだけ。

 思い出したように靴を履き替えると、左へ曲がってやや駆け足で北校舎の職員室前を通過し、階段を3階へ。左に曲がり、自分のクラスへとたどり着く。すでに5、6人のクラスメイトが授業開始までの時間を潰そうと各々の時間を過ごしている。おはようと声をかけ、カバンを机の側面にあるフックに引っ掛ける。

 灰屋や青野、紫野の友人たちはまだ来てないようで、彼女らの机には荷物とかは見当たらない。

 黒瀬は黒板側入り口の向こう側に視線をやると、教室に来たときと同じような足取りで隣の教室の入り口に立った。中を見る。

 何人かは各々の机に座って時間を過ごしてはいたが、黒瀬が出す結果を聞いてくれる人はその場にはいなかった。ただ、カバンはある。

「…生徒会室かな?」

 2-8を過ぎ、2-9の先にある南校舎の長い廊下へ右に回り、今度は西側…生徒会室へ。

 西校舎と南校舎の交わる所から南側へ突き出すような西校舎の出っ張り部の、廊下が特殊教室の前で途切れる前の右側にある生徒会室には、一見しただけでは中の人がいるのかはわからなかった。

 呼吸を整え、ゆっくりと引き戸を開ける。

 中には、誰もいなかった。

「…放課後まで待つ、か…」

 目を伏せがちにして引き戸を閉めた。自分の教室へ向けて歩き出す。

 放課後になるまでの授業が4時間分、その間緑川への"答え"を反芻し続けないといけないことに少し苛立ちを覚えた。

 …早く言って楽になりたい。

 かといって公衆の面前で"答え"を言うのも…なのでそこは我慢するしかない。自分はそんな『ヒロイン』じゃない。

 …気が付いたら黒瀬は南校舎の東側、東校舎との十字路まで来ていた。左へ折れ、2-8の横を通過する。

 教室と廊下の間の摺りガラスの窓は開け放たれていて教室の中が見えるが、先ほどと同じく、緑川の席の主はまだ戻っていない。

 黒瀬は自分のクラスに戻ると、さっきより何人かは増えてるクラスメイトにあいさつしながら席に戻った。


「八木、ありがとう。少しは楽になった、かな?」

「おう、まああんまり役には立たなかったけどな」

 2-7の窓から外を見ると、隣のお寺との境界に長く南北方向に伸びたモルタル造りの簡素な部室棟がある。主に運動系の部活がそこに入っており、そのうち一番北側の扉―『山岳部』と書かれてるーから緑川が出てきた。部室内にいる友人らしき人物と声を交わす。

 扉を閉め、部室棟前の、校門とグラウンドとを結ぶコンクリート製の道路を生徒玄関へと向かって歩く。部室棟の北側には自転車置き場があり、登校のピークになり始めたのか、結構な数の生徒が自転車をそこに置いて生徒玄関へと向かってゆく。

「…まあ、なるようになるしかない、か…」

 放課後に思いをはせて呟いた。


 1時間目、2時間目、3時間目、4時間目と消化し、午前中にて土曜日の学業は終了。部活へ行く人、家へ帰る人、友人と連れ立って街中へと繰り出す者等…土曜日ということもあり、時間の経過とともに教室内の人の数の少なくなっていくペースはウイークデイよりも早い。

「結衣、帰ろか?」

 朝方、予想通り遅刻寸前に教室に飛び込んできた白谷が、生徒会関連の資料を広げてチェックしてる黒瀬に訊いてきた。

「え…あ、ごめん…ちょっと生徒会のがあるから…」

 休み時間とか、何度か白谷から話しかけられてきた黒瀬は、その受け答えがいつもと違ってどこか上の空という自覚はあった。

 白谷は数秒間、黒瀬に視線を固定した。

「…何か今日の結衣、おかしいなぁ…」

「え?そ、そう?」

 会話が微妙に"ズレ"ている。彼女の答えに怪訝な表情の白谷。

「…まあいいや。じゃあ駅前寄って帰るか。結衣、帰り気ぃ付けろよ」

「うん…ありがと。そんなに遅くはならないと思うから…」

 軽く手を上げて別れると白谷は廊下へ。黒瀬はその後ろ姿をしばらく目で追いかけた。

 白谷が視界から見えなくなると、黒瀬は机に出した資料等を再びカバンにしまい込む。

 黒瀬以外に最後まで残ってたクラスメイトが挨拶して教室から出た。挨拶を返すと教室には彼女一人。どこかの生徒の声が廊下から遠くに響くのと、グラウンドから聞こえる運動系部活の音以外は静寂が教室を支配する。

 2-8(となり)の方からも音は出てないような気配。

 黒瀬はゆっくり立ち上がると、隣の教室へと歩み始めた。心拍数が次第に早くなっていく。

 2-8の入り口直前で、一旦歩みを止める。深呼吸して気持ちを落ち着けようとするが、心は言うことを聞いてくれなさそうな風に急いている。

 "弟"だから…黒瀬は改めて自分に言う。その言葉を『免罪符』に。

 そのまま足を踏み出した。

 隣のクラスの、真ん中やや窓側。そこに緑川が席に座って待っていた。気配を感じたのか、黒瀬の方向を向くと立ち上がる。

「…ありがとう、来てくれて」

「…来ました」

 張りつめてる緊張感。ただ、何処となく柔らかい感じが含まれているように黒瀬は感じた。ゆっくりと緑川との距離を縮めて、吐息が掛かるんじゃないかと思う位の位置に体を止める。身長差は約30センチなため、彼女は頭をやや上げて彼を見る。

「…昨日、色々と考えました。告るのは何回かあるんですが、告られるのは初めてで…あの時は頭がわけわかんなくて変な事言ったかもしれないですけど、今は…大丈夫です」

 そう言って一旦目を閉じ、深呼吸した。

「お受けします…よろしくお願いします!」

 明瞭な口調とお辞儀。しばらく彼女はそのままの姿勢を保った。

「…ありがとう。よろしく、黒瀬さん」

 彼からそう言われて、お辞儀の姿勢を解いた。緊張感が薄れて行っているのが判る。にこやかな顔。

「えーと、自分、こういう関係になるのは初めてなので最初は…」

「あ、大丈夫です。僕もです」

「あと…名字で呼ぶっていうのも変ですね。勇樹くん、でいいですかね?」

「そうですね…じゃあ僕も。…結衣さん、で」

 告白して楽になって一旦は引いたドキドキ感だが、名前の呼び方で再び存在感を増し始めた。互いのレンズ越しに目と目を合わせてた二人が、また気恥ずかしそうに視線を逸らす。

「あ、結衣さん…あの、訊いていいですか?」

「は、はい」

 勇樹の笑みが消えて真顔になる。

「あの…白谷君のことですが…僕の気持ちを受け取ってくれるということは、彼氏彼女の関係ではない、ということですか?告白してから言うのもなんですけど」

「あ、はい。幼馴染、というだけでいつもつるんでますけど、駿のことは弟みたいな感じですし…彼氏彼女の(そういう)関係とは違います。それに…あいつも彼女いるみたいですし…」

「それならよかった。ひょっとしたら三角関係に…とか思ったりしたので」

「大丈夫です。そんなんじゃないですから」

 彼にとって最大の懸念はそれだった。端から見たらいつも一緒にいて、仲良さそうで…事情を知らない人から見たら彼氏彼女の関係になってると見られても仕方がない。もしそういう関係になったら…と、ある意味覚悟を決めようとした勇樹の表情に柔らかさが戻って来た。

 …しばし互いに次に告ぐべき言葉を見失っていた。彼氏彼女の関係になった、ということでちょっと満足してるみたいに。二人、見つめあってモジモジ。

 そのうち、勇樹が言葉を出してきた。

「あ、そういえば家ってどっち方向ですか?」

「学校からだと北へ5kmほど行ったところです。近くに福井農林高校とか、福井循環器病院があります」

「あーじゃあ途中までは一緒に帰れますね。僕は高木1丁目ですから国鉄の九頭竜川橋があるあたりです」

「え?かなり遠くから来てるんですね」

「7kmはあるみたいですね。でも自転車ですから。歩くよりマシです」

「ですよね…自分、中学の時にはギリギリ徒歩通学圏だったので、高校は自転車乗れると聞いてうれしかったなぁ」

「あの辺りからだと歩きだと大変だと思いますよ…そういえばその辺りだと冬は電車とバスですか?」

「そうです。京福で福井駅まで行って、そこから駅前のバス停で乗り換え。早めに起きなきゃならないのが辛いですねぇ」

「僕の家の近くには国鉄の駅がないのでバス乗り継ぎになりますねぇ…しかも時間通りに来ないし」

「この街、雪降るとすぐ道路渋滞しますしねぇ。仕方ないですけど」

 …いつの間にかその辺りの椅子に座って話を続けてる勇樹と結衣。言葉も緊張していた最初と違って、リラックスしてスムーズに話せるようになっていた。

 何時しかグラウンドから聞こえていた運動部の歓声や音とかは、部活を終えた所もあるせいか、小さくなっていた。

 と、廊下から誰かがやってくる。サンダルっぽいぱたぱたとした音を、タイル敷きの廊下に響かせながら姿を現したのは、Tシャツに白のドクターコートを羽織り、黒のGパンにサンダル履き、長めの髪を後ろでポニーテールにした長身の女性。二人がいる教室の方を黒縁のロイド眼鏡越しに見ると、

「お、まだ残ってる。土曜日なんだし、ボチボチ帰った方がいいぞ~…ってお邪魔だったかな?」

 二人の会話に割り込んできたのは養護教諭の愛知(えち)先生。勇樹と結衣の二人が他に誰もいない教室で楽しそうに語らってるのを見て廊下側の窓の向こうで口元が怪しい形ににやける。

「愛知先生、見回りですか。ご苦労様です」

 2-9の方向から2-7へと廊下を歩いてゆく、身長180cmと女性としてはズバ抜けて高い愛知に緑川が挨拶をする。その横で、黒瀬が会釈をした。

「まあ一緒に居たいのはヤマヤマだろうけどな、はよ帰れよ~」

 先生は片手を上げると2-7の方向へ姿を消した。

「結衣さん、じゃあ帰りますか」

「そうですね…途中まで一緒に 」

「お、白谷くんか、どうしたこんな時間…」

 結衣が勇樹に途中まで、と言った時に被るように廊下から先生の声が聞こえてきた。やや離れた場所―隣の教室からっぽい―そして声が途中で絞られる。

「…駿!?」

 さっきまでの結衣の甘い表情が一瞬で困惑に転じた。帰ったはず…なのに何でいるの?と先生誰かと見間違えたんじゃ、という期待がごちゃ混ぜになって、それを確かめる衝動が彼女を動かした。

 廊下には愛知が困惑した顔で2-8から出てきた黒瀬と、教室内にいる白谷を交互に見ていた。廊下から、2-7の教室内を見る。そこには、自分の机に腰かけ、片足を椅子に乗せてそこに両の手を交差させ、やや上目遣いで黒瀬を睨みつけている男子…白谷がいた。

「ま、まあ両者とも落ち着け…」

 教諭としては、修羅場は抑えないといけないがそうするには言葉の圧が小さすぎた。おろおろするしかできない。

「…駿、帰ったんじゃ…」

「忘れ物を取りに来たら、隣で誰かいると思って覗いたら結衣と生徒会書記が告白どーのこーのってしゃべってた…結衣、どういうことや」

 言葉の感情としては抑制はされている。しかし、怒りを基礎として放たれている言葉だという事だけは確かだ。机から腰を浮かし、黒瀬が立ちすくんでいる所へと歩み寄る。

「…それは…隠してたのは悪かったけど」目の前に来た白谷から視線を逸らす「別にあんただって彼女いるんだし、いいじゃない自分にも彼氏できたって」

「俺の彼女は結衣、お前だけだ。何度も言ってたじゃねーか!」

「…ちょっと何言ってんの、そんなこと初めて聞いたけど!?」

「お前が聞かなかっただけだろうが!」

「はぁ!?今更何言ってんのハッキリ言わなかったあんたが悪いんじゃない!」

 心当たりあるせいか、白谷は一瞬言葉に詰まった。口元がいくらか動くが言葉になっていない。

 黒瀬は衝動の高波が自制と言う堤防を軽々と越えていくのを感じた。止められない。

「それにあんたは"弟"だから始めっから色恋沙汰の対象じゃねぇ!勝手に彼氏面するな!」

「バカ言うな結衣とは姉弟(きょうだい)じゃねーだろーが!」

「そういう立場だよあんたは!」

「だったら昔からそう言えばよかっただろうが!今更付け足しみたいなこと言いやがって!」

「察しろよバカ!」

「ニブいお前に言われたかねーわお前の事だろうが!」

「何年幼馴染やってんだよそれくらいはあんたがが気づけよ!」

「わかってる位ならこっちだって初めからお前なんぞ考えんわ!」

「ホントバカだな!こんなのと幼馴染だった自分がかわいそうだわ!」

 白谷の右手が動いた。衝動的に。

 パシっ!と頬をはたく音が響き、教室内は一瞬に口論から静寂へと変わった。遅れて銀縁のロイド眼鏡が木製の床に落ち、微かに乾いた音を響かせる。

 …怒りをベースとした各種の感情をミキサーにかけたような、複雑な想いが白谷の顔に出ていた。

 叩かれた彼女は、痛みとともに、一瞬何をされたかとっさに理解できなかった。焦点を失くした瞳が意味もなく床を射る。

 反射的に左頬を手でかばうようにしばらく抑えたが、次の刹那、殺意を掌に載せたかのような速さで白谷の左頬をはたいた。負けないくらいの音が再び響いた。目はうっすらと潤んでいる。

「…もう知らない。駿がこんなにバカだったとは…もう幼馴染でも何でもない!」

「それはこっちのセリフだ!結衣がこんなわからずやだったとは」

「だったらもう家の敷居跨がせねぇ!バカっ!」

 彼女は踵を返すと、落ちていた眼鏡を拾って掛けると2-7の入り口で呆然としていた勇樹の腕をとって、くいっ、と彼の体を近づけた。互いの顔が近づく。

「キスしよ」

「えっ!?」

 勇樹がその言葉を理解するかしないかのうちに彼の唇は彼女のそれに塞がれた。結衣の銀縁眼鏡と勇樹のセルフレーム眼鏡が接触して軽く音を立てる。

 温かい。彼女の体温が唇を通して彼に流れ込む。

 ほんの数秒。でもいきなりキスされた勇樹にはそれが分単位にも感じられた。

 …想定外の彼女の行動に周りはさながら時間を止められたかのように固まっていた。

 見せつけるかのように。

「結衣…っ!」

 バカにされたと思ったのか、最初にその呪縛を解いた白谷が衝動を抑えきれずに彼女に飛び掛かろうとした。

 視界の片隅で自分に向かってくる白谷を認めた黒瀬は、反射的に頭の中で言葉(コード)を組み上げ…、

『今魔法使ったらもう彼とはつながらなくなるよ』

「…かまわない」

 勇樹に聞こえない位の呟きで、もう一人の自分の助言を振り払う。

 そして、"悪魔"を発動しようとした刹那…横合いから先生が割り込んで彼の体を絡めとった。

「まてっ!落ち着け白谷くん!ここで手を上げたら…!」

「離せ先生!殴ってやる!」

 白谷とほぼ同じくらいの身長の愛知は衝動にかられた彼を抑え込んではいるが、男女差と年齢差と体格差もあってか先生の方が押されている。

「行こう、勇樹くん」

 未だ突然のキスの影響で状況を理解できてない勇樹の腕を取ると、結衣がリードする形で映画のワンシーンのようにその場を離れた。怒りが収まらない白谷はそれを追いかけようと先生を床に倒しこんでダッシュしようとした…足首を愛知に掴まれて今度は彼が同じ目に逢う。

「離せ先生!」

「教諭として暴力を見逃すわけにはいかないっ!とにかく落ち着け!」

「落ち着けられるかよ!」

「それでもだ!」

 …その言葉がトリガーになったのか、別の要因か、それとも二人が視界から消えたせいなのか、白谷の衝動が小さくなっていく感じでその場にとどまった。二人がいなくなった廊下の空間を肩で息をしながらただ見つめている。

「…幼馴染と言うだけのタダの他人、ってことかよ…」

 やがて廊下に胡坐をかいた。俯きながら。

「…なんでだよ…」

 嗚咽の感情が入った言葉。制服の黒いズボンの大腿部に涙が一つ二つ、落ちていくつかの水滴に分かれた。

「白谷くん…」

 とりあえず教諭としての務めは幾ばくかは果たせたが、彼の心は…というと愛知本人も自信がない。でも、立場としてやらないと。

「白谷くん、ここじゃ何だから、保健室行こうか…」

 諭すように彼に言うと、白谷は自分から立ち上がる。が、心理的に参ってるせいか、多少ふらつく。愛知が彼の体を支えつつ、廊下を1階の保健室へと歩いて行った。

「…さて、どうしたものかなぁ…」


 さながら逃避行のように二人手をつないで…というより結衣が勇樹を引っ張る形で階段を下りて行き、1階の階段脇にある写真部の入り口辺りで二人は歩みを止め、壁にもたれてしゃがみこんだ。期せずして二人は何故だか笑い始めた。

 いったん息を継いで、

「結衣さん、結構大胆なんですね…」

 彼の言葉に我に返ったか、結衣の顔が一瞬で真っ赤になって膝の間に顔をうずめた。

「ごっ…ごめんなさい突然あんなこと…しちゃって…」

 まるで別人格が乗り移ったかのような、普段ならそういう事は絶対と言っていいほどしないと思ってた事を平気でしてしまう自分にまず結衣本人がびっくりしていた。

『公衆の面前で告白を受けると彼に告げる』なんて自分そんなヒロインじゃないと思ってたくせに、人前で突然キスはするんだ…結衣は少し自己嫌悪。

「僕は大丈夫です、というよりうれしかったですね…本当に僕を選んでくれたんだ、って」

「勇樹くん…」

「それよりも、怒らせると怖いということが分かったので、なるべく結衣さんを怒らせないよう頑張ります」

 昼間の光があまり入らない、薄暗い感じの1階南校舎東側階段脇の廊下。その暗さの中でも、勇樹の笑みは結衣の目にはしっかりと映っていた。

「…自分も、怒らないように気を付けます」

 にこやかにそう言うと、ごく自然に結衣は勇樹に抱きつく。彼も彼女の背中に手をまわし、そのまま互いの心の音を聞いてしばしの時間を過ごした。

「時間、止まってくれないかなぁ…」

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