風にひとりで
「なあ結衣、この前言ってたあの話なんだが…」白谷がやや声のトーンを落として目の前で少しづつご飯を食べている黒瀬に話す「…お願いできるかなぁ」
「…いいよ」
小ぶりのウインナーを口元に持ってきて、さながらリスのごとく細かく噛みながら幼馴染のお願いに応える黒瀬。
6月に入り、衣替えをしたので教室の明るさが一気に大きくなったように見える昼休み。2年7組のクラスメイトはめいめい気の合う仲間とグループを作ってお昼をとっている。黒瀬と白谷も、いつものように白谷が後ろの黒瀬の方を向いて、黒瀬の机に大きめの白谷の弁当、小ぶりな黒瀬の弁当が並んでた。
話の中身は、術者、つまりは魔法使いとしての基礎訓練を白谷が黒瀬から受けること及びその開始時期について。
「でも、まだ言葉の断片がちらついてるから、本格的に始めるのは夏休みの頃になるかなぁ」
黒瀬が小ぶりのウインナーを喉の奥に追いやって、口の中に何もない状態にして言葉をつづけた。
午前中でも1、2回ほど『妙な感じ』を黒瀬は感じた。経験上、もう1か月ほど経てば落ち着いてくるはずなので、その時から始めても遅くはないはず。
「夏休みかぁ…え、ひょっとして結構みっちりとやるわけ?」
「うーん、自分の時はそんなみっちりやってたって記憶ないなぁ」
黒瀬は残りのご飯を口に放り込むと、小さめの弁当を片付けつつ記憶の戸棚から小さかった頃の記憶を引き出す。
「少しづつやって行って…気が付いたらそれなりに扱えるようになったというか」
「成程ねぇ…」両肘を机の上にのせて、両の手の上に顎を乗せる「俺でも理解できるかなぁ。数学苦手なんだが」
「大丈夫でしょ、何しろ小さかった自分が出来たんだから」
こういうのは数学が得意でないと出来ない、みたいな思い込みがあった白谷は黒瀬の言葉に多少は気が楽にはなった。が、それでも未知の、学校では絶対と言っていいほど習うはずない事柄についての心配事は簡単には掃けはしない。
でも、心配しても始まらない。時には腹をくくることも肝要。
「まあ、その言葉信じるか」
「経験者なんだから信じろ」
白谷と黒瀬が互いに言った瞬間、まず白谷が何かを感じて廊下側に視線を向けた。それにつられて黒瀬も同じ方向を見る。
「…?」
「え?なに…?」
教室と廊下の間の摺りガラスが入った窓は換気のために開け放たれており、教室内から廊下を行き交う人を見ることができる。今は3、4人が教室横の廊下を通過してるが…彼らから見て右側、風になびいた黒く長い髪が右側へと通過していくのが見えた。同時にその方向から『ぱたぱた』と上履きの音が。
「えーと…」
「何か以前にも似たような状況があったと思ったけど…何だっけ」
白谷と黒瀬が互いにこめかみを押さえて何かを思い出そうとした。2人の頭の中、過去の見聞きしたことを逆再生で遡ろうとする。
…やがて、白谷の記憶庫の片隅にあった、些細な出来事を発見して発掘してきた。多分間違いではないと思うが…。
「…ひょっとして、俺が教室から落ちた日に保健室で休んでたら保健の先生訪ねてきた女の子、か?」
「あーいたねそんな子。そういやあの子、自分が話してた時も駿の事じっと見つめてたなぁ」
もう『ぱたぱた』という音も聞こえなくなっていた。教室内の喧騒の方が廊下側の音をかき消す。
「…あの子、何か1年生っぽかったけど、1年って2階だよなぁ」
「自分らが1年の時って、理科とかの特殊教室が3階にない限りは上がらなかったからね…」
「考えすぎかなぁ…何か用事があったかもしれないし。うん、考えすぎだ」
白谷がメンドクサイ事案をさっさと放棄した。ついでに弁当箱をカバンにしまう。
「そうやね…気のせいかもしれないからもうやめ」
似たタイミングで黒瀬が弁当箱をしまう。そして、ほぼ書き上げた文化委員長としての業務の紙束を出してくる。枚数は少なそうだが、結構びっちりと書いてあるので文書量は多そうだ。
「生徒会か」
「提出期限近いからね…とりあえず書き残しがないかどうかのチェックしないと」
白谷はしばらく業務をしてる黒瀬の姿を見ると、邪魔しちゃ悪いかと思ったのか、椅子を前向きに戻して背中を向けた。一つあくびをして机に突っ伏す。
藁半紙に書かれた文字を目で追い、時折不足部分があったのか、手に持ったシャーペンで書き入れていく。それを幾度か繰り返し、多分これで大丈夫だからあとは清書してコピーとって…とその後の準備等を頭でシミュレートしつつ椅子の背もたれに体を預けた。
「これからいろいろ忙しくなるなぁ」
文化委員長としては9月の学祭までが忙しく、それが終われば10月の生徒会改選に関連して各委員長はお役御免になるはずだからそれまで頑張ればいい。問題は、
「駿の教育かぁ…」
体をそらしながら下目使いで前の方の、机に突っ伏して寝ている白谷の背中を見る。
「男の術者の訓練ねぇ…どうしようか」
下手をすると今回の事例は資料として残る場合がある…というか、『国の機関』としては絶対残したいだろう。希少事項だし。そう考えると、あんまりいい加減な事は出来ないし、かといって何事も滞りなく教えれるかというとそれも不安。第一、自分ですらまだ判らないことがあるというのに。
「出来る限りは教えて、自分の能力超えるところは親にお願いするのが一番いいかも」
再び姿勢を正すと、術者から文化委員長に頭の回路を切り替えて職務に没頭し始めた。昼休みは残り5分。
「まだ悩んどるん?もうずっと見てるだけやん。ちゃっちゃと告って楽になったらええねん」
「そうそう、見てるだけじゃ何も起きないよ。行動起こさなきゃ」
「でも…むやみに告白しても負けるだけのような気がする…」
校舎2階の1年3組。椅子に座って悩んでいる女の子の周りに友人が3人固まっている。
「真由、一目惚れやったらさっさと告らんと熱冷めるで。『恋は熱いうちに打て』や!」
後ろ髪をシニヨンにした青葉が関西系の言葉でけしかける。
「真由ちゃん、悩んでても何も解決しないよ~。アオちゃんの言葉じゃないけど」
ショートカットで日焼けしてるせいか、一見男の子のように見られてしまう榛名が悩む彼女の正面から覗き込むようにして青葉に続く。
「まあまあもう少し待ちましょう。当事者は真由ちゃんだし」
艶のある黒縁セルフレームの眼鏡のズレを直しながら三笠が悩む彼女の援護に回る。
「…なんか何時見ても大体彼女っぽい人がいてスキがない…チャンスと思ったらもういないか用事があって会えないかのどちらかだし…」
悩む彼女…赤城真由が自分の運のなさを嘆くように呟く。腰まである長髪がいくつかはらりと重力に引かれる。
中間テスト前、2年男子が窓から落ちたというニュースが学校内に伝わったその日、保健室に用事のため行った先でベッドで休んでた当事者…白谷と会った時に一目惚れ。しばらくは色々と考えてはいたがここ最近は彼女なりに『積極的に』行動には出ている、が…。
「まあ、全部すれ違いは確かに運ないわ~」青葉が両の手を広げて『お手上げ』のポーズ「せやけど、せやからこそ今度は運が向いてくるで!ホンマやで」
「常に前向きじゃないとね。それ大事よ。『倒れるときには前のめりに』」
「それは判ってるのよーアオちゃん、ハルちゃん」相変わらず、視線は下向きに固定されたまま「さっきもね、どうだろと思って先輩がいる教室へ行ったんだけど、相も変わらず彼女らしき人と一緒に楽しそうにしゃべってるのよ…いよいよ私ダメなんじゃないかと思い始めてきた」
「そう思っちゃダメ。しっかりとしないと」
榛名の言葉にも反応が薄い。
「…違う意味で重症ですね」
「…何とかしないといかんなぁ…」
三笠と榛名がこのままでは打つ手なし、ともとられるような、赤城の弱気が感染したように話す。
「そういやうちらって、真由の好きな人って見てへんなぁ…」
「それじゃ5時間目終わった休み時間にその先輩見に2-7行く?」
「その方がいいですね。何かきっかけがつかめるかも」
青葉の何気ない言葉にそういえばどんな人か見てないなぁ、と改めて現状を把握する榛名と三笠。確かによく考えれば赤城の話を聞いてるだけで実際どんな人か見てなかった。
「3人でじっと見ると向こうにバレるかもしれないから、おしゃべりしながらチラチラと見るようにしよう。真由、その先輩の場所って教室のどのあたり?」
「…私も行く。せめて見るだけでも…」
ようやく視線の固定を解いて赤城は3人を見る。多少は気が楽になってる?かのよう。
「わーった。あっちは真由は顔バレしてるさかい、向こうから真由を見えへんようにうちらで取り囲も。それでゆっくり歩いてしゃべくりしながら3人別々のタイミングでチラ見しよな」
「りょーかい」
「わかりました」
2-7の横を通過時に緑川は横目で教室内の黒瀬の姿を追ったが、文化委員長としての業務中だったらしく、レポートのチェックに忙しい彼女を見てるだけにした。
彼氏と思しき男子は机に向かって突っ伏していた。寝てるんだろう。
別件の用事で1階北側校舎の職員室に向かう階段を下りながらどうやったら黒瀬と二人っきりの状況になるかを考えてみる。二人っきりになればひょっとして上手く…と思ったところで思考を邪魔するかの如く生徒会の他の役員たちの顔が浮かんできた。
「…まず会長たちを遠ざけるとかしてどうにかしないと…」
絶対『そういう状況』を期待して何処からか覗こうとするに違いない。出し抜く必要がある。
「会長はまだいいとして、問題は芳賀と北川だな…上手く騙せるかなぁ」
永井会長はノリがいいからそれほど苦労せず誘導できるかもしれないが、勘が鋭い芳賀と僕自身の性格パターンもデータ化してるんじゃないかと思われる北川の女子2人をどうやって出し抜くか。
「あの2人を何とかできれば…」
気が付けば階段を降り切って、職員室はもうすぐ。引き戸のドアに手を掛けようとして、それが止まった。ある対処法が浮かんだためだが。
「…電話するしかないか」
幸いクラス別の電話番号表は生徒会室にある。生徒会室の戸棚にはあるが、役員は自由に閲覧できるので管理してる北川女史への許可等はいらない。
電話して、二人だけの状況をつくろう。親とかが受話器をとったら生徒会の事で、と言えば怪しまれずに済むはず…。
よし、その手で行こう…と頭の中で決断をして、職員室の引き戸に手をかける。
「失礼します」
5時間目終了のチャイムが鳴った。幸い先生はチャイム通りに授業を終わらせてくれたので、休憩時間はほぼフルに使える。時間は10分。
この高校の校舎は東西方向に長く作られており、北側と南側の2つの校舎がその長尺方向に伸びている。それらを繋ぐように東側と西側に同じ高さの短尺の校舎があり、上空から見ると"井"の漢字の上の飛び出し部分がないように見える。1-3は2階の西側校舎、2-7は3階の東側校舎。
「ほな、行くで」
青葉が音頭をとって榛名、三笠、赤城が続く。教室を出て階段を上り、長尺方向の校舎を東側へ向かい、そして東側校舎へ。
東側校舎は北側から南側へ向かって、お手洗いに続いて教室が3つ、左側に縦に並んでいる。手前側から順番に2-7、2-8、2-9と並んでいるので、最初に目的の教室の中がうかがえる。
先頭は青葉、右に赤城、中に榛名、左に三笠が並んで歩く速度を同調してさて教室を…。
「あれ?誰もおらへん?」
4人は歩みを止めて廊下から2-7の教室を見つめた。そこはもぬけの殻で、整然と机と椅子が並べられているだけだった。申し訳なさそうに天井の扇風機が回転しつつ、教室の中の空気をかき回している。
「…これ、体育とかじゃない?」
「…ですね、これ…」
「見て、時間割見たら6時間目、理科になってる」
赤城の指摘に他の3人が黒板右側の掲示物貼り出しエリアにある時間割を見た。確かに「理」の文字が書いてある…。選択科目だから物理、化学、生物、地学の4つの教室に分かれる。もちろん、赤城は意中の人がどの教科を選択してるかまでは知らなかった。
「あー…やられた。うちら前もって時間割調べてないやん」
やや大げさに頭抱えてのたうち回る青葉。
「これはマヌケだわ」
「まあ考えてみれば2年生なのに私たちと同じ時間割じゃやないですものね」
「あー私はこんなに運が無いのね…」
ガックシと膝をついて呆然としてる横をこの辺りの2年生や3年生が何事かと彼女らを見つつ通り過ぎてゆく。その中にお手洗いから自分の教室へと戻る途中の2-8の緑川の姿もあった。
「…何なんだ彼女たち…」
まあ、6時間目が始まるまで時間がないし、あんまりかかわるのはよしておこうと緑川は足早に教室へと戻っていった。
空になった2-7の南隣の2-8、次は英語なので教科書等をカバンから取り出して準備をする緑川の聴覚を刺激する足音が4つ。
「やばい次の授業じきに始るやんけ」
「次何だったっけ…準備してねーぞ」
「数学ですわ」
「やはり私運がない女の子なのよ…」
バタバタと4人それぞれの足音の微妙な違いを立てて廊下を急いで走ってゆく1年生女子4人は、対向してくる上級生を上手に避けながら南校舎を西側に向かって駆け抜けていった。
「…なんなんだ、あれ…」
彼女らについて思いめぐらそうとした瞬間に、6時間目の始業チャイムが鳴った。緑川は彼女らが授業に間に合うかどうかの結果よりも英語の授業の方に気持ちを切り替える。
「なあ、俺に『彼女』いるって前に言ったよなぁ」
「そうそう、いつ見せてくれる?」
帰り道。学校へ行く道と同じ、2車線の板垣橋通りと呼ばれる県道横の歩道。
ふと白谷は夕暮れの空を見上げる。瞬間で黒瀬に向き直るも、すぐ視線をさりげなく外す。
「あれさ…もし『彼女』ってのが結衣、って言ったら…どうする?」
「…はい?」
鳩が豆鉄砲を食らった、という表現がそのまま合いそうな顔をする黒瀬。確実に想定外の言葉。
「いやもしも、だけど…」
そう言って視線を黒瀬に戻す白谷。
「うーん…」考え込む黒瀬。ただ、その表情からは真剣さが欠けてるようには白谷には見えた。「…そういうのじゃないんだよなぁ…違うというか微妙に…おと 」
「ま、まあ例え話、ということで…」
ヤブヘビになる前に会話を途中で遮ってキャンセルしようとする白谷。張り付けた笑顔に微妙に違和感がこびりついていた。
横目でそれを見た黒瀬は、ふーん…と納得したようなしてないような顔をして言葉を途中で引っ込める。
県内で成績トップクラスの生徒らが通う高志高校のグラウンドの横を、2人は自転車を引きながら歩いていく。夕暮れで建物や設備等がシルエットを形作る。
やがて交差点で赤信号に引っかかる。左へ行けば福井駅東口に通じる4車線の道。右はやや角度が付いて住宅街へ続く道。30秒ほど待つと、交差する道の信号が閉じ、進行方向が開く。
「駿、歩くのに疲れたからここから自転車乗っていこ」
「わーった」
黒瀬が自転車にまたがって漕ぎだす。それに続いて白谷も黒瀬の後ろに位置して漕ぎだす。歩道の幅が狭いので並走は出来ない。
県立図書館の前を過ぎると、福井市街東側を流れる荒川を渡るために坂を上る。長さは短いが、傾斜角はそれなりにあるのでペダルをこぐのに立ち漕ぎで対応する。
最初はかなり重くなったペダルをこぐことになるが、次第に傾斜が緩くなり、橋の中央部では平坦部と変わらない位に軽くなった…所で、前を走ってる黒瀬がふいに自転車を止めた。スタンドを立てて黒瀬は橋の欄干にもたれかかる。
「…きれい」
黒瀬の車道側に白谷も自転車を止めて、彼女越しに風景を見る。
川の下流方向、民家の向こう側に背の低いビルが何とか見える。その左側奥には桜の季節には花見客でにぎわう標高100mちょっとの足羽山。そしてTV局の送信所の鉄塔。それらがすべて影絵のように茜色か黒かに染め上げられていた。所々夕陽を反射するハイライトが景色を盛り上げる。
白谷はしばらく自転車にまたがりながらその光景を見ていたが、やがてスタンドを立てると降りて、黒瀬の後ろに立った。緩めの西風が吹いてるせいか、彼女の後ろに立つとなびいたやや長めの髪が白谷の顔をくすぐる。
周りを見る。歩行者は自分たちだけであとは車道を通る車だけ。
彼女は夕暮れの景色に見とれて絵のように動かない。
抱きしめたい…その思いのままに彼女とくっつくくらいに近づいた矢先。
視界の端っこに橋を上ろうとこっちに向かってきた女子高生のグループが見えた…パッと見同じ高校の生徒。少し離れる。
変なことしてると思われてないだろうな…とやや焦った白谷は、ごまかすように自転車を持ち上げて黒瀬の自転車の前に置き、後ろからくる自転車の場所を開けた。ほぼ同時に4人ほどの女子高生らの自転車が通過してゆく。
白谷は横顔の彼女の顔を見る。夕陽に照らされて茜色に染まった顔に、小さく反射する眼鏡のフレーム。緩やかな西風になびくセミロングのストレートの髪。
横から見られてることに気づいた黒瀬が、
「あ、待った?」
「…いんや、いいよ」
ともにまっすぐ顔を見る。ややあって白谷は視線を夕陽の方へそらして、
「…もうちょい 」
言葉を言い始めてすぐにトラックが通過していった。言葉が車のノイズにかき消される。
「ん?なんか言うた?」
「…あ、いや…何も言うとらん」
「ふうん」
黒瀬はそう答えると、自転車のスタンドを上げてサドルにまたがり、
「それじゃ帰りますか」
橋の上なので、暫くは重力に引かれて漕がなくても速度は出る。瞬く間に距離が開いた。
白谷も遅ればせながら自転車を動かそうとするが、一旦それを止めた。再び夕陽の方を見る。
「…」
思い描いた光景を振り払うかのように、自転車を加速させた。
…電話を掛ける、という行為は普段当たり前に行われている。しかし、緑川はこの時ばかりはそれを行うことに大変な逡巡を強いられていた。
プッシュホン式の電話機を前に、暫く見つめたまま固まって動かない。時折受話器に手を伸ばすが、数秒後には元に戻したり。
もしダメだったら、嫌われたら…そもそももし親が出てきて取次させてもらえなかったら…マイナスの思考がぐるぐると駆けずり回る。
「…はぁ」
いやいやいや、一応生徒会関連の通知を行いたいだけなんだが、何でこんなに迷うんだ…というより、何で…、
「なんでこんなにドキドキするんだ」
とにかく落ち着こう…深呼吸を数回繰り返す。子機からでも電話は掛けられるので家族にはこの光景は見られてない。
「…掛けるぞ」
体中の勇気を総動員して、調べた電話番号の通りにボタンを押す。受話器から、呼び出し音が流れた。規則的にそれと無音を繰り返す。
そのうち、その音が途切れた。別の音が、耳に届く。
結衣の家の廊下にある黒電話が、やや耳障りなベルの音を周囲にまき散らす。それに反応したのは、
「あ、自分出るよ」
結衣は同じく出ようとした母親にそう告げると、廊下に出て電話機の所へ歩みだす。そして無造作に受話器を取り上げるとやや事務的な声で、
「はい、黒瀬です」
…ふつうならそこで向こうは名前を即座に言ってくるのだが、今回はそこから数拍おいて受話器の向こう側からおどおど感が漂う声が聞こえてきた。
『あ…すみません。み…緑川勇樹と申します。高校の生徒会書記の…』
「あ、書記さん。こんばんわ」
『こんばんわです…よかったぁ』
受話器の向こう側の声は、結衣のそれを聴いたせいか緊張感が次第に和らいでいく様子が感じ取れた。上ずった声が生徒会会合とかで聞いたような落ち着いたものになる。
とはいえ、それは一時的なもので再び彼の声は緊張感を含み始める。
『あの…学校祭の開催要項とかですが…えーと、今度の金曜日辺りに持ってきてもらって大丈夫でしょうか?』
「ええ、それまでには清書して出せますので大丈夫です」
昼休みにチェックしてもう清書できる段階までに来ている。金曜日だったら役員全員に資料として配布可能だ。
『よかった…じゃあ金曜日の、えーと…ちょっと遅いですけど、生徒会室に5時半くらいで』
「5時半…ですか。ええ、判りました」
放課後すぐかと思いきや5時半というやや遅めの時間帯に結衣は何で?と思ったが、まあ向こうの用事とかもあるし、それは仕方ないなと納得した。
『そ、それじゃお願いします』
「はい、わざわざありがとうございます。失礼します」
通話が終わった。結衣はしばし"ツー、ツー、ツー"と不通音を発している受話器を見つめ、
「こんな時間にかけて来るとは…」
受話器を置いた。
「んー…まあ、いっか」
受話器を置いた勇樹は、たった数分の会話で1か月分の勇気を使い果たしたような疲労感が全身に回るのを感じていた。しかし、それは次第に喜びに替わっていった。
「…よし」
口元が嬉しさで歪むのを感じる。
セッティングは出来た。あとは…。
「…頼むから上手く行ってくれ」
誰に頼むわけでもないが、そう願わずにはいられなかった。
「失礼します」
金曜日の生徒会室。清書した資料を抱えて指定した時間よりやや早めに黒瀬はその部屋の引き戸を開けた。その音に反応したのは…緑川一人。というより、現在生徒会室には彼一人しかいない。
入り口に口を開けた"コ"の字型の机の、向かって右側の机の真ん中あたりで何らかの資料と格闘していた。その手が止まり、いくらか手元の資料を片つけて体裁を整える。
「あ!…ご苦労様です」
「あれ?会長さんとかはおられないんですか」
「ええ…何か部活が長引いてるとかで…えーと、いつもならいるんだけど」
「そうなんですか…あ、これ資料です。清書はしましたが、もし何か訂正箇所がありましたらお知らせいただければ」
緑川のぎこちなく上ずった言葉とは対照的に黒瀬のは業務的、というか落ち着いてるというか。
黒瀬は緑川の前へ歩み寄ると、そう言って何束かの開催要項を書き入れたコピー用紙を手渡す。
「あ、ありがとう…会長とかにも早めに目を通しておくように…伝えておきます」
緑川も椅子から立ち上がって黒瀬から資料を受け取る。
「それでは失礼します」
一礼して緑川の前から踵を返して廊下へと移動しようとして
「あ…黒瀬さんっ」
彼女は呼び止められてそちらを向いた。声の主の緑川は何かを決したかのように口元を引き締め、やや速足で黒瀬が向く方向へ。
引き締められた口元が何かを言おうとしばらく動くが、言葉になってない。が、息を深く吸い込んで、落ち着かせようとする。手のひらを、爪が皮膚に食い込むくらい強く握る。
「あ…あの、なんでしょうか」
黒瀬が状況を理解しようと思考がぐるぐる回ってるかのような顔をする。
やがて、緑川が意を決したかのように言葉を絞り出す。
「く、黒瀬さん…あの…す…好きです!」
「…はい?」
「か、彼氏がいるのは判ってますが…それでも好きなんです」心臓が文字通りバクバクしてどうにかなりそう「ぼ、僕と付き合ってください!」
「あ…え…あ…えーと…」
今度は彼女の方が口元は動くが何を言ってるのか自分でも判らなくなる番だった。まばたきが増える。
「お願いします…っ」
身長が彼女より約20cm高い彼は体をかがめる。それは自分の更に赤くなった顔をあまり見られたくないと思ったからか。
二人しかいない生徒会室の時間が止まったかのよう。開け放たれた窓からは、外のグラウンドでの部活とかの音は部屋には入って来る。が、二人の耳にはそれすらも拒絶していた。
…告白されて混乱していた彼女は、呼吸を整えて落ち着きを取り戻す。何度か咳払いして、
「えーと…少し、時間いただけます、か…ちょっと突然すぎて…」
かがめた上半身を元に戻した彼は、彼女の顔が夕刻のため茜色になりかけた陽の光以外の原因で赤くなってるのが見えた。目は潤んでいくつかのハイライトを夕陽で彩る。
視線は外されてはいるが、拒絶はされてないように見える。
「わかりました。突然こんなこと言って申し訳ないですけど…」
「い、いえ…それじゃ」
上ずった言葉を生徒会室に残して、やや手荒に生徒会室の引き戸を開けて、そのままにして廊下に駆け出して行った。彼女の立てる駆け足の音が、エコーを掛けたかのように響き渡って次第にフェードアウトしていく。
さっきの彼女の『少し時間いただけますか』という言葉が彼の頭の中で幾度も反芻して響く。明確な拒絶ではないが、結果はまた少しの未来へ持ち越されることになった。
「…とりあえずは気持ちは伝えた。あとは…」
彼女次第。そして、決定権は手元にない。もどかしい。
「こんなんなら、断られた方がまだマシ…なのかなぁ」
緊張感が途切れて疲労感が代わって顔を出したせいか、腰が砕けるかのように椅子に落ちた。足元に椅子の脚の抗議の音が響く。
「…まあ、その時はその時だ…賽は投げたんだ」
椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
人気のない廊下を速足で通り過ぎ、カバンとかが置いてある放課後かなり時間が経過してクラスメイトがいない2-7へと戻った黒瀬。呼吸を整えようにも、整えきれない位感情が高ぶっている。
「ど…どうしよう…突然だったし…」
心がバクバク言ってる。その音が、教室中に響き渡ってる位に感じるほど大きい。
両の手で上半身を支え、顔は机の天板を向けあう。そしてふと、前の席の椅子を見る。白谷の席、幼馴染の席。
黒瀬にしか見えない幼馴染が『付き合っちゃえば?』って言ってるかのように振り向く。
「…いいの?」
『だって"弟"でしょ?俺』
…そうだよね、と口にしてしまいそう。
逃げてる感じがする。自分に都合のいい想いの気もする。幼馴染のつながりが大事ともう一人の自分が告げてる気もする。そして、さらに別の自分が
『付き合っちゃえばいいんじゃない?たまには違う人と一緒にいるのもいいと思うよ』
そうけしかける。口元にどちらともとれる歪んだ笑みを浮かべながら。
『だって「好きだ、ずっと一緒にいてくれ」っても言われてないんでしょ?』
『幼馴染と言っても、家が隣だけの他人でしょ?何でそんなのに縛られるの?』
『駿の方も、"彼女"がいるんだから気にしないで付き合っちゃえ』
好きな人がいる?の問いに「いる」と答えた駿。それに喜んでたじゃない、今度見せて、って。
「…そうだよね」
少し、気が楽になった。心臓のドキドキも、時間の経過か覚悟を決めはじめたのか、落ち着いてきた。
顔を上げる。
開け放たれた窓から、一人だけいる教室へ風が吹き込んできた。