風のエオリア
登場人物
黒瀬結衣:女子高生(2年生) 白谷駿とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 魔法使い(術者)だが現在はその魔法のリハビリ中 成績は優秀 眼鏡を掛けている 4月8日生まれ
白谷駿:男子高生(2年生) 黒瀬結衣とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 実は存在自体がレアな男子の魔法使い 成績は下あたりから最近は普通くらいに 3月25日生まれ
遠野春香:女子高生(2年生) 隣のクラスの女子だがヤンデレ気味 あることを画策し、一旦は敵対した白谷に接近する 成績は優秀 11月30日生まれ
赤城真由:女子高生(1年生) 白谷の元カノ 彼に一目ぼれして彼女になったが、とあることで別れてしまった 成績はいい方 2月26日生まれ
黄谷浩市:男子高生(2年生) 白谷の友人 オタクっぽい感じだが、見た目はそうに見えない
青葉彩:女子高生(1年生) 赤城のクラスメイト 関西弁が抜けない カメラ好き
三笠美智子:女子高生(1年生) 赤城のクラスメイト 柔らかい話し方をする 眼鏡をかけている
榛名美穂:女子高生(1年生) 赤城のクラスメイト 陸上部所属の元気娘
伊勢泝:男子高生(1年生) 赤城のクラスメイト 赤城に惚れている
短い冬休みが終わり、学校が三学期として再開された。
正月三が日は雨だったが雪はとうとう降らずじまいでこのまま積雪がない新学期の始まりかと思われたが、そこは北陸の冬としてのプライドがかかっていたのか、5日から強い冬型の気圧配置となり、あっという間に街中を白い雪が覆うこととなった。その後も断続的に雪は降り続き、8日の始業式当日には積雪が50cmを超えるほどにまでその高さを伸ばしていた。
「……眠い、寒い」
まだストーブの熱が教室を充分に暖めてはいない朝、人影もまばらな2年7組の教室に入った白谷駿と黒瀬結衣は、コートは着ているものの底冷えのため体を震わせながら自分の席へと向かった。
「結衣が起こしてくれなかったら遅刻確定だった……けどなぁ、目の前いきなりドアップの顔見えたからびっくりしたぞ」
「雪降って交通機関動くかどうか怪しいから早く起きなきゃいけないのになかなか起きないのが悪いんでしょ。何時ごろ寝たの?」
「うーんと……深夜のFM聞いててそのまま寝落ちしたから……1時前?」
「呆れた。翌日始業式なのによくそんな遅くまで起きてられるね」
「だって聞きたかったんだから仕方ないだろ……まあ、それもこれも結衣が勉強教えてくれたから課題終えられて時間作れたおかげだわ。ありがと──」
言い終わらないうちに大きな眠気の波とあくびの衝動が白谷を襲う。そしてその波が引いた後、彼の視界にはこちら向きの複数の視線が刺さっているのが見えた。どれも目を細めて呆れているような表情を浮かべている。
「……な、何?」
「白谷、おめー……何か冬休みの間に黒瀬さんと行く所まで行ったみたいな感じなんだけど……?」
ジト目で視線を突きさしてくる友人の黄谷浩市が羨望と僻みがブレンドされた言葉を投げかける。他のクラスメイト──男が多い──もそれに同調するかのような表情と視線を投射してきている。
「いやそれは誤解だろ……基本変わんねーと思うぞ」
気圧されたように彼の弁明は何処か上ずってるような声になっていた。そして助けを求めるかのように隣にいる黒瀬に白谷は、
「結衣も何か言ってくれ~」
「そうねぇ……『幼馴染以上、恋人未満』かなぁ?」
そう言って黒瀬は他人から見たらなおさら意味ありげに映る笑みを浮かべて白谷に視線を流した。男女間の"そういうこと"に敏感な年頃のクラスメイト達の危ない気配を感じ取ったのか、白谷はそれを打ち消すような仕草をしつつ、黒瀬に煽るなよ~と懇願の顔色を浮かべる。彼女の方は幼馴染のその顔を見てからかい半分、うれしさ半分の笑みを見せて自分の場所に腰を落ち着けた。
「頼むから無駄に煽らんでくれ~」
やっかみやからかわれたとはいえ、それに不機嫌にはならずに白谷の方も自分の場所に腰を下ろした。
コートを脱いで詰襟学生服になり、さて少し早めについたし授業前に始業式があるから始まるまで何してようか、と思っていた白谷の視界の端に、隣のクラスからやってきた人影が写り込んだ──その姿を見た瞬間、彼の体中に警報が走り抜けた。
同じことは後ろの席の黒瀬にも起きていた。さっきまで笑顔だった表情が一瞬に反転し、険しい顔つきに変わる。クラスメイトも、二人の思考が感染したのかそれとも雰囲気からなのか、会話がボリュームを絞ったかのように急速に静けさへと入れ替わって行った。ストーブの燃焼音が、その静けさを補強しているかのようだった。
「──白谷くん、ちょっと……いい?」
その人影の言葉──以前とはまるで違う、おとなしめな上にどこか頼りなさげな彼女の言葉。微妙な違和感を感じつつ警戒を厳にしながら白谷は顔を上げて彼女がいる教室前方の出入り口辺りを視界に収めた。
数日前、ラブホで一悶着あった当事者の一人、遠野春香の姿が、そこにあった。
「……何?ちょっと、って……」
凍り付いたような表情を浮かべ、彼は折角腰を下ろした椅子から立ち上がる。その時、彼女に向けた視線の内に、白谷は彼女が手に持っているモノの一部が目に入った。
紺と、赤と、白の3色。それはあの時気付かずに──白谷はまるで魅入られてるかのように、1歩、2歩、ゆっくりと彼女の方へと歩き出した。
雷のような周囲を制するくらいの大声が響いたのはその時だった。
「駿!」
椅子を引く音が不協和音と重なって教室に響き、黒瀬が怒りの成分を隠さずに立ち上がる。催眠術が解けたかの如く、その声に白谷はゆっくりと振り向いた。
──判ってる。もう、そうはならない。だから安心していてほしい──彼の、幼馴染を見る瞳は何物にもブレないと言わんばかりに自信と確固たる意志を持ってるように、黒瀬からは見えた。それを境に、黒瀬から怒りと心配の構成要素が減少し、二人にしかわからないような安心感が両者を固く結びつけていた。
白谷が教室から廊下へとその身を移動させると、二人の影は教室の陰に隠れて見えなくなった。
「遠野さん」
教室を出て左手へ向き、教室2つ分真っすぐ行った廊下の十字路でさらに左へ曲がりその突き当り、音楽室の扉の前で白谷はまだダッフルコートを着たままの遠野に話しかける。
凛とした廊下の空気に、二人の吐く息が白く漂う。窓ガラスから零れてくる、もう日が出ている朝方の時間とはいえ何処か薄暗い光に柔らかく照らされた彼女の顔には、この前のような感情の荒波の形跡は見えなかった。
「……白谷くん、これ」
遠野はそう言いながら、手に持ったものを静かに彼に差し出した。それは、落としてしまってもう諦めていた、彼の帽子だった。
「……やっぱり。でも何で」
「私持っててもしょうがないし……返した方がいい、と思って」
白谷は彼女の声を聴きながら、差し出された帽子をもらい受けようとした。帽子を手に取り、自分の方へと手を引こうとして──彼女の手は、帽子から離れなかった。引っ張り合うかのように、帽子はぴんと張りつめて両者はそれを引き裂こうとばかりに力が釣り合う。
「遠野さん?」
白谷はただ純粋に彼女の名前を言った瞬間、彼女の手から帽子がすり抜けていった。反動で、白谷の体がやや後退する。そして、何かに動きを止められたように、ほんの数秒間だけだが彼の姿勢は固まったままだった。
──そうなのか?彼は遠野の想いをわずか数ミリ秒、理解できたような気がして……それは時間に連れ去られた。
遠野は、白谷と正対してはいるが、視線は向いていなかった。逸らすことによってでしか、自分の気持ちを保てないかのように。
「……ありがと」
「じゃ……」
駆け出すように遠野は白谷の元から遠ざかってゆく。振り切るかのような動きに、白谷は思わず口から言葉が零れ落ちた。
「遠野さん」
彼の声が、彼女の動きを止めた。
しかし、白谷は、次の言葉が上手く言えなかった。沈黙が二人の間を周囲の小さな喧騒と共に埋めていた。
遠野はちらりと彼の方を見て──再び振り切るかのように廊下の十字路を右に曲がって、壁がその姿をかき消した。今までのしがらみも、縁も、そして感情をも、再現不可能のように断ち切って。
──彼から見た彼女の横顔は、何処か泣いてるように見えた。
「何だったの?」
教室に戻り、自分の席に戻ってゆく途中の白谷を見ている後席の黒瀬が問いかける。問われた彼は、手元に握っている帽子を彼女に見せるように、少し持ち上げた。
「返してもらった」
「そっか……よかった」
白谷は笑みを浮かべた。しかし、それはそこはかとなく悲しげな影がほんの僅か、差し込んでいるかのように黒瀬には感じられた。それでも彼女は、幼馴染の大事にしていたものが戻ってきたことに、彼と同じように笑みを浮かべていた。
積雪の影響で交通機関がマヒし、遅刻する生徒が多くなると予想した学校側は始業式を1時間ほど遅らせて対応した。そのためか、式にはほぼ全ての生徒が集まり、中身としてはそんなに長くはない時間ののちに解散となった。
2年7組のクラスメイト達も、各々の友人らとおしゃべりをしながら体育館から校舎へと入ってゆく。白谷と黒瀬も、それぞれの友人らと連れ立って体育館出口で生徒たちの渋滞にはまり、出る順番を待っている時だった。
「あ……」
視線が一瞬交錯し、そしてまず向こうの方からそれが外れ、そして白谷が遅れてその線から逸らした。
もう過ぎたことだ、とは理解はしている。しかし、どことなくまだ心のひだの欠片が残っていて、その瞬間に様々な出来事が一瞬で頭の中で再上映された。あの日の生徒玄関、図書館、海、二人で食べたたこ焼き、デート、学校祭でのかなえられなかった願い──そして、壊れてしまったその時も、階段でのあの言葉も。
二人は期せずして似たような表情を浮かべ、どうしてこうなってしまったんだろうという後悔の言葉がほんのひと時でも頭の中をいっぱいにした。
そのせいか、彼女の方がそこに立ち止まるように動きを止めた。その間隙を埋めるように、白谷らの列が体育館出口へと向かい、次第に二人の距離を広げてゆく。
彼は振り向くなと自分に言い聞かせた。しかし、誘惑に負けるかのように瞳を右後ろにいるはずの、かつての"彼女"の方に向けた──既に他の生徒たちの姿が壁になって、もう彼女の姿は見えなくなっていた。
「どうした?」
「あ……いや、何でもない」
クラスメイトに訊かれた言葉を、白谷は濁した。
1月の、季節風を伴った底冷えする風をしばらく受けて、彼らは校舎へと入って行った。
昼休み。西校舎の2階にある1年3組の教室では、仲間たちと一緒になってお弁当をつつく光景がそこかしこに見られ、ストーブで温められた教室内を楽しい話でさらに過熱させていた。その中で、赤城真由は、朝方見たかつての彼の姿から自動的に引き出されたかのように、記憶がぐるぐると頭の中で終わることなく繰り返されていた。
楽しいことはもちろん、たくさんあった。しかし、秋頃の暗い思い出が、それらを全て帳消しにしてなおかつメンタルをマイナスに引きずり下ろす影響を彼女に及ぼしていた。そのせいで、周りが楽しいオーラで包んでいても、彼女の所だけが暗色系のそれに包まれているようだった。
「真由、どないした?」
残ってるご飯粒を一つ一つ箸で拾いながら青葉彩が怪訝な表情で覗き込むように未だに直らない大阪言葉で訊いてきた。自分の世界に入ってたように周りが見えてたり聞こえていたりしてなかった赤城は、青葉から言われて我に返るように驚きの表情を浮かべ、次いでそれらを誤魔化すように貼り付けた笑みを浮かべた。
「あ、ううん……何でもないよ、何でも……」
「真由、今朝の始業式終わってからずっとこんな調子だけど何かあった?」
陸上部所属で新陳代謝が高いせいか、冬でも制服の上着を脱ぎ白い半袖カッターをさらして男並みの大きさの弁当をがっついている榛名美穂が、口元にご飯粒を付けながら青葉に続く。
「大丈夫、ホント何でもないよ」
「真由さん、そのように見えないから訊いているのですよ?」
否定しようとするポーズでとにかく誤魔化そうとする赤城に、お嬢さまのように柔らかな言葉で友人を心配している三笠美智子が、その表情も赤城にシンクロするように身を乗り出して釘をさす。三笠が掛けている眼鏡が天井の蛍光灯を怪しく反射し、全てお見通しですわと言わんばかりにその瞳を憂鬱に落ち込んでいる友人に向けた。
赤城は言うか言うまいかの境界線をさ迷うように、迷走と逡巡を繰り返しながら沈黙を続けた。しかし、彼女はその瞳をゆっくりと上げると、意を決したように静かに語り始めた。
「これ、ってホントかどうか判らないんだけど……友達だから話すけど」
赤城の、教室内の喧騒に消え入りそうな小さな声をよく聞きとろうと3人の友人が彼女との距離をぐっと近づける。息がかかりそうな距離の友人たちをちらちらと心配そうに見つめながら、赤城は話し始めた。
──さっき体育館出口で見かけた白谷の姿から芋づる式に思い出してしまった、それは記憶の片隅に押し込んで封印し、二度と日の目を見ないはず、だった。その、海での出来事、そして2か月ほど前に駅前大通りで起こったトラックの事故に巻き込まれそうになったことについて、そこで起こった不可解な事象の事を3人に話した。
「……そういや事故の翌日に真由がしゃべってたなぁ。『まるで魔法使ったみたい』って。ウチそのあと白谷先輩に訊いたけどそれはないって顔しとったが」
その時を頭の中で再生しながら青葉が事実と間違えないように慎重に言葉を紡ぐ。赤城がそう言ったことは他の2人も確かに聞いていたが、そんな魔法なんて……と例え話だろうと思い込んでいた。しかし、今こうやって赤城から改めて話を聞くと本当にそんなことがあるのか、と一笑に付せないくらいのリアリティを、友人たちは感じ始めていた。
「なあ、だったら真由のためにも、ホントかどうか確かめてみようよ!」
榛名は意を決したように力強い口調で他の2人に決起を促す。大体この手の話が出るとブレーキ役になる三笠も、この時ばかりは友人のためにと眼鏡をきらめかせながら大きくうなづく。青葉は初めからやる気一杯というか面白いネタやで~と言いたそうに胸元のコンパクトカメラを取り出しながらそのわくわく感を隠そうともしなかった。
「記録ならウチがやるで~」
「後は……男しか行けない所にも入れる人がいるとなおよろしいんじゃないでしょうか」
三笠が腕組みをしながら意見を出す。その言葉に榛名と青葉も同意した。
赤城を含めた4人は全員女子。男しか入れない場所だとどうしても躊躇ってしまうし、恥ずかしさが出てしまう。そこに入れる人がいれば、なおさら事実に近づけられる──3人は自然に、偶然近くを通った一人の男子に視線を集中させた。
「丁度いいのがいた」
「適任ですわね」
「っつーかこいつしかおらんだろ。最近よう真由と話してるとこ見てるし」
榛名、三笠、青葉の視線にその男子クラスメイトは気づいたのか、何事と一瞬ビクッと体が反応し、何か悪いことしたんだろうかと半分泣きそうに、怯えそうになりながらその場から離れようとして、
「伊勢くん!」榛名が彼を呼び止め、それに続いて三笠と青葉も絶対良からぬ何か企んでいそうな露骨な笑みを浮かべて彼の方を向いた「ちょっとお話があるよ~」
「白谷先輩の監視……ですか?」
放課後、人影が少なくなった1年3組の教室で赤城、青葉、榛名、三笠の4人の女子と、1人の男子──伊勢泝の5人が一つの机の周囲に椅子を持参し蝟集して話し込んでいた。そこに出てきた話に、伊勢は軽い驚きを示した。
「そう。男でしか行けない所もあるから、そういう所は伊勢くんが適任かと」
三笠が普段のお嬢さまっぽい振舞とは一線を画したような、悪女を具現化した笑みを浮かべてさりげなく彼に言った。
恥ずかしいのか、ふさぎ込んでるのか、うつむいて黙っている赤城の隣に椅子を置いた伊勢。気がある子が隣にいるシチュエーションに、彼の心臓はいつもよりも心拍数を増やしていて、そのためか彼の頬は少し朱のフィルターをかましているかのようだった。
「でも何で先輩を監視しないといけないのですか?」
当然と言えば当然の問いを三笠に訊いた。その答えは三笠ではなく、別の人から出た。
「それはここだけの話」周囲を見回し、近くに級友がいないことを確認したうえで、声を潜めて「白谷先輩には……魔法使い、の疑いがあるからだ」
それを聞いた伊勢は、この人何言ってるんだという言葉を表情に加工して顔の表面に浮かび上がらせた。次いで、別の意味があるのかと問いかけたい気持ちを抑えられないように素っ頓狂な声を上げた。
「……はあ?何言ってんですか榛名さん」
「でも……真由が言うにはそうとしか思えない事柄が少なくとも2回あったということらしい」
「……ちょっと待ってくださいよ。なんでそんなあり得ないことをオレが監視してないといけないんですか!?」思わず声を荒げた伊勢は、他の3人から声が大きいとポーズを絡めて制止されて──再び声を潜めつつ言葉をつづけた「魔法?ありえない。おとぎ話やファンタジーじゃないんですから」
「伊勢、そう言うとそれだけ彼女を傷つけることになるけど……」
「……!」
榛名に突っ込まれた伊勢は、言われてすぐ隣の赤城の方を見た。彼女への謝罪の言葉が脳裏を埋め尽くす。彼女はその姿勢を崩してはいなかったので、彼の言葉に傷ついてはいないようには見える。しかし、実際は……他人からは見分けがつくはずがなかった。
「しかし、そんなことがあるんですか……?」
改めて、伊勢が榛名に訊いた。
「真由が嘘言うと思うか?」
「……」
3人の、これ以上はない真面目な顔を見た伊勢は、少なくともふざけているわけではないことを察した。
そうだ、オレは──隣にいる想い人を見た後、覚悟を決めたように、彼は静かに言った。
「判りました」
3人は、その表情を崩さずに静かにうなづいた。
三学期が始まって最初の金曜日。2年7組の次の授業は理科の選択科目になっており、白谷と黒瀬は教室から2階南校舎にある化学実験室へと階段を移動中だった。
「……」
違和感が、白谷の感覚をより一層鋭敏にさせた。三学期が始まってからこっち、何処からか誰かに見張られてるような、そんな感じが。周囲を見回し、異常が無いかを確認したが、彼の目に映る限りの、廊下を歩いている生徒たちには彼を見つめていそうな感じの人はいなかった。
「どうした?」
つられて黒瀬も周囲を見回す。
「……いや、気のせいかも……?」
「何が?」
「……どうにも何かなぁ。見張られてるような気が」
「見張られてる?」
幼馴染の言葉を受けて黒瀬はもう一度周囲を見渡した。しかし結果はさっきと変わりようがないいつもの学校の廊下にしか見えなかった。小首をかしげた彼女は、心配して損したとばかりに突き放すような口調で告げた。
「……気のせいでしょ?」
「……だろうなぁ」
完全には納得はしていないが、別に異常がないから多分大丈夫……そう思いたい白谷はとりあえず違和感を頭の隅へと移動した。
──しかしその違和感は頭の隅に移動したにもかかわらず、まるで手足が生えて彼の脳裏を自由気ままに歩き回り、走り回り、心の赴くまま叫び倒しているかのようにその存在感を無視する白谷本人をことごとく挑発し始めた。彼らは、白谷を直接見るようなことをせず、学校の構造を利用して──少なくとも北校舎以外は廊下が中庭に面して建てられている──ガラス越しに見ているかのようだった。そして北校舎では、
「あ、先輩おはようございます~」
「あ……ああ、久しぶり」
この日は別の選択授業で北校舎の廊下をその教室へと歩いている時に、向こう側から現れたのは榛名だった。運動系部活に入っているためか、健康的な笑みを浮かべた彼女は軽く会釈をしてすれ違ってゆく。そして白谷の視界の片隅へと過ぎ去ってゆく彼女は、糸を引くように彼に視線を固定しつつ出来る限り見続けていた。彼も首の可動範囲の限りに彼女を見続け──何かに魅入られたかのように後ろを向きながらその距離を増やしてゆく。
彼女が視界から消えた後、ようやく前を向いた白谷はぽつりとこぼした。
「……何なんだろ?」
疑いたいと思えば幾らでも疑えるが、さりとて全く知らないわけではない彼女がそんなことするわけないじゃないか、と彼は心の中で否定する。
北校舎の廊下を西端まで歩いた後階段へ。1階へと下りてゆく最中、彼は再び誰かの視線を感じた。足を止め、つい、と屋上まで見通せるスキマを覗き込んだ──瞬間、誰かの頭が残像のように視界から消え去った。再び、何事もなかったかのように無機質な光景が彼の視界を占める。
「誰や!」
突然大声を上げた白谷に近くにいた生徒らが何事かと驚き、まるで黄色い救急車に運ばれる人から逃げるように体をのけぞったりその場から離れたりし始める。こそこそ隠れて監視してるような見えない相手にイラついた彼は、周りの生徒らの「あいつアタマ大丈夫か?」「保管室連れて行った方がいいんじゃ?」と囁く心無い言葉になおさら心の波浪警報が鳴り響く。そしてイラつく白谷を小馬鹿にするように、上の階のその影は姿を現さなかった。
「……くそっ!」
ガンッ!と鈍く金属が震える音が階段室に響く。微妙な痛さを足裏に感じながら白谷はそそくさと階段を下りて目的の教室へと移動していった。
「簡単には使ってくれんなぁ」
「これ、先輩が警戒し始めたらなおさら使わへんようになるんちゃうか?」
「もう少し粘ってみましょうか」
「それもいいけど、オレ、階段で怒鳴られたんですけど」
「あのぉ……そこまでしなくても」
「まあでも休み時間毎回これに時間とられるのも考え物だな」
「だったら使わせるように仕向けるというのはどうでしょうか」
「そや、それがええ!効率的やしな」
「そうしましょう。このままだとオレ自身の勉強にも影響が出そうで」
「怪我せんようにしてね……」
「使わせるようにする、というと何か物投げるとかいいんじゃないでしょうか。もちろん、当たっても危なくないものですけど」
「そやな、ケガさせたらウチらがヤバいし」
「プラスチックの棒とかならどうだ」
「あのう、そもそもそんなの投げられたら誰だって、オレですら怒ると思うんですけど」
「何かみんな変な方向に話がズレてってる……」
翌週の月曜日の昼休み時間。
もうすぐ昼休みが終わろうとする頃、シャーペンの芯のストックが切れてるのを思い出した白谷は、体育館を抜けた先にある購買へと向かって北校舎西側の階段をやや駆け足で降りていた。先週から監視されてるんじゃないかと気を揉んでいた彼だったが、この時は早くシャーペンの芯買って教室戻らないと、と思いながらだったので、そのことがすっかり抜け落ちて警戒心が薄くなっていた。
それにしてもウチの高校、何で校舎棟じゃなくて体育館を抜けた先の、食堂へと通じる連絡通路に購買なんて作ったんだ。おかげで教室から時間がかかってしょうがない──彼は構造上仕方ないことに文句を言いながら1階への踊り場に差し掛かった時だった。
視界の端、自分の真後ろの方から、何かこっちに向かってくる──
「!」
それは上の階から踊り場近くにいる彼に対して投げられたものだった。どこかふわふわしたそれは視線をそこへと向けた白谷目がけてゆっくりとだがまっすぐに、物理法則に従って確実にその距離を縮めてくる。とっさに踊り場へと数段飛び降りてその物体から回避行動を取り──それはあっけなく、いかにも質量が無さそうな軽い音を立てて薄いタイルの上にポトリと落ちた。
小学生の時にものすごく流行った、サルをモチーフにしたかわいい人形だった。
「……誰だよ投げたのは!」
投げられたかわいそうなぬいぐるみを無視し、怒気を制御することを放棄した白谷は一瞬見かけた人影が柱の陰に消えたのを見て階段をダッシュで駆け上がる。2階へ上がった所で周囲を見回すが、それらしき姿は見当たらず、逆にたまたま近くまで来ていて彼の怒りの形相を間近で見てしまったために、おびえた女生徒が小さな悲鳴を上げてその場からUターンして行く。
「何やってんだ、駿」
生徒玄関の上を図書室へと向かう連絡通路の奥から、教室へと戻る途中らしき黒瀬が目を眇めて何バカやってんだと言いたげに歩を進めてきた。小脇に借りて来たばかりの本を数冊抱えて、怒りのせいか肩で息をしている幼馴染の居る場所へと近づく。
「あ、結衣!今俺にモンチッチ投げつけたやつ見なかったか?」
「モンチッチ?また懐かしいものを……。あ、いや、誰かが走ってた後姿は見たけど、誰かまでは見てなかったなぁ。そっち……1年生の1~3組の教室方向に行った気がする」
黒瀬の進行方向、白谷から見て右側へと続く廊下の途中には、トイレを挟んで1年生の教室が3つ並んでいた。その3つ並んだ教室の一番手前側は、去年の夏から秋にかけて、しょっちゅう足を運んでいた場所だった。
「1年……3組、か……」
様々な記憶が勝手に呼び起こされ、脳内のスクリーンにその光景を描き始める。
楽しいこと。うれしいこと。秘め事にしたいこと。
そして、思い出したくもないこと。
今は逆に足を運びたくない教室になってしまったその場所は、さながら来るなと言いたげに白谷に対して見えないバリアを廊下に張り巡らせているかのよう。その拒絶反応は、彼の怒りを一時的に沈めるには有効だった。
1年1組から3組までの内、白谷に関わりがある人がいるのは3組だけだった。彼が監視されたり、物を投げられたりしている状況を考えるに、3組以外のクラスは必然的にこの疑惑から外れる。
深呼吸を2、3回繰り返した後、白谷はその見えないバリアが張られてるような廊下に向かって歩き始めた。
もう終わっているはずなのだが、何故か心臓がうるさく跳ねる。恋心……ではない。多分、拒絶が原因──またあの時の、階段での会話と同じ目に遭うのではないか、警戒心よりも自分自身がまた心に傷を負わねばならないのか──間違いなく、それだろう。白谷は自分が持ち出した疑問を、自分で答えを出した。
そういえば、あの階段での時に現れた彼女のクラスメイト──伊勢、って言ってたかな?もいるんだろうか。そう思っている間に、彼の足は彼自身を1-3の教室まで進ませていた。
──怖い。何のために、ここへ来たのか。真相なんて、どうでもいいじゃないか──逃げようとするもう一人の自分が、踵を返せと囁きかける。
でも、何時までこんなことされなきゃいけないのか、という怒りも彼の中で同時に湧き出ていた。彼らが犯人なら、繰り返させないようにしないと。そして、何でそんなことしてるのか真相を聞かないと。
彼の中の天秤は、真相解明の方にわずかに傾いた。
白谷の手が、1年3組の教室の扉に手をかけた。そして、引き戸を開けた。
「ちょっと……いいかな?」
白谷は教室の喧騒に負けずに声を張り上げた。教室の出入り口に普段ならまず見かけない人影に、ざわついていた教室中の人が一瞬、水を打ったように急激に静けさへ置き換わっていった。
「2年7組の白谷と言います。さっき階段で物を投げられたんですけど、この教室の人だと思うんですが、投げたの誰です?」
突然変な事を言い放つ上級生に困惑の空気が彼らを覆う。首を傾げる者、そんなことするわけないと決めつけて無視し始める者、そもそも話を聞かずに再び友人らと話し始める者──その中で、白谷の記憶の引き出しに該当ファイルが存在している一組の集団が目に映った。その中の一人がゆらりと立ち上がり、闖入者に向かってすたすたと寄ってきた。
「先輩、何しに来たん?いきなり……」
「青葉さん。さっき俺に向かって物が投げられたんだが、心当たりあるか?」
白谷は目の前の青葉から、その向こう側にいる一人の女子生徒へと視線を向けた。一瞬彼女と目が合うが、すぐさまその視線を彼女の方から切ってきた。そして、彼女の前に一人の男子生徒が壁になるように立ち塞がり、白谷に向けて敵意を含んだ視線を投げかけてくる。
「物?いや、知らんわ……そないなことウチらせーへんよ?」
何言うてんねん、先輩とは顔見知りやさかい、そんな酷い事せーへんやろ?と青葉の言葉にまるで副音声のように別の彼女の言葉が重なって聞こえてるようだった。
「なあ、そんなことせーへんよなぬいぐるみ投げるなんて」
青葉は振り向き、赤城を含めた友人らに同意を求め、すぐさまその答えが首肯によって戻ってきた。
「先輩、そういうことや。ウチらはやっとらんで」
青葉の"完全勝利"と今にも裁判所前でカメラの前でそう書かれた紙を広げそうな勢いでにこやかに笑みをこぼす。白谷はまじめな顔で青葉を見た後、もう一度彼女らがたむろしている机に視線を向けた。
元彼女の赤城、彼女のそばでさながらボディーガードをしてるような伊勢という名の男子生徒、そしてお嬢さまのような柔らかい言葉を使う三笠がいるが、もう一人──榛名は見かけなかった。
「……わかった。悪かったな」
ひとまず笑顔を浮かべて青葉にそう言うと、白谷は1-3から離れた。彼女の口元が、微妙にひくついている残像を脳裏に焼き付けながら。
「駿、どうだった?」
「クロ。あいつらだ。しかし何でそんなことを……?」
「何で判ったの?」
「俺は投げられたのはものとしか言ってないのに、青葉さんはぬいぐるみって言いやがった。それにいつもなら一緒にいる榛名さんの姿がなかった。別の用事があったのかもしれないけど、そうでなかったらぬいぐるみ投げた実行犯かも……?」
裏切られた、というよりあいつら何がしたいんだと毒づくような表情と口調で白谷は黒瀬に言い放った。全く知らないのならまだしも、彼女だった赤城とその友人たちとは彼自身が思い返す記憶にも不利益な事をした欠片は存在していない。なのに何故……!
丁度、昼休みの終了を告げるチャイムが学校中に鳴り響いた。北校舎の廊下と、図書館から西校舎へと通じる連絡通路とが十字で交差するその場所に二人はいたが、教室に戻らなければならない。他の生徒たちが幾人もすれ違う中、白谷と黒瀬はその廊下の十字路から歩き出そうとして──女子トイレから出てきた人影が、二人の視界に映り込んだ。
特に白谷はその姿を瞳で追尾していた。歩きを止めなかったせいで、壁がその人影を隠す。しかし、ほんの1秒、いやその半分の時間でも、彼は人影を判別できた。屋外の運動部所属のせいでいい感じに日焼けしており、ショートカットの髪のせいで一見美少年に見えるほどの綺麗さの持ち主。
間違いない、榛名だ。
「……今トイレから出てきた子、さっき話してた子っぽかったような」
「やっぱりなぁ」
教室へと早歩きをしながら白谷は、さてどうしようか、と思いを巡らせ始めた。
その日の放課後。
さてどうしようか。ネタは上がってるから放課後でも問い詰めようかと思ったが、もう一押し、出来るなら現行犯で押さえたい。白谷はそう考えると、ふと疑問に思ったことが浮かんだ。
「そういや結衣、そっちの方は見られてるとか物投げられたりとかは無かったか?」
白谷が椅子の背板を抱えるような格好で後席の黒瀬へ話しかける。彼女は一瞬考え込む格好をしたが、それはすぐ解除された。
「ない……ね」
「そっか……結衣、お願いがあるんだけど」
「いいけど?」
何か企む薄笑いにも似た表情を浮かべる白谷。それに対し、黒瀬は無表情ともいえる情緒の起伏がない顔つきで幼馴染の次に発する言葉を待っているように見えた。
まだ周囲に残っているクラスメイトがいる中、白谷は黒瀬に顔を近づけるように指示する。朝の起き抜けの時と同じように、彼女の眼鏡が顔にくっつきそうになるくらいの、至近距離。彼はそう指示したにも係わらず何故か心臓の鼓動が速くなっているように感じたが、それを抑えて、二言三言、彼女に告げた。
「──まあ、いいけど……やるんなら事前に言ってね」
「わーった」




