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心の中のFollow wind

登場人物



黒瀬結衣:女子高生(2年生) 白谷駿とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 魔法使い(術者)だが現在はその魔法のリハビリ中 成績は優秀 眼鏡を掛けている 4月8日生まれ



白谷駿:男子高生(2年生) 黒瀬結衣とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 実は存在自体がレアな男子の魔法使い 成績は下あたりから最近は普通くらいに 3月25日生まれ



遠野春香:女子高生(2年生) 隣のクラスの女子だがヤンデレ気味 あることを画策し、一旦は敵対した白谷に接近する 成績は優秀 11月30日生まれ



梅田秋生:男子高生(2年生) 隣のクラスの男子 遠野が好きだが、彼女からはまだ返事をもらえてない 軽めの性格 成績は普通より下あたり 12月23日生まれ

「あなたを幼馴染から救い出してあげる……!」

 遠野春香(とおの はるか)の、狩人のような、冷徹な意思の裏側に抑えようもない感情の昂ぶりという名の、狂気じみた何かを感じる鋭い視線に射抜かれた白谷駿(しろたに しゅん)は思わず体がフリーズしたように制限がかかってしまった。彼は視線まで固定されたように、彼女の視線から目を外せない。嫌がっても、彼女との瞳の間隔は急速にその距離を縮められている。

「……おい、やめろって……!」

 遠野の瞳が眇められ、彼女の方からその整った美少女の顔が迫ってくる。思わず白谷は、恐怖心も絡めたような悲鳴が混じった拒絶の言葉を投げつけた──が、彼女には全くと言っていいほど効いてはいなかった。むしろその言葉を吸収し、むさぼるように、そしてあざ笑うように。彼女の吐息のネットが、ミントの爽やかな香りを伴って彼の顔にはっきりとその網の目を広げていた。

「私のモノになっちゃえ……!」

 耳元でささやかれた彼女の小声は、白谷にこそばゆい不快な電気を走らせた。その波が引いたと思いきや、彼は彼女からの"思い"の熱さを直接その肌で受け止められる距離にまで近づいていた──。

「やめろ……っ!」

 力を振り絞り、彼女を押しのけるように突き出した。両手がキャミソール越しの彼女の胸のふくらみを押したが、彼女から逃げることを考えている白谷にはその感触を楽しむ余裕など1ミクロンも存在してなかった。押された遠野は、白谷の隣にあおむけに着地した。多少の痛みを伴ったか、軽いうめき声と胸をさする動きが見れたものの、すぐ意に介さずに彼女の瞳は再び狩人のように獲物を見定める。避けられたキスに怒りを表すのではなく、むしろ、手こずってくれた方が、嫌がるのを無理やり仕留める方が、狩り甲斐がある──と言いたげに、あの笑みを、口元の歪みを浮かべる。

「ふふっ……」

 白谷の背中にまたあの不快な電気が駆け抜ける。まだ数か月前の、学校での大立ち回りの方が判りやすい感情をお互いに全力で押し立ててただけマシな気がしてきた。

 そんなに動いてないはずなのに、彼の息は上がろうとしていた。体力的な疲れよりも、精神的な疲れがそうさせているのか。コートを着ているせいか、部屋を暖めている暖房のせいか、それとも別のせいか──背中にジワリと汗がにじむような感触が届く。

「遠野……いい加減にしてくれ。俺は今日勉強のために来たんであって、お前とこんな所でシケこむためじゃない……っ!」

「教えてあげるわよ、私を弄んでくれたら」

「だったら帰る」

「帰らせない。あなたは私の心のスキマを埋めないといけないの」

「その役目は俺じゃない」

「白谷くんだけなのよ!」

 ネコ科のようなしなやかで、たおやかで、それでいて獰猛に彼女は彼に飛び掛かった。白谷は逃げようとして──立ったままなら逃げられたかもしれない──ベッドの上では動きを制限されたためか、正面から彼女のカラダを受け止める格好になってしまった。勢いで再び二人は絡みついて倒れ込む。

 遠野は上半身を起こした。やや長めの髪がだらりと下がり、照明を背景にしたそれは彼女の形相もあって般若のよう。キャミソール越しには、彼女の"女性"を雄弁に語るかのような二つの隆起が露わに見えていた。彼女の両の手は、白谷の両肩を彼女自身の体重と地球の重力の助けを借りて容易に動かせないようにがっちりと抑え込み、彼を見つめる2つの瞳はさらに狩りの楽しさを追求しようと再び力がみなぎっているようだった。

 そして彼女は逆光の中、わずかに口元を動かした。舌なめずりをして、ベッドに抑え込んだ彼の名前を囁くように、こそばゆく。

「捕まえた……"駿"くん……」

 ──その瞬間、彼は見た。目の前の遠野の存在を上書きするような、()()を。

 ヴィジョンと言えばそうかもしれない。実感を持った確かな存在とはまた違う、何かを、彼は確かに見た。

『そうだ、違うんだ』

 強烈な違和感が、白谷の意識を覆う。そしてそれは力となり、彼の体を無意識に制御下に置き──押さえつけていた彼女を急激にはねつけた。

「きやっ!」

 突然吹き飛ばされた遠野の体は幅広いベッドから落下せず、ギリギリ端の方に着地した。ぱふん、と軟らかいベッドの上で彼女はトランポリンのように跳ね上がり、やがて止まった。突然飛ばされて多少は痛がったものの、しかしそれにもめげずに遠野はすぐに気を持ち直して白谷の方を向いて──今度は笑みは浮かばなかった。彼女の顔が凍り付いたように固まる。

 彼女の目に見えたのは、彼の怒りの表情だけではなかった。その周囲にそれを具現化したかのような揺らぎが、錯覚のように見えた。

「……"駿"くん……?」

「……お前がそれを言う資格なんて、ない……」

 白谷の言葉自体は静かだったが、その地下には得体の知れない何かが流れ、遠野の感情を抑え込もうとしていた。

 気圧されてるのは彼女自身、判っていた。しかし彼女は別の感情を励起させたようで、それがどうしたと言わんばかりに再び口元に強気な歪みを見せる。

「……何よ、名前くらい言ってもいいじゃない」

「名前を言っていいのは、お前じゃない」

「……じゃああの1年の女の子ならいいっていうの?それとも幼馴染?」

 強がりを見せ、せせら笑いの微粒子を混ぜたような言葉を投擲する彼女。嘲笑の歪みを浮かべている口元とは違い、遠野の目にはいくらかの怒りが混じるようになった。

 ベッドの上で交錯する、視線を介しての白谷と遠野の感情の高ぶり。壁の向こう側かどこからかくぐもって聞こえてくる男女の嬌声がかすかに二人に届く中、互いの呼吸音がしばらくこの部屋に満ちていた。

「答えなさいよ!」

「……帰る」

 彼女の叫びを無視し、白谷はベッド傍のテーブルから自分のカバンを手早く持ち上げると、足早にその場から去ろうとした。しかしその行き先を、遠野がそのしなやかさで先回りし、ドアの前に立ちはだかる。

 嘲笑が彼女の顔から消え失せ、純粋な怒りだけに取って代わられていた。

「帰さない。誰があんな泥棒猫なんぞに……っ!」

「どいてくれ。もう済んだことだろうが」

「何言ってんの……まだ私の中では終わってないっ!」

「もう結衣は緑川とは終わってるんだ。遠野、もうお前の好きなようにアプローチすればいいだろうに」

「そういう問題じゃない……っ!私の中ではまだ何にも終わってない!」

「じゃあどうすれば終わるって言うんだよ!」

「私を抱け!私のモノになれ!私を弄べ!」

「断る!大体おかしいぞそんなこと言うなんて……!」

 学校での大立ち回り以来の、何かに魅入られた、操られてるかのような遠野の瞳。薄暗い照明と相まって、何か得体の知れない深淵を覗かされてるように白谷には見えたが、同時に微妙な違いがちらほらと彼の意識を刺激していた。それが何なのか、彼には理解が及んでいなかった。

 彼女の口元が、何かを囁くようにかすかに動くのが見えた。呼吸の音よりも消え入りそうな声はやがて、少しづつ彼女の意思を乗せて白谷の耳に届き始めた。

「……ってやる。奪ってやる……」

「遠野……?」

「今度は、私が……奴の大事なお前を奪ってやる。同じ目に遭わせてやる……っ!」

「なんなんだそれ……」

 彼女のむき出しの感情、それは例えるなら回避できそうもない目の前という至近距離に、今スグにでも刺突しそうなほどの殺気を持った見えない刃そのものにも似ている。その上、彼女の復讐のためにダシに使われてることにいい加減にしてくれ、と彼は叫びそうな衝動にかられる。今すぐこの場から逃げ出したい気持ちはとうの昔にピークに達し、グラフの天井にずっと貼りついているかのようだった。とにかくこの場から逃げないと。油断させて隙を突く以外には方法が無いように、白谷は思った。

 ──彼の口から、諦めとも呆れともつかないため息。閉じて再び今度は足元の虚無を見つめるような目線を投げている白谷が、ぽつり、と言葉をこぼした。

「……わかった。お前を抱けばいいんだな……」

 我ながら下手な演技だが、遠野は油断してくれるだろうか──白谷はそう思いながら、より注意深く彼女の動きを見る。彼の言葉に剝き身の感情の波が落ち着いた遠野は、時間の経過とともに肩で息をしている回数が少しづつ減って行った。

「そうだ」

「結衣を捨てろ、ってことか」

「……そうだ」

 明確な口調だが、その波長の何処かに躊躇いがちの何かが潜んでいるような、彼女の答え。

 遠野はいくらか動いて体がほてっているのか、白谷の問いを返しつつ、キャミソールを脱いでゆく。要らなくなったように、それを足元へと落とした。夕暮れのような薄明かりの下、胸と腰にしか隠すものがないほぼハダカの状態で彼女は睨みつけるような険しさで白谷を見つめていた。彼女の両手は、胸や腰を隠そうともしない。まるで大好きな人に自らの姿をさらすかのように、だらりと重力に身を任せている。そして表情は、毅然としたものだったが、明かりの色温度のせいか、それとも──微妙に朱がさしているかのように、彼からは見えた。

「仕方ない……か」

 白谷は観念したように、呟いた。足元に鞄を置き、足元のバスケットシューズと帽子を脱ぎ、ダッフルコートのボタンを外し始める。ただし、ゆっくりと。

「早くしろ。時間が……ないだろ」

 口調は落ち着いているようだが、どことなく感情のさざ波が感じられる遠野の言葉。彼女からそう言われた白谷だが、聞き流すようにしてコートのボタンを外してゆく。

「……すまん。こういう所でするっていうの初めてだから緊張して……」

 半分当たってはいるが、残りはわざとだ。上目遣いでちらっと彼女を見た白谷は、毅然とした表情の内側で、さざ波からもっと大きなものへと感情の起伏が変わってゆくように、見えた。だらりと下がっていた彼女の手は、説教をする教師が苛立つような腰に当てたポーズに切り替わっている。

「もういい」

 我慢しきれなくなったのか、そう言うと遠野は数歩分離れている白谷との間を詰めて、体温が感じられるくらいの間近に来た。彼を少し見上げるように、遠野の整った顔がすぐそこにある。

 しかし、彼は彼女の顔を見ても、何も感じなかった。ただ、そこから出たい。それだけを考えて。

 そして、一瞬見えたヴィジョンのために。

 瞼の向こう側へと、遠野の瞳が閉じられる。両手を彼の首に回した彼女の顔が近づいて、再びミントの香りが白谷の鼻腔をくすぐる。唇は、キスの準備をし終わっていた。

 白谷はわざとそれを見逃すと彼女の腰に手を回して、ぐっと抱き寄せる。遠野のくぐもった声が彼の肌を伝って耳に届く。

 そのまま持ち上げるように彼女を吊り上げ、ベッドに押し倒した。ぱふん!と跳ねたベッドの上で、二人の体がシンクロする。彼女のカラダの柔らかさは、コート越しですら艶めかしく、白谷には感じられた。

「して……いいのよ」

 とろんとした彼女の瞳は、薄暗い部屋の明かりも手伝って今までの誰以上──たとえ幼馴染や、あの時の彼女だった赤城も含めて──より、惹きこまれそうだった。それこそ、別の事を考えてなければ、そのまま彼女に溶け込んでゆきそうになるほどに。

 さっきまでの、脅すような言葉を発した同じ人とは思えないくらいに、遠野は"女性"だった。

 彼女が再び潤んだ瞳を閉じる。そしてキスをしようと上半身を起こして顔を近づけて行き──

 白谷は、動いた。

 とっさにベッドから飛びずさると掛布団を力任せに持ち上げて彼女をロールキャベツの具のように、布団で丸め込む。突然の事で何が起きたか理解できない遠野は声にならない悲鳴を上げ、四肢を力の限りじたばたさせた。が、布団に丸められていてはその威力も半減以下になってしまう。そのまま白谷はさりげなくごめん、と呟くとベッドから布団を彼女ごと床に落とした。布団の中からくぐもった彼女の悲鳴が軟らかく部屋中に響いた。

「今のうちに……っ!」

 ベッドの右斜め向こう側にあるドアに向かって白谷はダッシュをかける。鞄や靴がぽつねんと置いてあるベッド脇にたどり着くとバスケットシューズをつっかけ、鞄と帽子を持って再ダッシュをかけた。部屋のドアにとりつき、サムターンの鍵を開ける。

 布団に丸められた遠野はしばらく動けないでいたが、何とか突破口を見出して布団をはねのけるとそうはさせじと彼に負けない速さで体を起こし、外に出ようとする白谷を捕まえるべく駆け出して手を伸ばした。

 捕まえてやる──お前は復讐のための鍵だ。そして、()()()()()()()()()()()()()()、とばかりに。

 それはほんのわずかの時間差だった。鍵を開放し、外開きのドアを開け放った白谷は止めようと襲い掛かってくる遠野の手を寸で交わし、廊下側へと身を乗り出した。

 その時、はらりと彼の手から何かがこぼれた。彼はそれを知らない。

 彼女の、彼を止めおこうとする願いは、数秒の時間差によって強制停止させられた。目の前のドアが力任せに閉められて、彼を捕まえるはずだった手は、分厚い防音を兼ねたクッション材入りのドアに阻まれる。彼女は即座にドアノブに手を伸ばして開けようとした──しかし、外向きのドアはピクリとも動かなかった。

「開けろ!白谷!開けろ!」

 ドアを力の限り叩き、彼女は彼の名前を部屋中に満たすかのような大声で叫ぶ。ドアノブを錯乱してるかのような執拗さで回すも、鍵は解除してあるはずなのに、ドアは彼女の意に反して1mmたりとも開くのを拒否してるかのように動かなかった。

「開けろ!開けろってばぁ……!開けてよ……!」

 なお執拗にドアノブを回し、思いついたようにドアに突進し、彼に少しでも近づこうとするも、ドアは頑として彼女の願いを物理的に却下し続けた。

「開けて……駿くん、開けてよぉ……!」

 声に怒りがこもらなくなり、叩く力は衰え、足は次第に力が抜けて上半身を支えられなくなった。遠野は開かないドアに寄り掛かるように足元から崩れてしゃがみ込む。息が荒く弾み、一人になってしまった部屋に、かすかに響き渡る。

 じわじわと彼女の心をむしばんでゆく、惨めさという名の麻酔。何も出来ずに、何も反撃できずに捨てられるように置き去られ、一人にされてしまった──そう思った瞬間、目の前の景色が歪み始めた。

 顔が熱い。怒りで熱いのではなく、空しくて、自分が馬鹿らしくて、情けなくて。

 そして、悲しくて。

 素足に、何処からかぽたりと激情の液体が零れ落ちる。ほのかに暖かいそれは、やがて冷たさを連れてきた。

「……何やってんだろう、私」

 誰にも聞かれない彼女の言葉は、簡単に過去へと流れて消えた。消えた言葉には、誰も答えを返してはくれなかった。

 ドアの方からいくらかの流れを感じたのはその時だった。しかし彼女は呆然として薄暗い部屋の中を、ぼんやりと見つめているだけしかできなかった。

「開けてよ……駿くん。そこにいるんでしょ……話聞いてよぉ」

 ドアが開かないのは彼が押さえ込んでいるから、そう思った彼女はノブを支えにして体を起こし、おそるおそる回した。

 さっきまでの壁のように動かなかったドアが、何の苦も無くあっけなく開いた。余りのあっけなさに、遠野は一瞬ビクッ、と体に驚きの電流が走る。どうしてそうなったかは、彼女には判ろうはずもなかった。

 薄暗い部屋に、廊下の別の明かりが差し込んでくる。

「駿……くん?」

 そこにいるはずの、さっきまで感情をぶつけた相手は初めから誰もいなかったかのように、それこそ煙のように消え失せていた。ドアから身を乗り出して、彼女はもう一度廊下を見た。

 結果は同じだった。

 彼女は、再びその場にしゃがみこんだ。深いため息と、瞳からあふれ出た諸々の感情の液体と共に。

 彼女は、視界の隅で部屋の床に何かを見つけ、視線をそこへと向けた。

 歪んだ視界の中で、彼の"かけら"が一つ残されていた。白地に赤と紺の色を配した、牛がモチーフの在阪球団の野球帽が、そこに残されていた。

 遠野は立ち上がって部屋に入り、その彼の"かけら"を拾い上げた。

 しばらく見つめた後、彼女はそれを叩きつけようと腕を振り上げて──力なくその手を重力に任せた。再びしゃがみ込む。遠野は帽子をいとおしむように両の手で包み込んだ刹那、再び視界が流れるように濡れた。

 我慢していた感情が爆発した。

 遠野は、声を上げて、泣いた。


「駿!」

 ラブホから抜け出し、追いつかれないように走ってベルに飛び込んできた白谷は、背後から思いもよらずに掛けられた声に振り向いた。その声に確認の必要はなかったが、どうしてその声の持ち主がベル(こんなところ)にいるのか、理解が追い付かずに彼の頭は現実か幻聴かで一瞬混乱を来した。

「結衣!?」

 視線の先に幼馴染──黒瀬結衣(くろせ ゆい)の姿を認めると、買い物客でごった返す店内であることを忘れて白谷は隣接する区画にまで聞こえそうなほどの素っ頓狂な大声で名前を叫んだ。その声に周囲のお客たちが何事かと二人を交互に眺め、狭間にいた人らは巻き込まれないようにと思ったか、足早に逃げ出してゆく。

 白谷の表情には疑問符が相変わらず浮かんではいたが、視界に映る幼馴染に安心感が出てきたのか、緊張感が幾らか緩解した軟らかい顔つきになる。そして彼は駆け寄った。

 黒瀬の方はというと、これだけ探し回って見つからなかったらどうしようと焦りと心配事と苦しみとが混じった中に、見つけた喜びと、名前を呼んでくれたいうスパイスをほんのわずかに絡めた顔で彼を出迎えた。

「心配した……何処行ってたのよ!?」

「何処行ってたの……ってまさか来てるなんて思わねーよ。しかし結衣、何でベルに……?」

 絶交してたことも忘れて白谷は何事も無かったように彼女に訊く。つられてありのままの事を言おうとして黒瀬は一瞬、迷って、押し黙った。レンズ越しの瞳が虚空を泳ぎ、何処からか上手い言葉を探すような時間が過ぎた後、覚悟を決めたかのような軽いため息を一つ、ついた。

「家出るところ見て、心配になって追いかけてきた。またあの女と会うんじゃないかと思うと居ても立っても……」

「家出るところ見た……ってベランダから?」

「たまたま外見てる時に。年末のケンカ(ああいうこと)あったからもしかして、って思って」

「……気が付かなかった」

「駅前で見つけて電車に乗ろうとしたけど、その時に遠野が来て『思い出作る』って言われて……そのあと、隣のクラスの梅田くんと一緒にここへ探しに来た」

「はあ?梅田も?何であいつが……」

 2学期終業式間近にその梅田秋生(うめだ あきお)とトラブルになった記憶が白谷の脳裏を横切る。これも遠野絡み。彼の表情が一気に渋化していった。

「駅前で偶然会って……でも色々と手伝ってくれて。今ベルの中で駿を探すの手伝ってもらってるけど……」

 黒瀬は周囲を見回して一緒に探してるはずの梅田の姿を探す。つられて白谷も周りを見回して──いた。周囲からも浮いてるように見えるほどの、大正時代の学生がタイムスリップしてきたようなインバネスコートを着た梅田が。

 白谷の表情は幾分固いままだったが、幼馴染に協力してくれたこともあってか、一触即発だったあの時程の険しさはなかった。それを確認したのか、梅田の方も微妙に表情を硬くしつつ二人の方へと歩み出してきた。

「あけましておめでとう、シロタニくん」

 多少のわざとらしさを含めつつ梅田は二人のエリアへと入ってきた。口元の歪みは幾分ぎこちないが、悪意はなさそうに、白谷には見えた。

「おめでとう。今年もよろしく……」

 どちらかというと事務的な口調で白谷は彼に挨拶を返す。この前の事もあり、親しい口調で話す義理もない。梅田に悪意がなさそうとは言えども、白谷は念のための警戒感を隠すことはしなかった。

「梅田くん、ありがとう。見つかった」

「それはよかった」

 黒瀬の言葉に簡潔に対応した梅田は、その後に白谷の方を向く。

「ところで白谷、遠野さんは?」

 そう言われた白谷は一瞬返答を躊躇った。そういうことを言っていいのか、瞬時には決めかねた。視線を外してしばらく考えた後、そのままの姿勢で、

「……多分、ベルの裏辺りにいる、と思う……」

 頼むからもうラブホから出ていてくれ、と白谷は願いながら梅田に言う。遠野単独でもラブホから出た所を見られたなんてことになれば、再び梅田と干戈を交えることにもなりかねない。

 言われた方は、何かあったと感づいたのか、表情を変えずに次の問いを投げかけた。

「一緒にデートじゃなかったのか?」

「……いや、俺が無理言って別れた」

 違うな──梅田は直感でそう感じた。そうなる何か、があった。が、それはおくびにも見せず梅田は、表向きの笑みを貼り付け

「……わかった。それじゃ裏の方探してくるわ。それじゃ黒瀬さん、白谷くん、三学期学校で会いましょう」

「梅田、ありがと……」

「梅田くん、ありがとう。一緒に探してくれて」

 二人からそれを聞いた梅田は、彼は軽く片手を上げてその場を離れてゆく。やがて混雑の中でも見分けられるほどの彼の姿は店内の混雑に紛れて見えなくなった。

 白谷は梅田のために張り付けた緊張感を、彼が雑踏に紛れて見えなくなったのを見計らって、深めのため息とともにそれらを解除した。それだけでも疲労感がさらに蓄積した感があった。

 白谷は幼馴染の気配を感じて目を向けると、そこにはレンズ越しに目を眇めて何か言いたそうにしている彼女の姿が映った。怒るのではなく、かといって幼馴染に全面的な信を置いているわけでもない。

「……で、ホントは何処行ったの?」

「まあそれはまた改めて……」

 話そう、と言おうとしたその瞬間、周囲の喧騒にもかかわらず白谷のお腹が空腹の反旗を翻した音が、二人の耳に届く。思わぬ生理現象に黒瀬はおろか、反乱された本人も恥ずかしさがこみあげてきた。いくら相手が幼馴染とはいえ、ふいに顔の温度が上昇するのを彼は感じた。

「駿、お昼食べてないの?」

「いや、それもそうだが、さっき……使った」

 彼は、コートから見える胸元の水晶に手をやった。


「ふーん、いけないんだぁ。高校生がラブホ入るなんて」

「だからそれは入らされたんだって……!」

 わざとらしくからかうような黒瀬の声に、白谷がかみついた。ついこの前までケンカして絶交だと言ってた二人が、テーブルにドーナツや飲み物を並べて会話を楽しんでいる。

 ラブホという言葉に周囲のテーブルが反応したらしく、ちらっ、と二人を覗き見る客が何人か、黒瀬の視界に入っていた。それを気にせず、彼女はかじりかけのフレンチクルーラーを口に運び、げっ歯類のような食べ方でドーナツを刻んでゆく。黒瀬の言葉を一部否定した白谷は、多少むっとした表情を浮かべつつアメリカンコーヒーを喉へと流し込んだ。

 お昼は過ぎているはずがやはり正月三が日なせいか、飲食店は軒並み昼間の行列を解消しきれずに待機列が幾らか残っていた。ラブホを脱出する際に魔法を使ったせいで、白谷の空腹は列に並んで待つという選択を良しとせず、とにかく少しでも空いてるところを探した結果──本来ならここで遠野と勉強するはずだったミスドに腰を落ち着けることになった。

「……で、遠野と、その……した、の?」

 からかいの表情はそのままに、言葉の内容とも相まって黒瀬の頬が赤くなってるように、白谷からは見えた。彼はそれを見ないふりして、

「いや……」安心しろ、と言いたげに笑みを浮かべて白谷は彼女の心配事を否定した「……好きでもない相手とはできない。ましてや、ああいうことがあったんだから」

 それを聞いた黒瀬は、明白に緊張感から解き放たれ、目元にも軟らかさが戻ってきていた。口元にも笑みが戻ってきた──しかし、再びそこにも緊張感が戻ってきた。

「でも、遠野についてったでしょ?」

「勉強教えてあげると言われたから。ほら、年末ケンカしたじゃないか。だから教えてほしい所があっても訊きづらいというか……そこへ電話がかかってきて、教えてあげるから来てって言われて」

「それでついてっちゃうの、ってちょっと軽率じゃない?」

「じゃあ教えてって言われたらそん時教えてくれたか?」

「あー……」

 ジト目で黒瀬を見つめる白谷。レンズの向こうの彼女の瞳は、明らかに変な事言ったと後悔しているように、彼から視線を外そうと揺れていた。

 多分、それを火種にしてまたケンカが始まってた可能性が高い。今回ばかりは白谷の言うことに分がありそうで、黒瀬自身、不利な状況を認めた。

「まあそうだろうよ。結衣だし」

「なによそれ」

「今までもそうだったろ?むしろ今すぐ話せるようになった今回は早くないか?」

 思い当たるフシを彼女は頭の中で検索しているように、天井を見上げるような角度で考え込んだ。その間10秒ほど。そしてそのままの姿勢で、

「……そうだねぇ」黒瀬はそう言うと、自然に視線を白谷へと戻した「確かに早いわ」

 黒瀬は他人事のように呟くと、わずかに残ったドーナツを口に放り込む。

 ちょっとゴメンと白谷はそう言って、カウンターへと皿を持ってゆく。よほど腹が減ってたのか、最初に注文していた5つのドーナツがあっという間に消え、更に今追加でいくつか注文するようだった。

 黒瀬はふと外を見た。ずらりと並んでいる駐車中の買い物客たちの車の周囲を、場所を求めて難民化した車たちが所在なさげにうろついている。冬の北陸特有の、今にも落ちてきそうな低い鉛色の空からは、雪ではなく細長い針金のように冷たそうな雨が降り始めていた。濡れて漆黒と化したアスファルトの所々に、池のように水溜りが象り、降り注ぐ雨に反応して円形の動画を誰にも見せることなく、飽きることなく繰り広げている。時折通り過ぎる、幸せそうな家族の姿を彼女は何気なしに追いかけ、視界から外れると再び元の位置へと視点を戻した。

 白谷が3つほど追加を乗せて席に戻ってきた。座りながら、彼は思い出したように幼馴染に語り掛けた。

「そういやさ……遠野が俺を連れ込んだのって、結衣に復讐するためって言ってた」

「……復讐?」剣呑な言葉に彼女は思わず言葉を復唱した「……何で今頃。それに何で自分……?」

「直接そうは言ってなかったけど、俺を結衣から奪えば、お前が悔しがると思ったそうだ」

「……何で?」

「何で、って……彼女だと思われてるからだろ?」

 そういわれた黒瀬は、"鳩が豆鉄砲を食らったような顔"という事象の典型例として教科書に載せたくなるくらいの、まさにそのものの表情を浮かべてフリーズした。レンズの向こう側に見える瞳だけは、機械仕掛けのように定期的にぱちくりとしているだけだが、それが白谷にとっては余計に彼女が機能停止した感じを強く持った。

「結衣、どうしたん?」

「……あ、いや、別に……」

 これも典型的な照れ笑いで誤魔化す黒瀬。目を眇め、ホントかよとでも言いたそうに疑惑の目を向けた白谷はまあいいか、と独り言をついこぼすと、追加のドーナツにかぶりつく。

 ドーナツに視線を向いている幼馴染の視界外で黒瀬は、安堵のため息をついた。話がややこしくなりそうだったし、こんな所で痴話喧嘩始めたらそれこそ年末の家の前以上に注目を集める結果になりかねない。

 しかし──黒瀬は、残り少なくなったコーヒーカップをいとおしそうに両手で抱えながら、さっきの白谷の言葉を思い浮かべた。

 "復讐"かぁ……小さかった頃はケンカして負かせた相手の捨て台詞の定番として『覚えてろよ!』というのはあった。それと比べたら実行力がついてきている分、言葉の上でも物騒だな、と黒瀬は何処となく他人事のように思った。今回は遠野が直接黒瀬に手を出してこなかったこともあるが、同時に、もうこれで諦めてくれれば平穏な三学期が迎えられるのにと、それまでの事をセピア色のフィルターに染めながら思い返していた。

 正直、もうそんなことに関わってられる暇はない、と黒瀬はそう思った。下がった成績を取り戻さないといけないし、まだ完全ではない魔法を以前のように使える状態にしないといけないし、考えてみると短い期間ながらやることが多い。そして来年は3年生、世に言う"受験生"になる。将来の事も考え始めないと──黒瀬は残り一つとなったドーナツに無言でがっついてる幼馴染が視界に入った。当事者なのにどこか無邪気だな、そう思うと何処かしら可笑しさがこみあげて来た。

 ふと笑みをこぼした幼馴染の口元を見て、白谷は何事?と思ったのかドーナツをくわえたまま視線が彼女にくぎ付けになる。

「……何?」

 上目遣いの彼が訊く。

「……何でもない」

 彼女がそう言うと、納得したのか、彼は再び意識を口元に集中した。

 追加のドーナツを食べつくした白谷は、魔法で消費したカロリーを補充出来てその表情は満足げ以外のものはなかった。

「お腹一杯になった?」

「……正直、もうちょっと食べたいけどお金続くかなぁ」

「どうせ福鉄で福井駅行くんだから、そこで駅そば食べたら?」

「そーすっか」

「そういや駿、あんた帽子は?」

 会話で伸びていた彼の容姿に対する違和感を、黒瀬は口にした。言われた白谷は既に判っていたらしく、ちらっと上目遣いになって、そして困った表情を浮かべた。

「ああ……ベル来る途中で気付いた。多分、ラブホの中だと思うからもう無理だ……もったいないけど」

 ──初めて見に行ったプロ野球で買ったその帽子は、特別なファンではないにもかかわらず、何故かずっと外へ出るときなどは被っていたものだった。宝物ではなかったが、大事なものには違いなかった。

 場所が場所なだけにもう取りには行けない。彼の中では諦めるしかなかった。

 二人の間の会話が途切れ、店内の喧騒とBGMの60年代アメリカンポップスがその隙間を埋める。

 やがて、白谷は上目遣いで向かい合う幼馴染を見つめた。一瞬、何か言いかけてそれを止めたように開きかけた唇が噤まれる。しかし、意を決したかのように、彼は言葉を紡いだ。

「……結衣、そういや梅田と駅前で会ってここまで来たんだよな」

「そう。向こうが自分の顔知ってたみたいで話しかけてきた」

「何……話してたんだ?」

 白谷の顔が、好奇心と猜疑心が微妙に混ざった表情を浮かべた。まっすぐな目で彼女の顔を見つめる白谷に、黒瀬は一瞬、身構えるように視線を投げ返す。そして彼女はそこから視線を外そうとはしなかった。

「色々なこと。どうして遠野に魅かれたとか、恋に理由が要るのかとか……振られたばかりなのに別の人好きになってもいいかなんてことも訊いた」

 黒瀬の言葉の途中で、白谷は無意識に視線を動かした。『別の人』という所で、彼の心臓がわずかに早まる。

「変だよねぇ。もう恋はしない、って決めたにもかかわらずこういう気持ちになってるっていうのも」

「なあ、結衣……」

「何?」

 ──怖い。そんな考えが一瞬だが、白谷の脳裏をよぎった。彼女からの視線をそらす。まるで考えを読み取れなくするかのように。

 もし、『別の人』が俺じゃなかったら──不安が、悲観的な未来を描き始めようとしている。

「……どうした?」

 視線をそらした白谷に、黒瀬は不思議そうな顔で訊く。彼はしばらく彼の内側でせめぎ合っているかのように逡巡した後、口を開いて訊いた。

「『別の人』、ってそんなに気になるもんか……?」

 黒瀬の表情はそのままから変わらなかったが、そこから微速度撮影のように穏やかに、しかし確実に微笑みを形作り、浮かべていった。そんな心配はするな──言葉ではない、が、そう言っているように、白谷には見えた。

 不安が描く悲観的な未来は、何処か霞んでゆくよう。

「なんか言ってくれよ」

 苦笑いを浮かべて白谷は彼女の返答を促す。促された方は、さあ、当ててごらんとでも言いたそうにいたずらっ子っぽい無邪気さを表した。残っていたコーヒーを喉へと押しやり、白谷の目をまっすぐ見つめる。

「気になるよ、自分は。『別の人』が他の女子と一緒にいるのを見るのは」

 一旦言葉を区切った黒瀬は、さっきよりも殊更に感情と想いと、眼鏡の向こう側から投げかけた視線を乗せて、たった一言。

「──嫌」

 黒瀬はその一言に、感情という名のルビを付与してるかのようだった。


 ──惨め、という言葉を具現化するなら、今がそれかも知れない。降り注ぐ氷雨に打たれながら、遠野は自虐的に口元を引きつらせてそう思った。そして、これは他人を弄ぼうとした私への罰なのかもしれない、とも。

 何も出来ずに荷物をまとめた遠野はラブホを出ると、さっき来た道を戻らずに国鉄越前花堂駅へと歩き始めた。地面に落下してくるような低い鉛色の空から、雪ではなく氷点下に届きそうな凍結寸前の雨が降りそぼる中、傘の持ち合わせもなく、ただ歩くしかなかった彼女にとっては濡れてゆくしか帰る術はなかった。

 彼は復讐のための餌だったはずだった。しかし、あそこに取り残された帽子を見た遠野は、いつの間にか主従が逆転していることに、その時気付いた。

 敵だと思っていた白谷に、わずかでも好意を持ってしまった。そうでなかったら、あの帽子に怒りをぶつけていたはずだった。だが現実は、彼の欠片を抱きしめるようにして、泣いた。

 ──何時からそうなったんだろう。しかし、明確な答えは出るはずもなかった。初めから答えなぞなかったのかもしれないから。

 もう何処かへと姿を消した白谷を追う気力も、怒りも、彼女には残っていなかった。多分ベルに戻ってるんじゃないか、とは思ったが、その気を起こす怒りの力は失われ、ただラブホに一人捨てられ、置いてかれた惨めな彼女本人という名の抜け殻が、今の遠野の正体だった。

 降り続く雨は彼女の髪を濡らし、そこからあふれた水滴は、まるで涙のように顔を伝う。

 ベルの横を通り、交差点に差し掛かった時だった。

 彼女に降り注ぐ雨が、突然、止んだ。

「……?」

 いつの間にか、遠野の隣に大正時代の学生のようなコスチュームを身にまとい、彼女の頭上に傘をさしている男子高校生が、いた。遠野にはその顔は見覚えがあった。

「……梅田くん」

「風邪ひくぞ。傘持ってなかったのか?」

「……いいよ、もう。帰るから……」

 今更傘があっても、濡れたコートはすぐには乾かない。ましてや、氷雨が降るような時期なら。

「江端駅?それとも越前花堂?」

「……一人で帰れる。別に、いい」

「家まで送るわ」

「別にいいって」

「"勝手にすれば"って前に言ってただろ? だから勝手にしてる」

「……勝手にしろ」

 しかし彼女の態度とは裏腹にその言葉には、毒はなかった。彼の視界の端に、彼女の本当の笑みが、ご褒美とばかりに浮かんだ。

 買い物客で賑わっているベルを横目に、交差点を北へ──福井方向へと歩いてゆく二人。"旧国道"という二つ名が付いたとはいえ、主要幹線には違いない上下4車線の県道は、買い物を終えた家族連れの車が途切れることなく二人の横を通過して行く。雨は幾分その勢いは減じてるかのようだったが、それでも、遠野の心象を写すように、空から"涙"が降り続いていた。

「……ねえ」しばしの無言の後、彼女は探るように、静かに問いかけた「梅田くんって振られたこと……ある?」

「むしろ上手く行く方なんてないくらい、だけど」

「自分を嫌にならないの?」

「そんな時もあるけどね」

 遠野はちらりと梅田を見た。そこには、彼の柔らかな笑みが待ち伏せをしていた。

 彼女は、何故だかそこから目を離せなかった。まるで、罠にはまった動物のように。

「でもさあ、嫌いになったところでどうしようもないだろ?だったら上手く行くようにやってくしかないんじゃない?」

 上手く言えないな、と苦笑いのスパイスが混ざった梅田の表情に、遠野は一瞬笑みを浮かべ、そして──すぐ崩れた。

 彼女が彼に寄り掛かる。手に持っていた荷物がばらばらと濡れそぼった歩道の上へと落ちて行き、散らばった。彼は、彼女の存在と想いを受け止めきるように、両の足で彼女の分まで支えた。

「私、もう恋はしちゃいけないのかもしれない……誰も振り向いてくれない。私は、中途半端な出来損ないの人形みたい……」

 彼女の声は、くぐもっていた。表面張力のような感情は、今にもそこから零れそうで、ギリギリで彼女は自分を保っていた。

「中途半端でいいじゃん」

 梅田の柔らかい言葉にどういう意味?と訊くかのように視線を向ける遠野。それを受け止めた上で、梅田は言葉をつなぐ。

「中途半端って分かってりゃ、次はもっとマシな中途半端目指せばいいじゃない?人は完璧にはなれないなら、だったらマシな中途半端目指すしかないだろ?」

 遠野の表情は、少し穏やかになった。そして、今まで言ったことがないような、柔らかい声で、歪みがない笑みを浮かべて彼に訊いた。

「……私、上手く出来るかなぁ……」

「出来るさ。だってそのために今までつらい思いしてきたんだろ?」

 梅田は軽く、片手で遠野を抱きしめた。

 通り過ぎる車だけが観客の、その道端の劇場で──氷雨の中、時間は進むのを止めた。

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