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登場人物


黒瀬結衣(くろせ ゆい):女子高生(2年生) 白谷駿とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 魔法使い(術者)だが現在はその魔法のリハビリ中 成績は優秀 眼鏡を掛けている 4月8日生まれ


白谷駿(しろたに しゅん):男子高生(2年生) 黒瀬結衣とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 実は存在自体がレアな男子の魔法使い 成績は下あたりから最近は普通くらいに 3月25日生まれ


遠野春香(とおの はるか):女子高生(2年生) 隣のクラスの女子だがヤンデレ気味 あることを画策し、一旦は敵対した白谷に接近する 成績は優秀 11月30日生まれ


梅田秋生(うめだ あきお):男子高生(2年生) 隣のクラスの男子 遠野が好きだが、彼女からはまだ返事をもらえてない 軽めの性格 成績は普通より下あたり 12月23日生まれ

 雪雲が、彼女の心の内を描写するかのようにその鉛色をさらに黒く、低く、空に蓋をしていた。昼間だというのに夕暮れから茜色を除いたような暗さで、いつそこから白いものがちらついてきてもおかしくない程だった。気温もそれが降ってくるには丁度いい低さで、家の前の生活道路にも、正月三が日ということを含めても、まるで真夜中、街の人が寝入ったかのように人の気配が感じられなかった。

「寒っ……!」

 家庭内の正月の行事は昨日までに終わり、今日3日はほぼ家の中。灰色の部屋着のスウェットにドテラを着たいつもの格好の黒瀬結衣(くろせ ゆい)は家の広すぎるベランダの欄干に体を預けて、今にも降り出しそうな真冬の福井の天気をただぼーっと眺めていた。そして、なかなか元に戻らない自分の魔法に、自分自身に対してイラつきや失望感が今の天気のように彼女の心を暗く冷たいものにしていた。

 ──ここまで回復しないとは……彼女は自分自身が思ってないレベルにまで後を引くとは完全に想定外だった。

「もう……このままなのかなぁ」

 回復訓練中、もう何度も思ったり口にしたりした言葉を彼女はまた呟いた。同時に、もう止めようか……諦めが心を侵食していく。

 人間は、上手く行かないことを続けられるほど強くはない。魔法を扱える、"術者"という他人と違う能力を持っているとはいえ、それ以外は同じ。粘り強くやった所で、思うような結果が出なければ放擲したくなるのは変わらない。

 いいや、今はもう考えない様にしよう。彼女はかぶりを振ってマイナスの奥底へと落ち込ませようとする考えを振り払おうとした。別の事を考える……も、浮かぶのは上手く行かない魔法の事ばかり。

「ああっ、もう……!」

 別の事を考えようとしても逆効果になった彼女は苛立ちをさらに募らせる。荒くなった息は白く姿を変え、やがて緩やかな西からの季節風に乗ってその存在を同化してゆく。

 そう言えば最近ずっとイライラすることが多くなっている──こうなったのも全部駿(あいつ)が悪い。魔法が使えなくなったのも付き合ってた彼にサヨナラされたのもテストの成績が落ちたのも遠野(あのおんな)に振り回される駿(おさななじみ)にイラつくのもまたケンカして絶交状態になったのも全部、駿(あいつ)が悪い──とうとう彼女はそう思い始めた。魔法や彼との別れやテスト成績は幼馴染は全く関係ないのだが、出来の悪い"弟"のせいにしないと……そうでもしないと心が持たない。ある意味仕方ない防御反応だった。

 でも、何であんなことで簡単にケンカしたんだろうか。口論ならまだしも、取っ組み合いにまでエスカレートしてしまったのはちょっとやりすぎだったんじゃ……今更ながら、自制が効かない自分自身にふがいなさを感じるとともに罪悪感がジワリと彼女に染み渡ってきた。

 後悔という言葉で、人はそれを呼んでいる……彼女はため息を一つつくと、再び家の前の住宅地やその向こう側に見える山の頂上をただぼーっと、焦点が合わなさそうに見つめていた。

 そういや今、何時だったかなぁ。朝ごはんの時には8時は過ぎていたから9時辺りなのかもしれない。時計はサンルームの中に置きっぱなしになってるから……と、もたれかかっている欄干から体を離したその時──眼鏡越しの視界の片隅に、何かが動いているのを認識した。彼女の注意がその方向に向けられると、そこにいたのは、

「……駿?」

 隣に住む幼馴染の白谷駿(しろたに しゅん)の姿が、彼女の見つめている視線の先にいた。

 牛をモチーフした赤地に紺と白が入った在阪球団の帽子を被り、学校へもよく着て行く紺地のダッフルコートを羽織り、その裾から見えるGパンと紺地のバスケットシューズが、隣の家の生垣の隙間からちらりと見える。よく見ると彼の手には何かが入っていそうな学生カバンとはまた違った革製のカバンを携えている。

 彼はほぼ誰もいない道路に出て周囲を見回すように振り向いた。角度的には見えないはずだが、思わず彼女は体をしゃがませ、彼から見えない様に姿勢を低くする。

 何でしゃがむの──彼女はそうセルフツッコミをしてしまうが、それと同時に不安がその鎌首をもたげ始めていた。

「……また遠野(あのおんな)と会うんじゃ……!?」

 呟きが、不安をさらに招来する。落ち着きをなくすほど気になり始めた彼女は、暫く相手からは隠れる姿勢を続けていたがやがて意を決したかのように立ち上がった。彼がいた方向を向くと、もうそこには姿はなく、駅に向かって歩いてゆく幼馴染の後ろ姿が小さく見えていた。

 彼女の中の不安は、それを確認しなければとの義務感に変化していった。サンルームの扉を開け、自分の部屋に入ろうとした彼女は……まるで電源が切れた玩具の様にそこで足が止まった。

 ──もう関係ないでしょ?絶交して、自分も恋はしないと言った手前、駿(あいつ)が誰と付き合おうとも自分には関係ない──"マイナスの自分"が彼女自身の足を止める。

 そうだ、もう関係ない。駿は駿で自分でどうするかは考えるだろう。ならば放っておいて自分は自分で使えなくなった魔法を取り戻さないと……余計なことを考えてる暇なんてない。

 開けっ放しにしてあるサンルームの引き戸からは、折角温めた空気が外の冷気と交換されて行く。足元からその寒さを感じつつ、彼女は"マイナスの自分"に行動を支配され、動きを止められていた。

 このまま時間が過ぎて行こうとした、その時、

『連れ戻すのよ!それが"姉"としての役割でしょ!?』彼女の脳裏に響く、もう一人の彼女の声。『駿が遠野に取られたら、後悔するのは自分自身じゃないの!』

 まるで、幼馴染を説教するような口調で、"姉の自分"が彼女に叱咤する。

 ──確かに今は絶交している。でも、その原因の一つは自分の自制心のなさって自分で言ったじゃない。ここは"姉"らしく潔く誤って、駿を包み込むような大きな心で迎えれば、絶交中とはいえ判ってくれる──自己暗示が、彼女の止まっている足を再び動かし始めた。

 どこまで正しいかはわからない。どこまで駿が許してくれるかわからない。でも、いま彼を連れ戻さないと、自分自身ずっと生きている間中、きっと後悔の海でもがき続けることになる。たとえ、後で間違っていると判ったとしても──。

「追っかけよう」

 彼女はそう呟くと、開けっ放しだったサンルームの引き戸を閉めた。


 ──彼女が幼馴染を見かけた時間より20分ほど前の白谷家(おとなり)

 こちらも正月の行事は昨日で終了し、今日は出かける用事もない。テレビの正月番組にとうに飽きた彼は自分の部屋にこもって、さてどうやってこのヒマな状況を潰してやろうかと思案していた。

 そういやそろそろ冬休みの宿題、追い込みしないといかんなぁ……でも結衣とは絶交状態。判らない所は幾つかあったし、さてどうしよう──と思いあぐねている所に、電話の呼び出し音が突然鳴り響いた。反応した彼は反射的に受話器を取って、

「もしもし、白谷です」

『あ、駿くん?あけましておめでとうございます、遠野です』

 受話器から聞こえてくる明るくそれでいて何かありげな遠野春香(とおの はるか)の声を聞いた瞬間、彼はしまったと内心舌打ちした。年の初めからあんまり聞きたくない声……電話を切ろう、という内なる声が彼の中にこだましてくる。

 しかし、彼は受話器を置こうという行動を起こす前に反射的に彼女に挨拶をしてしまった。

「あ、あけましておめでとう……ところで何の用?」

 もう切るタイミング失った……しかし自分でも塩対応だな、と思う位にはテンション低めの声を受話器の向こうの彼女に投げる。彼女はそんな事お構いなしに、

『年が明けたから白谷くんに挨拶しようと思って』

「あ……ありがと」

『ところでさぁ、もうお店とか初売りやってるみたいだけど、時間ある?』

「いや時間って……」彼はそう言いながらどうやって断ろうかと考えを巡らせ始める「もうそろそろ勉強しとかないと間に合わないだろ?」

『あら、量は少ないからすぐ出来るでしょ?』

 彼女の返答に少しイラっとしてきた彼は、包み隠さずそのままに彼女にぶつける。

「そっちはすぐ出来てもこっちはそうじゃないんだって……!」

『2学期習ったことの応用ばっかりだからちゃんと授業受けてれば出来ると思うよ?』

「それはそうだがそんなに簡単じゃない。俺にとっては」

『しばらく学校行けてなかった私でも解けるよ』

「そっちは地頭がいいからだろ……?俺はそんなに頭良くねーよ」

『じゃあ"幼馴染"さんに教えてもらえばいいじゃない』

「それが出来れば苦労しねえって!」

 気楽に言ってくれる──嘲笑してるような彼女の言葉に思わず受話器に吐き捨てるような大声を彼は出しかけた。

『あら、教えてくれないの黒瀬さんは』

「今それどころじゃねぇ。その……何だ、ケンカしたし」

 何言ってんだ俺は……誘導尋問でもないのに思わず実情をしゃべってしまった彼は言った後で激しく後悔した。声が出かかり、受話器を握る手に力が入る。

『教えてもらえないんだぁ……じゃあさ、勉強、教えてあげるけど?』

 受話器の向こう側の彼女の声は前回や以前の事など忘れ去ったかのように明るかった。そして、企んでいることを隠そうともしなかった。

「いや……そこまでは」

『ふうん……じゃあ、成績落ちるしかないね。どうなるんだっけかなぁ……?』

 拒絶の意思を示す彼だったが、彼女は事情を知っているが故に受話器の向こう側からの言葉にはあからさまな成分しかなかった。

 ──元はと言えば白谷くん、あんたが軽率なのよ……と。

 彼の脳裏に、学校祭の時のあの光景が映画のフラッシュバックのように次々と浮かび上がる。当時付き合ってた1学年下の彼女との出来事が。

 誰もいない教室、校舎の向こう側から聞こえる歓声と扇情的な音楽、彼女の幼げなカラダとニオイ、二人の荒い息遣い、"男"としての使命感……。

 秘め事がバレそうになり結局は未遂という、それだけでも男としては恥ずかしく忸怩たる思いなのに……遠野が現れてから彼が思い描く、想像していた未来に狂いが生じ始めた。先生にもバレて危うく長期停学あるいは退学になりかけ、ふとしたことから彼女と別れ……そして元凶の遠野とこうやって関わることになるのだから。

 ──即時停学或いは退学を猶予する代わりに2年次終了時までに所定の成績を挙げよ、それが条件だ──担任から彼に言い渡された、それでもまだ温情のある裁定。

 だから、落とすことは許されない。

 なのに、年末のあの時、何でまた幼馴染とまたケンカしたんだろうか──今更ながら、自身のバカさ加減が頭にくる。しかし彼がそう後悔しても、その時に戻れるはずがなく……出来る事は、狭められた選択肢から選ぶしかなかった。例えそれが不利な条件しかなくても。

 その元凶にすら頼らざるを得ない状況だとしても。

 彼の奥歯が、ぎりっ、と不愉快な音を立てた。

「……お願い、します」

 それは、彼の胸の奥から絞り出すかのような声だった。事実上の降伏勧告受諾にも等しい。彼女からは見えないが、彼の表情は苦渋を飲み込むような、しわが増えそうなものだった。

『ふうん……まあいいわ。わかったわ。じゃあどうする?10時半くらいに福井駅前のポアンカ前で待ち合わせ、ってのは?』

 またポアンカかよ、と言いたくなるのを彼は堪えた。遠野にまで相手にされなくなったら、勉強に関しては現状、詰んだのも同然だった。感情を押し殺した声で、彼は受話器の向こうへ答えを返した。

「……わかった。それで」

『じゃあ後でね~』

 通話が切れ、話中の通報音が彼の耳を刺激する。嬉しそうな彼女とは裏腹に、仕方なく彼女の提案を受け入れた彼は、まるで催眠術に掛かったかのようにしばらく受話器を持って立ち尽くしていた。

 術が解けて行くように彼の気が戻ってくると、ため息を一つついた彼は諦めの表情を浮かべて教科書や筆記用具などをカバンに詰め込み、次いで着替えた。

 紺のGパンを履きクリーム地のセーターの上に通学で使っている紺色のダッフルコートを羽織り、頭には赤地に白と紺の色が入った、牛をモチーフにした在阪球団の野球帽をかぶる。ベッド横に置いてあった水晶のペンダントを手に取った彼は、それを付けようとして一瞬手が止まって考え込む。しかしいつものようにそれを首にかけると、やや慌てて部屋を出て階段を下りて行く。

「ちょっと駅前行ってくる!帰るの夕方位だと思う」

 彼は居間で正月番組を見ているらしい家族にそう言うと、紺色のバスケットシューズを履いて玄関を出た。冬の寒さが何の防護もしていない顔に筋肉の緊張を僅かに強いた。

 道路へ出た彼は、一瞬後ろから誰か見ているんじゃ──何処からかの視線を感じて振り向いたが、三が日の住宅街には彼以外の人の気配がなかった。気のせいか、そう思った彼は駅に向かって歩き出した。

 隣の家のベランダから、幼馴染を見つめている視線があるとも知らずに。


 緑が主体の在阪球団の野球帽を被り、フード部分が灰色になってる紺のスタジャンをアウターに着て、似たような青系統のセーターをその中に、首元には白いマフラーを巻いて足元は黒っぽいGパンを履いた彼女は、階段をそれころ転げ落ちそうな速さで駆け下り、居間にいる親に行ってきますの言葉もソコソコに、Gパンと似たような色のスニーカーをサンダルのように踵を履きつぶしながら家を出た。首元には、彼女の動きと同調するかのような、上下にはねる水晶のペンダントをかけて。

 玄関から出ないうちに踏切の警報機が鳴動してる音を黒瀬は聞いた。白谷に追いつくには遮断機が下りる前に向こう側へと抜けなければならなかったが、踏切横の食料品店を右へ曲がった所でその望みは潰えた。これから通過する列車を守るために遮断竿が既に下り切って道路を塞いでいたからだった。

「……っ!」

 隙間だらけの踏切は行こうと思えば竿を潜って向こう側へと抜けられるが、すでに彼女の耳には福井方向から近づいてくる列車の走行音が届いていた。もう間に合わないし、やったところでどうなるかは小学生でも判りそうなことだ。この歳で早々とお墓の中には入りたくない。

 黒瀬は他に道はないかと周囲を見回す。食料品店とは道を挟んで反対側の寿司屋の線路側に、人ひとりが通れそうな小道がある。その道は畦道のように線路と平行に伸びて行って、やがて分譲中の将来住宅地になりそうな場所へと繋がっていた。彼女は迷う暇を見せずにその小道へと足を向けて走り始める。

 駅の方を見れば、既に福井行きの電車が停車していた。もういくら走っても間に合わないことは明白だった。走るのを止めた彼女の右側を、勝山行きの電車が駅へと駆け抜けてゆく。ブレーキシューの金属臭を孕んだ風を周囲に吹き付けつつ減速していったその電車は、分岐器を乗り越えて駅へと進入して行った。

 彼女は電車が通過した後にいつもの道の方を見た。線路と細長い畑と用水路を間に挟んだ向こう側に1車線半の生活道路が見えるが、当然ながら幼馴染の姿はそこにはなかった。

 幼馴染が乗った福井行きの電車は勝山行きの電車の到着を待って、出発を示す警笛を軽く鳴らして終着駅へと走り始める。彼女は歩くことも止めて、クリーム色の車体にえんじ色の帯を付けた2両編成の電車がゆっくりと加速してゆくのを呆然と見ていた。ハッキリと見えないが、通過して行く幾つもの窓から見える車内にはまだ正月のせいか、それほど人影はないように見える。その窓の一つに、見たことのある後姿が一瞬見えた。

 間違いない、乗ってる。黒瀬は確信した。

「駿!」

 彼女は叫んだ。

 しかし、昔の電車の部品を使ったその車両は、人間の年寄りのようにぎこちなさを騒々しい音に変えて周囲に撒き散らしながら加速を続けていた。彼女の叫びはそれらに塗りつぶされ上書きされて、背中を向けたままの彼には届く気配がなかった。


 電車が行ったばかりということもあってがらんとした待合室には人の気配が無く、駅員室には暇を持て余し気味の駅員がのんびりとストーブに当たって30分後にやってくる電車とそれに乗ろうとする乗客を待っていた。とりあえず駅員に定期券を見せ、待合室に置いてあるストーブにあたって暖をとる。近くに高校があるせいか、広めにとられた待合室の中は暖まりきれてなかった。

 戦後間もないくらいから時が止まったような古ぼけた木造の駅舎。電鉄会社や関連企業等の広告があちこちに貼られ、コンクリート駅舎ほどではないが殺風景さをいくらかは軽減していた。

 都会と違って田舎だから仕方ないにしても、30分は長い。黒瀬は、時が止まったかのようなじれったさを感じ始めた。そして思ったほど進まない時間が、少しづつ彼女の心を不安方向に揺らし始めようとしていた。

 何もなければそれでいい、でも遠野と会ってたら……連れ戻すに決まってる。そう黒瀬は、家を出るときには思っていた。しかし、それが原因で本当にもう隣に住んでるだけの赤の他人になってしまったら──。

 連れ戻すと彼女を叱咤激励した"姉の自分"は『大丈夫、それはあり得ない』と言い切っているが、信じ切れていない"マイナスの自分"が、さっきよりも勢いを増して声高に叫び始めた。『そうなったらどうするの?』……と。

 幼馴染を取り戻すことは、恋ではないのか。ならばもう恋はしないと決めたはずなのに、なぜ幼馴染は例外扱いなのか。どうせ閉じ込めた気持ちなら、そのままにして忘れてしまえばいい。放っておけばいいじゃない……"マイナスの自分"が語り掛けるそれは心地よい眠りを誘う魔女(セイレーン)の歌のように、彼女の心にしみ込んできた。

 相反する二つのベクトルが、黒瀬の頭の中で交錯する。永遠に続くかのように感じた彼女は思わず顔をしかめた。

「お嬢ちゃん」

 突然耳に入って来た男の声に黒瀬は思考の螺旋を突然中断され、ビクッとしてその方向を向く。歳は50代ほどの駅員が、彼女の方を向いて笑みを浮かべつつ言葉を続けてきた。

「正月だっていうのに浮かない顔して……何かあったん?」

「あ……別にそんな。そんな深刻そうな顔してました?」

 黒瀬の表情は無理やり作られたかのようにぎこちなかった。

 訊いてきた駅員は三が日の出勤のせいか、やや着崩した感じに制服を着けていた。改札口の横のガラスの引き戸を開けて、人懐っこそうな顔を彼女に向けている。彼女にとってはよく見る駅員なのだが、話しかけられたのは初めてだった。

「そうだなぁ、そう見えたなぁ。そういやさっきの福井行きにいつも一緒に来ている男の子が乗ってったな。デートに遅れたとか?」

「あ、そんなんじゃないです……そんなんじゃ」

「そっか……そういやその男の子も正月にしては何か覚悟決めたかのような深刻そうな顔してたなぁ」

 駅員の言葉に、取り繕っていた黒瀬の笑顔は簡単に綻んだ。

 間違いない、幼馴染は遠野に会いに行くために出かけた。止めるのなら、早くしないと。

 30分は長い。この間にも駿(おさななじみ)は──そう思うと、今度は時間の進み方が遅くなっているかのように感じ始めた。そして、間違って今すぐ電車来てくれないか……そう思い始めた。黒瀬の眼鏡越しの視線は、改札口の天井側に取り付けてある列車接近灯に注がれたが、福井行の電車はまだ前の駅にたどり着いてないことを、明かりが消えていることで示していた。

「電車って、早くは着かないですよね……」

 黒瀬は、駅員の方をちら、っと見ながら呟くように訊いた。

「そうだなぁ。早く着いてもここで勝山行きを待つことになるから」

「……ですよね」

「男の子追っかけたい?」

「……なのかなぁ」

 苦笑いで誤魔化そうとする黒瀬。

 その焦りを表情から読み取ったのか、落ち着かなくそわそわしている彼女に駅員は語りかけた。

「お嬢ちゃん、まあ何があったかは知らんけどさ、信じるなら信じるでしっかり心を持ってないと。そしてその目で確かめる。間違ってたら、改めてそれから対策とか立ててもいいんじゃないかなぁ」

「そう……ですね」

 当たらずとも遠からず、の駅員の言葉にどう反応していいのか判断しづらい彼女は、とりあえず相槌のような言葉を返すだけにとどめた。

 ちょっとお節介すぎたかな?そう言いたげな駅員は表情を崩さずに、

「まあ、お嬢ちゃん頑張れよ」

 そう言ってガラスの引き戸を閉めて業務へと戻っていった。

 再び、一人になった黒瀬はストーブの熱をゆっくりと浴びながら、引き伸ばされたような次の電車迄の時間を、じっと我慢しながら待ち続けていた。

 次の電車が前の駅に着いたことを示す表示灯が、誰にも知られない様にひっそりと点いた。


「あけましておめでとう。待った?」

「あ……おめでとう。いや、それほどじゃないけど……」

 "女の城"と言われ、"男は女性同伴でなければ中を見ることも出来ない"とも言われている女性向けアパレル店舗が主力の駅前のポアンカ。アーケードに覆われたその入り口近くのショーウインドウで、複雑な表情を浮かべて立っている白谷に遠野が声を掛けた。表情はあくまで明るく朗らかに、しかしその裏では……複雑な表情の下、警戒心からくる緊張感を白谷は漂わせていた。

 昨日今日で初売りを始める店が多いせいもあり、駅前はいつもの日曜日以上に賑わっているように思えた。ポアンカに入って行く女性たちや連れられてきた男性も、自動ドアが休む間もない位に多い。

 年明け前にピアのお好み焼き屋に来た時よりは地味目──白谷と同じような、膝下くらいまである丈長で紺色のダッフルコートを羽織り、首に巻いているマフラーは純白に近い白。裾から見える彼女の足には白谷と同じようなGパンにスニーカーと、動くことを前提にしているようだった。

「緊張してるの?この前みたいに気楽にいこうよ」

「緊張はしてねえよ……」

 緊張じゃなく警戒してんだよ、と言いたげな白谷の視線を無視するかのように遠野は彼のコートの袖を引っ張ってポアンカの中へと歩み始める。最初から勉強すると思っていた白谷は引っ張られるその方向に思わず声を上げた。

「ちょ、ちょっと何処行く……!?」

「初売りって言ってたでしょ?お買い物に付き合ってくれたら勉強教えてあげる」

「時間あるのかよ!」

「大丈夫、そんなに買うもの無いから。それが終わったらそこのドーナツ屋でお勉強しましょ?」

「大丈夫かなぁ……」

 不平を表明しながら、かといってその後の事もあるので逆らうことも出来ずに白谷は"女性の城"へと遠野に"連行"されていった。

 ──女性優先の店内に入ると、見かける男子はすべからく女性の荷物持ちと化する様だ。彼女らしき女性に指示されて荷物を持ち、今度はあっち次はこっちと女王様の言う事を忠実に守る従者のごとく付き従っている。下手すると奴隷かもしれない。

 白谷もその例の漏れず、遠野が様々な店舗を回る後ろを付き従う。その行く先々の店で遠野は値段が高そうなセーターを手に取って眺めてたり、時には複数の冬用スカートを見比べながら悩んでたり、別の店ではセールになってるアクセサリー品を次々とカゴに放り込んでたり……。白谷は始めのうちは警戒心をむき出しにしていたが、彼女のそういう場面を見ているうちに次第に気持ちが緩み始めていた。

「なあ、遠野……」

「なに?白谷くん」

「何か……女の子みたいだなぁ、って」

「あら、わたしは女の子よ。当たり前じゃない」

「いや、その……言っちゃなんだけど、数か月前までは敵意むき出しにして殴り合いだの口汚く罵ってくるとかしたじゃねーか。もっとこう、いつもカリカリしてるんだと思ってた」

 たくさん買い込んだアクセサリー類の代金をレジで払い、店員から渡された紙袋を引き取りつつ彼女は白谷の問いに答える。

「そんなことないわよ。その時はその時で今はもう……大丈夫だから」

 一瞬言葉が途切れたが、男子を魅了する笑顔を白谷に向けて明るく言葉を紡ぐ。

「なら、いいんだけど……」

 遠野は付き従っている白谷の表情をちらっと見た。さっきまで漂っていた緊張感や警戒感が薄れ、さながら普通の男女が普通にデートしているかのように他からは見えるだろう。彼女は、()()()順調なことに満足感を覚え──ほんのわずか、口元に悪魔が乗り移ったかのような歪みを見せた。

「じゃあ次」

 彼女は白谷のコートの袖を引っ張って次の売り場へと向かうが、彼の視界には、男にとって近づくのが躊躇われる壁のようなものがある場所だった。彼の足が何かに引っ張られるかのように動きが重くなり、それにつられて遠野の行き足も鈍り始める。

「……ちょっと何?」

「いやそこは……」

「あら白谷くん別にいいじゃない女の子と同伴なんだから」

「だからって……!」

「へえ、白谷くんでも恥ずかしいんだ」

 流しのジト目で彼女はランジェリー売り場から顔を背けて見ないようにしている白谷に笑いながら、皮肉っぽく突っ込む。その目は『学校であんなことしようとしてたくせに』と言っているかのように、彼からは見えた。

「幼馴染さんとは来てないの?こういう所は」

 袖を引っ張るのをやめた遠野が、その表情を崩さずに訊いてきた。何でそんなところで結衣(おさななじみ)を出してくるとでも言いたげに彼の表情が少し硬化する。

 でも……白谷はふと思った。結衣(あいつ)が相手だったらここまで拒否反応は出たっけ……?過去に何度か連れていかれたことを彼は思い出した。なんだかんだでぶつくさ言いながら結局ランジェリー売り場に足を入れていた気がする。

「……そりゃあ無いことはないけど……幼馴染以外は初めてだ」

「それじゃわたしが"初めての女"になるってわけね」

「なっ……お、おい、なんだよその言い方……!」

 思ったよりも大きめだった遠野の言葉に近くのカップルや女性店員の視線が二人に注がれた。"別の意味"にとられかねない彼女の言葉に硬化した表情はどこへやら、慌てて打ち消そうと顔を真っ赤にしながら白谷はそんな意味じゃないと言いたげに身振り手振りで周りに伝えようと必死になっていた。

「はははっ、白谷くん面白いね」

 いたずらっ子なのか小悪魔的なのか、判別がつかない魅惑的な笑みを浮かべて遠野がささやくように言う。

「何が面白いんだ……ったく!」

 すねるように顔を彼女から背けた白谷。

 遠野は気づいていた。彼から、拒絶の成分がもうかなり抜けていることを。

 彼女の、口元が、違う意味で、わずかに、歪んだ。


 ……電車内でも黒瀬の頭の中では"姉としての自分"と"マイナスの自分"がせめぎあっていたが、福井駅前に着いた以上、当初の目的を優先することにした。ここまで来てしまったんだから、とにかく駿を探し当てるしかない。駅員さんの言葉じゃないが、直接彼を見、確かめてからどうするかを決める。そうするしかない、と思いながら彼女は改札を抜けていった。

「……まだ駅前周辺にいてくれるといいんだけど……」

 防空レーダーのように周囲をきょろきょろ警戒しながら、黒瀬は駅前アーケード商店街の、人工の光が差す道を歩いていた。

 3日は大体の店が初売りを始めているが、一部は明日からなのかまだシャッターを下ろしている所もあり、行き交う人は多いものの、店の賑わいとしてはいつもより少し寂しい感じがするアーケード商店街を黒瀬は進む。途中で右に直角に曲がり、魔法庁が連絡事務所代わりに使ってる純喫茶の前を過ぎる。横目で見たが、店は翌日からとドアには貼り紙が見える。

 かばん屋や開店準備中の食事処を横目に見、帰省客で混み合うお土産屋の横を過ぎると、福井鉄道の駅前電停が真正面に見える、アーケードの終点がある交差点に彼女はたどり着いた。

「……どこにいるんだろう」

 普段よりうごめく人の数が明らかに多いことに、彼女は多少の焦りを感じていた。

 道の両側に立ち並ぶビルが形作る、駅前電車通りという名の谷底の向こう側から電車が顔をのぞかせた。クリーム地に車体下半分を紺色に染め、その間に純白の帯を纏った、二枚窓のややいかつく見えるベテラン車両が車体を左右にやや大げさに揺らしながら、まるで自動車たちをかき分けるように彼女の方へとゆっくり向かってくる。

 交差点の信号が青になる。

 人の多いところへ行くはずだから──思い込みだがそれに従って彼女は駅前電車通りでもにぎやかな店舗が並ぶ左側を歩き始めた。


 ──予想はしていた。しかし、ここまで混むとは……全国規模のドーナツ屋の店先で、白谷は入り口の自動ドアが開きっぱなしになって列を作ってる状況に、しばしの頭痛を覚えた。初売りと年初セールとが重なって、黒瀬と時折寄るいつもの駅前のドーナツ屋はここ数日間で1年分の売り上げを稼ごうかと思うくらいに列がアーケード付きの歩道にまであふれていた。

「こんなんじゃ、勉強なんて不可能だわな……」

 飲食スペースも当然混んでおり、トレーにドーナツや飲み物を載せて空くのを待っている人すらいる状況で、のんびり勉強などできるはずがない。白谷は、あきらめといくばくかの解放される嬉しさが微妙に混ざった表情を浮かべた。

「帰るか……」

「ここじゃなくて、ベルのドーナツ屋行きません?」

「ベル、って……遠いなぁ」

 そこまでしなくても、それなら家でしてたほうがまだマシじゃねーか……白谷は思った。表情が曇り始める。

 ──北のピアに対して、南のベル。福井市内にある大規模ショッピングセンターで、敷地や店舗面積は後発になるベルのほうが大きい。建物内にボーリング場が併設されてるのが特徴で、それ目当てに来ている人も多い。ただ、電車で30分は優にかかる上に、2つの駅間にあるためにどっちで降りても微妙に遠い。

 白谷は友人らと自転車を使って下校途中に寄ったことはあるが、電車で行ったことはなかった。

「もう今日は終わりにしない?」

「幼馴染さんに教えてもらえないんでしょ?それでもいいの?」

 せっかく来たんだから、まだまだ家に帰らせないよ──彼女から白谷に向けた含みのある笑みと共に視線はそう語っているかのようだった。

「でもベルまで行くのは……」

「ベルの方が大きいから店とかが多い分、分散されて人少ないだろうからゆっくりと教えられるけど?それともここで別れて後で後悔しない保証なんてあるの?」

「それは……」

 白谷は言葉が詰まる。そうでしょ?と遠野の笑みはますます何かを帯びたものになってきた。

 その時、駅前電車通りから金属同士が擦れる耳障りにもほどがある音が聞こえてきた。ビルの谷間にその音が響き渡り、やがて街中の音に紛れて聞こえなくなる。駅前電停に電車が到着したのだった。遠野はその方向を向く。

「あ、ちょうど武生行きが来た。白谷くん、あれに乗るよ!」

 彼女はそういうと無理やり腕を引っ張って電停方向に走り出す。突然の事に白谷は買い物袋を危うく落としそうになるのを何とかこらえつつ彼女と走る──というか、走らされた。

「ちょ、ちょっといきなり……!」

「早く、電車出ちゃうよ!」

 電停には路面電車というには大きい、近所を走る京福電車と似たようなサイズの、クリーム地に紺色の帯を付けた箱型の2両編成が停車中。ドアの下から中へ入るためのタラップを下して客扱い中だった。

 横断歩道を渡る途中の道のど真ん中にある、細長く脛辺りまでしかない高さのホームに遠野とやや遅れて白谷が駆け上がる。その勢いのままタラップに足をかけ、階段を上るように二人は車内に入った。

 車内両側、進行方向と平行にロングシートがあり、初売り目当てなのか、座る横に結構大きめの買い物袋を置いた家族連れやおばちゃん連中らが多くみられた。遠野は目の前の、進行方向右側の隅っこにその隙間を見つけると、二人分確保して座り込む。

「ここまでしなくても……」

 やや息を乱しながら買い物袋やカバンを上の網棚に乗せて再び腰を下ろした白谷がつぶやいたが、右側に座る遠野からの反応はなかった。彼の存在を無視するかのように、彼女は何かを見つけたのか、上半身をひねって背後の窓から外を見つめている。

「何?誰かいる?」

 白谷は窓の外を見つめる彼女を横合いから見つつ訊くも、遠野はそれに反応を示さなかった。彼女はせかされるように腕時計と車内に張り出してある出発時刻を確認すると、

「白谷くん、ちょっと座ってて。すぐ戻ってくるから」

 そういって彼女は立ち上がり、車外へと降りて行った。

 彼女の声の替りには、所々でおばちゃんたちや家族の話し声と、車内に響くブレーキ用のコンプレッサーの音、そして外の喧騒がBGMとして彼の耳に届いていた。

「……なんなんだ?」

 外を見てみる。駅前電車通りの歩道を歩く買い物客や行き交う車など、人が多めなのを除いていつもの光景が繰り広げられ、特別おかしい事は起きてなさそうに白谷には見えた。


 黒瀬が二人を見つけたのは、県庁から駅前電車通りへ抜ける道と駅前大通りとの交差点に差し掛かった所だった。駅前電車通りを大名町交差点へと向かったが姿は見られず、そこから駅前大通りに移って引き返すように駅方向へと幼馴染を探していた彼女はその交差点でつい右側を見た瞬間、その場から歩いて10秒ほどの所にあるドーナツ屋の前で、あまりの人の多さに立ち尽くしている二人の姿を見つけた。思わず彼女は二人から隠れるようにまだ今年の営業を開始してない証券会社の玄関へと一旦退避し、入り口のステップに腰を下ろす。

「……いた」

 とたん、黒瀬の顔に緊張感が走る。どきどきと、心臓が蠢くのが判る。

 駿を連れて帰る。そう彼女は自分に命令を下していた。

 ちらちらと物陰から二人を観察する。何かをしゃべっているようで、遠野の方は傍目には楽しげにしゃべってはいるが、白谷の方は表情が硬いままのように見える。なにぶん二人までの距離は歩いて10秒もかからないが、細かい表情の変化等は眼鏡越しとはいえやや遠く、汲み取りにくい。

 その場を通り過ぎる人たちは、物陰から覗いている彼女を見て見ぬふりをしているが、それどころではない黒瀬には気づきようがなかった。

『ホントにいいの?壊れちゃったら誰のせいでもないよ?』

 "マイナスの自分"が放っておくように心の内から彼女に囁く。

 もし、白谷が遠野を選んでしまっても、少なくとも幼馴染という関係は残る。でも、ただでさえ絶交中の関係に"姉"の立場で乗り込んでいけば、その時は──。

 彼女の体に、ぞわっ、と悪寒が走る。

 どうしよう。

 どうしたらいい。

 行くか、行かないか……ただそれだけの選択で、黒瀬の未来はまるで正反対の方向へと全力疾走してしまう。それが間違った方向だったら……そんな決断を下す行為自体に言い知れぬ恐怖を覚えた彼女は、出来る事なら選択自体を放棄したいと思い始めた。

 ……いつの間にか荒くなっていた呼吸を整えようと、黒瀬は深呼吸をした。落ち着き始めた彼女はもう一度考えを整理しようとした時だった。

「えーと、隣のクラスの黒瀬さん?」

「……!?」

 ふと見上げた眼鏡越しの視線の先に、似たような年頃の男子が立ち塞がるように立っていた事に気付いて思わず声を上げそうになった。

 男子との視線が交錯する。男子にしては長めの髪を後ろで束ねて、見た目は性格軽めのチャラい感じがする。顔はよさげだが、なんだかんだで自分とは合わなさそうに彼女からは見えた。

 その男子は、やや暗灰色の膝下辺りまである高価そうなインバネスコートを羽織り、同系色の布地が厚めの冬用チノパンと、足元はなぜか似たような色がメインのバスケットシューズ。手には手提げの紙袋が2つほど下げている。

 年頃の男子は黒瀬の名前を呼んできたことから容姿を明確に記憶しているらしい。しかし彼女の方はイマイチ頭の中の名簿に該当する姿はなかった。そして至極真っ当な質問をした。

「……誰?」

「2-8の梅田だけど……こんなところで何やってんの?」

「……別に。関係ないでしょ?」

「正月の駅前で体育座りして悩んでること自体が変だと思うが……」

「うるさい……っ!」

 大丈夫か?黒瀬さん、と言いたげに心配している成分を含んで梅田秋生(うめだ あきお)はツッコミを入れた。言われた方は何で自分に関わるの、と言いたげな怒りの感情を幾分か乗せて梅田に突っかかる。された方の彼は一瞬、彼女の言葉を聞いていないかのようにさりげなくドーナツ屋の方向を見て、改めて彼女に問いかけた。

「誰か待ってるの?それとも捨てられた?」

「ほっとけ。それに捨てられてないし」

「そんな顔して言ったって説得力ねーぞ」

「買い物途中なんでしょ、さっさと行ったら?」

 黒瀬が話を逸らそうと彼の紙袋を見て毒づく。

「そうだったけど、ちょっと探してる人を見かけたので……」

 意地悪い笑顔を浮かべた彼は再びドーナツ屋の方をさらりと見つめた。黒瀬はそれに気づいて疑問を呈す。

「……駿と友達だっけ?」

「いや、もう一人の方がね」

「遠野?」

「ま、そんなところ」

 梅田の意地悪い笑顔に子供っぽい要素が含まれた。

「だったら遠野誘って何処か行けばいいじゃない?自分は駿を連れて帰るから」

「……緑川と別れたって話、本当だったんだ」

「……!」

 いきなり触れられたくない話を蒸し返された黒瀬は、殺意のようなものを含んだ怒りの感情のカタマリを、飄々とした態度の梅田に鋭い視線に形を変えて睨みつける。それをさらりといなして、彼は半分馬鹿にするかのような笑みを浮かべて茶化す。

「黒瀬さん、判りやすいねぇ」

「何言いだすの……!」

「おー怖……って動いた」

 彼の言葉の後ろで、電車が停車したようなブレーキ音が電停から数十メートル離れて影になっているここまで響いてきた。

 彼女の怒りを何でもないように受け流した梅田は、ドーナツ屋の前にいた二人が駅前電車通りの方へ移動していくのを見て歩き出す。

 黒瀬は、動いたという彼の言葉を聞いてほんの少し、迷いを引きずるようなしぐさを残した。しかし、一旦迷いを振り切るように彼女はその身を起こすと、広がった差を埋めるように梅田についていった。

 黒瀬が駅前電車通りへと出ると、電停にはさっきとは違う形の電車が停車して客待ちをしていた。駿は何処に……黒瀬が周囲を見回したが、電車の窓から彼女の方を背にしてシートに座る二人の姿がちらりと見えた。そのうち右側に座っている人がこちらを向いた──遠野が自分の方を見ているのを眼鏡越しに彼女は認めた。

「電車の中か。黒瀬さん、乗る?」

「……そうしましょう」

 ここまで来たら迷ってられない──黒瀬は自棄と冷静さの中間地点を保ちつつまなじりを決して電車の方へと歩き出す。梅田もそれにつられるように傘屋の前から黒瀬の後ろをついてゆく。

 しかし横断歩道の途中で電車の窓の向こうにいる遠野の姿が見えなくなり──黒瀬が電停のホームに近づく直前、電車の陰から進路を遮るように出し抜けに姿を現した。

「あら黒瀬さん、あけましておめでとう。今年もよろしくね」

 電車の車体に触れるほど間近で遠野は表向きの笑顔を作って黒瀬に挨拶をする。しかしそこから隠し切れないイヤな雰囲気が、あたかも毒ガスのように振り撒かれているのを黒瀬は嫌というほど感じていた。

 黒瀬にとって幸いなことは、この場所に白谷の姿がなかったことだった。お願いだから姿見せないで──それは今現在の、彼女の切実な願いだった。

 だが、まだ話は終わってはいない。黒瀬は遠野のあいさつを半ば無視するように、

「駿を──彼をどうすんの?」

「あら?あなたは勇樹くんと付き合ってるんじゃなかったっけ?その上、白谷くんまで取り込むつもり?平気で二股かけて大丈夫なの?」

 まるでドラマから飛び出たような意地悪な女性を演じる女優のごとく、遠野はわざとらしい口調と棘を隠す気など端から無い笑みを浮かべて吐き捨てるように黒瀬に言い放った。彼女の瞳ですら、相手を呪い殺そうとする意志で造られてるかのよう。

 黒瀬は彼女の嫌味を無視して、

「駿を連れて帰る。幼馴染だから」

 黒瀬は電車の中へ入ろうと横をすり抜けようとしたが、遠野の手が彼女の動きをとどめた。

「そこどいて。邪魔」

「白谷くんの気持ちも確かめずに?」連れて帰るって……何保護者面してんのよ、と遠野の瞳は雄弁に語っているように怪しくきらめく「聞いたわよ、ケンカしたんだって?勉強教えてもらえないって彼、私に泣きついてきたんだよ」

「泣きついたって……確かにケンカはしたが、教えないなんてそんなこと──」

「一緒よ、何言ってんの。あんた、幼馴染が自分の思い通りになるなんて考えが烏滸がましいってわかんない?」

「思い通りって……他人が何言って──」

「他人から見たらそう見えるんですけど?ホント我儘な幼馴染だこと」

「……何をっ!」

 遠野の、馬鹿にしたような言い方に黒瀬は忍耐が限界を超えたのか、反射的に体が動いて遠野に平手打ちを加えようという動きを見せた──その刹那、黒瀬の腕がつかまれた。後ろから彼女の腕のコントロールが奪われ、動きを中断させられた。

「……なっ!」

「やめな、街中だぞここは」

「くっ……!」

「やるんならだれも見てない所でやりな。学校とかで、さ」

 黒瀬の腕から力が抜けてゆくのを梅田は感じた。腕が下がり、代わりに怒りをこらえようとする震えが彼女を包み込む。

「それに、俺の好きな人が目の前で痛い目に合うなんてのは勘弁してくれ」

 梅田の言葉に黒瀬が怒りを瞬時に驚きに転換して彼の方を見た。

「すきな……人?」

「返事もらってないけどさ、でも俺の気持ちは伝えてある」

 黒瀬からの反撃が梅田によって封じられていることを確かめた遠野は、平手打ちを食らわされようとした瞬間の体のこわばりが消え、再び相手を見下すような尊大な態度をとる。もう大丈夫と踏んだ彼女は背後にいる梅田に視線を向けつつ、黒瀬に言葉の矢を放つ。

「ふうん?黒瀬さんは梅田くんまで取り込もうとしたの?」

「いんや、黒瀬さんとはそこでたまたま会っただけ。前に言ったろ?俺はお前しか見てない」事も無げに梅田はそう言い切り、あまつさえ笑みすら浮かべた「白谷と遊ぶより俺とあちこち行こうや──」

「今はそれどころじゃないの」

 梅田の言葉尻に被せるように、遠野の一言は梅田の意思を途中で拒絶した。そして彼女は"敵"を見据えた。"敵"も負けじと、レンズ越しに敵意を込めた視線を彼女に投擲する。

 ──にらみ合いのエンディングは、電停に設置されたスピーカーから宣告された。

『ご乗車の方はお急ぎください。武生行き普通電車、間もなく出発します』

「そういうことで」

 遠野は電車の入口へと踵を返す。意味ありげな笑みと共に。

「白谷くんと"思い出"、作ってくるわ」

「……なっ!」

 遠野の挑発的な言葉に黒瀬は一瞬思考どころか動きも混乱して立ちすくんだ。数瞬の後、彼女の体が動いて遠野を追いかけようとしたがすでに電車の扉は閉まった所だった。連動して、乗り込み口下部のタラップが自動的に折りたたまれる。ほどなく、遠野と白谷を乗せた電車はあちこち軋み音を立てつつ、こもったモーター音をビルの谷間に響かせてゆっくりと動き出した。

 勝ち誇った勝者が、敗者をその場に捨て置くように。


「何かあったのか?」

「ううん。友達がいたからちょっと話してただけ」

「……」

 遠野は白谷との距離をほぼゼロにして座り込む。微妙な圧迫感が、白谷の右腕から伝わってくる。

 奇妙な違和感、というべきなのか──白谷はちらっと隣にいるかつての"敵"を見る。結果的とはいえ彼女に怪我をさせた当事者が、今は電車のシートに恋人のように密着して座っている。

 逃げ場はない。しかし白谷にその気は不思議と起きなかった。

 互いの存在をすぐ横で感じながら。

 電車は併用軌道上を脱線しそうなほどに身をよじりながら、車をかき分け、福井市の南側へと走っていった。

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