強風オールバック
「なあ、結衣…」
週末の金曜日、6時間目の授業も終わりホームルームの時間もつつがなく終了してさて下校時間となった放課後、クラスメイトが何人か席を立ち帰宅か部活かで教室を出ようかとバタバタしている時間帯に、白谷駿は後ろの席にいる幼馴染の黒瀬結衣に振り向きつつ声をかけた。しかし、肝心の話し相手は何処か窓越しの外を虚無顔で見つめていて、彼の声は1メートルの距離もないのに1キロメートル離れているかのように届く気配がなかった。
「結衣…!」
「えっ!?」
彼は強めに彼女の名前を呼ぶと、突然スイッチが入ったオモチャの様に驚いて、ついで声の主の方を目をレンズ越しに見開いて視線を合わせた。
「な…何?」
「結衣、やっぱり今週何か変じゃね?火曜日か水曜辺りから…どこかぼーっとしてるみたいで…」
「そんなことない…うん、そんなことない」
笑顔を無造作に顔に張り付けて無理をしている様に幼馴染に見せる黒瀬は、多分白谷以外のクラスメイトから見ても何かおかしいと気づくくらいに何かを隠していそうに見えた。
「…今週、なんかあった?」
「…何にもない。で、呼んだ理由って何?」
疑問を質問にすり替えて主導権を握ろうとする黒瀬。レンズ越しの視線はいつも通りのように見えるが、長年幼馴染している白谷からすればどことなく弱い。
「…何もなけりゃいいけど…」
「何もないって。で、何?」
何かに触れさせない様にしようとする黒瀬の言動に訝しむ白谷。無意識に目を細めて幼馴染の顔を凝視する。見つめられている方は自分の心の中を覗かれているように感じたのか、顔を怒った河豚みたいに膨らませて、つい、と視線を逸らし、そうはさせまいと見えない抵抗をする。
白谷は彼女のそんな抗いを見つつ、ふと思いついたことを口にした──こんな素振りして訊くな、ってのは無理だろう…そう好奇心がそそのかす。
「帰り、駅前の何処か寄ってかない?ドーナツ屋とかで。勉強のやり方とかでいろいろ訊きたいことがあるし…」
「別にいいけど…駿にしちゃ珍しいね」
「そっか…?」
「というか、もうすぐ期末だけど最近図書館へ勉強行ってないでしょ?」
「まあそれはそうだけど…それも含めて」
「まあいいわ。今すぐ行く?早めに行った方がバスの時間が…」
黒瀬はそう言いかけて言葉が不意に堰き止められた。言葉を遮られた彼女の口が、意味もなくわずかに動き、やがて緩やかに閉じられた。眼鏡越しの瞳が焦点を失ったかのように白谷を中心として迷走している。
白谷が、彼女に起きた異変を見逃すはずはなかった。
「…どうした?結衣…」
「…駿、先に行ってて。次のバスで行く。ドーナツ屋で待ってて。道から見えづらい場所で」
「何で?一緒に行こうや──」
「先行ってて!」
愛想笑いから瞬時にイライラした怒りを含んだ強めの言葉が彼女を中心に教室に広がった。残っているクラスメイトは何が起きたのか、その声の発生源へ一斉に振り向く。同時に、それぞれの会話が中断されて奇妙な静けさがクラスを支配した。
「…結衣、やっぱり何かあっただろ?」
話を逸らそうとして結局元の木阿弥になってしまった黒瀬は感情の波の制御できなさを悔やんだが、諭す様な幼馴染の優し気な問いかけにも反応したくなかった。
行き場のないマイナスの感情が、その出口を求めて彼女の中で積乱雲の様に急成長している。その成長を黒瀬は深呼吸をして整え、感情が過反応しないよう気持ちの低気圧を鎮めようとしていた。肩で息をするかのような荒々しい呼吸音が、時間の経過とともに落ち着いてくる。
「…ごめん、先行ってて」
黒瀬は彼に視線を合わせずにその場を離れた。並べてある机を障害物をよけるかのように足早にクリアして、彼女は教室から廊下へと姿を消す。しばらくは足音が聞こえているかのように耳に残ったが、それもやがては他のノイズに埋もれて聞こえなくなった。
白谷は一瞬追いかけようとして席から立ち上がったが、彼女を追って走り出すまでは至らなかった。
…今のところ出番は無さそうと思ったのか白谷は、黒瀬が教室から出ていった出口をしばらく見つめた後、軽くため息をついて…机の横に掛けてあるカバン等を取り出した。クラスメイトがこれからどうするんだと言いたげな視線を彼に向けているなか、帰る準備を整えた当事者は周囲を見回し、軽く目を伏せてさほど大きくない声で、
「…帰るわ」
白谷は、それ以上は何も言わずに衆人環視の中、彼女が出ていった出入り口から何処かかったるそうに歩いて帰宅の途に就いた。もちろん、直に家に帰るわけではないが。
20年ほど前のアメリカンポップスが、小さすぎず、かつ会話を邪魔しない程度の音量で甘い香りが満ちている店内に音で彩を添えていた。
県庁に転用された福井城址から伸びた道路は、小学生のかけっこにでも使われそうな道幅の駅前大通りを交差して、路面電車の終端がある駅前電車通りで終わる短い県道。その道の終点から少し県庁側へ遡ったドーナツ屋店内に白谷はいた。帰宅時の買い物客でにぎわう店の中の飲食スペースに並んだテーブルの、店の外からは見づらい位置にある奥まったこじんまりとしたテーブルに白谷は座り、じきに来るであろう幼馴染の登場を待っていた。
店内から外を見ると、アーケードに守られた歩道ですら季節風にあおられた雪がまるで白い壁のように強い勢いで降り続き、道を挟んだ反対側の薬局や明かりが微かに覗ける証券会社の姿を覆い隠そうとばかりに乱れ飛んでいた。歩道を歩く通勤帰りのサラリーマンたちは、傘を突き立てて雪から身を守りながらせわしなく歩道を行き来する。
やがて、ガラス越しのアーケードの景色に見知った女子高校生が、コートとマフラーとイヤーマフの防寒装備で身を固めつつ、傘で雪を防いでドーナツ屋の自動ドアを開かせた。いらっしゃいませーという店員の挨拶もそこそこに、黒瀬がしばらく店内を見渡して──白谷の姿を見つけると、傘を畳みながら彼が占拠しているテーブルに近づく。
「遅くなってごめん…」
「気にすんな。それほど待ってたわけじゃないし」
黒瀬にかける言葉とは正反対に見えるベクトルの表情をさりげなく浮かべて白谷はやや冷め始めたアメリカンコーヒーを口に含んだ。彼女は手早くカバン等を足元に置いてコートを椅子の背もたれにかける。イヤーマフやマフラーは床に落ちないよう慎重にカバンの上に置いて重ねる。
「何か食べる?」
「…コーヒーだけにする」
彼女はそう言うと再び席を立ち、カウンターでホットコーヒーを注文してすぐ戻って来た。白谷はそれを見計らったか、席に着いた彼女に間髪入れずに問いかけた。
「…何で別のバス?」
…答えがない。始めから彼の問いを聞いてなかったかのように、黒瀬は俯き加減でかろうじて彼の手元を視界に収めるような角度で黙っていた。しばらく、店内BGMと来客の喧騒を耳にしながら沈黙の時間が緩やかに過ぎてゆく。
店員がテーブルに注文のコーヒーを置き、ついでに白谷へお代わりの有無を訊いてきたので彼はお願いし、底が見えそうな量のアメリカンは再び満ちた。
「結衣──」
「今は勉強の話でしょ。バスの中で色々考えて──」
「結衣」白谷は強めの口調で黒瀬の逸らす言葉を遮った「今のバスの件にしたって、結衣、何かおかしいよ…ハナシ上の空で、まるであたしを心配して、って言ってるようなもんだぞ」
「なっ…自分がいつそんな事…!」
図星なのか、彼女は顔を紅潮させて思わず強めの口調と目線で白谷の言葉を否定する。店内に響いた黒瀬の声はその中の全員を彼女に注目させるほどだった。10人以上の視線が刺さってる黒瀬はそれを感じて恥ずかし気に再び俯く。そして絞り出す様な小声で再び否定する。
「…ホントに何にもないんだったら…」
「何もないんならそんな強めの口調にならんだろ?何年幼馴染やってると思うんだ」
「そんなことより、駿、勉強の話するんじゃないの!?」
白谷は黒瀬の小声での抗議を聞いて聞かぬふりしつつ、お代わりをしてカップに満ちているアメリカンに口をつけた。まだ熱いその液体を少し口に含むと、温度を降下させて喉の渇きを癒して奥へと流し込む。
「すまんが、ウソだ。結衣の事を聞きたくてウソをついた」
「帰る!」
その言葉に周囲の客が再びすわ修羅場?と彼女の方へ振り向いた。衆人注視の中、足元に置いた防寒グッズや椅子に掛けたコートを手早くまとめながら黒瀬は湯気を立てているコーヒーを無視して帰り支度を始めようとした。が、白谷はそれを制するように言葉をかける。
「結衣、ウソついたのは謝るけど…でもさ、そんな心ここに有らずみたいなのは…」
「──自分だって言いたくないことの一つや二つはある」
「結衣、そりゃあ弟みたいな俺にも言いたくないことだってあると思うけどさぁ…"お姉さん"としてカッコいい所見せたいって思う気持ちもあるだろうし。でも、だからこそ言って欲しいというか、さらけ出してほしいというか…」
帰ろうとしていた黒瀬の行動の速さが明らかに落ちた。表情は言いたくないの一点張りのような怒り顔だが、時間の経過とともにそれには丸みを帯び始めたように、白谷には見えた。
彼女は不貞腐れたような表情を浮かべて、しかし再び椅子に腰を下ろした。持って店を出ようと思っていたらしい防寒グッズ類を再び来店時の時間に戻したようにカバンの上に置く。
「…昔からさらけ出してると思うケド…」
「結衣が思ってるほどそんなにねーぞ」
「……」
「もしかして緑川となんかあった?」
白谷が、教室で声をかけた時から既に確信していた言葉を繰り出した。そう言われた黒瀬は俯いた顔を一瞬上げて幼馴染の顔を真正面から見据えた。何か言いたそうな口の動きをして…視線を逸らして再び俯く。無言の時間は続いた。
店内の喧騒を白谷は脳内で半ば無意識にミュートしつつ、対面に座る彼女を観察する。幼馴染のこの行動からして緑川と何かあったのは確実だが…白谷はカップに入ったアメリカンを一口すする。
幼馴染の前に置かれたコーヒーからは、湯気が上がっているがその勢いは明らかに減じている。中の量は始めから変わっていない。
彼女は、何か言葉選びに苦慮しているように見えた。
「結衣、とりあえずコーヒー飲んどけ。冷めるぞ」
促すが、彼女の反応が乏しい。そばのテーブルでドーナツを食んでいるOLっぽい人が、さっきから修羅場っぽい雰囲気の二人が気になるのか、ちらちらと心配そうに時折横目で見ている。
量が少なくなり、湯気が出なくなったアメリカンを白谷は静かに飲み干す。一旦、幼馴染を見る。同じ姿勢をとっている彼女に何か言いたげな視線を投げかけ、空になったカップをテーブルに置いた。
「……たの」
黒瀬の口元がかすかに動いたかのように見えた白谷は、少し顔を彼女に近づけた。店内の賑わいに消された言葉は、戻ってこないが。
「結衣、今何か──」
「ダメになっちゃった…自分と勇樹くん。離れよう、って…」
「……」
彼女からの、絞り出すかのような、それでいて店内のざわめきにかき消されそうな小さい声を聞きとった白谷は言葉もなく、ただやや目を見開いて幼馴染を見た。
それと同時に、彼の心は一瞬、このことを歓迎したい感情で体が震えそうになった──戻って来た、と。もちろん、それは彼の心の中でしか表現しなかったが。
「──そっか」
俺自身にもうちょっと"経験"があれば、こういう時にかける言葉の一つや二つはすぐ出て来るんだろうな…しかし現状は、白谷はようやくそう言う事しか言えなかった。"弟"として、こういう時に"姉"にかける言葉の一つもないのかと内心、自分のふがいなさを痛感した。
再び、二人の間に言葉が飛び交わない時間が発生し始めた。店内の喧騒と有線から流れる20年ほど前のアメリカンポップスがそれを埋めるかのように流れ込む。
時折、来客者が開ける自動ドアから季節風と雪の成れの果てが店内に迷い込み、二人の周囲の空気をかき乱す。それにそそのかされたのか、彼女はそのままの姿勢で再び店内のBGMに負けそうな小声でつぶやき始める。
「──勇樹くんがね…自分の心が僕に向いてないって言うの。ブレスレット忘れたのに駿と同じペンダントは忘れずに持ってるからって…」
黒瀬は淡々と小声で幼馴染に語ってはいるが、その口調は次第に後悔と情けなさと、そしてほんの少し──自分への怒りの感情が乗り始めた。レンズ越しの彼女の瞳もいつもより潤んでいるように、相対している白谷には見えた。
テーブルの上にのせてある彼女の両の手を、彼はちらっと見た。左手首に付けている、緑川からもらったペンダントを加工したブレスレットの一部が、制服の袖口からちらりと見えて店内の電球の光をきらりと小さく反射させる。
「…この前、駿にあれだけ偉そうな事言いながら、こわれた後、魔法捨てよう、って思ったの。水晶があるからこんなことに…って」
黒瀬はそうつぶやきように言いながら冬制服の下にあるペンダントの位置を確かめるように胸元をまさぐった。場所を確かめ、上から心臓を掴むように握る。その握る手は、微妙に震えているように白谷には見えた。
魔法を持っていることが仇になった形に…白谷は彼女の姿勢が伝染したのか、俯き加減で漠然と空になったコーヒーカップを見つめた。俺も同じ──だから悩んだ。捨てるか、続けるか──。
「でも…捨てられなかった…」
黒瀬はそう言った後、数拍置いて感情が爆ぜる手前で荒れ始めた呼吸を整えようと肩で息をした。一つ、大きなため息。
「やっぱり自分、これしかないんじゃないかなぁ…って」
俯いている彼女の表情に笑みが浮かぶ。しかしそれは、本当のそれではなく、自虐のため。
白谷は言葉を発せずに彼女の言葉を聞き続けた。
「…だから自分、もう恋愛はしない、って決めた。こんなことになるなら、初めからない方が気が楽だし──」
「それは──」
困る、と続けようとして白谷は口をつぐんだ。彼自身、何でそういうことを言おうとしたのか考える前に言葉がこぼれてしまった。
「…それは、って?」
「あ…いや、何でもない…」
彼の言葉に一瞬反応した彼女が俯いた顔を上げて相対する彼へ視線を向ける。何処かきょとんとした表情を向けられた白谷は笑ってごまかして煙に巻く。でも、彼女を見る目は言い切っていた。
──そんなこと言うなよ、と。
言葉が途切れ、二人の間に店内の喧騒が割り込んできた。白谷は、彼女へかける言葉がすぐに思い浮かばず焦り、黒瀬は彼が何か言ってくるのではとの期待が、結局は二人を無言にしていた。
しばらくして黒瀬が何か言いたげに口を少し動かし、やがてそれは発音を伴って彼の耳に届く。自虐の感情を伴って。
「恋愛、ってムダだよね。こんなことにかまけてる時間があったら違う事に使わないと…もう、誰かを好きになったりして心が掻き乱されるのは…嫌」
「それは──」黒瀬の言葉に被せるように白谷が口を挟む「…なんか違う気がする」
「何処が?」
「うーん、上手く言えないけど…試行錯誤の途中で上手く行かないからってそれ自体辞めちゃうって、結論出してないのに、って思ってしまうんだが」
「結論出てる」
「早すぎない?」
「時間がもったいない」
「ひょっとしたら、答えが出る直前かも知れないんじゃない?」
「どうやって!?誰が!?どのように!?」
黒瀬の叫びにも似た問いかけが店内を有線放送以外黙らせた。水を打ったように静かになった店内を、我関せずとばかり60年代のアメリカンポップスが陽気な歌を奏でていた。
今日何度目かの視線の集中砲火を受けた彼女は、怒りに替わって恥ずかしさに顔を赤らめて、思わず立ち上がった席に再び腰を下ろした。
「…どうやってそれを証明するのよ」
「それは…」
叫び声の1/10くらいの音量で幼馴染に詰問する黒瀬。白谷は反駁の言葉を出そうとして彼女に喉元を抑えられたように詰まる。言われてみればそうなのだが、それでも…と、白谷は心の中で彼女に反旗を掲げる。
しかし、言葉としては黒瀬には表現しなかった。
今それを言っていいのか。赤城と別れてそんなに経ってない所でそれを言うのは人としておかしいんじゃないのか、と。はやる心に、制御棒が挿入されて言葉という気持ちの反応にブレーキが掛かる。
だったら──白谷は彼女の言葉のどこかに、そうならないでと叫んでいる部分をふわりと感じた。口が勝手に動き出す。
「だったらさ」白谷は何気なくアーケードの方を見ながら彼女に訊いた「もうそこまで決心してるんなら、何でバス一緒じゃなかった?」
俯いた黒瀬が米国製アニメのような滑らかな動きで彼の方を見た。白谷も同じタイミングで彼女に視線を移した。
「もうそこまで心決めてるなら、別に俺と一緒にここへ来たって構わないんじゃないかなぁ…俺と結衣は幼馴染ってもう知れ渡ってるんだし」白谷は視線を黒瀬から外して言葉を続ける。「結衣、俺と一緒に帰る所を見られるのが怖かったんじゃない?一緒に居たら、もしかしたら戻せるチャンスを失うかも、って…緑川からもらったペンダント、まだしてるってそう言う事だろ?この場所を指定したのも…」
戻した白谷の目線を今度は黒瀬が逸らした。何か考えている風に見えた後、それはない、と被りを振る。
…しかし、何処となくそれは彼女の中の彼女とは意見が違うように、白谷は思えた。
その証拠なのか、彼女はマトモに彼を見ていない。
「いつもなら即答して違うって言うはずだけどなぁ…」
「…わかんない」
黒瀬は、自分の中が混沌になっているのを知ってほしいかのように、白谷の言葉に静かに、簡潔に答えを返した。
──さっきまで吹雪くかのように降っていた雪が、気が付けばその勢いを減じて、舞台の上の花吹雪の様にちらほらと舞い降りるだけになっていた。街灯やアーケードの蛍光灯を反射して、雪はなおその白さを見せている。
「結衣、雪止んでるから帰ろうか」
「え…あ、うん…」
「コーヒー、飲んじまえ」
「…いい」
彼女の前に置かれたコーヒーからは、湯気はもうそんなに立ち上ってはいなかった。
そして、彼女の眼鏡のレンズに、いつの間にか小さな水滴が一粒、ついていた。
「…何しに来た」
「クラスメイトのお見舞い」
「…クラスメイトに会いたくないって言ってんだろ」
「いいじゃん別に。もうちょい停学期間が続くんだろ?今から俺見て慣らしとけよ」
「何言ってんだ帰れよ」
「ついでに授業のノートも持ってきたんだが…」
約束無しに突然やってきたクラスメイトに遠野春香は強気の表情を崩しはしなかった。しかしほんの僅か、これ見よがしに取り出したノートに付けてある別紙の文字を彼女が見た時、隙が出来たように強張りが消え失せたのを訪問者の梅田秋生は見逃さなかった。遠野は出来た隙を埋めようと再び顔が強張るも、CM1本ほど前の過去の、表情の再現は出来ていなかった。恥ずかしさと、申し訳なさと、ほんの微量の、燃え残っているかのような好意の感情がノイズとしてその強張りに含まれていた。
季節風が、古びた家が立ち並ぶかつてはこじんまりとした商店がいくつか点在していた住宅街を駆け抜け、低く垂れこめた鉛色の雲が、その駄賃として白く冷たい雪という名の花を桜吹雪の様にまき散らして空間を埋め尽くす勢いで降り注いでいた。住宅らの背景に鎮座する山の暗さが、雪の白さをさらに際立たせている。
その並びの、融雪装置が水をまき散らしている道路に面したクラスメイトの家を、一人の男子高校生が訪れていた。
訪問者の梅田は制服の上に紺地のコートと同系色のマフラーで防備を固めてるに対して、片や遠野はパジャマの上に暗めの紅色っぽい半纏を纏っただけ。右手には、副木ごと包帯で幾重にも巻かれて厳重に固定されていた。
底冷えする玄関に居るだけでも寒いのに、そこで帰る帰らないの問答を続けるには無理があった。寒気で、彼女の体が一瞬ぶるっ、と震える。吐く息も、白い。
「もう…何だってんだよ」遠野は仕方ないと観念したのか、ため息と共にかろうじて訪問者に聞こえる位の小声で「…寒いから中に入れ」
「そうさせてもらうよ」
──あいつに無理言って授業のノート監修と遠野宛の伝言書かせたのが効いたな…思ったより上手く行ったことに彼は内心ガッツポーズした。
遠野に言われて梅田は靴を脱ぐ。彼の家とはまた違うその家独特の匂いが彼の鼻腔をくすぐった。
「しつれーしまーす」
外とはわずかに高いがそれでもあったかさを感じる廊下を、梅田は遠野にくっついて彼女の家の中へと入って行く。すぐそこの居間に入るのかと思いきや、彼女はそれらを無視してずんずんと廊下の奥、突き当りへと向かってゆく。そこにはいかにも女の子の部屋の入り口らしい飾り付けがしてあり、そこが彼女のプライベートエリアであることを梅田の脳裏に印象付けた。
「ん?遠野の部屋で?」
「今ウチにいるの自分だけだから。暖かい部屋、わたしの部屋だけ」
廊下の両側に昭和30年代辺りの年季の入った襖や障子に仕切られた居間が並んでいるが、どの部屋も電気が消えていて薄暗く、いかにも冷えていそうに梅田は思った。
「…突然来たから片付けてはないけど」
「ダイジョーブ気にしない」
梅田の気軽な返答に呆れたのか、一旦合わせた視線を切ると、彼女は自分の部屋に異性を仕方なしに、という感情が乗った動きで招き入れた。
部屋の主は、招かざる異性のクラスメイトを部屋に入れると、外と比べたら天国以外の表現が思いつかない位暖かいが壁近くに設置してある強制排気型のファンヒーターの温度設定を何度か上げた。彼女なりの、来てもらったクラスメイトへの心遣いか。
女子高生の部屋としてはこざっぱりしているというか、悪い言い方だと殺風景に近いくらいに物が片つけられている。派手めな色彩の家具やグッズ、装飾品などはなく、いい意味で落ち着いた色に彼女の生活は囲まれている。
「へえ…片付けてないって言う割にはちゃんとしてるんじゃない?」
時折遊びに行く従姉妹の、ゴミ箱か廃屋か見分けがつかないようなバタバタした部屋を見ている彼にとってみれば、遠野の部屋が片付けてないというならこの世のすべての部屋は片付いてないと同義語になる…様な事を思わず口にした。
しかし、遠野は話を始めから聞いてないかのように、
「ノート見せて」
事務的と関心のなさを混ぜたような遠野の質問に、言われた彼はメモ付きのノートをまず渡し、次いでそこそこ長めのストラップで肩から吊るした黒地の防水布製のカバンから残りのノートを取り出す。各教科1冊づつ、彼女が停学処分を食らった翌日分からまとめられていた。
「ほい。昨日までの分。今日以降はまた翌週かな」
梅田から複数のノートを渡された遠野は、それらを眺めつつカーペット敷きの床に腰を下ろした。家の古さのせいか、床からいくらかの軋み音が伝わってくる。いくらか遅れて、梅田も床に腰を下ろした。
パラパラと彼女は渡されたノートに軽く目を通す。瞳が文字をトレースし、概略という形で彼女の頭に書き込まれる。慣れない左手を使ってページをめくり、再び瞳を走らせる。
それぞれのノートは別々のクラスメイトが書いているものだが、時折そのノートの持ち主とは違う筆跡で、判りにくい箇所の解説を書き込んだ黄色い付箋紙が貼り付けられていた。
「どう?わかりやすいか?」
梅田の問いに遠野はすぐには反応しなかった。言われて数秒間は瞳を動かしたあと、顔をやや上げて独り言をつぶやく様に言葉にする。
「…これ、所々の注意書きって…勇樹くん?」
クラスメイトの名前を、いくらかの笑みを浮かべながら遠野は感想を述べた。同じ言葉を聞いた梅田の方は、少しだが表情を硬くした。そして、そう、とぶっきらぼうにも聞こえる答えを表明して梅田は天井を見上げる。リラックスするかのように、両の手で後ろに傾く体を支えながら。
「で、何で梅田が来たの?」
私達、そんなにクラスでも話してなかったでしょ?と疑惑の目を訪問者に向けて遠野が訊いた。
梅田は見上げたままの姿勢で、
「俺が言い出した」
「…何で?」
「そりゃあ…興味あるから。遠野に」
「私はあんたに興味ない」
「そりゃあ判ってる」
「……」
「緑川しか見てない、って感じだったもんな」
「判ってるなら──!」
「俺は今、お前しか見てない」
梅田は見上げた天井から困惑気味の遠野に視線を向けた。梅田の、告白にも似た言葉に遠野の唇は制御が出来なくなっていくらか右往左往している。
「…何で?」
「さあ、色々あるし…」
意味ありげな笑みを遠野に向けるも、向けられた方は警戒の顔を崩せない。しかし、拒絶のそれではなかった。
「…無駄な事はやめたら?」
「無駄かどうかは俺が決める。俺が諦めなければ、無駄にはならない」
「…バカじゃない?」
「俺はバカだからだよ。緑川や遠野みたいに頭良くねーし、将来の事なんて全然わからん。だからだよ」
梅田から顔を背けた遠野は、わざと聞かせるかのような溜息を一つつくと、言葉を選んでいるかのような無言の間が数秒、続いた。
「…勝手にすれば?こっちは関わらないけど」
そう言った遠野は顔を背けたまま、目線を彼に向けた。いつかは俺の隣に居ることになるさ、と言わんばかりの笑みを梅田は彼女に向けて…彼女はその視線を再び切った。
…言葉を発することを禁止されたかのような静粛。ファンヒーターの稼働音と、そんなに遠くない駅からの電車のモーター音が部屋の中で許されたBGMとして奏でられていた。その空気の重さが質量として感じてきそうになってきた時、それが破られた。
「…誰が言い出したの?ノート私に見せるって。しかも勇樹くんの解説付きで」
「俺が言い出して、クラスのみんなに頭下げて借りた。なんだかんだでみんな協力的だったぜ」
「…クラスのみんな、が…?」
「今まで他の子の判らなかった所教えてたりしてただろ?それなりに一目置かれてるんだよ、遠野は」
ああいうことをやらかしたのでもうクラスメイトは自分を排除するんじゃないか、と思っていた遠野は、梅田からそう言われて驚きと意外さにどういう表情をしていいか迷った顔を浮かべた。
「先生も、普段あれだけいい成績出してるんだからと言って停学の期間を短くするように働きかけてるらしい…っつーか、ウチの学校そういう所は何かいい加減だよなぁ」
ひょっとしたら彼女に期末受けさせるために停学期間短くする交渉してるんじゃないかと梅田は勘繰りたくなる。他の高校なら退学や長期停学で下手すると留年の可能性が出て来るところだが、こういう所がウチの高校は中途半端でいい加減な所だなぁ、でもなんだかんだでそこはウチらしいなぁ…と梅田は苦笑いを浮かべる。
「だから遠野さんや、停学明けたらちゃんと学校来てや。みんな待ってるぜ。すぐ期末だけど」
「…うん」
心配すんな、と顔で彼女に知らせる梅田。
ホントにみんなそう思っているのか遠野は半信半疑だが、でもノートからはそれが信じるに足ることが文字から浮かび出る。それらを嚙み締めながら、彼女は短く彼に返事をした。
それを聞いた梅田は、右腕の腕時計を見ると反射的に立ち上がった。
「…それじゃ帰るわ。また来週辺り持ってくるよ」
そう言いながら立ち上がる彼を下から見上げるようにして、遠野は視線を固定した。
「…ノート、ありがと。でも来週は別の人がいい」
「それはない。さっき遠野言ったじゃん、"勝手にすれば"って。だから勝手に来週も来る」
「……」
下から見上げる、ややもすると睨みつけるような視線で梅田を射抜こうとしている遠野。それに対して、笑みを崩そうともしない梅田。睨みつける目力はそのままに、遠野はクラスメイトに問いを投げる。
「なんで私に興味あるの?」
「おもしれーから──それだけじゃダメか?」
「ドロボウ猫に襲撃するような女よ。それの何処が面白いのよ」
「ちゃんと襲撃したから。だってこの学校、みんな人目気にしていい子ちゃんしてる連中ばっかじゃん。誰々気に食わない、いつか襲ってやる…そんなことばっか言ってマトモにやれずに鬱屈して口だけの中途半端な生徒ばかりの中で、遠野はちゃんと相手を襲撃した。返り討ちに遭って停学喰らったけど、その根性は凄いと思う」
その時遠野は、こいつ何言ってんだとマンガだったらそう言う吹き出しが絶対自分の横にくっついてそうなほどいろんな意味でおかしい人を見つめる瞳でクラスメイトを凝視していた。しかし…そんな緊張感は長続きせず、固まった時間がゆっくり溶け出すように、遠野の表情にも緩さが浸透してきた。
「ははっ…変な事言うやつだなぁ。偉そうに」
「勉強できないバカでも、たまには偉そうな事言いたくなるって」
梅田の顔からは、その根源は無尽蔵かと思われるような過剰なほどの自信が満ち溢れて周囲へと放射しているかのようだった。遠野は半ば面白がり、半ば呆れて彼をしばらく眺めた。
「それじゃ来週。ちゃんと勉強しとけよ」
「…言われなくても」
偉そうモードを打ち切ってクラスでよく見かける表情に戻った梅田は、軽く手を上げて挨拶をする。ノートを受け取った遠野は、そんなことなど百も承知とツンケンしながら、いくらかは和らいだ感情を混ぜ込んで挨拶を返す。
遠野家の長い廊下を再び玄関へと向かう梅田の数歩後ろを、付き従うように半纏姿の彼女が追いかける。距離は、保ったまま。彼が足首まである雪用のブーツを履き、玄関の扉に指をかけて立ち止まった。
「入れてくれてありがとな。じゃ来週、また」
声を出さずに軽く左手を上げて、遠野は借りたノートを持ってきた彼に謝意を示した。引き戸を開けると、季節風にあおられた粉雪が幾筋か中に迷い込んでくる中、梅田は柔らかな笑みを浮かべると扉を閉じた。勢いを失った風に乗った粉雪の欠片が重力に引かれて玄関の土間に落ち、やがてそれは水へと形を変えた。
「……」
後悔が、彼女にささやく──彼を家へ入れるんじゃなかった、と。クラスメイトがそこまでしてくれるにも拘らず、彼女自身は…。
底冷えのする玄関で、彼女はクラスメイトがその場を立ち去ってからもしばらくその残像を見つめるかのように、立ち尽くして扉を見つめていた。
福井駅前アーケード街にある純喫茶に、魔法庁職員の御寺由紀が客人と店の奥にある半個室の場所で話をしていた。昨日金曜日から担当区域の一つである福井県入りしていた彼女は、数日かけて県内の術者の所を回ったり話したりして、必要な情報などを集める予定を立てていた。
客人は、術者で、パートだが史料解析研究員で、結衣の母親でもある黒瀬木綿子。この日は、新しい史料を手渡しつつ解析結果等の情報交換を行っていた。
「今回の史料、目録作成前段階ですけど…もしかして載っているかも──」
模造紙に包まれた史料の束を、御寺は黒瀬の前に差し出す。史料の周りを緩衝材が覆っているせいか、容積がありそうな割には思ったより軽く、その感触は柔らかい。黒瀬はそれを受け取ると、とりあえずはテーブルの横にそれを置いた。
店の奥の半個室は、必要とあれば結界を張って音が一般客も入る場所への漏出を防ぐことが出来る。この純喫茶は魔法庁の連絡事務所も兼ねているので今回も、御寺は店のマスター兼魔法庁嘱託の布目へ指示を出して防音結界を張ってもらった。
「よく見つけましたね」
テーブルに置かれた小柄なコーヒーカップをつまむと黒瀬は残り少なくなったコーヒーを飲み干した。空になったカップを受け皿に静かに戻す。カツ、と小さな触れる音がそこから弾けて消えた。
「以前話してた、とある藩の大規模な山体崩壊事故を生き延びた集落の家族がその後東北地方へ引っ越して、現在古い家を解体しようとした時に襖などの下張り紙から見つかったそうです。その地域担当の連絡員から情報が回ってきて、即座に地元の教育委員会を通じて回収したのがこれです。まあその家、昔から今で言うメモ魔だったらしく、普通に日記や証文、集落の寄り合いでの議事録、作物の育成状況等を記した古文書類が見つかっていたので以前から地元の史料編纂委員会は目を付けてたらしいですが」
御寺はライムフレーバー系の煙草を取り出して咥え、100円ライターで火を点けようとするもうまく火が飛ばない。数回チャレンジして──煙草を吸うのをやめた。灰皿に未使用の煙草をそっと置く。
「目録作成前段階でざっと目を通しただけですが、あの山体崩壊事故の顛末や、その後の術者がどうなったかが書かれているみたいです。なので、特に黒瀬さんにこれの解析をお願いしたい」
「わかりました」
「まあまだ不確実ですけど…ひょっとしたら、一人じゃなく二人の術者で、しかも片方は男性の術者…かもしれない、とのことです」
「となると…"ちいさき魔法"の手掛かりが掴めるかも」
「…と思います」
彼女はちら、と自分の横に置いたその包みを見た。古文書は、意外な所に使われて──例えば襖の下張り用の紙として──そこに住む人らが知らないうちに消費して、破棄していることがある。パッと見、何が書かれているかが判らず、ただ古い紙切れと思って捨てられてゆく古文書は思ったよりも多い。本来ならそういう古文書を回収して分析、解読すれば歴史の穴を埋める重要な役目を果たすはずなのだが…。今回はたまたま以前から目を付けられていたことが幸いしたのだが、本当はもっと多くの術者に関する事象が記録されていた可能性があったはず──。
「──それと、話は変わりますが…」御寺は黒瀬に話し始めるも、何処となく切り出しにくそうにその話すテンポが緩やかになる「結衣さん、まだ…治ってない状況ですか…ね?」
言われた黒瀬はそんなこと気にしなくても大丈夫と言いたげな笑みを浮かべて御寺に返す。
「ええ。本人は努力はしてるんですけど…またいくらか指導はしましたけど、こればっかりは…」全く使えないわけではない…が、明らかに今までと比べても"出てない"の同義語と言っていいほどのレベルにしか回復していない──母親としての見解はこうだった。「もう少し様子を見てみるしかないですし、後は本人次第…駿くんのサポートもあればいいんでしょうけど。御寺さん、こういう時の対処法ってのはないんですかね?」
「残念ながら…現状何件かの似たような事例はあるんですが、気が付いたら治ってるというパターンばかりで。ただ、治るのにもそれなりの期間があるので、気長に待つしかないですね」
お手上げです、と言わんばかりのややおどけた表情を御寺が見せる。
仕方ないか…そう思った黒瀬が再び横に置いた史料の束の方をそっと見る。そしてしばらくして、まるで何かに強要されたかのように視線を固定しつつ口を開いた。
「…術者って、どうしてこんな力を持って生まれたんでしょうか…」
「…職員である私自身でも判りません──我々が何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか──」19世紀の終わりの高名な絵描きが描いた絵画の中にある一説を御寺が呟く様に言う。「気が付いたらその力を持って生まれて、気が付いたらその力を何かの役に立てるように使えて、気が付いたら長女にその力を宿すように産んで、気が付いたらこの世を去ってる──皆が皆この力があるなら話は別ですが、ほんの一握りの人間にしか付与されないこの力…もし神が居るというのなら、何でこんな余計なものを付けさせたのか、尋問したい所です」
自虐気味の笑みを浮かべて御寺が言い放った。つられて黒瀬も苦笑いを浮かべる。
そしてふと部屋の時計を見た黒瀬は、何かを思い出したように立ち上がる。これ以上哲学的な話をしても、結論は当然、見出せるはずがない。それに家に帰る時間が近い。
「すみません、そろそろ帰って夕食作らないと…じゃあ、史料お借りします。また解読解析結果は電話とレポートで」
史料の包みをあらかじめ用意した、何処にでもあるような緑色をした大きめのビニール袋に入れると黒瀬は遅れて立ち上がった御寺に挨拶をする。御寺も挨拶を返すと、カウンターにいるマスターに機能解除の指示を出す。一般客がいるエリアの話声が、ボリュームをフェードインさせたかのように静かに聞こえ始めた。
「では黒瀬さん、よろしくお願いします」




