風をあつめて
異変が起きたのは、3時間目の授業中だった。
県立秋翠高校東校舎3階の2年7組の教室では先生の声と黒板に書き込むチョークの音、ノートに授業内容を書きこむシャープペンの音が静かに混ざり合っていた。
そこへ、窓に近い天井から何かが違う音が乱入してきた。
「?」
音の真下に机がある白谷の友人の黄谷はふと天井を向く。コトコト、バタバタと音がする天井…そこから降ってくるのは音だけではなかった。
粉みたいなものがいくつか降り注いできた。そのほとんどは机や黄谷の衣替え前の黒い学生服に付着するとそこから動かなかったが、そのうちの一つは机に着地すると、その体に似つかわしくないほど高く再び空中へと飛び跳ねた…!
「…ノミ!!」
授業中の静かな雰囲気を引き裂く悲鳴に似た叫びに、2年7組のクラスメイトは一斉に声の主を見つめた。
「ノミ?何で」「え、なになに?」「どういうこと?」「何があった?」
反射的に本人を含めた半径3メートルの生徒がそこから退避していた。
「どうした。何してる!」
国語教師の川崎が、授業を妨害されたと勘違いしてやや血圧をあげながら黄谷の所に大股で歩み寄る。
「先生、天井からノミが降って…」
「ノミ?お前何言って…」
川崎の声を遮るように黄谷が指先を天井に向けると、他の生徒も先生もつられて件の天井部分を見つめた。
防音吸音材として使われてる、言葉は出てこないがその模様を見ると誰もが知っているあの模様…トラバーチン模様のパネルとパネルの間から、コトコト、バサバサという音とともに再び粉が降ってきた。それがまた黄谷の机に降り積もると、その中の一つの塊がだしぬけに上空へと舞い上がった。
女子たちが一斉に金切り声を上げて後ろに退く。野郎連中もノミに嚙まれるとどうなるかは少なくとも知識として知ってるので、微妙に後ずさりする。
「誰か殺虫剤持ってこい!保健室にある」
「天井のこれどうすれば…」
「雑巾持ってきて!」
軽くパニックになった3時間目。こうなっては、もう授業どころではない。
案の定、3時間目はおろか、4時間目までもノミ騒動で潰れた。
「…この校舎、昭和38年だっけ?出来たの」ノミ騒動でそれなりに動いたせいか、黒い学生服を脱いで下敷きをうちわ代わりにはたいてる白谷が件の天井を見つめながら言った「22年ってそんなに古いとは思わんが、所々ガタ来てんじゃねーのかなぁ」
件の天井は折り込み広告とかで厳重に封をされ、ガムテープが幾重にも貼り付けられている。黄谷や周りの机が置いてあったところはどけられて、角が削れて丸くなってる細い木の板の床が存在感を出している。ノミを駆除するためか、殺虫剤の臭いが周囲に漂っていた。
お昼休み。念のために食事は別の場所でとることになった。名残惜しいのか、半分くらいのクラスメイトが明日からノミのために閉鎖される教室にたむろしてる。午後の授業も空いている特殊教室等を使うとのこと。
「鳥、という話だけど…何処から入って来たんやろ?」
黒瀬がもっともな質問をする。彼女の方も黒い上着を脱いで、白いカッターシャツになって手近のノートをうちわ代わりにしている。
「壁はコンクリートやろ?となると校舎内に紛れ込んで点検口から飛び込んだか…」
「でもこの教室、天井に点検口はないやん?」
「…となると違うか…あ!」
何か思い出したように白谷が件の天井の、さらに外側になる窓へ駆け寄るとそこから上を見上げた。
見えそうで、みえない。窓の外側の上の部分にちょっとした10センチくらいの張り出しがあって、それが窓から疑惑の個所を直接見ることを防いでいた。
「…邪魔やな」
身長やや高めな白谷はサッシの桟に足を掛けると、3階の窓から身を乗り出すように体を外側へと向けた。両の手はサッシの窓を掴んで落ちないように支える。
「駿、危ないって!」
つられて白谷のそばに駆け寄る黒瀬。いつもはあまりいい顔していない方が先行する白谷に向ける黒瀬の表情は、少し心配の色がかぶっていた。白谷は彼女を見ると、一瞬口元を少し緩めて再び通気口を覗く。
「大丈夫…あ、見えた。やはり通気口だ」
「通気口?」
コンクリート建築物の、階と階の間にある部分からにょきっ、と生えてるパイプ。人が入らない部分の空気の流れを確保するためで、湿気を溜めないようにするとのこと。
「普通通気口の入り口は網とかが被せてあって小鳥とかが入らないようになってんだが、どうやら破れて入れるようになってる…やっぱり」
白谷は、パイプの暗闇からスズメくらいの小鳥が顔を覗かせてるのを目にした。目の前に巨大な生物を確認したのか、小鳥は再びパイプ奥の暗闇へ戻っていった。
「これ、巣でも作ってるのかなぁ…」ノミとかが落ちてきたということは、地面とかに落ちてる枝とか拾ってるはず「まあ鳥にはかわいそうだ 」
嫌な不協和音と共に白谷の言葉は強制的に中断された。
体を支えていたサッシ窓がレールから外れて、地面へと落ちてゆく白谷と共に下へ…。
クラスメイトの悲鳴が上がる。
何が起きてるか判らない白谷。
それを目で追いかける黒瀬。
『助けなきゃ!』
思わず手を伸ばす。つかまえようとするが、数メートル離れた黒瀬と白谷の手はつかまえられない。
目を閉じる。
そしてひらく。
落ちてゆく駿を見つめ、しかし冷静にあることをほぼ反射的にしていた。
頭の中を様々な言葉が乱れ飛び、それがやがて結びつき、一つの言葉が生まれた。
それを、声に出す。しかしそれは、物理干渉コードを極限までコンパクトにするために何かが爆ぜる音にしか他人には聞こえない上に、微かな音でしかなかった。
〈パンッ!〉
同時に、そのコードを受け取った彼女の胸元の水晶がわずかに明るくなる。
水晶の中の「悪魔」が、そのコードを忠実に、確実に、素早く実行する。
そうして、指定空間への物理干渉が始まった。
つむじ風が周囲から一瞬吹き荒れ、落ちてくる白谷の真下に物理法則を無視した空気の凝集が行われる。人の体重および重力加速度を確実に受けきれるだけの空気の塊は一見しただけではわからない。
3階から約10mほど、重力加速度付きで地面へと叩きつけられようとする白谷の体をその空気の塊は柔らかく受け切った。さながら、クッションに落ちた卵のように。
外れたサッシも塊に捕捉されて、急速に加速度を殺される。これも塊に受け止められるか、と思った矢先に再びつむじ風が今度は周囲へと吹き抜けた。「悪魔」による物理干渉が揮発し、通常の物理法則が支配し始めた。
サッシ窓は地面に落ちて衝撃でガラスが割れた。空気の塊に受け止められた白谷は、軽く尻餅をついたが3階から落ちていればただでは済まなかっただろう。
騒ぎを見た生徒らが倒れている白谷の周囲に集まってきた。中には先生の姿も。教室からも何事かと窓の下の事件現場を見るために視線が注がれる。
2年7組の教室も今しがた起きた事件のためにその場にいたクラスメイトのほとんどが窓際にいた。その中、水晶の『悪魔』を使った黒瀬は、白谷の無事を確認すると緊張が一気に解けたせいか、膝から崩れ落ちた。
「…助かった…」
黒瀬が肩で息をしつつ幼馴染の無事を確認出来て安堵の言葉をつぶやく。嬉しさの成分がその中にはあった。
「結衣!」「大丈夫?」「立てる?」
崩れ落ちた黒瀬を見て心配で駆けよる青野、灰屋、紫野。その気配を察したか、黒瀬が
「…大丈夫。安心しただけ…」肩で息をする回数が減り、いつもの呼吸にもどった「…もう少ししたら立てる。心配せんといて」
窓の腰壁に両の手を突き、深呼吸。立ち上がるタイミングを計っているかのよう。
友人3人以外にも、その場にいたクラスメイトも黒瀬を注視する中、ゆっくりと立ち上がる。ちょっとふらつき気味。
そして、黒瀬は自身の体調の変化を感じてぼそっと呟いた。
「…まだお昼休みだよね。購買、パン残ってるかな?」
…確かに窓が外れて、強制的に飛び降り自殺めいたことをやらされたのは判ってた。ジェットコースターの、あの急降下する時の気持ち悪さが頭どころか、白谷の体全体に染み込んでいる。
結衣に言いたかった、俺の気持ちを伝えたかった…でもこのまま何も言えずに…。
視線の一部に、俺に向けて必死に手を伸ばしてる彼女の姿。なんとなく、泣いてるように見えた。鬼の眼にも涙…?普段見せないようなものを…。
その刹那に、白谷は自分の体が急激に減速していくのを感じた。何が起きたのか理解しようとする前に、落下速度がゼロになっていく。背中がやや熱くなった感じはするが、急速に遠ざかっていた白い校舎がそれ以上動かなくなったように感じた。
風が吹いて、再び落ちたがほんの数十センチほど。
「あ…あれ?」
助かった、というのは何となくわかった。ただ、なぜ助かったのか…ふつうならそうじゃない。
ほんの短い瞬間に自分の理解を超えることがあったせいか、白谷の意識は急に景色を失った。
何かガサゴソと薄めのビニール袋が変形する様な時の音と、ソースの香り。まさかとは思うが、死後の世界にしちゃ、何か生活感溢れる音だなぁ…こんなんだっけ?。白谷の耳と鼻が、それの原因を探れと指令を出したのか、彼はゆっくりとその目を開けた。
教室と同じ天井の模様と、視界の端にかかる白いカーテン。少し顔を横に向けると…椅子に腰かけた黒瀬の姿が。何故かたまごサラダが挟まれているコッペパンを口の中に押し込んでる。
黒瀬は、その視線に気づいて
「お、起きたか…怪我無かったようでよかった」
ずいぶんあっさりした言い方だなぁ、と白谷。視界を広げると彼女の横にある机の上に積み上げられた菓子パンのかたまりは、さながら購買部の残り物争奪戦に勝ったみたいな…。
「結衣、それ全部食うのか?」
「こっちはめちゃくちゃ心配したんやざ…無事だと判ったらおなか減った」
パンのかたまりの中から焼きそばパンを選択して包装を破る黒瀬。
しばしの無言が続いた後、白谷が言いたいことを思い出したように
「そういや…何で保健室に俺寝てるんだ?」
「奇跡的に怪我は無かったけど、ただ保健の愛知先生が念のためにということで連れてきた」
黒瀬が、感情がやや抜け落ちたような事務的な口調で答えた。彼女の意識は、今の所は口元の焼きそばパンに集中している。
白谷は、白いカーテンの向こう側の日の明かりが、微妙に角度が変わってることに気づいた。
「そういや今何時?」
「1時半」焼きそばパンにかぶりつく黒瀬「事故から1時間ほど経ったかな?」
「そっか…」
そう呟いて白谷は天井を見上げる。1時間か…意識失ってたせいもあるが、つい数分前に事故が起きたかのような感覚だった。
「そういえば今日の午後の授業はあんたも自分も出なくていいって中島先生に言われた。ゆっくり休め、って」
「あー…迷惑かけたな」
俺はいいけど学年上位の成績をとってる結衣には授業に出られなくしてすまない、と心の中で頭を下げる白谷。そういう心情を知ってか知らずか、いつもの倍の速度で焼きそばパンを自己の栄養とした黒瀬は、次の獲物であるカレーパンの袋を破ってほおばる。
保健室の休憩ブースに、カレーの香りが漂う。
白谷が、いつの間にか何かが引っかかってるかのような表情を浮かべている。頭の中で時折フラッシュバックする、落下した時の光景。ふと、地面にしりもち付く前の変な感覚の疑問が浮かんできた。
「地面に落ちる直前、何か急激に速度が落ちたみたいな感じだったけど…なんだったんだろう」
「そんなことあったの?」
すっとぼける。落下中の物体が途中で何も障害がなく減速することはあり得ない…誰かが物理法則を操作しない限り。
「…気のせいか…」
意識が混濁してた時だから、記憶があやふやなイメージを起こしたのかもしれない。
黒瀬は一旦白谷から目を外すと、一瞬考え込むかのような表情。やがて残ったカレーパンを口の中に放り込む。
カレーパンを食べ終わった彼女はビニール袋を積み上げた所に空袋を置いた。すでに袋が3つほど。
しばらく無言の空気が訪れる。黒瀬が残り1つになったカツサンドの袋を破く音だけがその場に響いた。
「…なあ、俺が窓から落ちた時…泣いてた?」
静粛を終わらせた白谷の言葉。カツサンドをほお張ろうと口に近づけた黒瀬の手が一瞬止まった。そしてそれを持ったまま、ゆっくりとおろしていく。
「泣いてないと思う。ただ…」
「ただ?」
「…助けたかった…それだけ。必死で」
いつもの口調とは違う。中々見せないような、弱い感じの線が現れたような気がした。
口をつぐんだ黒瀬がしばし黙り込む。
白谷が上半身を起こした。奇跡的に怪我がない、と言われるがそれでも痛みが全くないというのも変な話だ…と思ってると黒瀬がこちらに向き直った。その表情は怒りと泣きと、スパイスとしての安堵があった。
「だから危ないって言ったでしょう!死んでたらどうすんのよ!その時駿の親に自分は何て言えばいいのよ!」
あ、いつもの「お姉さん」が戻って来た。思わず白谷の口元に笑みが出た。
「…何笑ってんのよ」
「あ、いや、いつもの結衣が戻って来たなぁ、と」
「何暢気なこと言ってんのよ、こっちは心臓が爆発するくらい心配したんだから!」
「わりぃわりぃ、次落ちないよう注意するから」
「馬鹿言ってんじゃないのもうすんな!こっちが持たんわ!」
「へーへー」
「ほんとに反省してるんか?判らんわ…」
「反省してまーす」
「だからその性格なおさんかい!」
二人が軽めの痴話げんかっぽいことをしていると、保健室の引き戸を開けるととともに誰かが入って来た。二人は一瞬黙り込む。
「愛知せんせー、います?」
女性の声。やや幼く聞こえる。
ぱたぱたとベッドのあるブースに近づいてくる。気配を感じたのだろうか。
黒瀬より身長低めのシルエットがカーテンに浮かんだと思うや否や、やや収まりの悪そうな黒髪ロングストレートのまだ幼げな女の子の顔がこちらを覗いてきた。
「…あ、すみません。愛知先生から渡したいものがあるから取りに来て、と言われたのですが…」
「あー、愛知先生はさっきから出かけられてて保健室にはおられなかったよ」
黒瀬がその女の子に先生の不在を告げる。
その間、白谷はその女の子の視線をずっと受けていた。
「あ…わかりました…」
黒瀬の言葉を受けながら、その女の子は発言者の方を向いていなかった。視線と表情がずっと固定されている。
女の子はゆっくりとカーテンから顔を引いて、やがてシルエットになった。
カーテンが間に入っても、白谷はなんだかずっとその子に見られてるかのような感覚になった。
「…なんか変な子」
自分が話してたのに自分から視線を外し続けてる…黒瀬は何か違和感を感じてそうつぶやいた。
あの子の視線の先をたどると…白谷もその子がいた辺りを見つめていた。
黒瀬の方に向き直り、
「…なんか俺の顔についてたか?」
「今の所学校の有名人だからじゃない?」
「そっかーそりゃあそうだよなぁ」
「アホか!」
ホントにこいつは!、と多少の怒りも含めて黒瀬は白谷の頭をやや強めにはたく。
午後最初の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
保健室を出たその女の子の顔は、多少上気していた。顔が赤くなってるのが嫌でもわかる。
「え…な、何…私、どうしちゃったんだろう」
よく『雷に打たれたかのような』という表現があるが、それがまさに今か。
「…これが『一目惚れ』なんでしょうか…」
休み時間とはいえ、保健室辺りは教室がないので廊下には人気があまりない。一人たたずむ彼女の周囲には、午後のゆっくりとした時間が流れていた。