Wind of change
「…そう、よかったわ」
幼馴染で同級生の黒瀬結衣が住んでいる黒瀬家の2階。8畳部屋が2つ3つ入る位の、サンルームとしても使える大きなベランダは隣に住む白谷駿が夏前から魔法の練習場として週一の割合で使い始めて今月で約半年になる。白谷は術者としての先生でもある結衣の母親に魔法を続ける意志を改めて伝えたが、幼馴染の母親はそれを聞いて安堵感で一杯の感情を顔で表現した。まるで我が子が自分の力を継いでくれることを喜ぶ親の様に。
「一時、結衣から駿くんが魔法辞めたい、って言ってると聞いたときには心配したんだけどね…」
しかし、ニコニコだった結衣の母親の表情が少し曇る。
「でも、今度は結衣が魔法使えなくなったのは…ちょっと心配。昔のこともあるし。なんとか治ってくれないかしらねぇ」
精神的なことだから、そこを上手く乗り越えてくれればいいんだが、と白谷の耳に届くかそうでないかくらいの小声で独り言を結衣の母親は呟いた。
「技術的なことはあたしでも何とか出来るけど、内面の事となるとねぇ…本人の問題になっちゃうから」
「そう、ですね…」
駿も技術的なことはまだ結衣に及ばないところもあるし、精神的なことに関しては、辞める辞めないという話が出ている時点でまだ幼馴染に及んでない、と思ってしまう。
「ところで…こう言っちゃ何だけどこの前駅前で使った魔法、テレビでの事故の状況からすると水晶の帯域一杯一杯なんじゃない?」
「そうなんですか?」
先週の木曜日の夜、大名町交差点をオーバースピードで駅前大通りに入って来たトラックが何かの弾みで中央分離帯に接触。その反動でバランスを失い、丁度その辺りの歩道を歩いていた白谷と彼女の赤城に突っ込んでくるような形になった。幸い、白谷の魔法が発動して難は逃れたが、もし無かったら、今頃は…。そしてその代償なのか、彼の魔法を見た彼女が白谷に恐怖を覚えて去って行ってしまった。
思い出した白谷は、笑顔の結衣の母親とは対照的に、表情が曇る。
「まああんまり気づきにくいとは思うけど、あれくらいが避けれる…というか受け止められる限界に近いと思うわよ。あれ以上の力が掛かるといくら水晶の帯域一杯使っても防ぎきれないから」
「無限に使えると思ってたんですけど…」
「そんなに魔法は便利じゃないわ。人間の力はそこまでが限度っぽい。それが駿くんのこの前の事故を防いだあれくらいね」
「結衣の方はそれ以上なんですか?」
「あんまり変わんないわよ。そりゃあ術者としての年月が長いから幾らかは出力は高めだけどね。あ、そうそう、魔法の反応速度、駿くんのほうが娘より幾らかは早いからそこは自慢できるわよ」
そう言われると…白谷は頭の中でこの前の階段での事とかを思い出してみる。でもイメージ的には彼自身は結衣とはそんなに変わらないとは思うんだが…。
「中にある"悪魔"の違い…とか?」
「かも知れないけど…まだ判らないみたい。魔法庁の方でも解析はしてるんだけど…。今言えるのは、そんなに違いが無い、ってことかな」
「…何かベランダから声すると思ったら…やっぱり駿か」
相変わらず人目を気にしないようなヨレヨレの部屋着のパーカーを纏って、幼馴染が部屋から直接ベランダへ出る引き戸を通って姿を表した。普通の女子なら家に誰か来た時には着替えてそれなりの服装で出迎えるものだと白谷は思っているが、相手が腐れ縁の幼馴染のせいか、その辺の考えは彼女には無いみたいだ。
一昨日、学校で隣のクラスの、遠野春香の襲撃を受けて頬に傷を受けた結衣だったが、保健の先生が思ったよりは傷は深くないと言われていただけに、ぱっと見は傷はそんなに目立たなくなっているほどには治っていた。
「結衣、傷はもうそんなに目立ってなさそうだな」
「お陰様で。まあ傷が深くても勇樹くんなら気にしないでくれるだろうし」
「…そーですか」
幼馴染から彼氏の名前が出てきたことに駿は多少苦い表情を見せた。結衣の方は幼馴染の表情を見て見ぬふりをしつつ、母親に問いかける。
「で、何。自分よりも駿の方が魔法の反応速度が早いってホント?」
「あくまで感覚だけどね。実際測ったわけじゃないから」
「ふーん…」
何でこの前まで魔法の"ま"の字も使えなかった駿に劣ってるのは気に食わない、と思った訳では無いだろうが、結衣が彼を見る視線の強度がいつもよりも強めになっているように当事者は感じられた。
「それより結衣、お前魔法使えなかったらただの女子高生なんだから、また使えるようにリハビリとかしてるのか?」
「駿に言われるまでもなくやってるわよ…」
ただの女子高生、という言葉に少しカチンときたのか、険しい表情を隠そうともせずに結衣はそう言って言葉を濁す。とはいえ、上手くはいってない、とその表情と言葉尻から容易に想像は出来た。
「魔法庁のこの前の人に相談するとか…」
「嫌」
「何で?」
「…なんか気に食わない」
「解決法、知ってるかもしれないし」
「でも嫌。できれば会いたくない」
駿の提案を結衣は気持ちの合う合わないで拒絶する。しかし、駿が見る結衣の表情は本気では怒ってないように思えた。どことなく、子供が拗ねてるような、そんな感じ。
「まあ、しばらくは何もないんじゃないかなぁ…その間に何とか使えるようにはしたい」
いくばくかの楽観論を含ませた結衣の言葉。そうだといいけど、と駿は横を向いている結衣を見つめつつ、そう思った。
と、駿は彼女の顔から視線を落とすと、彼女の左手首に何やらブレスレットのような、地味目だが確実に存在感を周囲に撒いているものを見つけた。
「結衣、左手のブレスレット、って…」
「ああ、これ?」結衣が駿に判るように左手首をやや上げてそのブレスレットを晒す「勇樹くんがくれた修学旅行の時のプレゼントをブレスレットに加工して付けてる。っつーかペンダントじゃなくてブレスレットみたいに加工しろと言ったのは修学旅行の時の駿でしょ?言い付けどおりにやってますけど…っていうか、今頃気付いた?」
ケンカ別れしてた時でも有用な意見はちゃんと聞きますよ、的な彼女にしては大げさに幼馴染相手にアピールをする。ホレ見ろと言わんばかりにそのブレスレットを彼の眼の前まで持ってきて見せびらかした。
「へーへ、羨ましいことで」
半ばヤッカミのように駿が彼女からわざとに視線を外して感情を乗せずに言葉を吐き捨てる。再び駿は彼女に視線を戻すと、どうだと勝ち誇ったような得意顔を浮かべつつ、ブレスレットをつけた左手を下ろす幼馴染が見えた。
「毎日付けてんの?」
「当たり前でしょ?好きな人からもらったんだから」
「でも最初は拒否ったよな?」
「そりゃあ水晶の代わり、って言われたらそうなるって」
「…なんか気まぐれだなぁ」
「言ったでしょ?前に」
「そりゃあそうだけど…」
返答に詰まる駿。彼女はブレスレットを軽く撫でながら口元をややニヤけつつ流し目で幼馴染を見る。それはさながら惚気話を延々と聞かせているかのように彼には見えた。
「はいはい。駿くん、結衣、お話の続きやるんなら結衣の部屋でやったら?」
ベランダは暖房ないし、寒いからもう切り上げましょうか、と言いたげに結衣の母親はにこやかではあるがもう終わりましょう、と急かしてる。
「…あ、いや、じゃあもう帰ります。お邪魔しました」
「…部屋には入れないから終わる」
ほぼ同時に駿も結衣も結衣の母親の言葉に従った。駿はどーもすみませんと落語家のシメの言葉を言うような格好でベランダから廊下へと入ると、結衣も駿にほらさっさと家へ帰れと言いたげな視線を彼に向けてベランダの隣の自分の部屋へと戻ってゆく。
それを見た結衣の母親は、しょうがないわね、と小さく呟いてから、自分自身もベランダを後にしてゆく。
「まあ、ケンカしてるよりはまだマシだわね」
黒瀬家のベランダから、明かりが消えて廊下への扉に鍵がかけられた。
翌日。一週間の始まりの日。
そろそろ冬になる日本海側にしては珍しく、からりと雲一つなく晴れ渡った。えてしてそう言う時ほど放射冷却で気温が氷点下近くにはなるが。
黒瀬は朝方、食事中にテレビで気になるトピックをやっていたのを思わず見入ってしまったせいで、これを逃すと遅刻が確定してしまう電車に間に合わせるために、持ち物チェック出来ずに慌てて小走りになりながら家を出た。かたや、放射冷却で冷え込んだために起きるのが億劫になり、布団の中でウトウトしていたら寝坊して、黒瀬と同じく慌てて家から飛び出した白谷が彼女に続いて駅へと向かう道の途中で合流する。最低限の挨拶をしただけで二人は言葉を交わさず小走りで駅舎へ入ると丁度駅そばの踏切が鳴動し始めた所だった。
電車で福井駅に着き、改札を抜けて駅前大通りのアーケードを5分ほどかけて歩き、高校行きのバスが出るバス停へとたどり着いた。黒系統のコートを着込んだバス待ちの生徒たちの間で、寒さのために白くなった息があちこちから立ち上る。
黒瀬が異変に気付いたのはその時だった。ふと左手を見た黒瀬は、そう言えばさっきから妙に軽いな、という違和感があったせいだが。
「…あれ?」
いつもなら左手首に付けているはずのブレスレットが…無かった。
「あ、あれ?何でしてない…?」
「どうした?」
左手を見て、次に右手を見て、キョロキョロした挙句に最初に戻って再び同じことを始める位慌てふためいている隣の幼馴染を見た白谷が何事かと訊いてきた。左手どころか右手も当然していないことを確認した黒瀬の表情が、微妙に青ざめて見えてきたのは気のせいではなかった。
「…ブレスレットしてくるの、忘れた」
「ああ、昨日のアレか」白谷は昨日彼女の家のベランダで見せつけられた、彼氏から贈られたペンダントをブレスレットに作り替えたアクセサリを思い出していた「そう言う事もあるんじゃない?とはいえ結衣がこういう事忘れるのってあんまりないな」
「どうしよう…」
「かといって家戻るのももう遅いし、緑川と会ったら見つからないようにするしかないだろ?」
「そうするしかない…か」
黒瀬はそう言ったが、気になるのか、周囲を見渡して彼の姿がいないかを確認した。時折同じバスになることがある…のだが、今日はまだ来ていないかもうバスに乗ったかのどちらからしく、彼の姿は周囲には見当たらなかった。とりあえず安堵のため息を結衣はついた。
とはいえ、彼氏彼女の関係なのに会わない、というのもないわけで…結衣はそうなったら素直にあやまるしかないか、と半ば腹をくくった。
バスが、ほぼ時刻通りにバス停に滑り込んできたのは丁度その時だった。
その日の放課後。
白谷は図書室での勉強のために教室を出た…が、正直、色々な事があってやる気はほぼ残っていなかった。それでも、先生との約束は消えたわけではない。そのほかの理由…もっともこっちの方が彼にとっては重要だが、"彼女"がひょっとしたら顔を見せるんじゃないか、会えば、話を聞いてくれるんじゃないか…とのわずかな希望を持っての行動だった。足取りは端から見れば重そうには見えるが。
2年生の教室が続く、同じ階の、廊下の右側から外を見ればわずかに福井駅前の高いビルがいくつか散見できる北校舎を歩き、西校舎との合流点にある階段を下って行く。まだ部活や帰宅する、すれ違う生徒らをいくつかやり過ごして踊り場で2階の図書室との連絡通路へと向かおうとしたところで、彼の足はその動きを止めた。
「…真由…」
絞り出す、という言葉が似合うかのような小さめの声が、まだ賑やかな階段に溶け込むかのように白谷の周囲に広がって消えてゆく。
白谷の視線の先には、2階から3階へと上がる階段の1段目で、かつて"彼女"だった赤城真由が、まるで信じられないものを凝視するかのように、驚きと怖さを微妙にブレンドしたかのような表情を、かつての彼氏に向けていた。
「…先輩」
赤城の言葉も、白谷と同じように周囲の音に溶け込みながら広がっていった。
何人かの生徒らが、興味はありげな視線を投げかけながら関わり合いたくなさげに足早に二人の築いている空間を避けるように駆け抜けてゆく。
「真由、話を…」
「来ないで!」
足が勝手に動いたように白谷は階段を赤城に向かって数段駆け下りたが、それを止めたのは彼女の声だった。彼女の声が物質化して足を止めたかのように、彼はその場から動けなくなる。
「…話、しようや。何か誤解してると思うし…」
動けない体の替わりに、白谷は彼女への想いがまだ続いていることを言葉で知らせる。しかし、赤城は顔を背けてその言葉すら拒絶するかのように見えない障壁を張り巡らせた。
「電話で言ったはずです。誤解なんて…してない」
「なら何で…!」
階段に人通りが途絶え、さながら劇場の舞台の様に階段は二人だけの世界へと切り離された。赤城の、微かな声ですら白谷の耳にはクリアに聞こえる。
「あの時先輩は何か変だった…まるで人じゃないみたいに…そんな人じゃないです…」
「あれはトラックが偶然避けてったから…」
「…跳ねられそうなくらい直前で車が急に直角に曲がっていくなんてありえないです…」
2、3メートルほど先の彼女は白谷に視線をさっきからずっと合わせていない。拒絶するかのように横を向いたまま勇気を出して訥々と赤城は話す。
「それは真由から見たらそう見えるだけの話で…」
「先輩、ごめんなさい。先急いでますので…」
白谷の想いを断ち切るかのように、温度が存在しないくらいの突き放すかのような赤城の言葉。それに続いて彼女は白谷の横を駆け抜けるような速さですれ違って上へと上がろうとした。
彼女の言葉に彼は一瞬自分が何をしたいか、何を告げたいか、用意しようとした思いが全て粉々になって消えてゆくような空虚さが気持ちと視界を満たしてゆくのを覚えた。しかし、かろうじて生き残った"自分"がその空虚さにいくばくかの反撃をしたかのように、過ぎゆく彼女のその手を、白谷がやや怒りを伴って掴んだ。
話をちゃんと聞いてくれよ!赤城の手を掴んだ白谷の手は、そう叫んでいるかのように雄弁に力強かった。
「離してください!」
「真由、話聞けって!」
「離して!」
明確な彼女の拒否。それでも、この手を離したらもうただの他人になる恐怖から逃れたいと力を籠める白谷。全力で、白谷のエリアから逃げ出したい赤城。
彼は、もっと力を出せば確実の彼女を自分の懐に引き込めるくらいは出来た。それをしないのは、彼女への好意という基礎があるからか。
無碍には出来ない。けど、離したくない。
その時。
「赤城さん!」
階段に響く、ほんのわずかの幼さを内包したややキーが高めの大声が3階の方から二人の耳に届く。彼女の名前を呼ぶ知らない誰かの声に思わず、白谷の力が緩み、声の主が誰か判った赤城はその分だけ自由と力と勇気を得た。
白谷にとって離したくない彼女とのつながりは、第三者の声にあっけなく分断された。
彼女は、彼の手を振りほどいて2階と3階の途中にある踊り場へと退避した。その横から、声の主と思しきやや長身な男子生徒が階段の陰から白谷の視界に入ってくる。
「伊勢くん…」
「赤城さん、大丈夫か?」
その二人の姿は、童話の中の、助けに来た王子様と助けられたヒロインの様に白谷の目には見え、そして、彼女は二度と自分の所には帰ってこない現実を見せつけられた。
伊勢と呼ばれた男子生徒は赤城をかばうかのように彼の背後の安全な場所へと誘導した後、立ってる場所とも相まってさながら同級生女子を虐げていた悪の先輩を見下し、断罪し、軽蔑するかのような純粋な怒りの視線を向ける。
「先輩、赤城さん嫌がってるんです。止めてくれませんか?」
伊勢の声は抑えられてはいるが、やはり年上の先輩と話すのは怖いせいかいくらかの震えがその中に侵入していた。
白谷は、何故か怒りという感情が湧いてこないのを感じた。見ず知らずの下級生から敵対的な態度を取られておきながら。
事実の確認作業…感情が差し挟む領域ではもう無く、彼氏彼女の関係はもう切れているという冷徹な"現実"だけしかなかったからか。
ほんの数秒…当事者からすればそれは分単位の長さと同質に感じた階段でのにらみ合いは、上級生の方が音を上げた…というより、諦めたかのようだった。話を続ける事もそうだが、彼女としてまた自分のそばにいて欲しいという願望をも含めて。自分にはまだ残っていると思われた赤い糸は、もうとうの昔に消えていたことを、白谷は認めざるを得なかった。
『先輩は…そんな化け物じゃない…そんなんじゃない!』…あの時の光景が嫌でも、強制的に現実に覆いかぶさってくる。
「…バケモノ、か…確かにそうかも…」
「何か言いましたか…?」
独り言のように呟いた言葉が聞き取れなかったか、伊勢がさっきよりは口調を柔らかめにして白谷に訊いてきたが、彼はそれには答えようとはしなかった。ただ、俯いて何かを考えているかのように、踊り場から見下ろす伊勢には見えた。
「…確かに、術者は普通の人から見たらバケモンだよなぁ…」
自分にすら聞こえないような微かな声は、続いて何故か沸き起こってきた笑いが取って代わる。笑いというより、自嘲。かなしみわらい。押し殺そうとするも、何処からかそれをすり抜けて階段に静かに低く染み渡る。
「…何がおかしいんです?」
伊勢の表情に困惑の成分が混ざり始めた。反撃されると思いきや、聞き取れない独り言が聞こえたかと思うと次は押し殺すかのような低い笑い。人は、相手が何をして来るか判らない時に"怖い"という気持ちを持つというが、まさに伊勢から見た白谷は何を仕掛けて来るか判らない"先輩"だった。
白谷は、うつ向いたままの姿勢で一つ、大きく呼吸をした。
「…わかった。もう近づかない」
…切れた。繋がりが。完全に。
修復は、もうできない。彼自身が、彼女を赤の他人に戻した。
白谷はそのままの姿勢で、思いを精一杯集約した言葉を何とか彼らに向けた。1段、後ずさりで階段を下りると、体の向きを本来の方向へと向き直し、ゼンマイの切れかけたおもちゃの様なたどたどしい歩き方で2階へと向かって下りて行く。
俯き加減で階段を下り、図書館への連絡通路を幾人かとすれ違いながら白谷は向かう。しかし、何か病気でもしてるのかと思うような足取りに、すれ違う人らは一瞬彼に視線を向けてしまう。
あと少しで図書室まで来た時に、白谷の足が止まった。
「…何やってんだろう…」
…わかってたこととはいえ、改めての拒絶にどうにもならなさが白谷の体と考えを支配していた。自分の周りの時間の進み方が1/3以下に突然させられた様な動きの鈍さ。
やる気は、今は一欠片すら残ってはいなかった。
「……」
足の向きを、図書室とは逆方向へと向けた。似たような足取りで、彼は勉強のことなどもうどうでもいいとさえ思いながら、荷物が置いてある教室へと戻った。
白谷の姿が見えなくなりそうになって初めて緊張感という金縛りから解放されたかのように、伊勢は深くため息を吐き出すと、自身の後ろに隠れている赤城に声をかけた。
「赤城さん、もう大丈夫だよ」
「あ…ありがとう。助か…った」
後ろにいる彼女へ目線を向けた伊勢は何となく違和感を覚えた。赤城の表情にはうれしさや安心感が主成分だったが、何処となく、ほんの僅か、微量元素の様に混じってる"何か"が原因なのか…。
…クラスでも赤城と白谷との仲は噂になっていた。それでも、突然どうしてこうなったのか、ほぼ部外者だった伊勢には判らない。彼女の表情に戸惑いを隠せないながらも、彼は彼女が3階へと向かうのを思い出して、いくらか息を整えて、
「3階へ行く途中だったんだろ?用事あったんじゃないか?」
「あるけど…いいの?」
「オレ、どうせあとは帰るだけだから」
この場合は一緒についてって行く方がいいんじゃないか…下心ではなく、純粋にクラスメイトとして、彼女をエスコートしなければ…もし上級生がまた来たなら…半ば義務感が、伊勢をそうさせていた。
踊り場から3階へと昇る階段を、二人は並んで、同じタイミングで上っていく。伊勢は、こういうことは初めてらしく、多少のぎこちなさを隣の彼女にバレないかといくばくか気を配りながら歩んでいく。
3階まであと数段、という所で隣の赤城から短い沈黙を破るように柔らかく声が聞こえてきた。
「…そう言えば」
「はい?」
「伊勢くんの名前、って何て言うの?」
「あ、ああ…あれ、"のぼる"って言うんだ」
「…読めない」
「まあ普通はそうだよね…」
伊勢は赤城から言われて苦笑いを浮かべる。彼の名前を初見で読めた人は、彼の人生の中でもほぼ、いない。
「あんまりオレの名前、昔は好きじゃなかったんだけど…」
「そうなの?」
「だって、普通の人ならすぐ読めるけど、オレの名前なんてまず読んでくれないし…だから普通に読める名前が羨ましかった」
「そうなんだぁ…」
二人は3階まで上がるとそこを左に曲がった。短い廊下の先には音楽室があり、手前左側には楽器などを置いた準備室がカーテン等を閉め切ったせいでほの暗く中の様子を現していた。
「伊勢くん、じゃあちょっと待ってて」
音楽準備室の出入り口前で赤城の足が止まると、伊勢に待つように伝えて、準備室の扉をノックする。ややあって中からやや甲高そうな音楽の先生の声が聞こえてきて入室を促がされると、彼女は失礼しますと言って引き戸を開け、中へ入っていった。
「…赤城さん、クラスではいつも明るかったけど…あんな悲しい顔もするんだな」
伊勢は窓の外の景色を振り向いて眺めつつ、彼女の意外な一面を自分だけが覗いたかのように周囲のノイズに負けそうな小さな声で呟いた。
結衣としては、忘れてきたブレスレットの件もあり、今日は生徒会活動への関与はお願いがあっても断ろうとしていた。しかし、生徒会長で彼氏の緑川勇樹が人手が足りないとお昼休みにわざわざ隣のクラスからやってきてお願いされたら、彼女としても無下に断る事は出来なかった。手伝う内容としても、各学年に配布する生徒会関連の資料等のまとめ、という昨年もやった事であり1時間もあれば終わる…そう踏んで放課後、行くことを了承した。
生徒会室の前に着いた結衣は、すぐには開けずに引き戸の擦りガラスからあふれ出る柔らかな部屋の明かりをしばらく浴びながら、呼吸を整えた。
-----バレないように…。
「黒瀬です、入ります…」
何処となくバレたらどうしようという緊張感と出来れば今日はもう帰りたいという気持ちが互いに洗濯機の中の様にないまぜになりながら、静かに引き戸を開けた。
彼女が引き戸を開けると、すでに在室していた生徒会の役員たちの挨拶とともに、部屋中に広がった印刷された資料から立ち上るインクの匂いが濃度がまだ高い状態で机の上に幾山か積まれていた。…何か去年より量増えているような…昨年より印刷物の山が高い様な気がした結衣はこれは作業が長引きそうだなぁ、と心配になると同時に緊張感が否応にも増してきた。
その周りをさてこの資料をどう料理しようか、とその手順に頭を捻っている生徒会役員共があっちやこっちへとウロウロしている。流石に今日は新体制になってから初めて見る1年生男子の書記と同学年の女子の会計の姿もその場にいた。新しい書記と会計は手伝いにやってきた彼女の姿を見ると、まるで重要人物に挨拶するかのようにかしこまってその場で頭を下げる。
「あ、黒瀬さんですね?初めまして、書記の加賀山です。1年1組です。よろしゅうお願いしまっす!」
「会計の若井と申します。1年8組です。何分生徒会って初めてなものですから、いろいろご鞭撻の方よろしくお願いします」
立て続けに1年生書記と会計から最敬礼で挨拶を受けた黒瀬は自分そんな立場じゃないのに…といくらかの気後れがしたが、ちょっと呼吸を整えて二人にお辞儀をして挨拶する。
「えーと、黒瀬です。…前まで文化委員長やってました。今日は会長に呼ばれて手伝いに来ましたのでよろしくお願いします」
すると、なり立ての書記と会計の肩越しから今回の依頼主たる生徒会長兼彼氏の緑川がいつもの笑顔を浮かべて声をかけてきた。
「来てくれてありがとう、結衣さん」
「…何か印刷物の量、去年より結構多くないですか…?」
「ページ数増えてはいるけど去年よりムチャクチャ増えてないと思うが…」
彼女からの質問に勇樹は頭の中の記憶庫から昨年のおぼろげな視覚情報とを引き出して照合させつつ答えた。
「…そうなのかなぁ?」
「そうでしょ?」
なおも積み上がった印刷物の山をしげしげと眺めて訝る結衣に、多分気のせいと勇樹がツっこむ。
「では揃いましたでしょうか」生徒会副会長の北川の事務的な淡々とした口調が在室している関係者の耳に届く「それでは、作業の前に綴る手順及び注意事項の説明を始めます」
時計の分針が3つ進む間に手順や注意事項が説明されると、生徒会役員たちと手伝いに来た黒瀬が一斉に資料の山を切り崩しにかかった。
…副会長の説明の手際の良さが効いたのかそれとも生徒会長が言った通りそんなに増えてなかったか、手強いと思われた資料の山が思ったよりも早くなくなり、1時間過ぎた辺りで全て綴じられて配布可能になった形で資料の山が消えた。
「お疲れ様でした〜」
生徒会長の緑川の合図で外が完全に夜に包まれる前に作業が終了した。部屋のガラスに鏡のように映し出される室内の情景に重なるように、西の空にかろうじて残る夕焼けの色は、市内を取り囲むように広がる低い山際に輝かせていた。
書記の加賀山と会計の若井はすでに挨拶をして生徒会室を後にしていった。副会長の北川も、すでに帰る準備は終わっており、今は帰る前にやり残しがないかの確認作業中だった。
そして結衣は、
「それじゃ帰ります~」
手早く使った道具などを片つけていざ生徒会室から退出しようと足を踏み出した瞬間、隣の資料室へと行きかけた生徒会長が彼女に声をかけた。
「あ、結衣さん。ごめん、ちょっと10分ほどバインダー探すの手伝ってくれないかなぁ?」
「え…あ、今日はちょっと…」
まさかのご指名に驚きと焦りと苦笑いと及び腰になっている結衣を見た勇樹の表情に、わずかばかりの曇りが浮き出てきた。しかしそれも一瞬で消え、次にはまるで仏像に対して拝まれるような顔をして、
「お願い。そんなに拘束しないし…」
「……」
…彼氏に両の手を合わされてお願いまでされたらそうするしかないじゃない、と言いたげに苦笑いが結衣の顔に浮かんだ。結衣が荷物を机の上に置くと、
「じゃあさっさと終わらせてしまいましょう」
「ごめんね~」
結衣は、隣の会議室兼資料室へと足を踏み入れた。生徒会長からどんなバインダーなのかの説明を軽く受けた結衣は、とりあえずは手近の段ボール箱やあちこちの戸棚とか箱を出しては中身を確認始める。
埃が立ちこめると同時に口を固く噤んで二人が探し物を始めて3分ほど。早めに飽きが来はじめたのか、結衣の手が止まってロッカー上の段ボールの列を無表情で眺め出す。
「ここじゃないのかなぁ…?」
思ったよりも成果がなくて、愚痴るように勇樹が段ボールの中に入っている書類等を眺めながら呟いた。全く無いならまだあきらめも付くが、件のバインダーに近い番号ばかりがちょいちょい見つかるのはひょっとしてこの次の箱にあるんじゃ、と要らぬ期待を抱かせている点で悪質でもある。
「勇樹くん、ここ以外の場所って考えられる?」
「それはないはず。生徒会関係の資料は全部資料室に入れることになってるから」
「副会長に訊いた?というか、北川さん手伝わないの?」
「流石にそこまではわからないらしい。あと、さっき聞いたら家の用事で早めに帰らないといけないんだそうだ…」
勇樹が今度はロッカーの上に鎮座している箱を何とか背伸びして掴むと、重力に負けない様に何とか支えて机の上に下ろしながら彼女の問いに答えを返す。結衣はそういえば資料の山が片付いたあとに彼氏が副会長に色々と訊いてた場面を見かけたけどこれのことだったのか、と腑に落ちた。
「会長、では私帰ります」
隣の生徒会室から副会長の北川が顔をのぞかせて帰りの挨拶をする。手伝えなくて申し訳ないと言いたげな口元の形が、生徒会室よりもやや暗めな会議室兼資料室の蛍光灯に照らし出されていた。
「おつかれ。僕ももうしばらくしたら切り上げるわ」
「…手伝わなくてよろしいですか?」
「家の用事の方が優先だろ?大丈夫。結衣さんもいるし。じゃあ気をつけてね」
「わかりました…では帰ります。黒瀬さんも無理しないように」
「ありがと。気をつけてね」
「それでは失礼します」
この二人なら同じ部屋に居ても高校生という節度を守って間違いなどは起こさないはず…副会長は二人にそう思ったかは判らないが両の目で二人を牽制するかのような視線を投げかけて生徒会室と会議室兼資料室に通じる出入り口から姿を消した。生徒会室と廊下の間の引き戸を閉める音がして、かすかに何処かの喧騒が漏れ聞こえる程度には静粛さが戻る。それを、二人の、あちこち物を探しているせいで幾らかは荒くなっている呼吸音と足音、ズボンや上着の衣擦れ音などが会議室を満たしていた。
副会長が帰って数分後、いつまで続くんだろう…そう結衣が思い始めた頃。
「これかな…あった!」
勇樹が引き出した埃が薄っすらと積もっている段ボールから目的の書類が入ってる青いバインダーを取り出して確認し、思わず両手を天井に突き上げて満面の笑みを浮かべる。
「よかったー。見つかってよかったですね〜」
「結衣さん、手伝ってくれてありがと。一人だったらこれ見つけるまで倍の時間かかってたよ」
目的のバインダーを机に置くと、彼は終わった安堵感か天井に届くかのような背伸びをして…その刹那。
「…っああああっ!」
変な声が上がったと思ったら勇樹がバランスを崩して背中から倒れそうに…!
「勇樹くん!?」
思わず体が動いた。結衣がたたらを踏んで2、3歩後ろへと倒れかけている勇樹を抱きとめるも彼女でも倒れてゆく彼を止められずに、そのまま彼をクッションにするかのように床へと倒れた。派手めな音が会議室内に響き、幾らか巻き上げられた埃がやや暗めの蛍光灯に照らされて宙に舞う。
「ったたた…ゴメン、勇樹くん」
「…結衣さんこそ、大丈夫ですか?」
「勇樹くんの体がクッションになってくれたから大丈夫」
「でも結衣さんの手が…」
勇樹は言葉を続けようとしてその現状に思わず声を飲み込んだ。
互いの眼鏡がくっつくくらいの顔の近さ。体温が感じ取れるくらい。
勇樹からすれば、自分の体に彼女の体重が預けられていること、それ自体が今まで感じたことがないくらいに艶めかしかった。重い軽いの問題など始めから問題にすらなっていない。
結衣の方も、制服を介して彼の体温が自分の体に流れてくるかのように感じた。近い時間に体育の授業があったのか、何処となく汗の匂いが彼から立ち上るのを、そしてその中に自分と異なる性の匂いを、彼女は感じていた。
「…結衣さん」
彼の声は、静寂に溶け込むかのような滑らかさを含んでいた…と同時に、彼自身にしか聞こえない心のスイッチが入る。彼女に気づかれないくらいさり気なく、勇樹は両の手を結衣の背中へと回した。抱きとめると、同じ様にゆっくりと力を入れて、密着度を増してゆく。
僅かに彼女に残っていた、シャンプーの残り香が微かに勇樹の嗅覚をくすぐる。
「…勇樹くん?」
彼の背中と床の間に文字通り板挟みになっていた手を外して上半身だけでも起き上がろうとした結衣は、いつの間にか彼に抱き留められて体がロックされていることに気づいた。その意味を直感的に感じ取った結衣は腕立て伏せの様に起きようとするも微妙に力が抜け始めた。と、同時に、左腕の、隠そうと思っていたことも…。
…しかし、勇樹に抱きしめられた結衣は、自分の心のある場所に違和感を覚える。
ペンダントの水晶が、二人の間を分とうと不快な違和感の存在を主張し続けていた。そして、その違和感を受け取っていたのは結衣だけではなかった。
彼の表情が、恋人のそれから次第に冷めていく。現実に引き戻されたかのように、勇樹の顔はこわばったかのような、緊張感をたたえたものになっていた。
気が付けば、結衣を抱きしめていた勇樹の両手のロックは外れていた。外した両手で彼は自分の上にいる彼女ごと上半身を起こす。それにつられて結衣は両手を床に付けて体を起こす。
「どうした…の?」
ペンダントの水晶が痛かったのかなぁ?と結衣は思ったが、勇樹の表情は彼女の思ったよりも深刻度が大きいように見えた。
勇樹は、優し気にさりげなく彼女の両手の手首を握った。その前に問いかけた彼女を半ば無視するかのように、彼は視線を合わさず何も語らずに目の見えない人が手先の触覚で何かを確認しているように結衣からは見えた…そして、彼女は思い出した。
「……あ、」
「…結衣さん、ブレスレット…」
「…ごめん。今日、たまたま付けてくるの忘れちゃって…」
「ペンダントはしてるのに…?」
「それは…」
憂いを伴った勇樹の表情。視線が合わない。合わせてくれない。
「…まだ誰かが残ってる、のかなぁ…」
勇樹の表情が、憂いから自嘲の笑いへと変わる。これだけ好きになっても、まだ彼女の心の根本的な場所…結衣の心の奥底にある宮殿は、攻略できていない。そして、そこにいる『誰か』は、目に見えているのに、手が届きそうなのに彼では決して入れない場所にいることを。
「そんなことない。自分は勇樹くんしか見てない…」
「結衣さんの幼馴染も似たようなの付けてるよね…海へ行った時に付けてたのを見た」
「それは…お隣同士だし…」
言葉が濁り、勢いを失う。隠し事がある…勇樹は彼女の言葉から何となくそのことをフィルターにからめとっていた。
一旦、勇樹は結衣に視線を合わせた。それに気づいた結衣も勇樹をまっすぐに見る…しかし、交わされるレンズ越しの瞳は彼の方から外された。うなだれ、やや強めのため息が資料室兼会議室の空間に広がり、やがてその寿命が切れたように空気に溶け込んでいった。
勇樹は立ち上がる。それを結衣は目線で追いかけるも、蛍光灯の強くない明かりを逆光にした彼の顔は、暗くて表情が読めなかった。
「…結衣さん、しばらく離れようか」
「…何で!?」
静かに語りだした勇樹の言葉に、結衣は彼が一瞬何を言ってるのか理解できなかった。それが、彼女に思わず部屋中に響くくらいの大声を出させた。
「今の結衣さん、僕の居場所がないみたいに見えるんだ」
「そんなことない!」
結衣は否定するも、勇樹の反応は鈍い…というより、無反応に近かった。彼の意志の力で、周りに見えない壁を作っているかのよう。どんな大声を出そうとも、彼女の声は届きそうにはなかった。
「…でも、僕にはそう見えるんだ。結衣さんの中には僕の居場所は始めからないって…。そこには、ずっと幼馴染がいるって…」
「そんなことないよ…何でそんなこと言うの」
「いつもしてるペンダント、アクセサリにしてはずっと大事にしているし、幼馴染も付けている…何かがあると思うのが自然だよ」
「だからそれはお隣同士で…」
「お隣同士でも、それが幼馴染でも…結衣さんは結衣さんだし、白谷くんは白谷くんだろ?別々の、違う人間じゃないか…。なのにずっとつけている」
結衣は、ここでいっそ魔法の事を切り出そうかと思い始めた。信じてもらうもらえないは別として。それほど、彼女にとって大事なものが、今は障害になり果てていた。
…魔法の事は、彼が家へ来てくれるとなった時に話す予定だった。そしてそれは、近くではないが遠くでもない未来の話のはずだった。
結衣の口が、僅かに動いて…それっきり再び閉じた。自分にすら届かない小さな声で呟いた決意は、しかし魔法に掛けられたみたいに途中で言葉は着地点を失い、同時に意味を失う。
…重い無言の静けさが部屋を支配していた。微かに互いの呼吸音が、それぞれの耳にこの時ばかりと増幅して聞こえて来る。静かで微かだが、好きな事をしゃべっている時よりも、その音は不快に感じ始めていた。
その不快さが永遠に続くと思われた時に、唐突に終わらせる言葉が告げられた。
「…わかった」
黒瀬の、感情を押し殺した小さい声は、普段なら耳のそばで話しても聞こえなさそうな程だったが、部屋の静けさを打ち消すくらいには彼女自身と彼の耳にはっきりと届いた。そう言って彼女は油が切れ始めたロボットの様にぎこちなく立ち上がると、緑川の顔を見ずに、うつ向いて部屋を後にし始めた。
生徒会室との境界で彼女は一旦、立ち止まった。しかし、何も言わず、彼の方を振り向かず、何か言いたげな雰囲気を残しつつ、再び歩き始めた。
ほどなく隣の部屋から荷物等をまとめる音と、続いて古ぼけた床の軋みを立てて、無言な彼女が生徒会室から廊下へと出た。直後、押し殺せなかった感情の余波が、叩きつけるような引き戸の音となって生徒会室と会議室、周囲の廊下に暴力的に響き渡った。
「……」
これでよかったのだろうか…緑川は自問自答する。でも、彼女の奥底にある、一人しか入れない宮殿に誰かいる状態では付き合うことに意味があるんだろうか…だから、これでよかったと思うしかない。
体の何処からか湧き出てきた疲れが彼の背筋を折り曲げようと荷重をかけて来て、緑川はややふらつきながら机で自分の体を支える。
「…疲れた」
自分の心に正直に、彼は独り言をこぼした。
帰りのバスに乗ろうとバス停までの道すがら、歩いている生徒たちがわずかになって黒瀬の周囲には誰もいなかった。右側には夜の帳が地面にまで降り切ったかのように黒く広がるグラウンド、左側はテレビ局の慌ただしさを映し出すかのようにきらびやかな光が窓からこぼれ、それを背景にして住宅地から照らし出される蛍光灯のやや青っぽい光が、無表情で心が行方不明になったかのように歩く彼女を浮かび上がらせていた。
何処からか、近くの家から微かにクリスマスソングが流れてきたように聞こえてきた。その曲に足を絡めとられたように歩みを止めた黒瀬は、街灯の蛍光灯がまるでステージのピンスポットの様に照らし出す場所で、コート越しに胸のペンダントをまさぐった。やや分厚めの手袋で胸元の水晶を、冬の寒空の下へと取り出して、眼鏡のレンズ越しに街灯の蛍光灯に照らし出された冷たい色の透明な塊をしばらく見つめていた。
『…もし、勇樹くんがそう言ってきても…それでも、魔法を取ると思う…』
かつて、彼女自身そう言った。魔法をとる、と。
しかし、その時と今とでは、自分自身の理解度が異なっていた。判っていなかった。
今のまま、ずっと、この世界で生き続ける限りは、自分の思い描いた生き方で通せると思っていた。
それがどうだ、見通せたはずの世界は、全くアテにならない真っ暗闇で、自分の目の前に何があるのかもわからない世界。そして、それに対して何もできない自分自身…。魔法という武器ですら、何も寄与してくれない、助けてくれない…じゃあ何なの!
黒瀬の中で、感情が慌て始め、やがて怒りという水蒸気を吐き出し始めた。それに動かされるように、左手が冷たい波長を反射する水晶を乱暴につかみ取り、ネックレスを首から外すとそれを足元へ叩きつけようとして…その左腕は固まった。やり場のない慌て始めた感情が快楽という出口を求めてそれを砕けと責め立てるも、彼女の体がそれ以上動かなかった。
「モノに当たってもどうしようもないよ、黒瀬さん」
背後から柔らかい男の声。それにつられて振り向くと、装備品が幾つも無理やり詰め込んだようなズタ袋を2つほど背負って彼女と身長がほぼ一緒な男子生徒が、今から雪山でも登りそうなコートを着込んで佇んでいた。
「…八木くん…」
クラスは違うが、名前も顔も知っている。山岳部に所属するある意味有名人。秋翠の生徒なら、その名前と顔は何故かみんな判る。
「感情の波は逆らうんじゃなくて、乗りこなさなきゃ。逆らっても、いつかは飲まれて自分を見失う…見失ったら、また見つけるのは大変な事だよ」
ガチャガチャと装備品の音を立てながら、彼が彼女の隣へと歩み寄る。重そうに見えて、彼はそれを感じさせないほど軽やかな表情だった。
「大事なものがあるなら、それを守っていけば必ず役に立つ。感情に任せて失えば、もう取り戻せない…わかるよね?黒瀬さん」
「……」
「だから、落ち着こう。気持ちは今は荒れても、遠からず平穏な海になる。それまで、波に乗ってやり過ごそう」
横にいた彼は、一歩踏み出して黒瀬に向き直る。
「大丈夫、出来るさ。今じゃなくても」
彼は再び彼女に背中の装備品を向けると、そう言って歩き始めた。街灯の明るいエリアから外れた彼の姿は、漆黒の夜に消えていくように姿が見えなくなった。ガチャガチャと装備品の擦れる音は相変わらず周囲に響き渡り…やがてそれも聞こえなくなった。
黒瀬は、いつの間にか下ろしていた左手の中で輝く水晶のペンダントをしばらく見つめた。
さっきから状況が過去の記憶を呼び起こすトリガーになったのか、中学時代の、思い出したくもないシーンばかりがぐるぐると頭の中で勝手に上映される。見たくもないシーンばかりが繋ぎ合わされてダイジェスト版で。
言う方が辛い…なら、言われる方が楽だと思った。
でも、楽じゃなかった。痛みは、等価だった。
…同じ痛みを繰り返すなら、初めからない方がまだマシじゃない…。
一呼吸おいて、彼女は外した水晶のペンダントを、ゆっくりとあるべき場所へと戻していった。水晶の重みが、黒瀬の首筋に軽い負荷をかける。
その負荷が、彼女の何かのスイッチを押した。
「…もういい」
誰も結衣の声は聞いていない。聞く人もいなかった。自分一人が、まるで舞台の上で頭上からピンスポットを浴びて悲劇のヒロインを演じてる様に、街灯の冷たい光に照らされて誰も周りにいない道の上で、彼女は自分自身に宣言した。
「恋は、しない」