Myself~風になりたい~
「白谷、1年生の子が呼んでるぞ〜」
友人の声がおしゃべりで満ちている教室内に響く。
昨日の出来事が彼氏彼女の関係だった白谷駿と赤城真由の二人の仲を壊してしまった。その翌日、白谷は何とか学校には出てきてはいたが、気持ちを引きずっている彼はただ出てきているだけといった感じだった。
お昼休み、白谷は自分の机で1人で弁当を食べた後、何もすることもなしに自分の椅子に座って無為に時間を過ごしていた。ぼーっと窓の外を見たり、時折俯いて何かを考えていたり、机に突っ伏してただじっと机の上を眺めていたり…。それを見た友人らも彼に声をかけたりはしているものの、いつもより反応が鈍いどころか無反応に近かかった。
そんな中、白谷は友人に呼ばれたものの、かなりスローな脊髄反射のような動きでほぼ無感動にその声に反応した。声の主の方を振り向くと、後ろの出入り口に見慣れた1年生女子がいた…が、しかしそれは、昨日までの彼女ではなく、その友人、青葉彩だった。
「青葉さん…?」
彼は今日始めて人間らしい反応を見せて来訪者の名前をぼそっと口にすると、同時に椅子から立ち上がって彼女がいる入口へと足を運ぶ。
その歩みには、いつもの快活さはなかった。
「白谷先輩、お話ししてもええか?」
普段は陽気でおしゃべりでカメラ持ったら何撮るか判らない青葉が初めて見せるような真面目な表情をしているのを見て、どうやら昨日の出来事は伝わっているらしい。まあいいよ、とややめんどくさそうに白谷は彼女に言うと、廊下を歩いて階段横の視聴覚教室入口で二人は足を止めた。いきなり青葉が直球で切り出す。
「先輩、何で真由と別れたん?」
こっちが理由を知りたいよ…白谷が思わず口にしようとした言葉をめんどくさそうに喉の奥にしまい込んだ。彼女の話す関西系の言葉がややキツめには聞こえるが、口調としては責めているより原因を訊きたがっているように白谷は思った。
青葉はさらに言葉を続ける。
「真由、めっちゃ怖がってた…今までそんなことあらへんかった」
「…俺も、よく判らん…」
白谷はそう言いながら、心のどこかを除外していた。やや後ろめたさもある部分。今回の原因となった魔法。
「判らん、って…じゃあなんで真由あんなんなっとんねん…」
呆れて、ついで顔を餅のように膨らませて怒ったかのように青葉が呟く。それに続くかのように白谷は気だるそうなため息をつくと、青葉に視線を合わさず、幾つかの感情が渦巻く中をなんとか言葉を構築して彼は話す。
「…真由から経緯は聞いてるか?」
「繊協ビル行く途中で事故に遭いそうになって、は聞いた。夜のニュースでやっとったなぁ」
青葉はそう言ってふと、何かを真由が言ったかを思い出したように記憶の倉庫をひっかきまわしながらぼそりと口にする。
「…そういやなんか変な事言っとったなぁ…魔法使ったみたいな、って。何のこっちゃ?」
もし彼女と別れてなかったら…ついしゃべりたくなる衝動を抑えるのに、白谷は気力の大半をつぎ込まなければいけない所だった。幸い、というべきか、そんな軽はずみをしないくらいの気分ではあるが。
「…先輩、魔法使いなん?」
青葉は冗談交じりの口調で白谷に訊いた。彼女としては突拍子もないことを言ったつもりだろうが…言えないだけで本当はそうなのだが、と白谷は言葉で答える代わりに微妙な苦笑いを浮かべた。
「…だよねー。マンガじゃあるまいし」
白谷の表情を読み取った彼女はそらそうよ、と言いたげに常識的な判断を下した。
二人は暫くは、廊下に響く昼休みを楽しむ生徒たちの歓声や物音をなんともなしに聞いていた。視線は合わさない。二人とも視聴覚室の入り口引き戸に上半身を預け、それを支える足は床にアンカーを打ち付けたみたいに突っぱねている。視線も、二人は似たような位置の床をじっと見ているだけだった。階段や教室そばのトイレを利用する生徒らは、並んで立っている二人を彼氏彼女の関係になっていると思う人もいるだろうが、ほとんどは彼らの存在を無視するかのように自分の事に集中していた。
しばらく黙っていた白谷が自身の体に溜まっている気持ちを押し出すように、小さく呟いた。
「…いきなり嫌とか触らないでとか言われて…俺が理由を知りたいよ」
「…そんなん、言われたんや…」
青葉は何気に視線を床から天井へと移した。反響防止の、小さな穴が開いた天井のマス目が、規則正しく廊下の天井を埋め尽くしているさまをじっと見つめながら、さっきの言葉と同じ口調でポツリと呟いた。
「そら、キッツイわなぁ」
まあ、いきなりそう言われたらキツイよね、と彼に同情してそうな感情を乗せる。
白谷の反応を見ようと、青葉はさり気なく横目で彼を見る。数秒間、彼を見てから視線を正面の、数十メートル先にある廊下の反対側に目を向ける。ややあって、彼女は制服のポケットから何かを取り出そうとして…やめたのか、再びポケットに戻した。
「…青葉さんは何?真由の代理?」
白谷がしばらくの沈黙を破る。青葉は彼の方を向かずにすぐに答えを返した。
「ま、そんなとこや」
「真由は…来てくれんのか?」
「そや」あっさりと、という言葉の見本のように青葉が短く返答した「先輩の名前出すだけでビクッ、ってなってる…真由、あんだけ昨日まで楽しそうに先輩のこと喋ってたのに…」
それに続いた彼女の言葉は、さっきとは正反対の感情を伴ったものだった。
「…そっか…」
楽しそうに喋ってた…言葉は過去形だけどそれを聞いた白谷の表情はこわばったものからいくらかは穏やかなものにはなった。
「…青葉さん」
「何やろ」
「しばらくして気持ちが落ち着いたら、また会って話そう、って伝えてくれないか?」
「それは…あ、いやいや、それは先輩が直接言うた方がええ」
それをするのは当事者同士やろ?と青葉はややキツめな目つきで白谷に釘をさす。こういう場合は他人挟んだらアカンで、と言いたげに彼の方に身を乗り出す。
「まあ言うてはみるけどな。でも言いたいことは直接言わなあかんで。ほな」
青葉は男物のように見える腕時計で昼休みの残り時間を確認すると、半ば事務的な、しかし以前までの様な気安さで白谷にそう言って教室へと戻っていこうとして…しかし途中でポケットから何か黒い塊を取り出してさらっと人二人分ほど離れた白谷に向ける。白谷が気づいて青葉に視線を向けた瞬間、彼女の手に持った黒い塊…正面に丸いふくらみが両側に分かれて中からレンズが見えるコンパクトカメラ…に仕事をさせて手早くしまい込む。
「おおきに。先輩、今のええカッコしとったで」
満面の笑みといたずらっ子の様な無邪気さを同居させた表情を白谷に向けて、青葉は軽く手を上げて小走りに廊下の向こう側へと遠ざかって行った。
白谷は半ばあっけにとられつつ、去り行く青葉の後ろ姿を見て、深い溜息を一つ、ついた。
放課後。
白谷は一瞬帰りかけようとしたが、その動きがぴたっ、と止まる。数秒後、彼は再び動き出すが、今度はカバンを戻して手ぶらで教室を出ようとする。
白谷の後ろの席に座っている幼馴染の黒瀬結衣は、教室を出ようとする彼に一瞬視線を向けた。それを感じ取った白谷は、彼女と目を合わすも、黒瀬の方が何事もなかったかのように視線を机の上のノート類に向けると、彼の方も思い出したかのように教室の出入り口へと足を進める。
目的地は、真由がいる1年3組。しかし、何人かの彼女のクラスメイトはいたが、肝心の真由の姿はなかった。当事者ということか、彼の姿を見た男女ともなにか物珍しそうな動物でも見るような、好奇心と半ばバカにされてそうな視線を浴びたような気がして、彼は足早に廊下を歩いた。
白谷は一旦教室に戻ると出る時はいた黒瀬の姿はなかったが、それを無視するかのように自分の机に取り付く。ふと、ひょっとしたら…彼はそう思ってカバンから筆記用具やノートを取り出すと、その足を図書館へと向けた。その歩みは昼間よりは少しばかり速目になっていた。
図書室は相変わらず人が多く、座る場所を探すにも難儀はしたが場所自体は確保できた。しかし、彼の予想は外れた。
折角来たから…白谷は持ってきた教科書や以前の授業内容を書きとったノートを広げて昨日までやってたようにはしてみたが…身が入らない。昨日までなら、隣に色んな意味で頼りになる子がいた…けど。
「……」
頭に入ってくるはずの言葉や数式など、覚えるものが、眼の前で弾かれているみたいに、入ってこない。無理にでも頭に入れようとしても、動機が半ば意義を失っている分、気力すら湧いてこない。
白谷は机に置いてあった自分の筆記用具とかノート、教科書等をまとめて席を立ち、図書室を出た。
出入り口で、彼はもしかして、と思って振り返って図書室を眺めるも、昨日までいた彼女の姿はやはり見えなかった。
「これで終わりです」
「結衣さん、ありがとう助かった~」
「突然呼んでしまって申し訳ございません。助かりました」
黒瀬は彼氏で生徒会長の緑川勇樹と、副会長の北川秋絵の3人で今しがた迄配布するプリントの仕分け作業とかを生徒会室で行っていた。書記と会計は同じ時間帯に別件で作業していて人手が足りないので、生徒会長は急遽前文化委員長の黒瀬にお手伝いを頼んだということらしい。
外はもう日が没するのが早い時間帯になってしまっていて、夜の帳が降りている。外で活動している部活は微かなグラウンドを照らす灯りの下で練習とかをしているが、夏と比べたら規模が縮小している。
「勇樹くん、どうします?同じバスで帰ります?」
「ごめん、もうちょっとかかります…それじゃあ玄関で待っててくれます?」
「じゃあちょっと教室へ荷物とってまってるね」
結衣はそう言いつつ生徒会室の引き戸から薄暗い廊下へと歩み出した。
もう午後6時を過ぎて、廊下はまだ明かりが点いている教室の光を受けているところ以外は半ば夜の闇が侵食しようとしてる位に薄暗かった。
結衣は自分のクラスへ戻った。人はいなかったが明かりはつけたままで、無人の教室には所々机の上に何人かの荷物が置かれたままだった。そう言う荷物は大体部活してる人らなので、まだ終わってないから取りに来てないのだろう。彼女の一つ前の席の主も、机のフックにはカバンがぶら下がっていて、まだ幼馴染が学校内に残っていることを暗に知らせていた。
「あいつ、まだ図書館か…」
教室の正面の壁にある時計を見つつ自分の荷物を手に取ると、結衣はそう独り言を言いながら教室を出た。トイレの横を過ぎ、北校舎の教室に連なる廊下とぶつかる。北校舎の教室は既に明かりが落ちていて、微かに廊下だけを何とか薄暗く照らしていた。180度右へ曲がって、廊下と同じくらいな明るさの階段に差し掛かる。
…風が背後から動いた。
「え?」
黒瀬が何かを感じて後ろを振り向いた視界の端の方に、ただならぬ雰囲気を纏った誰かが手に持った何かを動かした…自分の方へ飛び込んで来る何かを瞬間的に避けようととっさに身をすくめた所へ、何か質量のあるものが鈍い風切り音と共に駆け抜けた。バランスを崩しかけて階段から落ちそうになるのを左手で手すりを掴んで体を保持する。
黒瀬が後ろを注意深く見ると、劣化している蛍光灯の明かりを正面に受けた…、
「遠野さん!」
遠野春香の右手には、銀色に鈍く光る、彼女の方から指先ほどの長さの重そうなモンキスパナが握られていた。工具がプルプルと震えているのは、彼女の中で、衝動と良心とがせめぎ合いをしている証拠かもしれない。
「…このドロボウ猫が…!」
遠野は再び手にしたスパナを振り下ろす。手すりに手を付けたまま黒瀬は滑らせて3段ほど降りて距離をとった。荷物をその場に置いて、右手が胸元の水晶のありかを確かめる。
「遠野さん、何やってるのか判ってるの!?」
「あんたは邪魔なんだよ!」
彼女は階段を下りて距離を詰め、黒瀬の頭めがけてスパナを横薙ぎに振り抜く。反射的に頭を後ろへずらした刹那に過去の位置を金属の塊が通過する。勢いついたスパナが手すりを支える金属の細い支柱に当たって耳障りな金属音を火花と共に階段はおろか廊下迄もその不協和音を響かせた。
遠野はそれすらもものともせずに再び振りかぶると、重力の助けを借りてスパナを振り下ろした。
「とにかく防御して体制を整えないと…!」
黒瀬は瞬間、頭の中で言葉を生成し、それを水晶に…。
しかし…。
「えっ…!?」
その刹那、ノイズが頭を支配した。言葉はそれに飲まれ、跡形もなく消えてゆく。
言葉が無ければ、水晶の中の悪魔は、働らかない。
まさか…黒瀬の背中を何かぞわっとした嫌な感じがはいずり回る。
少なからず動揺していた彼女の顔に嫌な衝撃が走る。振り下ろしたスパナの一部が、眼鏡を吹き飛ばして彼女の顔を傷つけた。…頬を伝う何か液体が…赤い。ちらっとそれを見た瞬間、傷口の熱さと共に痛みが次第に大きくなってきた。
黒瀬を傷つけてより攻撃衝動を増した遠野は、嵩にかかってスパナを振るう。何とか距離を置いた黒瀬はもう一度コードを組み立てて…しかし結果は同じだった。
「…そんな…!」
黒瀬は自分が魔法を発動できないことにそこで気づいた。最近使ってなかったからか…いや違う。
…魔法自体が使えなくなっていた。
まるで、体が本能的に拒否しているかのように。
小学生の頃のあの時を再現してしまうかもしれない…魔法庁の職員が言った『火は、風のバリエーション』という言葉が、黒瀬の思考を知らない間に侵食していた。
さながら、自分で自分の魔法にロックを掛けてしまった状態になっていて、なおかつそれに気づいていなかった。
魔法が使えないならとにかく彼女を落ち着かさないと…黒瀬は眼鏡を失って輪郭がぼやけて見える遠野に言葉を叫ぶ。
「遠野さんこんなことして何になるの!」
「何に…?あんたを除去すれば私が勇樹くんの隣に居れるようになるんだよ!」
「そんなことしても勇樹くんは喜ばないでしょ!?」
「黙れ!お前が言うことか!」
黒瀬の言葉は相手を落ち着かせるどころか、興奮状態になってるためになおさら遠野に火に油を注ぐことになってしまった。
遠野から見た黒瀬は、除去すべき障害としか見ていない。人間として見ていない。
蛍光灯の、やや青白くシフトした光源を受けた彼女の目は、それを打ち消す様な衝動に染まっていた。
黒瀬の言葉は、ただ目の前の異物を除去しようと全力で振るっている遠野には届いていなかった。スパナを振るう彼女は、黒瀬の言葉をそれで砕いているかのよう。
黒瀬は防戦一方にしかなれなかった。眼鏡を失って相手をぼんやりとしか見れないことも手伝ってなおさら反撃には出れない。相手との間隔も広めにしないと彼女の攻撃が当たってしまう。魔法が使えていれば彼女の攻撃を無効化出来るのだが…。
遠野がスパナを振るうと同じだけ黒瀬は階段をずり下がって行く。やがて階段の踊り場に黒瀬は降りると、タイミングを見て逃げることを選択、2階へと向かう段に足を掛けた。
しかし、遠野は手すりを使って最小半径で回り込むと裏拳の要領で黒瀬の顔めがけて横薙ぎにスパナを振るった。黒瀬は不幸な髪数本を犠牲にして座り込むようにして避けたので当たらなかったが、その姿勢ではすぐには下へと降りられなくなってしまった。とっさに両手で頭を抱えるように防御を固めた。魔法が使えない以上、逃げられない以上、そうする手段しか彼女には残されてなかった。
「…あんたの顔ぐちゃぐちゃにして勇樹くんが見れない位にしてやる!」
遠野が再び裏拳のようにスパナを振るおうとした矢先。
階段を風が駆け抜けた。
何もなければ確実に黒瀬の顔か、とっさにかばった手にスパナが当たってけがをしていただろう。しかし、目に見えない壁が彼女と遠野の間に形成されて、振り抜いたスパナを弾く様に逸らした。
「…えっ!?」
「…風!?」
確実に当たったと思った遠野は、スパナの軌道が何か見えない壁に当たって強制的に変えられたように見えた。
遠野は何が起こったか理解できなかった。弾かれて手から飛び出しそうになったスパナを彼女は何とか保持するのにいくらかの瞬間はそれにつぎ込まれた。
黒瀬の目の前から風が散逸していく。汗をかいて重くなった彼女の髪が、駆け抜けてゆくやや強めの風を受けてなびく。風が心地よい。そして、何が起きたか理解できた。
何か、昔見たヒーローものでよくある、危険が及ぶ直前のギリギリのタイミングで、やってきた。
幼馴染が、来た。
「駿!」
彼女は、何処からともなく溢れてきた嬉しさの成分をいくばくかその声に乗せて、思わず幼馴染の彼の名前を叫んだ。
少し前。
白谷は当てもなく、ただ学校内をぶらぶらとさまようように歩いていた。ただぼーっと運動部の練習を見ていたり、玄関の片隅に座って下校してゆく生徒らを見ていたり…そして気が付けば、日も暮れて周囲は夜の簾が降り切って、道のあちこちでは街灯が地上の星のように輝き始めた。
「…帰ろう」
ふらりと立ち上がると、足取りはゆっくりとしたままで自分の所属するクラスの教室まで戻る。生徒玄関そばの階段を3階まで上り、3年生の教室1つと2年生の教室4つが並ぶ北校舎の廊下を、光量が少なくなった蛍光灯が照らす廊下をとぼとぼと歩いている時だった。
教室4つ分ほど先を黒瀬が一瞬右から姿を現し、踵を返すように180度反転して再び壁の向こうに姿を消した。その直後、同じ方向から因縁の女子がまるで黒瀬の後を追うように走りながら後を追っかけるのを彼は目にした。直接は見えなかったが、銀に輝く何か棒のようなものを彼女は握りしめていた。
「…遠野?」
感情が、ざわつき始めた。ゆっくりと歩いていた白谷の歩調が、早足になる。しかし、ふととある前提条件を思い出すと、その歩様は再び落ち着いた。
結衣は、術者だ。普通の攻撃くらいなら、ちゃんと防御は出来る。
ところが、階段から聞こえてきたのは遠野の黒瀬への攻め立てる激しい言葉と時折どこかに棒状の物が当たる不協和音と、幼馴染の、遠野を説得しようとする必死の言葉。いつもの結衣ならば、そんな風にはならない…ハズ。
「…何だ…?」
違和感を感じた白谷は、再びやや速足で階段へと向かった。右へ90度曲がり、下へと降りる階段が目に入った。そこには、踊り場の隅に幼馴染を追いやった、銀色の大きなスパナを振り回す遠野の後ろ姿が見えた。
しゃがみ込んで、両手で頭を守るように抱えながら怯えているように小さくなっている幼馴染の姿を見て白谷は、さっき芽生えた違和感がただならぬ事態にその枝葉を伸ばしていることを悟った。…いつもの結衣じゃない…!何かあった…。
「…あんたの顔ぐちゃぐちゃにして勇樹くんが見れない位にしてやる!」
遠野がスパナを裏拳のようにして、しゃがみ込んで顔を両手でガードしている黒瀬に薙ぎ払うような恰好で打ち込もうとした。
白谷はとっさに言葉を組んだ。
「結衣!」
階段の上の方にぼんやりと見える幼馴染から、今度は答えを返すかのように彼女の名前を叫ぶ声が返ってくる。3階から踊り場の途中の階段へ下りてきた白谷が、遠野の背中越しに黒瀬を見つめていた。
遠野も、聞こえてきた声の方を見る。その顔は、邪魔されたことに対する怒りに満ちていた。
クラスでも美少女と言われた彼女の片鱗は、今この場所では全くと言っていいほど存在してない形相で白谷を睨む。
「白谷…お前先生に何吹き込んで軽くしてもらったんだ!?」
「そんなことするわけない!」
「ウソだ!」
遠野の行動範囲内に入り込んできた白谷めがけてスパナを振り回す。ブン!というスパナから発する、空気を切り裂く鈍い音が彼の体の前を通り過ぎる。彼女は振り回しながら白谷を階段の上に上げて黒瀬との距離を広げようとしている。
「何も教えなかったくせに!この役立たず!」
完全に八つ当たりじゃねーか。白谷は彼女の攻撃を避けつつ、しかし圧に押されてじわじわと階段を上る羽目になる。
ある程度白谷を階段の上へと追いやった遠野は、一瞬下にいる、さっきの攻撃をよけたせいで座り込んでいる黒瀬を見ると、踵を返してジャンプした。攻撃対象を再び彼女に定めたようで、1mほどの高さで階段を飛び降りる。
白谷も続いて飛び降りる。着地のショックを吸収して、遠野が黒瀬に危害を加えようとレンチを振り上げたところを後ろから羽交い締めにした。
「いい加減にしろ!」
「離せ!この野郎」
羽交い締めにされた遠野が暴れる。だが単純な力では流石に白谷の方が上。しかし、遠野はまだ抑えられていない足を使って後ろ蹴りを白谷にかました。幸い股間にはヒットしなかったが内股をしたたかに蹴られた彼は、痛みで思わず羽交い締めしている腕の力を緩めてしまう。その間に白谷の手を振りほどき、眼の前にいる黒瀬に向かって再びレンチを振り上げた。
魔法が使えず、座り込んでて動けなかった黒瀬は思わず両腕で頭を庇うようにして守ろうとする。遠野の顔が目的を達成したかのように歪んだ笑みが浮かび上がった瞬間にレンチを振り下ろす…しかし、今度は白谷がバランスが不完全なまま片足で遠野のスカートの上から彼女のヒップを手加減なしに蹴り飛ばし、蹴られた彼女はレンチを振るえないまま顔面から階段の壁に強制的にかなり強めのキスを余儀なくされる。白谷も蹴った反動で手すりにしたたかに腰を打った。
「ってて…」
痛みのために数瞬ほど遠野から目線を切った…その間に白谷に後ろから蹴られて顔面を壁に直撃された遠野は鼻を打ち付けたらしく、ポタポタと血をたらしながらそれでも衰えない攻撃衝動のままレンチを振り上げて白谷に襲い掛かろうとする。
「やばっ!」
瞬時にコードを組み、水晶の中の悪魔が使役され、彼女のレンチが降り下ろされる直前に風が舞い込み見えない壁を生成した。物理法則を無視して固められた空気は、白谷の突き出した平手のほんの数ミリ部分を見えない金属のように彼をガードし、スパナを通じて遠野に反作用として手元を狂わす動きを伝える。
遠野から見れば、確実に当てたはずのレンチが何故か変な方向に逸らされる。見えない壁に打ち付けたような妙な感覚に本来なら気付いていたはずだが、彼女の攻撃衝動はそんな疑問すら無視し続けているかのようだった。そのかわり、
「…何で当たらないの!」
所かまわずレンチを振り回す遠野。その気迫にさすがの魔法を使った防御壁を持っていても押されてしまう。そのうち魔法が揮発し始めて風が吹き抜けてゆく。
遠野に、白谷は踊り場の、下から上がってくる方の壁の隅に追い詰められる。
「しまった!」
まだ逃げ場があると思っていた白谷に、もうこれ以上下がれないことを背中に当たった壁が教えてきた。逆に押し返してレンチの露になれと言わんばかりに壁が彼を拒む。
「邪魔するなこの淫乱野郎が…!」
背中にほんの僅かだが気を取られていた白谷は、遠野が殺意を隠さずにレンチを振りかぶる姿を見た時にはすでに魔法を発動するタイミングを失っていた。発動は出来るが壁は作れない…!思わず目を閉じた…が、
「このぉ!」
横合いから黒瀬があの時のケンカみたいな体当たりを彷彿とさせるような鋭いタックルを遠野にかました。彼女の視界外だったのか、黒瀬のタックルか完全に不意打ちになって体ごと持っていかれる。首から上が慣性の法則に従って置いてかれるような形になり、鼻血を撒き散らしながら壁にぶつけられた。
両者とも肩で息をしている中、遠野はしばし意識を失ったかそのまま壁にもたれるように床に沈む。
「…やった、か?」
「…駿、それは言っちゃダメ」
昔、散々見たアニメや特撮で禁句と言われている言葉を思わず白谷が言うと、遠野にタックルかまして勢い余って倒れこんでいた黒瀬がそれを聞いて立ち上がりつつ冷静にツッコむ。
意識が混濁しているように見える遠野は、しばしうめき声を上げているが、すぐには起きれそうにも見えない。
「…結衣、何で使わない?」
思い出したかのように白谷が黒瀬に言葉を掛ける。主語が無くても、彼女には通じた。
「何故か…使えない。言葉が生成できない…」
「…そんなことあるのか?」
「…ひょっとして先週あの人に会ったからじゃ…」
「御寺さん…?」
先週の土曜日に会った魔法庁の職員を白谷は思い出す。彼女が使った風の魔法のバリエーションを見た黒瀬は、昔の事故を思い出してしばらく震えが止まらなかった。その後遺症が、さながら地下水のように彼女の意識の下を流れていて、今回それが噴出した。
幼馴染の言葉が止まって、二人はふと床に倒れてる遠野を見た。
「…大丈夫そう。結衣、保険の先生ってまだいるかな?」
「どうだろ。行ってみる?」
「頼む」
眼鏡を失った黒瀬が、足元を確かめるかのように階段をゆっくりと降りてゆく。白谷は彼女の後ろ姿をしばらく見ていた時…。
「うあああああああああっ!」
出し抜けに遠野が起き上がってレンチを振りかざした。びっくりして白谷が視線を遠野に戻すと、レンチを振り上げて顔が鼻血で血だらけの彼女が白谷をスルーして階段途中にいる黒瀬めがけてジャンプして襲いかかった。突然のことで黒瀬は体制を整えられない。魔法も使えない。せいぜい、両手で頭を庇うくらいしか…。
「結衣っ!」
白谷は右手を伸ばして襲いかかろうとする遠野を止めようとする…届かない。彼女は空中を飛び上がり上段の構えでレンチを目一杯背中へと反動をつけるようにして振りかぶり、今まさに振り下ろそうとした。
頭の中でコードを組んだ。
そのコードを口にする。
それを受けて彼の胸元の水晶が、中の悪魔が、対象空間の物理現象を強制的に変化させた。
風がそこへ吹き込んだ。
遠野が黒瀬への恨みを込めてレンチを力いっぱい振り下ろす。
遠野の口元が、やった、と思って微妙に歪んだその刹那、振り下ろされるレンチと黒瀬の僅かな隙間に、白谷が発生させた壁が組み上がった。正面から受け止める壁ではなく、逸らす様な斜め方向の。
振り下ろされたレンチがその壁に接触した瞬間に、急激にその方向を変化させられた。持っている遠野の手が、そのレンチのベクトルにまるで吸い寄せられるように体がその方向へと持ってかれる。
「!」
彼女は空中で姿勢を喪失した。何物も支えるものもなく、ゆっくりと前転するかのように重力に引かれると、腕からタイルの床に叩きつけられる。痛みのためか、思わず手放したスパナが落ちた勢いで耳障りな音を周りに響かせて転がってゆく。
「…間に合ったか」
白谷が黒瀬に危害が及んでないのを見計らって呟いた。その彼の視線の向こうに、思わず腕で頭を庇うような格好でいた黒瀬が、体の痛みがないことを確認しながら腕を下げる。
「…ありがと」
白谷に礼を言った後、彼女は白谷とほぼ反対側のタイル地の床の上で、誰かに投げつけられたかのような格好で床に伏せている遠野の姿を裸眼で見た。うめき声が上がってはいるが、すぐに動き出しそうな雰囲気ではない。目を凝らしてよく見ると、先に落ちたらしい右腕を庇うように左腕でカバーしていた。
「…痛い…痛い…」
同じ単語を繰り返し呻く遠野の戦意は喪失しているようだった。どうやら右腕を痛めたらしい。ひょっとするとそれ以上の可能性も。
遠野を確認しようと白谷と黒瀬が階段を降り始めると、ようやくというか今まで何処にいたんだろうと思いたくなるように廊下から階段へ人が集まり始めた。その中には、ぼんやりとしか見えないが、玄関で待っていたはずの勇樹の姿も混じっていた。
「結衣さん!」
「勇樹くん!」
名前を呼ばれて、足元を気にしつつ結衣は心配そうな顔をした勇樹のそばへと歩み寄る。彼は彼女の顔を見て、少しばかり驚いた表情を見せた。
「結衣さん…顔、怪我してる?」
「…そういえば」
結衣が勇樹に言われて痛みが疼くように存在を主張している顔を撫でた。ぬるっ、とした、固まりかけの血の感覚が指先から伝わってくる。
「…そういや眼鏡吹き飛ばされたんだった。ゴメン駿、階段見てくれる?ついでに荷物も」
近所にいるような軽い感覚で幼馴染のいる方向へ名前を呼ぶ。呼ばれた幼馴染は同じ様に軽く返事すると、床に目を凝らしつつ階段を上へと登り始めた。
…勇樹は、幼馴染の間の自然な振る舞いをやや横目で少し、見ていた。しかしそれを口には出さなかった。
「玄関で待ってたらなかなか来なかったし、東校舎の方の階段から何やら叫び声とかが聞こえて来たから、心配になって…」
「ごめん…実は…」
結衣が、まだ動けずにいた、近くの床に倒れ伏して痛みを堪えて呻いている遠野に視線を向けた。勇樹もつられてクラスメイトの方を見る。
勇樹は、直接に遠野がなにかしてくるかも知れない、とは予想はしていたが、ここまで大事になるとは予想外だった。やや驚いた表情はしたが、冷静さは失っていなかった。
「襲われ…た?」
「なんとかこっちは無事だったけど…駿も助けに来てくれたし。それと乱闘中階段から遠野さん落ちて何処か痛めたみたい」
「じゃあ結衣さん、僕は遠野さん保健室に運んでいくけど一緒に来る?顔の傷、治さないと…」
勇樹はそう言うと、しゃがみ込んで今度は倒れてる遠野に声をかけた。
「動けるか?」
「…勇樹くん…」
「保健室、行けるか?手伝ってやる」
「足は大丈夫だけど…腕が、痛い」
遠野は痛みのために息を荒くしながら、緑川の肩に無事な方の腕を掴ませ、ゆっくりと立ち上がる。肩で息をしながら、時折襲い来る痛みに耐えようと彼女は呻く。
「…じゃあ、行くぞ」
緑川にそう言われた遠野は、ゆっくりと頷くと不意に黒瀬の方向に顔を向けた。
無表情、そう言った表現が合いそうに、何の意思表示もせず、ただ見ただけのように黒瀬の方を見た後、歩く方向へと顔を向けた。
「結衣さんも、行こう」
「あ…うん、わかった…」
勇樹から言われて何処かへ飛んでいた意識が戻ってきたかのように、結衣は二人の後を、距離を保って歩き出す。その後ろから、眼鏡と荷物を見つけたらしい駿が、下へ降りようとする結衣にやや大きく声を上げた。
「結衣、あったぞ」
「駿、自分保健室行くから…来る?」
「わーった」
結衣の眼鏡と荷物を持った駿が、幼馴染に追いつくようにやや早足で階段を降りてゆく。途中で、遠野が落とした大型のレンチを拾って今度は前をゆく二人と幼馴染に合わせた歩調で、1階へと降りていった。
「先生、おられます?」
勇樹が遠野を支えている反対側の手で保健室の引き戸を開くと、帰りがけなのか、室内の窓の戸締まりをしていた愛知先生が、クラスメイトに支えられて時折痛みに耐えている遠野を見てすこしぎょっとする。
「…どうしたのその子…?」
「詳細は後で。それよりも骨折か何かで痛がってますので先生見て下さい。あと、黒瀬さんも顔に傷が…」
勇樹は彼女をゆっくりと椅子に座らせて、彼女の体重が椅子に掛かるのを確認して肩から外しつつ、自分の彼女の怪我のことも伝えた。先生は黒瀬の方も見てまずは遠野の怪我の方を見て掛かる。
緑川は自分の役目がとりあえず終わった事を確認すると、横にいた白谷に小声で話しかけた。
「今いいかな?」
白谷は首肯すると、先生が彼女らの診察に集中している間に静かに保健室を出た。部屋の中と比べるとやや薄暗い廊下で、二人は壁に背中を預けて並ぶ。そして、事情がイマイチ分からない緑川が白谷に説明を求めると、彼は自分の目線からの事の顛末を幼馴染の彼氏に話した。
「襲われた、って結衣さんが?」
「…俺も途中からだけど、結衣が帰りに階段でいきなり遠野さんに襲いかかられた。遠野さんは武器持ってたけど途中で合流して二人で何とか…遠野さんは階段で結衣に避けられてバランス崩して腕から落ちたみたい。詳しいことは俺もよく判らん」
白谷はさらっと魔法の要素を除いて緑川に説明した。嘘は言ってないはず…と思いつつ。
「…そういや昨日から彼女、何か思い詰めたような顔してた…もうこちらとしてもあんまり関わりたくないから放って置いてたけど…」
昨日から、ということは例の処分発表に関わってるかな、と白谷は連想した。と同時に、その時は隣りにいた『彼女』が、もうすでに過去の話になってしまっているのを再確認して彼の表情が曇りがちになる。
先生たちが数人、職員室から保健室までやってきた。多分、遠野からの話を聞くためだろう。二人は保健室に入ってゆく先生らに会釈をして、再び日が落ちて黒くポスターカラーで塗りつぶしたかのような外を向いた。窓ガラスには、二人の姿が合成写真のように外を背景に映っている。
「しかし、そっちもそうだけど、色々と大変な週になってしまったな…」
さながらガラスに映るもう1人の自分に向けて話すかのように、緑川は白谷の方を見ずに真っ直ぐ前を向いて訊いてきた。背中から遠野に色々と聞いている声が聞こえてくる中、白谷は視線を床に落としながら、
「…ホント、色々ありすぎてもう何がなんだか…」
苦笑いとともに、呟くような感じでポツリと彼は口にした。
背中のすりガラス越しに、遠野らしい女生徒の泣き声が聞こえてきた。二人は一瞬声が聞こえてきた方を見て、再び元に視線を戻す。
「そういや、遠野さんどうなるんだろ…」
色々と因縁の相手ながら、白谷は幾ばくか気にするような口調で独り言のように呟いた。
「さあね…結衣さんに怪我させたんだし、そもそもエモノ持って暴れたからそれなりのきつい処分が下るんじゃないか…?」
彼の呟きに応えたのか、緑川も半ば呟くように彼女の未来を予想する。
保健室で動きがあったように、色々と音がすりガラスを通じて聞こえてきた。灯りに照らされて、輪郭がかなりボケた人影が入口の引き戸に近づくと、ゆっくりと開いて、先生に支えられた遠野が出てきた。これから病院へ行くのか、怪我をしたらしい腕は包帯で吊るされている。
遠野は、二人に気づいたようで、彼らの方を向いた。睨んでるようで、そうでも無いようで…彼女の視線を投げかけられた二人は、ただ職員玄関から学校を出る彼女を黙って見つめていた。
二人は特に意見を合わせたわけでもなく、ほぼ同時に保健室の中を覗き見ると、今度は黒瀬が顔の頬に受けた傷の治療を受けていた。傷口が消毒されると、赤いヨードチンキで塗られた傷口は今度は大きめの絆創膏とそれらを覆うガーゼをつけられ、肌用の粘着テープで固定される。
白谷はふと、夏に殴り合いのケンカした時の彼女の姿を思い浮かべた。あの時と雰囲気が似ている。違うのは、夏服か冬服の制服の違いか。
「先生、結衣さんは?」
勇樹が彼女の治療を終えたばかりの愛知先生にやや心配そうな顔で訪ねた。それに反応した愛知は、にこやかに、
「とりあえずは大丈夫。傷口は縫うほどじゃないみたいだし…しばらく様子見て必要ならまた来て」
それを聞いて安堵する勇樹と白谷。愛知は使った治療用具などを手早く片つけて所定の場所へと一時その場を離れた。結衣が、座っている丸椅子を座面ごと回転させ体ごと入口から入ってきた二人に向ける。
「まあ、先生の言う通り思ったほどは大したことはないみたいです。心配かけてごめん」
眼鏡を掛けてないせいか、二人を見る目つきを細めにしてなんとかハッキリと見ようとしている結衣。そこへ、白谷が近づいて彼女の足元に荷物を置き、ポケットから眼鏡を取り出す。
「ほれ、落ちてた眼鏡だ…しかしまたこれは買い替えかな?」
「…だね。また眼鏡屋さん行かないと」
黒瀬は白谷からツルの部分が折れた眼鏡を受け取ると無造作にポケットに忍ばせた。と、幼馴染に続いて今度は勇樹が彼女の前に進み出ると膝を折って顔と顔を近づけた。近づけられた結衣は何事かとちょっと驚いて、眼鏡がない事もあって瞳を丸くする。
「ここ以外は大丈夫?」
「…ええ、大丈夫です。当たったのはここだけみたいで…」
結衣は彼と何度もキスはしてるので顔を近づけられるのは慣れてるはずだが、それでも好きな人に目の前に来られるのは多少ドキドキする。
「先生、彼女もう帰らせてもいいですか?」
勇樹が奥の薬品棚にいるはずの愛知先生に彼女の帰宅許可を求めると、間髪入れずに奥からいいよー、との返事が来た。
「じゃあ、結衣さん、帰りましょう」
「え、ええ」
勇樹に促されて結衣は丸椅子から立ち上がるとさり気なく彼女のそばに彼は体を寄せる。入口まで行って先生に挨拶をした勇樹は、ちらっと白谷の方を振り向いた。
『彼女を守ってくれたのは大変助かるけど、でも結衣さんのそばにいるのは僕だ』と言いたげなレンズ越しの目線を、ほんの僅かの時間、彼は彼女の幼馴染に向けた。白谷は、向けられた視線に無意識に目つきを鋭くしていた。
奥から片付けが終わったのか、スリッパの音を立てて愛知先生が姿を表すと、じっと立っている白谷に声をかけた。
「あら?白谷くん一緒に帰らないの?」
「あ…まあ、もう少ししてからにしようかなぁ、って」
少し驚いたような挙動をした白谷は、苦笑いを浮かべて先生に言葉を返す。白谷からの返答を聞いた愛知は、ふーん、と鼻を鳴らすようにしたあと、
「そういや彼女さん…赤城さんだっけ?上手く付き合えてる?」
明らかに昨日の処分を意識してきた先生の言葉に、白谷は苦笑いから笑いを取った表情を浮かべた。それを見た愛知は何事が起ったかを察した。先生の顔が曇る。
「…昨日、突然別れを言われて…まだ気持ちが整理できてないんです…」
「…なんで!?」
「さあ…俺自身もわからないです…」
言葉の上ではそう先生に告げる。愛知の顔は、なんかマズイこと聞いちゃった、と後悔の感情を隠しもせずに表現した。
「…ごめんね。何も知らなくて…」
「いえ、仕方ないです…」
白谷はそう言うと、意を決したかのように出入り口へと歩き出した。引き戸の前で足を止め、なんでもないですよ、と言いたげな微妙な顔を向けた。
「それじゃ、帰ります…」
「ああ、気を付けて、な」
「失礼します」
ゆっくりと引き戸を開けた白谷は、先生との会話を終えると廊下に出て、引き戸を閉めた。そこでしばらく立ち止まると、天井を見上げてため息を付いた。再び視線を戻すと、白谷は緩やかに歩き出した。