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風のLonely Way

 …何人かの生徒が、彼女の行く手を阻んでいた。廊下の向こう側へ行きたいのに、その生徒らはそれを塞ぐかのように立ちすくんでいて動く気配すらなかった。

「…あのぉ…通してください」

 彼女がおそるおそるその生徒らに懇願するも、彼らは動こうとしない。

 授業に行きたいのにこれじゃ遅刻しちゃう!彼女が焦り始めた時、後ろから声をかけられた。

 知っている声、安心できる声、必ず自分を守ってくれる声。

「待ってろ、俺がなんとかする」

 そう言ってその声の主は彼らに対して左手をかざすと胸元の水晶が光を放ち始めた。

 たちどころに風が吹いて、廊下を塞いでいた彼らに次々と襲いかかる。うめき声を上げた彼らはさながら爆弾が破裂したかのように顔が粉々に飛び散った。

 彼女は一瞬、何が起こったか理解が出来なかった。しかし顔がない彼らの姿を見ているうちにやがて何が起こったかが、まるでコップに少しづつ水が貯められていくかのように、忍び寄るように彼女の感情を満たし始め…、

「……きゃああああああああああああああああ!」

 彼女は突然の景色に自分を見失いそうなくらいに叫ぶ。

 逃げ出したいが足が動かない。足自体が床に接着されたようにぴったりとくっついて離れない。

 何度叫んだだろうか、叫び疲れた彼女はおそるおそる目を前に向けると、何かに操られた、首から上を失った生徒たちがゆっくりと、やがて普通の人のように彼女に向かってその距離を詰め始めた…というより、制御を失った車のごとく彼女に向かって突進してきた。

「……!!」

 叫び疲れた彼女の再びの叫びは声にならなかった。

 首のない彼らは彼女に突進してきた…が、先頭がいきなり"く"の字に無理やり曲げられたと思いきや左側へ押し潰されるように押し込められ、後続も何かの力で急激に同じ方向へとまとめて吹き飛ぶ。何か見えない壁に閉じ込められた彼らは今度は体自体が爆ぜて周囲に血や様々なモノを散弾のようにまき散らす。たちまち彼女の目前は、鮮血の赤に染め上げられた。

「ああああ…ああ…」

「真由、大丈夫か?」

 自分を守ってくれる声を聞いた彼女はすがるようにその声の主の方に振り向いた…しかし、彼女を守ろうとしたその声の主は、その光景に平然と、むしろ楽しんでいるかのような禍々しさを纏っていた。

 制服の上に出してある胸元の水晶が、その禍々しさを増幅するかのように怪しく、しかし白く強く輝いていた。

 彼は口元をひどく歪めてこう言い放つ。

「真由の邪魔者はすべてこうなる。だから安心しろ。俺と一緒にどこまでも行こう…」

 彼は彼女に手を差し伸べた。その手は、鮮血に染め上げられていた。

「…ひっ!」

 血の匂いを纏った彼の手を見て彼女は怯える悲鳴を上げる。何時も守ってくれる彼…しかし、その彼は何かに乗っ取られたかのように何もかも違っていた。姿形は同じでも、完全に別物。

 彼女の体の奥から、再び恐怖の感情があふれるばかりに満ち始めて…!


 …目が覚めた。

「……」

 もうすぐ冬だというのに、寝汗が酷い。まるで風邪をひいて高熱にうなされているかのように、パジャマは彼女からの湿気をふんだんに含んで、ほのかに自分の汗の匂いが部屋に広がって行く。

「…なんなのよぉ…」

 カーテンの向こうはまだ暗かった。あとひと月もせずに冬至になるわけだから当然だが、かといって嫌な夢を見た分の眠りを取り戻そうにも、枕元の目覚まし時計はそれを許さなかった。反転フラップ式の時計の数字表示板が一つパタリと落ちると、持ち主を起こそうと時計が忠実に騒音を彼女の部屋にまき散らす。

「…起きよ…」

 部屋の寒さに辟易しながら、彼女は自分のベッドから体を起こした。


  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 秋翠(しゅうすい)高校にある図書室は、今日も静かに賑わっていた。

 借りてゆく本を見定めてカウンターへ持っていく生徒や、調べ物のために本を使っている生徒らに加えて、静けさ故にここで勉強をしている生徒もまたそれなりにいる。

 冬至まで1か月前後のためか、窓の外はほぼ漆黒と言っていいほど真っ暗で所々近所の街灯の明かりが星のように浮かんでいる。が、角度を変えるとガラスの反射で、さながら鏡のようにその窓には図書室の風景が反転されて映っていた。

 図書室がもうすぐ店じまいする時間になった。ここで勉強しているのは3年生が多いのはある意味仕方がないが、人数は少ないが中には1、2年生の姿も見受けられる。それに該当する内の二人が、自分の筆記用具等を片つけながら周りに迷惑にならないような小声で会話をしていた。

「センパイ、バス下りたら繊協ビルのパン屋さんへ行きません?」

「いいけど…でもこの時間残ってるかなぁ…?」

「この前見に行ったら遅めの時間に少しですけど焼きたてのが出てたので、多分大丈夫だと思います。買ったら中でも食べられるし」

「お、それなら行こうか」

 1年生の赤城真由(あかぎ まゆ)が彼氏である2年生の白谷駿(しろたに しゅん)を郊外行バスターミナルがあるビルの1階にあるパン屋さんへ行こうと誘っていた。午後6時を回っている時間帯はこういう焼き立てを出すパン屋はもう残り物を処分するためセールやってる所か、もう閉めている所が多い。しかしこの店は、バスターミナルという場所に出店しているためかそれなりに遅くまで店を開いている上に、この時間帯でも数量は少ないものの焼きたてを出している。

 二人は図書室を出ると、生徒玄関の上を通っている北校舎への連絡通路を通る。

 と、10歩ほど先にある廊下の十字路を横切るように、先生が何か慌てて走り去っていった。手には、見た目鮮やかな赤い金属製の大きめな工具箱を持っており、あったかぁ?とどうやら廊下の別の端にいるらしい人に大声で確認をとっていた。

 その廊下の十字路をまっすぐ行くと、真由が所属している1年3組の教室がある。白谷のクラスは十字路を左に曲がり、教室5つ分東へ行った後階段上って一つ上の階の東校舎。1年3組がある西校舎とは反対側にある。

「センパイ、玄関で待ってます」

「おう、じゃちょっと荷物持ってくるわ」

 明かりがほぼ消えている教室の前を、白谷は彼女に手を振りながら小走りで自分の教室へと向かう。真由はその後ろ姿を見送った後、ふと自分のクラスの方を見ると、明かりが点いてることに気づいた。

「まだ誰かいる…」

 小走りで自分のクラスへ戻ると、教室入り口の陰からちらっと中を見た。一人のクラスメイトが、彼自身の机に置いたカバンとかを丁度持って出ようとしたところだった。

「伊勢くん、今頃帰るの?」

「あ、ああ…赤城さん。オレ、部活今終わったところだから」

 身長178cmのやや長身で、細身の体躯に男としてはやや長めの襟元の髪。クラスメイトの伊勢泝(いせ のぼる)が彼女に声を掛けられて一瞬驚いたような顔をした。それを引きずったかのようにやや高い声で答えながら少しドギマギしたような感じで赤城を見つめる。赤城はそれを見て見ぬふりをしつつ教室に入ると入り口近くの蛍光灯のスイッチの場所へと歩んで、手を伸ばす。

「もう伊勢くんだけ?」

「多分。置いてある荷物とかもないし…もうみんな帰ったんじゃないかなぁ」

「ふうん…じゃあ消すよ」

 赤城が複数のスイッチに手を伸ばして、教室の明かりを全て消す。一瞬だけ暗順応が出来ずに二人の視界は真っ暗になるが、やがて窓の外の、水銀灯とかの明かりが教室を照らしているのが見えるようになる。強烈な光のせいで、教室内はまるでモノクロ写真のようにはっきりとしたコントラストを帯びて浮かび上がる。

「じゃあお疲れ」

 赤城が伊勢に声をかけて教室を出ようとする。

「…あの、赤城さん…」

 思わず声を出してしまった…そんな後悔を含んだ伊勢の声が、半分シルエットに見える赤城の動きを止めた。彼女は、彼の声の方へ顔を向けなかった。

「…はい?」

「…2年生の先輩と…何したんですか?」

 もうこうなったら…伊勢は、まるで彼女に告白でもするかのように言葉を詰まらせながら口を開いた。彼は、自分の心臓の音が彼女にも聞こえるんじゃないかと思う位に体の中を鼓動が跳ね回る。

 職員室横の掲示板に張り出された、処分を伝える張り紙。ただ処分内容だけが書かれた紙だが、男女の名前が交互に書かれ、片やキツイ処分。かたや、けん責処分。赤城はその紙に自分の名前と彼氏の名前が書かれていたのは知っていた。

 時計の秒針が目盛りを3つほど進めた後、廊下の、期限が切れそうな淡い光を放つ蛍光灯に照らされた彼女の顔は、いかにも誤魔化してますといった、やや硬めの笑みを浮かべて、

「別に…ちょっとヘマしちゃって」

 明らかに彼女がウソを言っているのが判りすぎている伊勢だが、それを言葉には出さずに彼も言葉の上で誤魔化そうとした。

「…そう。ごめんなさい変な事…訊いちゃって」

 彼女の方をマトモに見れなくなったのか、斜め下に視線を外して伊勢がかろうじて彼女に聞こえる位の小声で謝罪する。

 …男女の名前が交互に書かれていれば、どういう内容かは伏せてあっても思春期真っ盛りの生徒にはおおよそ判る。張り出されてから、クラスの、特に男子からの目線が変わったのは赤城自身も判っていた。

「じゃあ…おつかれ」

 赤城はそう言って教室から出た。伊勢は、彼女の姿が教室の出入り口から見えなくなるほんの数秒間、ただ黙って見ていた。


「どうした?遅かったじゃねーか」

「え、あ、ごめんなさい。ちょっと残ってたクラスメイトと話してて」

 生徒玄関の出口あたりで紺色の起毛コートに首に茶系統のチェック柄マフラーを巻いた駿はほんの数分だが待ちぼうけを食らっていた。ベージュのコートに同じ色系統のマフラーを首に巻き、ピンクの毛が施されたイヤーマフを付けた真由に声を掛けると、ややぎこちない笑顔を浮かべて彼女は自分の下足箱から通学用の革靴を取り出して履き、つま先をトントンして踵まで入れる。

「おまたせ」

「お、じゃあ行こうか」

 二人は校門を出て、バス停がある大きな道へつながる約1.5車線の生活道路を並んで歩く。

 駿は、街灯に照らされてる彼女の横顔を見て、再び前へ視線を向けながら問いかけた。その声には、楽しさの成分はほぼなかった。

「真由…そっちの方はどうだった?」

 さっきまでいた図書館では二人ともその話をわざとしなかった。周りが静かだし、迷惑にもなるし、何より人がいるということもあるが。

 その事を切り出した駿の真面目と真剣さと申し訳ないような感情を一緒に混ぜた表情を、街頭の明かりが浮かべる。彼の顔を見た真由は、やはり同じような表情を浮かべて呟く様に言う。

「…一応大丈夫だったけど、クラスメイトの男子の目が…やっぱりちょっと…」

「そう、か…」

 駿は、もし自分が彼女のクラスメイトだったら同じ目線で見ていただろうことは容易に想像できた。

「でも、青葉(アオ)ちゃんとか声かけてくれてるから…」

 駿は教室移動などで時折彼女のクラスの前を通る時があるが、ほぼ休み時間中は真由の机に仲のいい友人3人が集まってしゃべっている光景をよく見る。おしゃべりに熱中しすぎて廊下を通る彼氏の存在に気づかず、後で無視されたと冗談交じりで文句言ったこともあった。

「いい友達だな。でも青葉さんのあのFOCUSっぷりはちょっとやめて欲しい気がする」

「わかります~恥ずかしいシーンばかり撮られてる気がします…」

 海に行った時に駿とキスしたら望遠レンズでスナップされ、学校祭で駄菓子食べてる時にさらっと撮られるなど何回か真由は気が付かないうちに友人のカメラの被写体にされたことがあった。迷惑ほどじゃないけどちょっと遠慮してほしい時もある…。

「でも彼女、写真部だけあって上手いこと撮るなぁ」

「あんな、どう触っていいか判らないカメラを何の苦もなく使えるってうらやましいです…」

「確かに。普通の小さいカメラでもどうやったらいいか首傾げる事あるのに」

「上手く写せたと思ったら何か真っ白だし、ブレて写ってるし、ボケてるし…ちゃんと構えてるのに何で、って思ってしまいます」

 今までの自分の失敗写真を思い浮かべたのか、いくらかふくれっ面した真由が自分は悪くないのに!と呟くにしては大きめの声で話す。

「じゃあ今度青葉さんに撮り方教えてもらおうか。その方が確実そう」

「そうしましょうか」

 駿の言葉に、真由は半ば苦笑いを浮かべる。

 二人がバス停に着くや否や、ちょうどいいタイミングでバスが姿を現す。先にバス停に来ていた先客らに続いて乗り込むと、空き気味の二人掛けのシートに真由を先に座らせて、通路側に駿が座る。やや小ぶりな二人掛けのシートはコート越しでも丁度いい体の接触感があって、これもし付き合い始めたばかりのカップルだったらもっとドキドキするだろうなぁ、と駿は何気なく思った。

 午後6時半辺りの、学校や会社からの帰宅時刻にはやや過ぎているせいか、途中のバス停で乗ってくる人はほぼいなかった。時折は停車するも早く着きすぎたための時間調整で、ほぼ時間通りに放送会館前の降車場に到着する。駿や真由の他、同じ学校から乗ってきた4人ほどが運転手に定期券を見せながら降り立つ。

「風つよ…」

 吹き抜ける西寄りの季節風に、真由のマフラーの端がたなびく。

「この前ちらっと降ったけど、これはもうすぐ雪景色になるなぁ」

 駿は冬の寒さをふんだんに含んだ季節風が吹き抜ける中、さりげなく車道側へ、真由を車からかばうような形に移動する。二人は互いに手をつなぎ、しばらくして互いの指が相手を求めるように恋人つなぎをして、駅前大通りということで他の場所より倍近い幅の歩道を駅へと向かう人たちとすれ違いながら、四車線道路が交差し路面電車も通る、大名町交差点と呼ばれる大きな五差路を視界の向こうに捉えて並んで歩いてゆく。

 すれ違う歩行者の中には、二人と同じ位の高校生や大人びた社会人のカップルなども見かける。真由が反対方向へ向かう高校生っぽいカップルを目で追いかけた後、独り言のように、

「…何か最近カップル多いですよねぇ。クリスマスが近いから?」

「そうだなぁ…やっぱりクリスマスまでには相手欲しいと思うだろうし」

 駿が真由に目を向けて笑みを浮かべて話す。真由も笑顔を浮かべて、答える代わりにつないだ手を他のカップルに見せびらかすように大きく振り回した。始めはやや驚いた駿も、彼女に乗せられて動きを同調させたりして、二人でいる楽しさを周囲に振りまいていた。

 目的地の繊協ビルまであと100mほどの、脇道へと入る交差点辺りに来たとき。

 駿の視界の左側で車のヘッドライトが変な動きをした…とたん、ガシャン!と耳障りな金属同士がぶつかる音が周囲に響き渡り、進路を強制的に変更された4tトラックのヘッドライトが脇道への交差点に差し掛かった駿と真由を正面から捉えた。二人の足が思わず止まる。

「「!」」

 耳障りなスキール音を周囲にまき散らして、結構な速度で急速に距離を縮めてきた、制御不能状態に陥った4tトラックの強烈なヘッドライトに照らされて真由は声にならない叫びをあげる。

 …彼女は突っ込んで来るトラックに意志を乗っ取られたかのように視線を固定されて見続けていた。もう避けられない…トラックの運転手の顔がガラス越しに仔細に見える位にまできた時。

「間に合うか!?」

 真由とつないでいた手を後ろに回して自分が彼女の前に出ると、左手で突っ込んでくるトラックを止めるかのように突き出しながら頭の中で言葉(コード)を組み上げた。大きめの爆ぜるような音が彼の口から発せられると、制服の下に忍ばせている胸元の水晶のペンダントが輝き始めた。

 二人を中心にして、強い風が吹き抜けた。

 水晶の中の"悪魔"が、物理法則を捻じ曲げて二人の前面に周囲の空気を急速に巻き込みながら左へと逸らす斜方陣のような壁を作り上げたのと、そこへトラックが突っ込んできたのはほぼ同時だった。

 再び金属がひしゃげる音が響き、見えない壁によって強制的に進路を変えられたトラックが、目を閉じきれなかった真由の目前で、まるで自分から進路を変えつつ急に跳ね上がるようにお腹を見せて左側へとあっという間に吹っ飛んで行った。にぎやかだが、物騒な音とともに。

 …それはあたかも時間が突然1/100で進み始めたかのようだった。

 真由は、脳裏にふと今朝の夢と夏のあの光景がランダムに、勝手に繋ぎ合わされて再生された。

 錯覚だと思っていた。夢だと思ってた。現実ではありえないから。

 あの時、襲ってきた連中らの顔が急に見えなくなる光景を目撃した彼女は、その時は怖さゆえに幻を見ていたのかと思いこんでいた。でも、あれは現実だった…そして、今目の前で起きたことは、錯覚ではない。

 現実に、トラックが目の前で吹き飛んだ。そう、見えた。

 センパイが()()()()()から?

 普通の人は、そんなこと出来ない。出来るはずがない。

 じゃあ…先輩って、何者…?

 彼女が見た今朝の夢、口元が酷く歪み悪魔か何かに取り憑かれた彼のイメージが、自分らを守ろうと必死になっている先輩の顔を上書きする。

 …彼女の全身に、恐怖のざわつきが駆け巡った…。

 駿が作った見えない壁にぶつかって無理やり進路を捻じ曲げられたトラックが、周囲のビルに派手な破壊音を響かせつつ殺されてない運動エネルギーを地下送電線用のトランスボックスにぶつけてなぎ倒し、車道を跨ぐ交通標識掲示用の太目のポールが車体にタックルを受けて折れそうになるのと同時にその破壊衝動に満足したのか、動かなくなった。

 魔法が揮発して見えない壁を作った空気が周囲へと強めの風として吹き抜ける中、真由とつないでいた駿の手がかくんと下に落ちるように引っ張られた…彼女はショックで腰が抜けたのか、冬の歩道に座り込むように腰を落とした。目が虚ろになってマトモに見えていないかのよう。

 駿はじわじわとやってきた空腹感をしのぎつつ、しゃがみ込んで真由に声をかけた。

「真由、大丈夫か…?」

 真由は駿に声を掛けられたが、しばらくは反応できてない感じで前を見つめたままだった。2度、3度彼から声を掛けられて、彼女はようやく駿の方を見る。

 一瞬、彼女の顔が怖いという感情に支配されたように極度に怯えた。そして、その感情を持ったまま彼女なりの勇気を振り絞って、たどたどしく震わせた声で彼に訊いた。

「…先輩、何したんですか…」

「何って…」

「海の時のあれとか…今のとか…先輩、何者なんですか…?」

「な、何者、って俺は俺だよ…」

 駿は、彼女の言葉の意味を無意識に躱そうとしていた。

 真由の顔は、助かった安堵感よりも、目の前の彼が、好きになった彼が、将来一緒になるかもしれない彼が、実は人間ではないのかもしれないと判った恐怖で泣き出しそうな顔になっていた。

 今朝方真由が見た夢の一部が、再び駿の顔にオーバーレイされる。あの時の禍々しさが、彼の周りに渦を巻いてるかのように。

 彼女は手をつないでいたことを思い出したらしく、視線をそこへ向けて…出し抜けにつないだ手を切ってひっこめた。何か穢れたものから逃げるかのように。

「…イヤ」

「え…?」

「来ないで…」

「…どういう…こと?」

 …彼は、ほんのさっきまで彼女はいつまでも一緒に生きていけると思っていた。でも、今は…まるで催眠術から覚めたかのように、まるで魂が入れ替わったかのように、彼女は彼を拒絶している。

 何で…!?

 魔法を使ったから?

「…真由…」

「来ないで!」白谷が伸ばした手を、赤城は払いのけて拒絶する「先輩は…そんな化け物じゃない…そんなんじゃない!」

 赤城は泣いていた。そして立ち上がり、初めから一人でいたかのように夜の駅前大通りを走り去っていってしまった。

「真由!」

 騒ぎを聞きつけて集まった野次馬たちが見守る中で、白谷は走り去っていった彼女の名前を叫んだ。

 しかし、彼女は彼の所には戻ってこなかった。


「結衣、お客さんよ」

「…自分に?こんな時間…誰?」

 自分の部屋で勉強をし始めてぼちぼち気合い入れて、と思った矢先に母親から来客を告げられた黒瀬結衣(くろせ ゆい)は、母親が意味ありげに笑顔になっている理由を掴み損ねていた。時間は午後8時半を過ぎていた遅い時刻。こんな時間に来客があるとしたら町内会くらいのものだが…。

 彼女は誰だろうと首をかしげながら階段を下りて行くと、玄関には隣に住む幼馴染が学生服にコートを着た下校途中のような恰好で、深刻そうな顔をして立ちすくんでいた。

「…駿」

 黒瀬が彼の姿を見て思わず名前を口にする。声が聞こえたか、白谷は彼女の方を見て、

「結衣…少し、いいか?」

 夏辺りならケンカの影響で「出てけ!」って言っていただろう黒瀬は、それなりの緊張緩和を行っているせいで彼を玄関からたたき出す理由を失っていた。

 黒瀬はちょっと待ってと言って玄関横のあまり使われてない6畳間に入ると、倉庫代わりに積み上げられた黒瀬家の様々なものが占拠しているなかで、ポツンと2、3人ほどが座れる、カーペットが敷いてあるスペースに置いてある週に数度しか使われてない反射式の石油ストーブに火を入れる。点火を確認すると玄関の方を見て、

「まだ寒いけど入って」

 彼女は白谷を居間に招き入れた。二人はストーブを前にして、それに向き合うように床に腰を下ろした。黒瀬はやや荒々しいが、女性っぽくしなやかに動いて正座をする。白谷は力を使い果たしたと言わんばかりにどっかと腰を落とすと上半身を俯き加減にして体育座りをした。

 半人分くらいの間隔が、二人の間にはあった。

「どうしたのこんな遅く」

真由(かのじょ)に…振られた」

「何で?」

「判らない…」

「判らないって…」

「トラックが突っ込んできて…咄嗟に魔法使って…助かったけど」

「彼女の前で?」

「助かったけど…怖いって言われて…何で…」

 彼の声が、彼女が自分から突然去ってしまった虚ろさと悔しさと理不尽さに詰まりそうになる。何とか続けようと声を出すも、それは言葉には程遠かった。

 黒瀬は白谷の方へと顔は向けていたが、あえて何も言わなかった。

 二人の前にあるストーブの燃焼筒から、低く規則的な燃焼音が静粛を時折小さく破る。

 白谷は、とりあえず落ち着こうと呼吸を整えようとする。やがて、彼が呟くように消え入りそうな声で言葉を紡ぐ。

「…術者にならなかった方が、こんなに悩まなくて済んだんじゃないのかな…?」

 それは違う、と彼女は思う。

「でも、なかったら今頃は駿の親が辛い目に遭ってる」

 彼女はやや強めな口調で彼に言った。そうだったら今自分と話しているのは彼じゃなくて、突然の悲しみに暮れる彼の両親や弟になっているはず。

 白谷は黒瀬の言葉を聞いて、うっすらと自嘲的な口元の歪みを浮かべて、

「その方が…まだ良かったかも…」

「駿!」

 あの時真由と一緒に…そう思った白谷の言葉に黒瀬が語気を強めて鋭く彼の名前を叫ぶ。しかし彼は、何もかも興味を失ってただ空気中の酸素を二酸化炭素に変換しているだけの存在になり下がったかのように、じっとストーブの炎を見つめ続けていた。

「何言ってんの!魔法があったからこそ、こうやって生きてんじゃないの!?死んじゃってたら何人悲しませるかわかってんの!?滅多なこと言うんじゃないよ!」

「…でも、それのせいで真由と別れる羽目になったんだ…こんなん、死んでた方が楽だ」

 彼女は馬鹿な事言うんじゃないと語気を荒げて白谷に言うも、いつもの彼なら同じくらい語気を荒げて反発していた。しかし…今はもうそんなことなどどうでもいいかのように、呟くような弱さを口にするだけになっていた。

 白谷は自分が何を言っているかは判ってはいる。が、真由とああいう別れを経験するとまでは思ってなかった。そっちの方が、彼にとってより重大事に思えてしまっていた。

 反発はしてきたが、何か外見だけ若い老人がなけなしの力で弱弱しく話してくるみたいな白谷を見て彼女は、どう言ったらいいか判らなくなった。彼は話し終わっても、ただ赤く淡い光と強めの熱を放つストーブの燃焼筒をじっと見ている。

 …無言の時間が、続く。思ったよりも。

「魔法、やっぱりやめようかな…」

 白谷がポツリと静けさを破った。

「…やめてどうするの?」

 彼の言葉に黒瀬は疑問で返す。

「普通の人に、なる…」

 彼は彼女の疑問に、いくばくかの惑いの成分が混ざった言葉を返した。

 黒瀬は軽くため息をついた。そして少しばかりの逡巡の後、しばしの静けさを破るように口を開く。

「…駿、ここに来たってことは本当は魔法捨てたくはないんでしょ?」

 ストーブをただ見つめている白谷が、彼女の言葉にほんのひと時、視線を横顔に向けた。黒瀬は、ストーブを見つめつつ自分の方を向いている彼へ諭すかのように続ける。

「本当に嫌だったら水晶を壊しているか、どっかへ捨ててしまうか…だと思う。自分の所には訊きに来ない。封印はさすがに駿の家では出来ないからここ来るしかないだろうけど…でもそれは言ってない。だから…ここに来たこと自体、捨てたくないってどこかで思ってる…違う?」

 問いかける黒瀬の言葉に反応したが、白谷がストーブに目を戻して呟く。

「…俺は結衣ほど頭良くないし、魔法だってそっちが長いんだからこういう時にはどうしたらいいかっていうことが判ってると思うケド…」

「何言ってんの!わかるわけないよ!」

 彼女が言葉を荒げた。その表情には、いくばくかの怒りの成分が再び、しかし確実に混ざり始めていた。その怒りの矛先を、彼女に横顔を晒している幼馴染に向ける。

「自分まだ17だぞ、判るわけないじゃない!そこまで賢くない!」

「でも…テストだって成績いいし」

「成績とか関係ない!こういうのは答えがないって判るでしょうに」

「…そっちが判んないなら、俺だって判んないよ…」

 二人はまた沈黙し始めた。再び会話が途切れる。

 何処かで時計の秒針の音が時を刻んでいるのか、それとも静けさのために頭の中で勝手に作られた幻聴なのかにわかには判別がつかないような音が二人の耳に届く。

「…自分は…」

 黒瀬が、全然考えがまとまらない内に言葉を口にしたのか、そう言ってまた静けさが二人を支配し始めた。秒針の音が10位静かに響いた後、彼女は言葉を続けた。

「…この前も言ったけど、自分だって好きで術者やってたわけじゃない。めんどくさい事とか言えない事とか色々あったけど、素質自体は誰かにあげるなんて出来ないから…結局は自分で何とかするしかない。そう思ったから、術者をやめる選択肢を自分で消して、水晶も封印しなかった」

 彼女からそう言われた白谷は、以前最寄り駅から家への帰り道でも何故生まれた順番が妹と逆じゃなかったか、と彼女が思わずこぼしていたシーンが記憶の倉庫から引き出された。

 彼女の胸元にぶら下がる、ペンダント状の水晶が、天井の蛍光灯の光を時折きらっ、と反射させて存在をアピールしている。

「駿が術者の素質持ってると判った時は嬉しかった。だってこれで自分の親以外の術者仲間が出来たんだから、色々と話せることが出来るだろうと思った。でも、ああいうケンカして、殴り合いまでして、口も利かない期間もあって…でもまたこうやって話せる様になって…。だから、駿にはこっちのわがままもあるけど、やめないで欲しい」

「…確かにわがままだな…」

「そりゃあわがまま言いたくなるよ!幼馴染で、同じ歳で、同じクラスメイトで…そして同じ術者で…こんな偶然他にないでしょうに!」

 彼女の強い言葉に、白谷は視線を思わず幼馴染に向けた。彼が見た、彼女の眼鏡越しの瞳はどことなく、潤んでるように見えた。白谷はまた目をストーブに戻すと、

「…でも、その言葉は俺が好きだと言った時に聞きたかった」

「それは…ちゃんと言ってないそっちが悪い」

 白谷が冷静にツッコミを入れると、黒瀬も負けじとツッコミ返す。確かに、白谷は幼馴染が自分の好意を判ってるだろうと思い込んでいたし、その上に黒瀬が緑川の告白を受けた直後、という間の悪さも手伝っていた。

 彼女の答えを聞いて、白谷は多少苦虫を咬み潰すような表情になった…が、時間の経過とともにその表情にゆるみが出てきた。そして、思わず笑いが噴き出る。彼女の方もそれにつられて、はにかむように笑みがこぼれ始めた。

 白谷が何かを言おうとして、再び表情に硬さが戻って来た。

「結衣だったら…今の俺みたいに恋か魔法か、ってなったらどうする?」

 言われた彼女は、目線を下げる。しばし言葉が返ってこない時間が二人の間で流れた。

「…もし、勇樹くんがそう言ってきても…それでも、魔法を取ると思う…あ、いや、判んない」

 黒瀬がポツリと呟くように、悩みも迷いもしているが方向性は定まっているかのような話し方をした。それを聞いた白谷は、笑っていいのか微妙な顔をして似たように呟く。

「そうか…俺はまだ、そこまでは行ってないな…」

「判んないよ…ただ、その方が自分には合ってる、とは思う」

 彼女が笑みを浮かべる。そして、何かを思い出したかのように言葉を続けた。

「昔、お母さんが言ってた。『折角才能を貰ったんだから、それは磨いた方がいいよ。捨てることはいつでも出来る』って」

「才能…かぁ」

 自分には似合わない言葉だよなぁ、と言いたげに白谷は嘆息する。

「…迷ってる。貰った、と言っても…」

 一旦言葉が途切れた。彼の横顔が、次の言葉を探しているように影を纏う。

「真由と引き換えるのは…」

「大丈夫」彼の言葉を遮るかのようにやや強めの口調で黒瀬が差し挟む「…ひどい事言うけど、もしその子がダメでも…どこかにいるよ。魔法も駿も受け入れてくれる女性(ひと)が」

 確信はない。けど、彼女は虚勢も含めてつとめて明るく彼に言った。これも『姉』としての務めだ、と自分に言い聞かせながら。

「ホント、ひどい事言うな…」

 白谷はそう言うと、体育座りを解除して背中を傾け、両の手で支えるポーズをとる。表情は、いくばくかは明るくなってきたように、彼女には見えた。

「結衣、ありがとう。多少は楽になった気がする」

 白谷は来たときよりは軽快そうな動きで立ち上がると、床に置いてあったかばんなどをしゃがんで手に取り、玄関の方へと歩き出した。彼を送ろうと、黒瀬も正座を止めてゆっくりと立ち上がる。

「帰る?気を付けて」

「っても隣だしな」

 彼女からの言葉に白谷は軽めのツッコミを入れる。

 彼は玄関で自分の靴を履くと、ドアを開けた。彼が黒瀬家へ来たときには降っていなかったが、小雨程度の雨を地上に降らせている。

「雨降ってきてる…」

「あー、降って来たか…」

 彼女も靴を履き玄関を開けて外を見た二人は、言ってる事は違えど雨が降ってきたことに残念がった。

 冬の雨は、冷たい。雪が降るよりも、冷たく感じる。そしてもうすぐ、雪の季節になる。

 白谷の方は完全装備しているから大丈夫だが、黒瀬の方は部屋着のパーカーだけ。外の寒さに体温を奪われそうになった彼女が、寒さに少し震え出した。

「それじゃ、明日」

 玄関先で白谷が振り向いて彼女に挨拶する。彼女はそれに応えて、

「それじゃ」

 黒瀬のいくらかにこやかな顔は、白谷が玄関の扉を閉じるまで続いた。


 家に帰った駿は帰宅がかなり遅くなったことを親にとがめられたが、丁度居間のテレビのニュースでかかっていた、駅前で起こった交通事故の話をすると逆にいつもよりも心配されてしまい、逆に気持ち悪いくらいに優しくされた。とはいえ、下手したら…なので彼はそこは仕方ないかな、と思うようにした。

 着替えて遅めのご飯食べて、お風呂入って、自室へ。ベッドに倒れこむように座ると、枕元のラジオを付けて、上半身を布団の上へと横たえる。いつも見慣れている天井を見上げつつ、ラジオから流れる曲やパーソナリティのおしゃべりをただ聞いていた。

 駿は何かを思い出したように再び上半身を起こす。そして立ち上がると、部屋の隅にある電話機に向かった。

 受話器を取ろうと左腕を伸ばし…その手は掴む寸前で行き場を失くしたように止まった。心臓がその鼓動を少しだけだが早め、体温がわずかだが上がっていくかのように感じられた。

 一瞬、彼は目を閉じた。そして次の一瞬で意を決したように目を見開き、見えない壁を突き破るように受話器に手を伸ばして掴んだ。右手の人差し指が意志を持ったかのように、もう何度プッシュしたか判らないくらいに番号のボタンを押した。

 コール2回で一旦切る。10秒ほどして、再び同じ番号の組み合わせをプッシュする。

 受話器から、相手を呼び出すコール音が、3回、4回…と繰り返す。駿の中で、"出て欲しい"と"出ないで"との二つの相反する思いが体を駆け巡る。結果は…コール音が止まった。

『…はい…赤城です』

 彼女も電話をかけた相手が判っていた。そのためか、その声のトーンは彼を突き放すかのように事務的な低さだった。

「…真由、あの…」

 駿は彼女の声を聞いてあの時の言い訳をしようとやや早口になって話し始めたが、それを彼女が制すかのように同じ口調で遮る。

『先輩…ごめんなさい。怖いんです…先輩が』

「怖いって…」

『わかんないです…わかんないけど、なんか怖いんです。今日のだってトラックが…』

「あ、あれはトラックが勝手に…」

『うそ…。海の時も、今日のも…何か変です。おかしいです!』

「おかしいって…真由話を…」

『先輩…先輩がいくら話しても怖いんです。だから、もう会わない方が…』

「そんな…」

『今まで楽しかった…ずっといたかった。でももう怖いんです…ありがとう…さよなら』

「真由っ!」

 唐突に切れた最後の糸。彼女の名前を叫んでも、ガチャリと受話器を置いた音とともに通話中の無味乾燥な音だけが、受話器から聞こえて来るだけだった。

「…何なんだよ…」

 口惜しさと怒りとやるせなさと喪失感と…形容しがたいぐちゃぐちゃな感情が駿の頭を揺らす。出来ることと言えば、左手に持っている受話器を置くだけだった。やや強めに。そして右手も受話器を押し付けるように左手に添え、その場で凍り付くかのように彼は暫く動くことがなかった。

 やがて彼は再びベッドへと向かい、腰を下ろす。大きなため息を一つ。そして仰向けに、倒れるように上半身をベッドの上に投げ出す。

 付けっぱなしにしていたラジオからは、掛けている曲が終わったのか、パーソナリティの話が始まっていた。

 もう1か月もしないうちにクリスマス。ラジオのトークも、そのことが話の中心になっていた。かかる曲も、クリスマス関連の曲が多めに流れるようになる。

 駿はそれに気づいたのか、しばらく流し目でラジオに視線を向けていた。

「クリスマス、か…」

 駿の口から、思わず言葉がこぼれる。本来なら、今度の土曜日には真由と一緒に夜を過ごす予定だった。多分、クリスマスも…今年は普通の日だから、その前の土曜日辺りにまた一緒に過ごす気持ちでいた。正月も、バレンタインも、その後も…ずっと。

 駿は、何気なしに右手を天井に向けて伸ばし、虚空にある何かを掴もうと手を開いたり閉じたりした。

 掴めそうで、掴めない。

 昨日まで、ついさっきまで掴めていたものが、今ははじめから幻のように、指の間をすり抜けてゆく。

 ラジオのパーソナリティーが、次にかける曲のタイトルを告げて、そのことに関わる話をし始めた。結構いい曲だと思うが、まだ世間にはそんなに広がってないみたいなことを話している。2年前に出たアルバムの曲でシングルカットもされてないけど、いい曲だから聞いてくれ…そう言ってトークが途切れた。そして曲名を告げた。すぐに曲が流れ始める。

「そうだよなぁ…」

 イントロのギターの旋律が何処か楽しそうで、清らかで、でも物悲しい何かが所々覗いているような。

 駿は再び、天井に向かって腕を伸ばし、何かを掴もうと手を動かす。

 曲が進む。歌が流れる。

 駿は、手を伸ばしつつ、聞き流すように聞いていた。

 …そして気が付いた。何か自分の体の奥から湧き出て来る感情の波が。

「…あ、あれ?」

 涙声。涙が彼の意思を無視するかのように、ぽつり、と流れた。

 ついさっきまで自分の横で、自分を慕ってくれた彼女。でも、今はいない。何か、埋めようにも埋めがたい何かが自分の、さっきまで彼女がいた場所にぽっかりと空いているかのよう。

「…何でなんだ…」

 結衣と話して、いくらかは緩和できたと思っていた。でも、そうじゃなかった。

 目の前の天井に、彼女と付き合い始めた頃の楽しい思い出が勝手に上映された。彼女から告白されたあの時、街中へデートに出かけたあの日、電話で長話したあの日、海へ行ってキスした時、学校祭で色々と食べ歩きしたり…誰もいなくなった教室で、彼女を抱こうとしたあの時…。楽しかった思い出ばかりなのに、だからこそ涙があふれて止めようがなかった。

「…ずっと一緒だと思ったのに…」

 駿は部屋の照明を切った。誰かにこんな姿見られたら…嫌だ。

 暗闇が、部屋と彼を包み込む。ベッドの枕元のラジオが、実らなかった恋の歌の終わりを語っていた。

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