Typhoon
「もういい!退学って言ってくれればいいだろうが!何ならこっちから辞めてやる!」
「誰が退学を決めたと言った!ちゃんと話聞け!」
「お前が言ったんだろうが!」
「話聞け!」
昭和42年のとある日、開設されてからまだ4年ほどしか経ってない秋翠高校の校舎の一角にある生徒相談室。その部屋の中で、彼と先生は中腰のまま戦災や地震を生き延びたような古い机を挟んで、相対して怒号と怒りの視線を向けた。言い争いは数分ほど続いており、彼の隣にいる彼女は着座したままずっと俯いて言葉の応酬の嵐に堪えようとしていた。
彼と先生との口喧嘩の応酬が終わると、今度は互いに睨みつけての無言の対決が続いて行われる。しかし、先生はその対決を自らやめて一息ついた後、落ち着いた声で彼に語りかける。
「…辞めたらお前な、絶対後で後悔するぞ。それで彼女を幸せに出来るのか?」
「どうせ辞めさせられるんならやってやるよ!」
噛みつくように先生に対して啖呵を切る彼。しかし、先生はそれを無視するかのように冷静な口調で、説得するかのように話し始める。
「まあ聞け。高校中退したら中卒扱いになっちまうぞ。この景気いい時に、せめて高校卒業したほうが何かしら就職する時に有利になる」
先生は胸元から煙草を取り出してマッチで火を付ける。それを両の目で睨み続ける彼。
「…お前の成績がこのままなら大学は充分狙える。そうしたら更に有利になるぞ。なんなら奨学金制度使えるようにしてやる。英語得意だろ?英語教師ってのはどうだ」
「…それまで我慢しろってか?」
怒りはやや落ち着いては来ているが、それでも彼が先生を睨む目力は充分にあった。どうせ大学受かるまで彼女との交際はお預けにしろと言うに決まってる、と。
「…いんや、今のままでいい」
「…今のまま、って…?」
先生からの思わぬ言葉に、彼の怒りの水位がいくばくか下がった。虚を突かれた顔をして腰を僅かに落とす。
「おめえなら出来る。彼女と付き合いながら上位20人以内の成績とってんだ。やれるよ」
先生は一瞬視線を未だに俯いている彼女に向けた後、顔を横に向けて煙をうまそうに吐き出す。再び煙草をくわえる先生。火が点いた煙草を彼に向けながら、
「だからだ。こういうのは見つからないようにしろや。別に俺としちゃお前が彼女とセックスしようがどうしようが成績が落ちなきゃ構わん。ただ、学校では見つかるな、って言ってる。見つけたら処分せにゃならんしな」
もうちょっとかしこく立ち回れや、と言いたげに先生は一旦彼から顔を背けて口から煙草の紫煙を吐き出す。再び前を向く。
「あと避妊ぐらいはちゃんとしとけ。女子の制服は妊婦さんに合うようには出来とらんからな」
先生の口元がいい感じに歪む。そして美味そうに煙草を吸う。
「学校では、って…俺の家も彼女の所もずっと人いるからそんなんムリです」
「見つかるな、って言ってるんだが…っと、これは口が滑ったかな」
先生は半ばわざとらしく要らない言葉を付け加える。それに彼は反応したのか、どういうこと?という言葉を顔に出している彼を見ながら、堪能した煙を吐き出して文字通り彼を煙に巻く。
「それと、彼女を大切にしろよ。将来一緒になるかもしれないんだから」
「…それは、もちろん」
彼はようやく顔を上げた彼女を見る。さっきまで俯いて、怒号が飛び交う中で怖さに怯えて泣きかけてた彼女の瞳は、今度は幾ばくかの嬉しさから出た涙の成分も加わっていた。見つめあう二人を机を挟んだ反対側で見た先生は、いいものを見たと笑みを浮かべつつ、持っていた煙草を灰皿に押し付けて火を消した。
「今回、"俺は見なかった"ことにする。さっきの怒鳴り合いが続いたら停学どころか本当に退学にしてやろうと思ったがな…そのかわり、ちゃんと勉強して大学へ進め。それが出来るならチャラ、だ」
先生はそう言って穏やかな視線を二人に投げかけていた。が…
「ただ、次はねーぞ。問答無用で退学、だ」
ヘマするんじゃねーぞ…先生の鋭い瞳はそう言ってるかのようだった。
「…中島くん、ちゃんとがんばろ」
「…そうだな。先生からもそう言われたし、そこら辺はきっちりやっとかないと…」
相談室から出た彼と彼女は、授業中で静かになってる廊下を、自分らの教室に向けて、互いの手をつなぎながら歩いていった。執行猶予…とは少し違うが、せめて先生から目指せと言われた大学へ…彼は、彼女と一緒なら出来そうな気がしてきた。
「大学合格したら…今度は二人っきりでずっと星見てようか」
「…そうだね」
授業中の静かな廊下で、二人はちらちらと周囲を見回すと、互いの顔を近づけた。
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ホームルームの時間になっても担任の中島先生の姿は見えなかった。始めはやや遅れて来るだろうと静かに待っていた2年7組のクラスメイトだったが、3分経った頃からにわかにあちこちでささやき声が起き始め、教室が時間の経過とともににぎやかになって行く。
「ねえ結衣、先生来んね。どうしたんだら?」
黒瀬結衣の後ろの席にいる灰屋美紀が、背中越しに訊いてきた。とはいえ、黒瀬も何か知っているわけではない。
「さあ、自分も何も聞いてないけど…」
後ろの友人へと体をねじって困惑している状況を伝える黒瀬。
1時間目が始まるまでそんなに時間が無くなってきた。幸い担任である中島の英語の授業なので全員ここだが、それにしても無断でこんなに遅れることが今までなかった。
黒瀬は体制を戻して前の席にいる幼馴染の背中を見た。左ひじを机につき、手のひらに顎を乗せてただぼーっと窓の外を見ている白谷駿の横顔が視界に入る。
魔法をどうするか考えてるのかな…昨日の電車の中で彼が呟いた言葉を黒瀬は思い出していた。
最近は一時期の絶交状態は影を潜め、昔ほどではないにしろ連絡事項以外の他愛もない話などもし始めていた。それを感じ取ったクラスメイトは「復縁だ」「よりを戻し始めたか、さすが幼馴染」「とにかく緊張緩和は有り難い」と以前の冷やかしが形を変えて復活し始めていた。最初は二人とも聞こえて来たらジト目で睨んでいたが、やがてそうするのにも疲れてきたのか、反応すらしなくなっていた。
そういやあいつ、数学が最近ようやくわかり始めて来たなぁって言ってたっけ?黒瀬が不意にそんなことを思い出していると、廊下にばたばたと誰かが走ってくる音がした。何気なしにその方向を見ると教室の後ろから担任の中島が姿を現し、教室中を見回してとある生徒の後ろ姿に視線を止めるなり名前を叫ぶ。
「白谷!」
クラスメイトが一斉にまず先生の方を見、次に白谷の方を見た。
白谷はクラスメイトより数拍遅れて先生の方を見た。
「お、俺?」
人差し指で自分を指しながら何処か抜けたような声で彼は先生に答える。
「ちょっと来い!」
先生のその表情は多分に怒りと困惑の成分が混じっているのは間違いなかった。何かやらかしたかなぁ…と思いながら席を立った時に、ふと原因らしき考えが女性の形で彼の脳裏に浮上してきた。一瞬動作が止まる。
「駿、あんた何やらかしたの?」
「…多分、学校祭の…」
白谷は黒瀬からの問いかけにそう答える。『来るべきものが来た』とでも言いたそうな顔をして先生のいる所へと歩いていった。クラスメイトの視線が教室を出ようとする白谷を追いかける。
「学校祭、って…まさか今頃?」
教室を出ていこうとする幼馴染の後ろ姿を目で追いながら黒瀬は半分呆然としながら呟いた。と、昨日の放課後のことが頭の中で強制的に映像が再生される。
これってあいつが自分の不利な情報を彼女に教えなかった報復?でも何でそんなまどろっこしい事を…黒瀬は理由がつかめず、ただ廊下の向こう側へと姿を消した幼馴染の背中を見送るしかなかった。
「授業は自習な!ちゃんとやってろよ!」
担任の声が教室に響くと、一旦は落ち着くも、再び隣や後ろの友人と話し始める者とか、真面目に教科書広げて自習し始めるクラスメイトとかで教室内は普通の授業よりは賑やかになっていた。
白谷は教室を出て、担任の後ろを、さながら逮捕された犯人のような歩みでついて行く。階段を1階まで下り、東校舎の、コンクリートを透視出来るなら2階層ほど上に自分らのクラスが下から見えるはずの廊下を南校舎へと歩いてゆく。そして、南校舎へ入る手前にある、鴨居部分に『生徒相談室』との部屋名が書かれた表示プレート下にある引き戸を先生は開けた。『使用中』と書かれたスライドを『空』から『使用中』に切り替える。
「先生…」
「ちょっとお前らに話がある。学校祭のことだ」
怒りと困惑の硬い表情を崩さず先生は白谷に告げる。中に入るように促された白谷が生徒相談室に入るとそこにはもう一人、腰までの長いストレート髪の小柄な女子生徒が、椅子に座らされていた。彼女は、反対方向に入って来た人を見ようと上半身を入り口方向へと向けた。
「センパイ…」
「真由…」
彼女もいきなり呼び出されたのだろう。入って来た駿の方に椅子に座ったまま体を向けて、赤城真由は今にも泣きそうな顔をして助けてと言わんばかりなか細い声を上げる。
白谷が赤城の横に座るのを確認した先生は、引き戸を閉めて彼と彼女が並んで座ってる反対側の席に座った。深刻そうな表情は崩さず、言葉を二人に告げ始める。
「今朝方、ある生徒から二人が学校祭の時に不純異性交遊をしていたと言ってきた。なのでそれの確認のためにここに二人とも来てもらった。ただ、赤城の担任の立川先生はどうしても外せない授業があるので、俺が代わりに訊く」
先生はある生徒とは言っているが、彼には誰のことか既に判っていた。自然にアドレナリンが体を巡って臨戦状態になる。
「白谷、赤城、それは本当か?」
単刀直入に訊いてきた。先生の強めの声に怯えてるような真由は、どうしよう、という感じで駿の方を見る。臨戦態勢の駿は大丈夫、と言わんばかりに強めの視線で真由を少しでも安心させようとする。
「…半分本当です」
「どういうことだ?」
したかしてないかのどっちかだろうと思っていた先生は白谷の返答に思わず訊き返した。
「その…彼女…赤城さんと一緒に教室にいて、その…抱こうかと。でも、その…誰かがこっち向かってくる音がしたので結局最後まで…出来ずに途中で」
自分らの隠しておきたいことを第三者に話すこと自体、駿にとってはあまりの恥ずかしさに体の芯まで体温が急上昇するのを感じていた。ましてや、彼女の真由も女性ゆえにそれ以上恥ずかしくなってると思われた。実際、彼女は上半身を椅子の上で縮こませて顔を上げれない状態になっている。
「…正直に話してくれたのは有り難いが…」
先生は置いてある灰皿を手元に寄せると、胸元のポケットから煙草とライターを取り出し、火を点けて一服する。部屋の中にたばこの臭いが広がり始め、真由は少し嫌そうな顔をする。
中島の表情は、怒りというよりは困惑が勝ってるような顔つきになっていた。
「…正直なのは有り難い。が、してようがしてまいが校則違反になるのは判ってるな?」
二人は黙り込んでやや俯き加減のまま。それに先生はややイラついたのか、開いている左手の指先で机を幾度かノックし始めた。
「判ってるな?」
念を押すにしては強めの語気を伴って二人に浴びせる先生。それにカチンと来たのか、白谷の表情にうっすらと反抗の成分が混ざり始めた。
「わかってます」
俯きのまま、上目遣いで見る…というより目で射貫くかのように視線を強くする白谷。言葉もやや不貞腐れ始めたような言い方になっていた。
白谷の返答を聞いた先生は大きなため息をした後、彼に目線を向けて、半ば呆れたような叱責するかのような口調で、
「お前の勝手な振る舞いで彼女の人生がダメになるんだぞ…判ってるのか」
「わかってます…」
俯いた白谷から返ってきた言葉はおとなしかったが、上目遣いで見ている彼の目に反抗の成分の純度が、先生が発する言葉の数に比例して上がってきていた。
「下手すると二人とも退学になるかもしれないんだぞ。軽率な行動だったとは 」
「わかってます!」
白谷は自分の感情を抑える手段が弾け飛ぶのを自覚した。担任の言葉を途中で分断して、相談室自体が彼の声で揺れるんじゃないかと思う位に大声を上げてキレかける。
「でも、好きなんだから抱きたくなるの仕方ないじゃないですか!何で一緒にいちゃいけないんですか!」
「そう言うのは後でも出来るだろって言ってんだ!お前高校生としての自覚持て!」
「あとであとでって後回しにしてその時出来なかったらあんた責任もってくれるんかよ!」
「今そんなこと言ってる場合じゃないだろ!何のために高校来てるんだ!」
「あーそうですかわかりましたよ、だったらもう辞めてやる!退学でも何でも言えばいいだろうが!」
「あのな…簡単に退学させられるんならこんなところに呼ぶわけないだろ!」
「やればいいだろうが!先生なんだろ!やってみろよ!こっちはもう覚悟できてんだ!」
声が途切れる。二人の怒号が小さな部屋の壁に反響してささやかなエコーを伴って空気に紛れてゆく。
二人は声の代わりに睨みあう…が、先生の方が先に視線を外す。
「…とにかく」先生という立場を忘れてヒートアップしたが、言葉を続けず一旦切って何回か呼吸を優先させる「落ち着こう。俺も感情的になりすぎた」
持っていた煙草を灰皿で揉み消す。焦げ臭い煙草の臭いが灰皿から広がった。
やがて白谷は乗り出した上半身を引っ込めて体を椅子に預ける。その横で真由の方は男二人の大声の応酬にすっかり怯えて泣き出しそうな表情で俯いていた。
しばらくの静けさの後、先生の方から静かに話し始めた。
「…辞めてやるって言ったが、お前は、学校辞めたいのか?」
「…そんなわけじゃない」
似たような口調で白谷は先生の問いに答える。先生は白谷を見ているが、彼の方は横を向いて先生の視線を受けていない。
「ならよかった」
先生のその言葉に反応したのか、白谷は疑いの成分を含んだ横目で担任を睨む。
「ホントかよ…先生は俺たちを辞めさせたいんでしょ?問題起こしたんだし」
「んなことはせんよ。俺はお前の担任だ」白谷の、棘を含んだ言葉や視線を担任の中島はさりげなく無視や躱して落ち着きを保つ「それにそんな簡単に辞めさせるんならお前らをここで事情を聞かないで処分してるよ」
言われてみればそうだが、しかしそう言うことを簡単には認めたくない白谷は少し嫌な顔をする。横目で見ていたのを改めて切り、担任のペースに飲まれないように心の防御線を張る。
それを見た先生は、わずかだが怒りと何かの感情を等価交換したかのような顔つきを見せた。
「…仕方ないんだがなぁ…」
「…何がですか」
担任の、誰かに呟くような小声が聞こえたのか、白谷は相変わらず棘を含めた言葉を放つ。
「お前らがやった事だよ。年齢が年齢だけに仕方ないなぁ、ってこと」
…と、先生が何かを思い出したかのように口元に笑みを浮かべると、それが次第に大きくなって笑いの表情が浮かんだ。それを見た駿と真由は何が起こるのかと一瞬身構える。
白谷は、思い出し笑いをしている先生にごく真っ当な質問をした。
「…何で笑ってんですか」
「いや悪い。高校の時に俺も似たようなことしたの思い出してな…」
…どういうこと?
たった一言で怒りを含んだ白谷の思考が、ごっそりと消去され、何も浮かばなくなって、輻輳を起こして、気持ちがぐちゃぐちゃになる。どういう反応をしたらいいのか、彼の頭の引き出しには対応策がなかった。
「…どういうこと、ですか?」
「似たような事があったんだよ。まあ、細かいところはちょっと違うけど…」
先生は手持ち無沙汰になった手で煙草をつまむと、机に置いてあったライターで火を点ける。一口吸って、天井へと紫煙を噴き上げる。
「…先生がそんなことしてた、ってちょっとイメージ湧かないんですが…」
白谷は半信半疑という言葉を表情にするとこんな感じになる、ような顔をしながら現在の先生のイメージからは程遠い恋話に疑問を挟もうとした。パッと見豆タンク体形の先生が、高校生の時に彼女と不純異性交遊してたというのはイメージしずらい。
「イメージ云々はさておき、こればっかりはお前にウソ言ってもしょうがないだろ?」
始めの頃の怒りはあらかたどこかへすっ飛んでいったらしく、話が妙な感じに変わって戸惑ってる白谷と、それを見て楽しんでいるかのような先生の表情が、テーブルの両側で見られている。
「…まあ高校生だし、異性やセックスに興味持つのは男としては正しい。けどな…学校ではするな。バレたら、というか今回はそういうタレコミがあったからだが…その場合は動かなきゃいかんからな」
「…じゃあ何処がいいんですか?」
「…さあな。そこは自分で考えろ」
先生の方を見た白谷は相手の癪に触りそうな言葉を試しに吐く。しかし、先生はそれには乗らずに言葉を誤魔化して白谷を煙に巻く。ただ、目は怒ってないように見え、口元には笑みにも見えるような歪みがあった。
怒りの水位は確実に下がってるのを白谷自身は感じていた。
煙草を一口吸った先生は、再び真面目な表情をして彼に、静かに訊く。
「白谷、彼女のことが好きか?」
「…はい」
白谷は答えを返すのに数瞬の時間がかかった。隣で成り行きを静かに見守っている真由の方を見たこともあるが、突然の質問で対応が遅れたのか、それとも…そこまでは先生には判らなかった。
「好きなら当たり前だが大事にしろ。在り来たりの事しか言えないが…彼女の将来のことを慮ってやらないと男としての価値は下がるぞ」
「…はい」
「この先どうなるかは判らんが、このまま行けば彼女と一緒になるだろうから、そうなった時に失望されんような人間になっとけよ」
そう言う先生の視界に映る二人は、あの時の自分と今はカミサンになってる彼女とがダブってるかのように見えた。
まさか言う立場になるとはな…そう思った先生は口元にやや苦笑いの歪みを浮かべた。
「処分は後日伝えるが…俺としては、好きあってる者同士がカラダを求めるのは仕方ないことだと思っている。俺もそうだったし、男ならみんなそうだろう」
先生はここで一旦言葉を区切る。先生が何を言うのか、駿と真由は先生の顔をじっと見つめて聞き逃さないように集中している。
「そこでだ、白谷。少し話逸れるが…おまえ、もう少し勉強してもっと上の大学目指さんか?せめて、国公立辺りに引っ掛かる位の」
「上…ですか?」
言われた白谷はいきなり話が飛んで驚いたのと、勉強して、という言葉への拒否反応で少し苦虫を噛み潰したような混濁した顔をした。
「今の成績でも普通の私立大学くらいは行けるが、もう少し勉強すれば国公立大学は狙えるぞ。どうせなら先生とか、な?」
「国公立?先生?いやちょっとそんな柄じゃ…」
「二学期の中間を見たが…おまえ、前より数学の点数がよくなってるな。他の科目も地味に伸びている。言っちゃなんだが彼女と不純異性交遊してて成績伸びるというのはあんまりないぞ。赤城の方も、現状を維持し続けている。普通は明確に落ちるんだがな…」
白谷がいきなり降って湧いた大学進学の話に拒否の姿勢を現すも、担任はそれを断ち切るように言葉を挟む。
白谷は、そう言われたが現状真ん中辺りで本当に国公立目指せられるのだろうか…疑問符がいくつも浮かんでは消えていった。
彼には今まで明確な目標があったわけではない。ただ普通に高校卒業して、大学行ければ行って、就職して誰かと結婚して…漠然とした将来像しか思ってなかった。魔法の方も、海での出来事があったとは言え現状持っているだけ、に過ぎない。練習は今でもやっていてもう夏の時みたいなことにはならない位に対応できるようになっていた。が、簡単には人前では使えないシロモノ。道具としては、正直使い所に困るものだった。
「まあ、先生になるかどうかはまだ時間はあるからじっくり考えろ。彼女からの意見も聞いたりして、な」
「わかり…ました」
まだ迷っている心情が言葉にそのまま出ている白谷。それを見た先生は椅子から立ち上がり、
「さっきも言ったが、処分は教職員会議で決まるとは思うが、重くて…下手すりゃ退学、軽くても停学辺り。まあ、出来る限りは弁護はするが、そこはあまり期待せんでくれ」
担任の中島は改めて二人を見る。駿と真由も椅子から立ち上がり、テーブルを挟んで見合うような形になった。
「それじゃ終了。教室戻っていいぞ」
二人はそう言われて、先生に対してお辞儀をした。
「…真由、ごめんな。言い合いの最中怖かったか?」
「ちょっとは…でも大丈夫です、もう」
「そっか…」
生徒相談室を出て教職員玄関が正面に立ちふさがるように見えている廊下で、二人は並びながら歩いていた。
駿がふと立ち止まる。
「…真由、俺って先生出来ると思うか?」
彼女はそれを聞いて軽めに首を振る。駿は、そうだろな、と言ったが、真由は少し違うと言って彼の方を振り向いた。
「センパイなら出来ると思いますけど、そこまでは判んない…だって未来のことだし」
「まあ、そうだよなぁ…」
「でも、出来ることはやっておいたほうがいいと思います」
「…そうだな」
駿はそう言うと、そっと真由の肩に手を回して抱き寄せた。
「でもそれ以前に、もし退学になったら…前にも言ったけど、働いて支えるよ」
「…はい」
「立川先生」
その日の放課後。
化学実験室の隣りにある準備室。薬品や器具などの棚が部屋の大半を占める中、わずかに残された区画に先生用の机が2つ、相向かうような形で置かれていた。その1つに1年3組担当の立川が机で明日の授業の準備などをしている所へ、2年7組担当の中島が姿を現す。
「中島先生、お疲れです」
「立川先生、例の話ですけど…朝方二人と話しました」
「どうでした?」
立川は部屋に入ってくる中島に問いかけた。
中島は空いている方の椅子に腰を下ろすと、さほど深刻そうではないが、やや硬そうな表情で言葉を返す。
「校則からしたら"クロ"です」
「…うーん、そうでしたか。真面目そうな子なんですけどねぇ…そういう関係になるとは意外です」
「まあ、でも我々が親御さんから預かってるのは思春期真っ盛りの子らですからねぇ。そういうことはどうしても起きてしまいます」
立川は中島の言葉に首肯して、
「難しいですねぇ…高校生の時はそういう恋愛関係とは縁がなかったのでイマイチ…ピン、とは来ないですね」
「でも、奥さんとは恋愛結婚だったのでは?」
「大学卒業する頃に付き合い始めたもので、まあ実質先生になってから、ですかね」
「あんまり変わらないですよ。やってることは同じですから」
少し脱線気味の話を立川は少し無言になることで修正しようとする。それを見て、中島もそれに倣った。
「…中島先生は、どういう処分を下されます?」
10秒ほど間が開いて立川が口を開く。実際に二人と話した、当事者としてどう判断を下すのか興味があった。
「私としては…退学は阻止したいと。できれば停学までも行かない辺りで」
「…理由は、ございますか?」
校則で"クロ"なら、情状酌量の余地はない。二人に事情を聴いた中島がそう判断を下すには別の理由があるはず…立川は問いかけの言葉をゆっくりと話して相対する先生の回答を待った。
「まず、行為としては未遂であること。あと、本人たちは最初は口論にはなりましたが、その後充分反省してましたし、遊びではなくて二人とも真剣に好き合ってる。あとは…交際しつつ今よりも成績を上げること。これでしばらく様子を見て、ダメだったらその時は改めて別の形でペナルティを下せば…」
それを聞いた立川は、溜息というより嘆息で中島の言葉に応えた。
「中島先生…したいことは判りますが、甘くないですか?というか、それで他の教職員を会議を納得させられるかは怪しいでしょう。理想論過ぎます。はっきり言って、無理があるのでは?」
「無理はありますが、会議になったら私はそれで押し通すつもりです」
立川の懸念というか指摘に、中島はそれでも、と我を通そうとする。
「無理どころか不可能ですよ」
「そりゃあ担任ですから教え子に甘くなろうことは判ってます。でも、私と似たような境遇になってしまった彼らを今度は助ける側になりたい…そう思うんです」
「先生、それはご自分の…?」
立川は中島の奥さんとの結婚に関する話は以前聞いたことがあった。今起こった事とほぼ同じシチュエーション、ということも。そしてその時の先生が寛大な処置をしてくれて、そのおかげで大学へ行けたことも。
「公私混同と思われますが、逆にそういう体験したからこそ、潰したくないんですわ…」
中島は目線を机に落として、いつもよりも小声で立川の問いかけに答えた。
立川は、しばらく考えて軽くため息をついた。いくらか頭の中でシミュレーションするも、多分、勝ち目は薄い。
でも、簡単に、機械的に処分を下すよりは…そっちの方が楽ではあるが、果たしてそれは担任としての役割を果たしていないのでは…と立川の考えは巡る。
数秒の間をおいて、立川は意を決したかのように口を開いた。
「…仕方がない。中島先生がそう言うなら、わたしもご一緒します。出来るだけやってみましょうか」
「いいんですか?」
「赤城はウチのクラスの子ですからね」
「そうですね…じゃあ一緒に」
勝ちはしないだろうし、あえて処分を加えたほうが何も考えないで穏便に楽になるのかもしれないが…それでも、と中島は思った。
自分が生徒の時に先生にしてもらった恩を、今度は自分の教え子に施してもいいんじゃないか。裏切られたら…その時はその時でまた考えればいい。
「問題は…親への説明だな」
教職員会議よりもこっちの方が難物かもしれない。中島と立川はそう思うとほぼ同時に頭痛が起きた。
立川が言った通り、この件に関する教職員の会議は紛糾した。同時に起こったもう1件の方は校則に則って処罰してこっちの方はそうでないのは何故だ?と。
中島と立川は当事者の担任という立場で何とか他の先生方を説得した。
会議はそれなりの時間がかかった。
結果としては無傷とはいかなかった。
しかし…。
「…譴責処分?」
生徒相談室に白谷の幾分間の抜けたような声が壁に反射してちいさなエコーを起こす。
隣で一緒に来ている赤城も半分信じられないと言った表情を仮面のように貼り付けていた。二人はもっと重い処分だとある程度覚悟していたからだ。
「まあ、反省文書いて提出しろ。ちゃんと頭使って書けよ。提出したらそれでこの件はとりあえずおしまい」
「とりあえず、って…」
「お前らが付き合いながら成績伸ばしてちゃんと勉強して大学行けばなおさらいい。それで本当に、チャラ、だ」
中島は白谷にそう言いながら二人に反省文書き込み用の規定用紙を手渡した。二人はその文面を見てしばし呆然とした後、駿が呟くようにもう一度訊き直す。
「あのお…ホントに今は反省文書くだけでいいんですか?」
「いいんだよ。俺と立川先生が頑張ったんだからな。後でちゃんと挨拶しとけよ」
「それはもう…なあ、真由」
「はい。ありがとうございます」
自然と二人の表情は笑顔がこぼれていた。深々と同じタイミングでお辞儀をして感謝を伝える。
二人は揃って踵を返し、生徒相談室から退出していった。引き戸を閉じると、部屋の中は中島一人だけになる。
「さあて、夕方から立川先生と親御さんの家へ行って事情説明だな。気が重いが…」
中島は二人が退出していった引き戸を見つめながら、さてどうやって相手しようかとシミュレーションを頭の中で実行し始めた。
「…どういうこと?なんで…?」
遠野春香は、思わず声を出してしまい、周りに居た2、3人が彼女の方を向いた。視線を感じた遠野は慌てて関係なさ気な素振りを見せる。
…白谷と赤城が先生に事情聴取され、職員会議が揉めた日の翌日の昼休み。廊下に貼り出された、〈下記の者、校則違反により~〉としか書かれていない、実質的な処分理由が記入されていない処分結果は遠野自身が思ってたよりも遥かに軽いものだった。
退学とか、せめて停学とかが下されると予想したからこそ、学校祭で二人を見た時に彼にプレッシャーをかけようとしたのに…これじゃ話にならない!遠野は思わずこのことを告げた中島先生に文句を言いたくなる衝動にかられた。
…ことごとく上手く行かない。なら、もう…わたしの手で異物を除去するしかない…。
遠野は半ば夢遊病者のような足取りでその場を離れると、昼休みで賑わっている2年8組へと戻っていった。自分の席に座ると、机に視線を固定して俯き、口元がなにか呪文のようなものを小声で呟いているかのように動いていた。
「春香、どうしたの?顔色が良くないけど…」
クラスメイトから言われて一瞬我に返った彼女は、貼り付けた仮面のような笑顔で何とか反応しようとするも、
「だ、大丈夫…大丈夫」
「…そお?」
クラスメイトは彼女のこわばった表情を心配そうに見つめながらその場を離れる。何かしらの近づきがたいオーラが、彼女の場所から放たれているかのようだった。
「……」
緑川は、彼女の姿を次の授業の準備をしながら見つめていた。あの時以降、彼女は緑川を見ようとはしなかったし、彼の方もあえて見ることを避けていた。
「なあ、緑川よ〜」
「ん?どうした、梅田」
緑川の席に、ぱっと見はチャラそうな格好の、男子にしては長髪のクラスメイトである梅田秋生がふらりとやってきた。
梅田と緑川は、クラスメイト以上の関係ではなく時折話す程度でしか無かったが、今回は特別用がないのに彼の方から緑川に近づいてきた。
「あいつ、なんか不幸でもあったか?」
梅田が親指で背後を指さした先には、先程から落ち込んでいる遠野の姿があった。あんまり最近の遠野に関わりたくないのと、彼女が落ち込んでいる原因の掲示をまだ見ていない緑川は興味なさそうな表情をすると、やや事務的に、
「さあ、よく判んないな…」
「緑川って一学期はソコソコあいつに構ってたように見えたけど最近はそうでないんだな?」
「そんなにかまってた覚えはないんだが…」
「そっかなぁ…?」
梅田はカッコはチャラそうだが中身はちゃんとした普通のクラスメイトなので、緑川が嫌うことはないがどうにも性格的に合わない所はある。
「ま、いっか」
梅田はそう言うとまたふらりと緑川の場所を離れた。緑川は、しばらくは彼の背中を見ていたが、やがて次の授業のことを思い出し、予習を始めた。
放課後の家庭科準備室。夕暮れ近くの薄暗くなった無人の部屋に、誰かが扉を開けて入って来た。
一人の女生徒が、僅かな明かりを頼りに器具類が保管されている戸棚に取り付くも、鍵が掛けられていて中身を取り出せなかった。
彼女は夜に近づいているコントラストの低い視界内で周囲を見回す。やがて、何かの修理などで持ち出された赤い工具箱を書類やバインダーや型紙やらが山積みされている机の上に見かけた。それを開ける。
微かな光の下で、彼女はとある工具を手に取る。重みに抗い窓にかざすかのように彼女はそれを見回すと、それに決めたのか持ってきたカバンからタオルを取り出して包み、そしてカバンに入れた。
「…異物は、排除しないと…」
彼女には、カバンの中に入っているその重さだけが、もうすがるしかない神のように思えてきた。