北風のキャロル
2年8組の遠野春香は、北側校舎1階にある職員室の扉の前にいた。今すぐその引き戸を開けるのではなく、俯きかげんで、何かを頭の中で整理しているのに夢中で扉を引くのを忘れているかのようだった。時折何事かをそこにいない誰かと話してるかのように動く彼女の口。
土曜日の放課後。職員室前の廊下は、人通りが少なかった。なので、誰も遠野の動きには注意を払うものがいなかった。
やがて、彼女の顔は正面の扉を向くと、まなじりを決して目の前の扉を引いた。開いた瞬間に彼女に雪崩れ込む大人たちが立て籠もる部屋の空気。生徒たちがいる教室とは異質の、異なった臭いが支配している職員室の雰囲気は何度来ても慣れたものじゃない。その空気の中に何割か混ざっている煙草の臭いと香水のニオイも、彼女にとっては好きなものではなかった。一瞬遠野はその見えないものに顔をしかめる。
「失礼します。あのお…2年7組担当の中島先生は?」
職務に忙しい先生は彼女の声を聞いているのかそうでないのか机に向かう顔を声の主には向けなかったが、何人かはそうでないのか、入って来た生徒の方向を向いた。その中で一人の女性教諭は一旦中島先生の机の方を見たが、見かけないのかすぐ椅子から立ち上がって書類の壁の向こう側にいるはずの先生をさがす。次いで、職員室内を見回したが、壁に掛けてある予定表のホワイトボードを見て、
「そういや中島先生、今日と月曜は有給でお休みしてるわ。火曜には出て来るけど、何か言伝えておく?」
そんなぁ、と遠野は予定が狂ったことに少なからずショックを受けた。ここ入る前に心落ち着かせたの何だったの、と。
「どうする?何か伝えとく?」
その女性教諭は再び彼女に念を押したが、遠野は少なくとも作り笑いっぽいわざとらしい表情を浮かべて、
「あ、いや、いいです。お邪魔しました…」
遠野は一礼すると今来た道を戻って職員室から退出していった。後ろ手で引き戸を閉める。
「……」
別に"彼"のクラス担任でなくとも今いる先生達に言ってもよかったはずだ。そうなればどのみち"彼"に『罰』は下る。でも…そうしなかった。
遠野は自問した。言わなかったのがいいのか、言えなかったのが良かったのか…。
…後悔しているから、なのか。
答えはすぐには出るはずがない。彼女自身もなぜそういうことしたのか判らない。
遠野はかぶりを振る。余計な思考を振りほどくかのように。
「よかったね、命拾いして…」
安堵したのか悔しかったのか、入り混じった表情の遠野。呟くように小声で誰に聞かせるでもなく口にする。
もう一息ついて、彼女は人っ気のいない廊下を歩きだした。窓から差し込む昼間の光がほぼ誰もいない職員室前の廊下を柔らかく照らし出す。
「…駅前、行こうかな」
気晴らしもいいかもしれない。遠野は一旦リセットすることにした。
2日後。
月曜日のお昼休み。入学してから半年以上経ち、学校の雰囲気にも慣れて来た1年生の教室が多い西校舎に、明らかに雰囲気が違う上級生が教室の中を物色するようにゆるやかに歩みながら廊下を進んでいた。その上級生は、とある1年生の教室の組表示を見ると、
「ここね…?」
口元が歪むような笑みを浮かべる。
視線を教室の中へと向けると、11月なので既に冬服への衣替えが済んでいる。
男子は黒の詰襟付き学生服に同色のズボン。女子は濃紺のブレザーを上に羽織り、その下は同じ色のベストと白のカッターシャツに胸元にリボンを付け、ひだ付きの膝辺りまでの長さのスカートを付けている。
あちこちでグループを作ってそれぞれの貴重な昼休みを過ごしている中で、やや右側にその子はいた。クラスの友達とおしゃべりの最中で、楽しそうな笑い声が他の子の声よりも上級生には浮き出るかのように聞こえていた。
さて、この事を聞いたらどんな顔になるのやら。
「ごめんなさい、赤城さん、っておられます?」
上級生はクラスの喧騒に負けないような澄んだ声で問いかけると、その教室の喧騒が急激に音量を絞ったかのように話し声がトーンダウンする。そしてその声の主に注がれる視線。その中に目的の彼女…赤城真由もあった。
「…はい、私が赤城ですが…」
突然の上級生の来訪に戸惑いを隠せない赤城。まるで操られたかのようにゆっくりと椅子から体を起こすと、誘われるかのようなおぼつかない足取りでその上級生の方へと足を運ぶ。
「ごめんなさいねお休みの所。わたし、2年8組の遠野春香といいます」
「…はい、私に何の用でしょう…?」
赤城にとっては初めて見る女性。まるでその姿に魅入られるかのように視線を彼女の顔をを見つめた。
「…ちょっと来てくれる?」
大丈夫、取って食べやしないから…と言いたげに笑みを浮かべて遠野は赤城にそう言った。
教室を出て、同じ教室一つ分とトイレを過ぎた所で左に曲がって階段を上る。3階を過ぎ、屋上へと階段は続いているがその途中の踊り場で遠野は足を止めた。人の気配はほとんどない。何処からか、廊下に反響して届く生徒たちの声が幾分か音量を絞ったかのように聞こえて来るだけだった。
電気はかろうじて点いてはいるが、窓がないだけに3階の床からの光の反射が踊り場を照らし出していた。その雰囲気に赤城は身をすくめる。
「大丈夫よ。お話しするだけだから」
遠野は赤城に安心させるかのような笑みを浮かべたが、1学年下の女の子にとってはそれは免罪符にはなり得ない。もちろん、言った本人も判って言っている。
「先輩、お話…ですか?」
「確か彼氏、いるよね」
踊り場の天井から届く蛍光灯の光は経年劣化で元の光を半ば失っていた。3階の床の、外の光の反射が、さながらステージの劇のように遠野の顔を下から照らして、その笑みも含めた一種の不気味さを醸し出していた。
「センパイが…何か?」
「わたし、見たの」
「…何をですか?」
「別の女の子と、駅前を一緒にいた所。彼の顔…楽しそうだったよ」
口元の笑みが微妙に歪む。さあ、どんな反応みせてくれるの?という意地悪な成分を含んで。
言われた赤城は、呆然と、という言葉の通りの表情をして固まっていた。そのまま蝋人形にされてしまった、と言われても信じられるように固まっていた赤城は、やがて遠野の想定とは少し違った方向の言葉を紡ぎ始めた。
「…先輩、ウソつくならもう少し上手についた方がいいんじゃないですか?」
赤城の瞳が、スイッチが入ったかのように視線に力が入り始める。それを受ける遠野も、面白くなってきたとばかりに口元の笑みの歪みに磨きがかかる。
「赤城さんがこのことをどう思うかは別の話。わたしは、そう言うことがあったから気を付けてね、ということを言いたいだけ」
「先輩、顔も合わせたこともない人がなんでわざわざ下級生のクラスにまでそんなことを伝えに来たんですか?怪しすぎですよ」
「そう思うのも赤城さんの自由。わたしは伝えるものは伝えたわ。それじゃ」
遠野は表情に笑みを固定しつつ、階段を下り始める。その歩みは、傍目には普通のものに思えた。
「逃げるんですか?遠野先輩」
赤城の、怒気の成分を含んだ言葉が遠野の歩みを止めた。振り向きはせず、視線は3階の床を見つめたまま。
「遠野先輩の見た、という話だけでは信用できません。証拠の写真みたいなものが無ければ、デタラメ言ってるとしか思えません。それとも…」
遠野が赤城の方を振り向いた。下から見上げる2年生の遠野と、上から見下す1年生の赤城。
「私とセンパイとを別れさせて、遠野先輩に何か得でもあるんですか?」
「…面白い」遠野が言葉をふと口にした「面白いなぁ…」
「面白いって…何が」
赤城の体をアドレナリンが駆け巡るかのように火照り始める。遠野は表情の笑顔の妖しさをますます研ぎ澄ます。
「得はあるよ。でもそれはあなたには関係ない話。言ったよね?どう思うかは自由だって」
「下級生に偉そうに言う割には小物みたいな言い訳しかできないって恥ずかしくないんですか?先輩!」
普段ならまず聞くことはない赤城のドスのきいた声。荒くなった遠野の呼吸音が、廊下の向こう側から聞こえてくる昼休みを楽しむ生徒たちの声をBGMにして赤城の聴覚を刺激していた。
遠野の表情はあくまで落ち着いている。しかし、赤城に反論しようと言いたげな口の周りの感情は現時点での彼女の劣位をそこはかとなく教唆していた。
「…まあ、そこまで疑うなら彼氏に訊いてみたら?でもね、もし言葉を濁したら…あなたの負け、よ」
言葉を発することで感情の高ぶりをおちつかせようとした遠野。そのまま前を向くと、再び階段を下り始めた。
赤城は下りて行く遠野を睨んだまま、その場から動く気配はなかった。3階に降りた彼女はそのまま北校舎の廊下を右側へと向かって歩き続け…やがて壁の向こう側へと姿を消した。
睨みつける気力を中断させた赤城は、階段の手すりに寄り添うようにもたれかかる。
「…大丈夫。センパイはそんなことしない。だって…」
それは、ともすれば悲観的になりがちな自分の性格を自分で支えなきゃ、と精一杯突っぱねた自分に掛ける魔法の言葉のようだった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが学校中に鳴り響く。午後の授業が始まろうとしている中、赤城は遠野から放たれた言葉が足に絡みついて動けないかのように、その手すりにもたれていた。
白谷駿はさて帰るかと教科書等をカバンに詰め込んで椅子から立ち上がった。その時に彼はちらっ、と後ろの席を見ると、幼馴染だが絶賛絶交中…とはいえ最近は雪解けの兆しも見えてきた黒瀬結衣はまだ何かの作業中なのかそれとも目を合わさないだけなのか、机に向かって何かをしている。
家周辺とかは多少声はかけられるようにはなったが、それでもまだ心理的障壁が高いのか、昔のようには気軽には出来なかった。
まだ教室に居残っている友人らに挨拶すると、白谷は教室近くの階段に向かい歩き始めた。トイレを過ぎて右に180度回り、階段へ行こうとした所で…
「…真由」
「…センパイ」
駿は、下から上がってきた彼女の真由と鉢合わせした。
彼はすぐに気づいた。いつもなら会うたびに笑顔で話しかける彼女が、今にも泣きそうな、憔悴しきった表情を浮かべて立ちすくんでいる。俯き加減で長い髪が顔の一部を隠しているせいで、更にそれが強調されたように見える。
「真由…どうしたんだ?」
「センパイ…わたしのこと、嫌になったんですか…?」
俯いていた顔を上げた彼女の真由は、駿の顔を見るなり泣き出しそうな顔で、弱々しく問いかけた。瞳の涙が、もう少しで頬を伝うくらいに。
「…はい?どういうこと…?」
突然の、少なくとも身に覚えのない言葉に戸惑う前に意味が見えてこない駿は、疑問を返すくらいしか対処できなかった。だいいち、嫌いだったら今週末、一緒に夜を過ごす計画なんて立てるわけないだろ、と彼は思わず言いかけた。とにかく真由の真意を訊かないと…。
「真由、ここは人目に付く。こっち行こう」
放課後で人が少なくまだ誰も来てないとはいえ、階段は人の往来がある。涙に暮れている彼女と言い訳してる男なんて翌日クラスで何言われるか判ったものじゃない。駿は優しく彼女の手を取ると階段の右の、やや短めの廊下の突き辺りにある視聴覚室の引き戸を開ける。幸い鍵はかかっておらず、二人は中へと入った。念のために中から鍵をかける。
薄暗い視聴覚室で二人は向かい合う。
「真由、いったい何があった?」
真由は駿に促される。しばらくの間が空き、何処からか聞こえる生徒たちの音が、最小限のBGMとして二人の耳に届く。
「…遠野という先輩から話を聞きました。この前の土曜日、別の女の人と駅前歩いてたって…」
ともすれば消え入りそうに彼女の口から出た言葉。その中の、"遠野"という名前が駿の心理を揺さぶった。
土曜日、見られてた…!
冷や汗が、背中を伝うような嫌な感覚。
駿は、真由には学校祭の時に遠野に見られていたということは話してない。彼女に余計な心配させまいとしてあえて言わなかったのだが…。
「遠野って女の人、誰なんですか?それとセンパイ、何で私と違う人と駅前一緒にいたんですか?」
彼女の疑問はもっともだ。遠野に関しては黙ってたけど正直に話すしかない…駿はそう思い、薄暗い中で真由に頭を下げた。
「ごめん、真由。実は…学校祭の時に、俺たち教室から出る所を遠野という女に見られてたんだ。黙っててごめん」
「え?じゃあセンパイとの…その…色々と恥ずかしい所聞かれてたとか…」
「それは大丈夫だと思う。しかし…状況が状況だけに遠野は俺たちがそういうことをしてたと思ってる。実際修学旅行中に半ば脅されてたし…」
「じゃあもう、先生に言われてるかも…」
「それはないと思いたい。そうだったらとっくに呼び出されて処分喰らってる。遠野の狙いは、黒瀬と緑川との仲を壊して後釜に座ること。そのために色々と協力しろと言われてる」
「協力…したんですか?」
「してない。逆に黒瀬と話してそれに対処はしようという話はしている。ただ…」
「ただ…何です?」
「もし、万が一学校祭のことが先生らに伝わって学校にいられなくなってしまったら…真由、その時は俺が責任もってお前を支える。だから安心してくれ」
「…センパイ、それは判りました」
駿は、真由の声がまだ硬いことに気が付いた。彼女が言葉を繋げる。
「センパイ…土曜日の駅前の話は本当ですか?」
日が暮れて外は次第に薄暗くなってゆく。明かりを点けてない視聴覚室にいる二人も、互いの姿が闇に埋没しそうになる。その中で、駿は一旦真由から視線を外した。
黒瀬と一緒にいたことは事実だ。そこは話してもいいかもしれない…問題は、と駿は思った。
真由に、魔法のことは話してない。
海辺でチンピラみたいな連中に絡まれた時、彼女は黒瀬の魔法を見たはずだが、その後そのことを訊いてこない所を見ると、彼女の中では疲れと怖さが見せた目の錯覚か何かと思い込んでいるようだ。
先週の土曜日はそのことで黒瀬と出向いた。それ自体はヤマシイことではないのだが…このことは話しづらい。信じてもらえるかどうか以前の問題。みだりに口にしない様にと釘も刺されている。
とにかく、ウソでもいいから…駿はそう考えて思いついた言い訳を話し始める。
「…俺と黒瀬、って家が隣だろ?だから、今でも時折両家で夜ご飯食べに行くんだよ。その前に駅前で1人で買い物してたらたまたまあいつと鉢合わせた。そこを見たんじゃないかな?遠野は」
…実際両家で夜ご飯食べるために出掛けることはあった。しかし、それはもうとっくの昔の話で、今はやっていない。駿は小さかった頃のその光景を思い浮かべながら言い繕う。
…明るかったら表情でバレるだろうな…そう思いながら。
「…本当ですね?」
やや明るめの声で真由が念を押した。
「真由にウソ言ってもしょうがないだろ?」
自分の言葉が、何処かしら上の空に聞こえるのは気のせいじゃないかも…駿はそう思いながら、薄暗いために真由からは多分見づらいだろうが笑みを浮かべながら話す。その表情にいくばくかのわざとらしさを含みながら。
「それじゃ北川さん、ちょっと今日は早めに帰る」
「わかりました。こちらもすぐ終わります。お気をつけて」
外は日が落ちて、わずかに西の空の山際辺りが、うっすらと夕焼けの欠片をまぶしている。
生徒会長となった緑川勇樹は手早くカバンに資料とかを放り込み、椅子に掛けてある濃紺の起毛コートを羽織ると、副会長の北川秋絵に挨拶をして生徒会室の引き戸を引いた。背後から副会長のやや事務的だが気持ちが入った挨拶が返ってくる。
廊下に出て引き戸を閉めた緑川は、少し先の、やや暗がりになっている廊下に人影がいるのを認めた。濃紺主体の冬服に似たような色のコートを着ているので蛍光灯の明かりも相まって逆光気味に見えるが、彼はその姿が誰なのかは瞬時に判断が付く。
「おつかれ」
「待たせてごめん」
結衣が生徒会室から出てきた勇樹に声をかける。彼の方も笑みを浮かべながら挨拶を返す。一緒に福井の街中に寄って帰ろうということで、一旦二人は玄関に最短距離になる廊下の四辻を直進しようとした時、勇樹の足が止まる。
「あ、ごめん結衣さん。ちょっと教室へ行って忘れ物取りに行く。待ってて」
「待ってるのも何だし、自分も行きますよ」
二人は廊下の四辻を右に折れ、3年生の教室の前を歩いてゆく。受験が間近ということか、教室に残って勉強してる人は1、2年生と比べると明らかに多い。そのまま歩いてゆくと3年2組の教室の前に来た。二人はちらっと教室の中を見ると…、
「永井先輩、ちゃんと勉強してる」
「あ、ホントだ」
この前まで生徒会長だった永井雄一郎が何やら友人らと集まって教科書や参考書を広げて教え合ってる光景が二人の視界に入っている。元生徒会長はそのことに夢中で、廊下のこちらに気づく様子はない。
「来年は僕らもああやって勉強してるのかなぁ」
「うー、そう考えるとちょっと嫌になっちゃうなぁ」
「東大とか京大とかは僕でも無理だけど、結衣さんなら福井大学は大丈夫じゃ?」
「まあ親にあんまり負担掛けたくないから地元の大学行ければ、とは。教育学部行って先生になるのが一番いいかなぁ」
「何の先生?」
「国語…かなぁ?」
結衣の脳裏にふと思い浮かぶ、母親の姿。古文書と格闘するのは御免被りたいとは言ったけど、結局似たような道選ぶのかぁ…とあきらめにも似た複雑な感情が彼女の表情を苦笑いにさせる。
「勇樹くんは?」
「今の所はこれ、と言ったのはまだ。ただ地元だと選択肢が余り無いから、県外出るしかないかな」
「東京?」
「お金かかるけどね。上二人でお金使ってるから、東京なら国公立しか行けないかも…」
「東京かぁ…中学の時の修学旅行先だったなぁ。テレビとか見ててもなんか楽しそう」
「僕の中学もそうでしたけど、福井よりは遊ぶところ沢山ありますよねぇ。でも、逆にちゃんとしてないと遊びまくりそうで」
「だね」
結衣が彼の言葉に笑顔で相槌を打つ。
東校舎と南校舎との廊下の四辻に二人は差し掛かって左へと折れる。2-9を過ぎ、2-8で勇樹は教室に残ってた数人のクラスメイトに挨拶しながら自分の机に向かい、中に入れていたノートとかを取り出す。それを手早くカバンに入れて、再び挨拶をして結衣が待つ廊下に出てきた。
「じゃ行こうか」
「はい」
2-8の隣の、結衣のクラスは明かりが落ちていた。廊下の蛍光灯が、教室とそこを隔てる壁やガラスに阻まれて薄暗く机とかを暗闇から浮かび上がらせていた。
手洗い場やトイレを過ぎ、右へ。正面に視聴覚室への短い廊下を見ながら再び右に折れた所で、下から上がってきた女子生徒と二人は目が合った。
勇樹と結衣の表情が強張ったものになる。二人はほぼ同時に体に緊張感が走り、それに反して足は止まる。
下から上がってきた女子生徒は二人を見つめると形のいい顔に、獲物を見定めるかのような強い視線と笑みを浮かべた。薄暗い蛍光灯のもとで、口元に怪しさが浮き出る。
「あら、土曜日違う男の子と一緒にいた黒瀬さんじゃないの。今日はまた違う男の子とデート?」
「…遠野さん」
勇樹がクラスメイトの名前を口にする。しかし、それはあまりしたくない感情が幾ばくか上乗せされていた。
「うらやましいわねぇデートする暇がある子って。わたし今まで図書館でお勉強してたの。でないと勇樹くんについて行くのに大変なんだもん」
遠野の視線は黒瀬に向けられている。なんであんたがそこにいるのよ、と言いたげな。
遠野という女の子がお前と緑川を別れさせようとしている…修学旅行の時に絶交中の幼馴染から言われた言葉を彼女は思い出していた。
「遠野さん、ちょっとそう言う言い方は…」
「あらほんとよ。土曜日の福井駅前のアーケード。白谷くんと二人で連れ添って喫茶店から出てきたよねぇ。随分仲が良くて、さすが幼馴染と思っちゃった」
「それは…」
結衣が言いかけた所で言葉が詰まる。
…魔法のことは話せない。
ヤマシイことは何もないのだが、しかしある意味それ以上に言いにくい事。
「遠野さん、それは見間違いじゃないのか」
「わたしが白谷君やこの子の顔を間違えるわけないじゃない」
勇樹がやや強めの言葉で遠野に問いただすも、彼女は一顧だにせず聞き流すように言い放つ。
遠野の視線はずっと結衣に固定されてて少しも動いていない。さあ、浮気してると白状なさい!と言いたげに。
「まだ浮気してないとシラを切るの?こっちは見ていたんだから」
遠野は、自分の希望通りの展開になって上気しているのか、語気を強めて結衣に強く詰め寄る。反論しようにも、魔法のことが引っかかって上手く声を上げられない結衣は、遠野の視線の圧に負けるように目を逸らした。
それを見た遠野はさらに彼女との間を詰めて、下から覗き込むようにして睨みつける。
「…あなたは勇樹くんにふさわしくないわ。身を引いた方があなたのためよ」
「遠野、止めないか」
「勇樹くんは黙ってて」
「遠野!」
階段に響く勇樹の声。一瞬時間が止まったかのように、遠野の体の動きが止まった。
「白谷と一緒にいたかもしれないが、結衣さんは僕の彼女だ」勇樹がその背の高さから遠野を見下ろすように、そしてレンズの奥の瞳は軽蔑する者を見るかのように鋭かった「これ以上彼女に何かするなら、もう君とは口も利かない」
そして、勇樹はやや強張った結衣の体をそっと抱き寄せて、
「行こう」
無言で結衣は彼にうなづく。二人は遠野をその場に残したまま階段を下り始めた。残された遠野は背中で二人の足音を聞くしかなかったが、やがて呟くにしてはやや大きめな声が階段に響いた。
「…わたしとキスしたくせに」
しかし、勇樹はそれを聞いても踊り場で足を止めるだけだった。
「不意をつかれただけだ。好きだからじゃない」
さっきと同じ視線を遠野に向け放った言葉は、事務的というよりはマイナスの感情しか含めない冷たさを隠しもしなかった。勇樹は視線を階段に戻すと、再び遠野の存在を無視するかのように結衣と並んで階段を下りて行く。やがて、遠野の耳には階段を下りて行く二人の上履きと床の擦れる音しか届かなくなった。そして、その音もやがて聞こえなくなる。
しばらく立ちすくんでいた遠野は、やがて電池が切れたおもちゃのように膝から崩れ落ちた。
「…何やってんだろう、わたし…」
その声は自分の耳にすら届かないような、か細い声だった。
校門からまっすぐ200mほど北へ上がった所に、秋翠に通うバス通学の生徒らが利用しているバス停がある。冬以外はそれほど利用者数はないが、11月の後半になると雪が降ったりして自転車が乗れなくなるので、この時期はバス通学に変える生徒たちで登下校時はごった返す。
「キス…したんですか?」
「不意打ちされたんです。修学旅行の時。結衣さんが帰って行った後にやってきていきなり…」首をうなだれ、申し訳ない、という言葉を態度で示す勇樹「黙ってて…ごめん」
「そうだったんですか…」
「もちろん、僕は結衣さんしか…」
「わかってますって」
彼の言葉を遮る形にはなったが、結衣は気丈に笑顔を彼に向ける。
勇樹は結衣を見守るかのように付き添って、歩調を合わせている。結衣の方はさっきよりは調子を戻しているのか、勇樹と歩く速度は変わらないように見える。
もうすぐ福井駅行きの最終バスが来る時間だが、ほとんどの生徒らが下校した後のせいか、まだ積雪がないので自転車で来ている人がそれなりにいるのか、簡素な鉄の波板の屋根があるバス停には、勇樹と結衣以外の生徒はいなかった。
ほどなく、多数の自家用車に紛れて車内に明かりをつけたバスが姿を現す。停車し、ドアが開くと二人は乗り込み、ほぼガラガラの車内で二人掛けのシートに身をうずめた。二人の他には、運転手と、会社帰りらしきサラリーマンが一人乗ってるだけだった。
バスが動き出し、路面の凹凸に車内はやや大げさに揺れ、車内放送や車体が歪む音やロードノイズ、ディーゼルエンジンの唸る音などが乗客の五感を刺激し続ける。
二人はしばし無言だったが、結衣が独り言のように勇樹に話し始めた。
「さっきのことですけど…遠野さんが言ってたことは本当です」
バスの車内の蛍光灯は、電圧が微妙に足りないせいか、建物の中よりもやや薄暗かった。勇樹は、隣の彼女の言葉に惹かれるように視線を俯いている結衣に向けた。
「ただ、浮気とかそんなのではないです。家庭のことなので事情は言えませんけど…そこだけは信じてほしいです」
勇樹は彼女を労るかのように左手でそっと結衣の肩を抱き寄せた。
「…判ってるよ。結衣さんはそんなことしないって」
勇樹の言葉に彼女はかすかに頷いたかのように見えた。
ただ、彼はそう言ったが…どことなく、自分自身を騙してるような気がした。ほんの僅かの引っ掛かりが、どうしても。
…二人はその後はなにも話さず、そのままバスは放送会館前の降車場にたどり着いた。
コートを着ているのと、車内暖房があったせいでそれほどではないが、それでももうすぐ12月の天気には冬の寒さが少しづつ加わってきていた。
勇樹はまたバスのために地下道で道路の反対側の発着場へ、結衣は電車で帰るために福井駅へ。二人はまた明日と声を交わして別れた。
駅に入り、買ったばかりの定期券を見せて改札を抜け、跨線橋を渡り反対側の京福電車のホームへ。勝山行きの電車はあと5分ほどで出発するため、ドアは開け放たれている。彼女は手近の昇降口から電車に乗り込んで、長いベンチシートの空いてる場所をあまり集中してない意識で漫然と見まわし…一点に視線が固定された。
視線の先の方も見られてるのに気づいたらしく、俯いていた顔を上げて彼女の方を見た。しばし視線を交わす。
彼女の足がやや勝手に動き出し、見つめていた彼の近くまで歩み寄ると、人一人分の間を開けてベンチシートに腰を下ろした。
『この電車は、勝山行き普通電車です。あと3分ほどで出発します。もうしばらくお待ちください』
車内放送と共に床下のコンプレッサーが、ゴトゴトとうなりを上げる。
「…結構遅いんじゃない?」
俯き加減の黒瀬が、人一人分離れて座っている白谷にさりげなく訊いた。
「…色々と面倒なことになったからなぁ…土曜日のことで」黒瀬に向いていた視線を再び床に戻すと、疲れが加算されたような言葉を呟く白谷。「そっちはどうなん?」
「…同じ。帰り際に遠野さんと出会った。浮気してんだろ、って…」
「まさかあの時見られてたとはなぁ…」
同じ姿勢のまま、肩で息をするかのように微妙に高さを変える。
「何て言ったの?後輩に」
「両家の食事会があるから先に行ってたら結衣に出会った。遠野はその時見たんじゃないか、とは言った」
「魔法のことは?」
「話してない。言った所で信じないだろうし」
出発時間になったのか、ホームにベルが鳴り響き、車両の後ろから車掌が鳴らすホイッスルが短く鳴った後、建付け悪そうな電車のドアが両側から閉まる。閉鎖確認のベルの音が鳴って数拍置いて、電車はその車齢にふさわしいようなギクシャクした動きをして福井駅をのそのそと出て行く。
「結衣」
白谷はそう言うと、彼女との距離を半分縮めた。黒瀬はその距離を受け入れた。
「魔法、って…やめること出来るんかなぁ…?」
「やめたいの…?」
「…何か、めんどくさい。言いたいことも言えない、ってかなりストレスかな、って」
「駿は最近なったばかりだもんね」一旦言葉を区切る黒瀬。「自分は、魔法やめるという選択肢自体がない。もう自分の一部だから」
黒瀬は俯き加減の顔を上げる。反対側のガラスに映ってる自分の顔をまっすぐ見据えている。
「やめるなら…お母さんに話しするよ。水晶は封印してしまえば、もう言葉を思い浮かべても発動しない。普通の人として…」
電車に制動が掛かり、新福井駅に滑り込む。床下のコンプレッサーが再び息を吹き返し、車内にこもった音を響かせる。
「自分が思うに、そっちの方がストレス溜まるけどいいのかな、って」
ドアが閉まり、確認のベルが短く響く。動き出す電車。
二人は無言になった。何もしゃべらず、何もアクションをせず、電車に揺られながらただ時間が過ぎてゆく。
家の近くの駅である越前新保駅に電車は到着した。二人はまるで条件が合ったから反応した機械人形のごとくシートから立ち上がりホームに降りた。階段を下り、電車が動き出すまで構内踏切に行く手を阻まれる。
やがて電車が通過すると踏切を渡り、駅員に定期券を機械的に見せる。駅舎を出て右に曲がり、コンクリートで護岸された用水路を渡る短い橋を通り、右に曲がって用水路と並行に道を歩く。
ふと、黒瀬の歩みが止まった。つられて白谷も止まる。
「…どうした?」
「さっきの話だけど、多分…お母さんはやめないでおいた方がいい、と言うよ。せっかく貰った力なんだから、って」
再び歩き出す二人。
「…俺は別に欲しかったわけじゃない…」
「それは自分も…」
黒瀬がそう言うと、白谷は思わず彼女の方を振り向いた。彼女の表情は変わってない。
「時折思うの。何で妹の由紀と生まれた順番が逆にならなかったんだろう、って。そうなれば彼女が術者で自分は自由にいられたのに…」
「…なんだ、やっぱり同じか」
「術者なら誰だってそう思うことはあるはず。多分、お母さんも」
ガソリンスタンドの明かりが、街灯だけの道に必要以上の照度をぶちまけていた。様々な方向から照らされた二人の影は、幾筋も道に描き出して、やがて他の光に飲み込まれる。
「結論出すのは今じゃなくてもいい。何日か、ゆっくり考えて」再び黒瀬の歩みが止まる「それでも、と言うなら…」
いつの間にか雲が湧き出て、北陸地方の冬の景色を暗闇に描き出していた。そして、なにかが落ちてくる。
二人の周りに。見える範囲の全てに。
「冷えると思ったら雪、か…」
白谷が呟くように言って上空を見上げる。黒瀬も似たタイミングで眼鏡のレンズ越しに上を見た。
二人はまるで催眠術にでもかかったように、ただ上空を見上げていた。
翌日の朝。まだ登校してくる生徒たちの数は疎らな時間帯。
「失礼します」
職員室の引き戸を開け、女子生徒がまだ始業までに時間があるので空席が多い本や書類などがうず高く積まれた事務机の向こう側に、目的の先生の姿を見つけて足早に距離を詰める。近づいてくる女子生徒に気が付いたその先生は彼女の方に顔を上げる。
「ん?君は…」
担当しているクラスの子ではないことは分かった。なので先生はさりげなく彼女に名乗りを促す。
「2年8組の遠野です。中島先生、お伝えしたいことが」