風の鏡
彼女は、彼を見ていた。
気が付いたら、わたしの世界にはあなたしか映らなくなった。
気が付いたら、わたしの世界にはあなたの声しか届かなくなった。
様々な音が周りを飛び回っているにもかかわらず、視界は全ての音がミュートされている無音の世界。わたしの想いがクリアになる世界。
でも、あなたは気づいてくれない。わたしはあなたを特別にしたいのに、あなたはわたしの事は他の人と同じ。
その他大勢、クラスメイト。いてもいなくても同じ。
なぜ、わたしだけを見てくれないの?
他の人には構わないで。
わたしはあなただけが全てなのに…。
…彼女は、彼を見ていた。
「うっわー…どきれい!」
「すごいねココ!こんなに見晴らしいいなんて」
「長崎市民になれば毎日見れるかもしれないですね」
「こりゃあ完璧なデートコースだわ」
長崎港をさながらジオラマのように見渡せる名所のグラバー園。何処から見ても美しい景色以外目に入って来ないような有名観光名所へ、10月の終わりにしてはやや気温の高い晴れた日に秋翠高校の2年生は修学旅行で長崎を訪れていた。
「おとといの秋芳洞とか萩市内、昨日の伊万里とかもなかなか良かったけど、ここには負けるな」
「仕方ないです。昨日まで雨が降ってましたから」
青空の下、素晴らしい以外の感想が思い浮かばない長崎の街を眺めながら青野雅美が背伸びをする。その横で、景色から視線を外せない紫野絵里子が一昨日、昨日の天気をここと比較させて恨めしそうに、しかしつとめて明るめに答えた。
「灰ちゃん、後で抜けるけど見ないふりして。お願い」
黒瀬結衣が、景色を見るのもソコソコに、この4人組の班のリーダー役である灰屋美紀にまるで仏様にお願いするかのような、両手をすり合わせるポーズで懇願している。懇願されてる当の本人は、しゃーないなぁ、と言いたげな表情で、
「ちゃんと時間までに宿屋に戻ってこりん。でないと緑川くんとそこらのホテル行ってエッチしとるって言うわ」
灰屋は横目で見つつニヤケ顔…というより『お主も好きよのぉ』と悪代官が悪徳商人と密談してる時代劇のワンシーンのような口調と表情で黒瀬に釘を刺した。意外にえげつないことを言ってきた班のリーダーに黒瀬は一瞬たじろぎながら、
「わ…わかった。時間までには勇樹くんと一緒に帰ってくるから」
「先生、あちこちにおるら。見つからんように気をつけてな」
「もちろん」
黒瀬としては、長崎でのこの自由行動を使って彼氏の緑川勇樹とデートする約束をしたので、それを最大限有効に使いたい。班行動が基本条件な上、その班も同じクラスの男子は男子、女子は女子で組むことが決められてるので、見つかったら先生から何言われるか判ったものじゃないが…。
「ま、仮に見つかったとしてもはぐれちゃったので、って言っときゃ大丈夫だら。先輩らもそれで怒られなんだって言っとるし」
「…何だか厳しいのか緩いのか判らん…」
黒瀬がどっちや、って言いたそうに不思議そうな表情をする。実際そうなるとどの先生に鉢合わせするかの出たとこ勝負になるので正直勘弁してほしいところ。
と、別のグループの女の子らが黒瀬達がいる所へ近づいてくる気配と声がしてきた。長崎は修学旅行で自由行動になる割合が高いのか、結構様々な県の中学生、高校生らを見かける。しかし、近づいてくる話し声をよく聞くと明らかに福井弁のイントネーションで話す子がいる…果たして姿を表したのは同じ制服を着た女子のグループだった。
「あれ?春ちゃん!」
「絵里ちゃん、ここにいたんだ」
今来た4人の女子グループから、1人が他の3人にちょっと待っててとお願いして、再び紫野に手を振りながら彼女が女の子らしい足取りで近づく。
「やはりここ来ますよね」
「来たことなかったからねー」
やってきた春ちゃんと呼ばれた子は紫野とにこやかに言葉を交わす。紫野以外の3人は、はて誰だっけ?と頭上に疑問符を浮かべたような顔をしていたが、青野がひょっとして、と表情が変わる。
「えーと、隣の組の遠野さん?」
「そですよ~陸上部の青野さんですよね?」
青野が記憶の引き出しから彼女の記憶を呼び起こして訊いてみた。特徴的なセミロングかつふわっとした髪で顔が小さく見え、プロポーションは抜群と言われる遠野から返ってきた答えはプラスアルファの情報がくっついて帰ってきた。え、そこまで知ってる?と、青野が思わずおお、と感嘆の声を上げる。
隣のクラスとはいえ、中学までの交友関係や部活、生徒会での友人、後は選択科目が同じとかが無ければ思ったほど交流がない。
「で、三河弁を話す灰屋さんに…黒瀬…さんですよね」
遠野は挨拶てがら灰屋と黒瀬にも声を掛けた。ただ、黒瀬の所だけ声のトーンが一瞬下がって、再び戻る。黒瀬は少々違和感を感じたが、気のせいかと思って挨拶を返す。
「8組の遠野春香です。絵里ちゃんとは中学の時にクラスメイトでしたので」
「春ちゃんはウラヤマシイです。いくら食べても太らないんですから」
紫野が目を輝かせながら彼女を持ちあげる。そう言われた遠野は、
「いや、そんなには…わたし、燃費が悪いだけです」
もしこの中に男子がいたら、彼女の笑顔に確実に魅入ってしまうと思うくらいの可愛さを振りまきながら謙遜して照れる遠野。今は女子しかいないが、青野も灰屋も黒瀬も何となく、この笑顔で迫られたら男の子ならほぼ落ちるわとなんとなく思った。
「春ちゃんずっとモテ期ですから少しわたくしたちにも分けてほしいですよ~」
「分けられるなら分けてあげたい!…って絵里ちゃんも彼氏持ちになったんでしょ?今度話し聞かせてよ~」
「いいですよ。今夜でもそっちの部屋に行っていいですかね?」
「うーん…今日は無理かもしれないから明日の熊本の宿なら多分大丈夫かな?」
「わかりました。じゃあ明日で」
「うん、それじゃ」
遠野は紫野に手を振りながら待たせている自分のグループのもとに走って行く。彼女が合流すると再び紫野に手を振りながら遠ざかって行った。
「…何やろ。何であの子、結衣の方を見る時だけどことなく棘のある見方するら?」
4人の前から遠野の姿が見えなくなってから、灰屋が何となく疑問に思ったことを口にした。
「そお?そんな風には見えなかったな」
青野が灰屋に気のせいじゃない?と言いたげに疑問で返す。青野と灰屋は当事者と思しき黒瀬の方を向く。
「…気のせいじゃない?」
「まあ、春ちゃんはそういうことはしないと思います。だから気のせいですよ」
黒瀬はきょとんとした顔で言ったことに続いて、紫野も記憶の中の、過去の彼女の行動を照会した上でそれに賛同する。
「まあ、絵里ちゃんがそう言うなら…」
黒瀬以上に、灰屋は言葉ではそう言ったがどことなく納得がいかない表情を幾ばくか浮かべていた。
遠野は、一緒にいる3人とグラバー園内を散策しつつ、さっき会った黒瀬の顔を思い浮かべていた。
何処にでもいるような、何処にでもありそうな仕草で、余りにも普通な"彼女"。でも、そんな"彼女"に彼は…。
「…何であの泥棒猫が、わたしの大事な勇樹くんを…」
その言葉は、あまりに小さかったために他の3人に気づかれるどころか、吹き抜けてゆく風に溶けてゆくくらいのものだった。しかし、そのマイナスの感情は、彼女に"行動"を起こさせるには充分な力があった。
「…方向音痴じゃないはずなんだが…」
見慣れない街を周囲に見まわす。市電は走ってはいるが福井とはまるで違う街並みの中、白谷駿は、バスから見た長崎の街中を思い出しながら宿屋への道を辿っていた。
彼女である赤城真由へのお土産を物色中だったのだが、気が付いたら仲間がいつの間にかいなくなっていた。何度かその辺りを探したのだが…友人らの姿を見つけられなかったので仕方なく戻ることを選択することに。
『万が一、班からはぐれてしまった場合には宿泊するホテルまで戻るように』とは自由行動開始前の集まりで先生方が言われていたが、まさか自分が…と白谷はもう少し長崎の街に関して先生の話を真面目に聞いてればよかったと後悔していた。彼も長崎は初めてで、何度か雑誌やテレビとかで映る街並みを記憶はしているが、一部分を切り取られた写真や映像では実際に自分の目で街全体を見てないとピンとこない所がある。
「とにかくバスで通った道に出てくれれば…こっちか?」
見覚えのある道すがら、あちこちをキョロキョロしながら歩いてゆく。すると、
「…ここかなぁ?」
交差点を過ぎて暫く、バスの車窓から見た街並みと同じ建物の群れがそこにはあった。こうなると安心できる。迷いながらの足取りから確信した小走りに変わって漸く白谷は目的地の今日の宿屋となるホテルに辿り着いた。
まだ1時間以上は自由行動時間が設定されてるので、ホテルの玄関には同じ制服を着た生徒らは白谷の視界にはまだいなかった…いや、いた。
女子生徒が一人。秋翠高校の制服を着た女の子が所在なげに少しキョロキョロしながら玄関横辺りで立っていた。どうやら俺と同じくはぐれたので戻って来のかな、と白谷はどことなくわずかな親近感を芽生え始めさせた。
近づいてゆくと、プロポーションがよさげな体にふわっとしたセミロング、そのためやや小さく見える顔…見たことはあるけど、少なくとも自分のクラスの子じゃ無さそう。それじゃあそのまま歩いてロビーで多少くつろぐか、と思った白谷をその彼女は見つけると、視線を固定して見つめ始めた。やがて表情がさながら珍しいものを見つけたように明るくなると、何か言いたげにその歩みを白谷に向け始める。なんだ?と思いながら向かってくる彼女を避けるように白谷は軌道変更したが、彼女はそれに合わせるかのように軌道修正して接近する。やがて会話出来るくらいの距離に横合いから踏み込まれた。
「7組の白谷くん…ですよね?」
「…そうだけど。というか、班からはぐれたクチ?」
呼びかけられた白谷が疑問を呈した言葉を送る。何処かで見たことはあるが何処でか…は判らない女の子が、気を抜くと魅入られそうな笑顔をパスポートに更に個人のエリアに踏み込んで来る。
白谷は記憶の引き出しを次々に開けるが該当する場所と肝心の名前が出てこない。そもそも違うクラスの、ましてや女子なんて覚えてない方が多い。
「そうです。考え事してたらはぐれちゃって…何とか戻ってきました」
「俺と同じか…」
同じ班からはぐれた人がいて多少は安堵した白谷。
「あのぉ…ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「…聞きたいこと、ってどういうこと?」
女の子の声、口調、仕草、距離感の絶妙さに誰かは知らないけど白谷は彼女からにじみ出る様々なものに少し気圧されるような感じを受けた。かわいらしさと、スパイスとしてほんのわずかの…。後退した白谷の足が自動ドアの重量センサーを踏んで反応したドアが勝手に退路を作る。
「…黒瀬さんの事なんだけど。幼馴染だから知ってるでしょ?」
「…いや、ちょっと待て」
白谷の中で回路が切り替わる。"幼馴染だから知ってる"って同じ学校なだけでほとんど知らない誰かにいきなりそんな気楽に言われたくない…友達ならまだしも。彼はちょっとした怒りのために血が上るのを感じた。
重量センサーから足を離したせいで、偶然作られた退路が閉じる。
「…それだったら黒瀬に言ってくれ。俺に訊かんでもいいだろ?」
呆れるのとめんどくささの両方を隠そうともしない口調で彼女に言い放つ白谷。
「幼馴染じゃなかった?ごめんなさいちょっと間違ってたかも」
あざとい、という言葉はこのために作られたのかもしれないと思わせるかのように、彼女はちろっ、と舌を出して失敗しちゃったのポーズ。白谷はなんだか嫌な予感がしてきた。早めに切り上げてのんびりしたい。彼女をその場に残すように白谷はドアを開けホテルのロビーに足を踏み入れるとその歩調をいつもより速目にした。
「ちょっと待って白谷くん!」
「なんだよ…」
「話聞いて!」
「…だからそれは黒瀬に直接訊けばいいだろ…」
ロビーに繰り広げられる痴話げんかじみた雰囲気に修学旅行以外の宿泊客が何事かと二人を見る。呆れて話を聞く気も起らない男子生徒と、泣きそうになる寸前の感情的な顔で彼に話を聞いてもらおうとする女子生徒。
「そういうわけにはいかないの…おねがい!」
白谷は彼女のそれを背中に聞いて何故だか足を止めてしまった。ゆっくりと振り向く。自分自身が今どういう表情をしているか、白谷自身にもよくわからない状態で彼女に顔を向ける。
やがて、観念した、と言いたげなため息をして呆れたかのように声を出す。
「…話聞くだけだ」
女子が泊まる部屋の中に入る。部屋自体は和室で野郎どもの部屋と同じ造りだが、そこに置いてあるバッグとかは女子の部屋だなぁ、と思ってしまう。
「そういや名前訊いてなかったけど…」
やや落ち着いた白谷は、そう言えば彼女の名前を聞いてないことに気づいてそう言った。彼女を見たことはあるが、何処のクラスだったかが未だに判らない。彼女は白谷に背を向けたまま、
「わたし、8組の遠野春香です。隣のクラスの」
そう言われればそんな子いたなぁ。頭の中の引き出しに彼女のデータがようやく見つかったのか、腑に落ちた感覚が駆け巡る。時折チラッっと廊下から見たことはあるが、確かに集団の中に居ても何かしら視線を引き付けるような、そんな存在感を周囲に放っていたのがギリギリ記憶の欠片に記されていた。
そういや成績上位者の貼り出しではほぼ名前載ってたなぁ。
「8組の遠野さんと言えば成績上位の常連さんじゃないの。そんな子が、万年下位グループの俺に黒瀬の何を訊きたいの?言えることと言えないことがあるが」
「じゃあまず…」
遠野が言葉を切り出し始めたが、白谷は彼女の言葉に何か違和感を覚えた。さっきまでのいわば『ぶりっ子』めいたある種異常な、作られたかのような明るさは彼女から消え、陰の感情を何の衒いもなく相手にぶつけて何の後悔もしないかのような、ドライさと刺々しさを替わりに漂わせる。
「黒瀬さん、勇樹くんと付き合ってるけど、どっちが言い出したの?」
表情と瞳のハイライトが消えたかのような、振り向いた彼女の顔。さっきまでのカワイイ系の顔の造りはそのままだが、魂が抜けた人形を彷彿とさせる。
白谷は、日が差してるはずのこの部屋がカメラの絞りを目一杯小さくしたかのように急速に暗くなっていくような錯覚を覚えた。そして、さっき遠野の言葉に足を止めてしまった自分自身を呪った。
「勇樹くん…ってああ、緑川の事か。細かいことは知らん。でもあの時黒瀬は呼び出されたみたいだから、緑川の方じゃねーの?」
「そう…」
遠野が視線を床に落とす。白谷は、どうやら遠野さんが緑川を好きなんだ、というのが判り始めた。
「そんなに好きだったなら何で緑川が黒瀬と付き合う前に言わなかったんだ?そっちはクラスメイトだろ?」
「自分の気持ちに気付いた時にはもうあの泥棒猫がいたの。でもわたしも勇樹くんが好き…だからあの泥棒猫を追っ払って勇樹くんを独り占めしたいの」
自分に酔っているかのような、妖艶な目つきと口元。しかし投げかける視線と言葉は、棘と毒とで出来ていた。
「で、その手伝いをしてくれ、っていうこと?」
「そういうこと」
「遠野さん…そんな性格じゃ仮にくっついてもすぐダメになると思うが。それに手伝いとやらをした所で俺にメリットねーし」
白谷が踵を返す。その背中からはもうやってられん、と言いたげに。
「戻るの?」
「自分の恋くらい、自分で何とかしろや。付き合い切れん。ロビーに戻る」
彼女に聞こえるかのようなわざとらしい溜息を一つついて、白谷は部屋を出ようとした。
「白谷くん。学校祭の時…あなた教室に一人じゃなかったでしょ?」
彼女の言葉に白谷の足が動きを止めた。さながら、とりもちに足を取られてもがく鼠のように。彼女の言葉がトリガーに化けて、心拍数が勝手に上がっていくのを彼は止められない。
「絵里ちゃんがライブの休憩中に教室行ったでしょ。あの時、絵里ちゃんの他に何人かいたけど、うち一人がわたし」
白谷は彼女の言葉を背中で聞いていた。取るに足らなくて振り向けないわけではなかった。彼女の言葉に心を鷲掴みにされてるような、そんな怖さ。その元凶の彼女の顔を、白谷はマトモに見る勇気がなかった。
「そのあと白谷くん教室から出て行ったけど、隣に1年生の女の子いたよね。メイド服着た。わたし見てるんだよ…」
「脅すのか?」
精一杯の防御の言葉を白谷は張る。が、心は冷汗をかいていた…拭き取るタオルが必要なくらいに。
「何もしてなければいいのよ別に。でも、男の子と女の子、二人以外に誰もいない教室で灯り消して何やってたんでしょうねぇ。まさかおままごとしてたなんてふざけたこと言わないでしょうね」
「彼女とは学校祭の打ち上げしてただけだ。それに灯りはずっと点いてたぞ」
「あら、3階上がった時には廊下しか点いてなかったよ。それからしばらくしてから明かりが点いたのはちゃんと見てるんだけど」
白谷の反駁を途中で打ち切らせる様な強い口調で侮蔑交じりに遠野は言い放つ。
白谷は思わず胸のペンダントをまさぐった。彼女の言葉をはじく魔法があれば使ってるのだが…。
「まあ、わたしが勇樹くんと一緒になれたら白谷くん、幼馴染とまた一緒になれるでしょ?あの子は泥棒猫にならずに済むし。だから…わたしに協力して?その方が色々上手く行くわよ」
「何言ってんだ。俺にはもう彼女がいるし」
「別れればいいじゃない?幼馴染の方がいいに決まってる」
「そんなの勝手に決めるな!」
「ふーん、じゃあ不純異性交遊とやらでその彼女と一緒に処分喰らったら?先生に言っちゃおーかなぁ」
彼女の軽々しく愚弄する言葉が部屋にかすかに反響して、やがて静けさが戻ってきた。小さなベランダの向こう側から、街中の喧騒が幾分窓ガラスでミュートされて部屋の中まで転げ込んでくる。
白谷は何とかはやる気持ちを抑えていた。普段なら手が出そうになるものだが。
一呼吸置いて、白谷は遠野に背を向けたまま、感情を何とか抑えようとしつつ言葉を吐き出す。
「…わかった。手伝えばいいんだろ?」
彼女は何も言わなかった。ただ、白谷の後ろで歪んだ笑みを浮かべているだけだった。
さっきまでいた部屋から白谷がいるグループの部屋に戻るまでに、いくつかの壁が八つ当たりのために蹴りこまれた。幸いにして廊下は人通りが少ない時間帯のためにその光景を見られたことはなかったが。そして指定された部屋に入ると置いてある調度品にも八つ当たりしそうになるが、さすがにそこまではやらなかった。ただ、自身の体を畳に投げ出すように倒れこむ。
八つ当たりをしたせいで多少の怒気は下り勾配を描いて落ち着きに向かっていた…が、頭の中でさっきの遠野の言葉がふと頭をもたげると再び怒気が噴火をしはじめる。
『別れればいいじゃない?幼馴染の方がいいに決まってる』
今のところうまく行ってる二組の関係を白谷自身が関与して壊してまで、喧嘩する前のような幼馴染に戻りたいとは思わない。もうそんな時期は過ぎてしまった。それは黒瀬も思ってるだろう。
それに…今日知り合ったようなほぼ赤の他人に、"元"幼馴染とはいえ黒瀬を悪し様に言う資格なんかない。
…黒瀬にあーだこーだ言えるのは、俺だけだ。
畳の上で大の字になって寝ている白谷は、上半身を起こした。
「…話すか」
それが最適な解決法かはわからない。自分のことが表に出て何言われるかわからない可能性もある。真由も確実に巻き込まれる。でも、共同戦線を張るなら、まだ黒瀬のほうがマシな気がする。問題は…、
「まず聞いてくれるか、だな…」
絶賛絶交中の"元"幼馴染に話しかける時ほど、勇気が要ることはない。
そしてその夜、廊下ですれ違った黒瀬に話しかけたが、返って来たのは「うるさい」「いま忙しいの」「あとで」だけだった。
…それでも、一時みたいに完全に無視を決め込んでいた時よりは、言葉が出て来るだけまだマシになったかなぁ、とため息はつきながら白谷は苦笑いを浮かべた。
怒ってる顔も、何処となく角が取れてきたような気がする。白谷は確証はなかったが、そう思った。
翌日。修学旅行としては4日目。
目的地は阿蘇山。目の前には自分の視界よりも遥かに広角な世界が、それが存在しているだけで人間がいかに取るに足らないかを見せつけていた。幸いここ最近は噴火は起こっておらず、火口らしきところからさながら地図の温泉マークの湯気のような噴気が天へと立ち上っていた。それと同時に、ここは火山であるということを判らせるための硫黄の臭いが広がっている。
ガイドのおじさんと思った人が実は阿蘇山周辺で採れる植物のしおりを売る人で、聞いた生徒らがさながら催眠術にでもかかったかのように我先に500円玉を差し出し、ハタと気が付けばいつの間に買ったんだろうかと首をかしげる事態になってたり…と悲喜こもごもな事が起きているが、それ以外は平穏無事に時が過ぎていた。
「白谷くーん!」
白谷は友人等と一緒に4人で火口を覗き込んでいると、後ろから昨日散々聞いた声がしてきた。一瞬ほど白谷の顔は苦虫を噛み潰したような嫌悪感を現す。それとは知らずに友人の黄谷、深緋、紺野は呼ばれてもないのにその声の方を振り向いて、その声の主を確認すると一斉に白谷の方を見る。視線は今すぐ彼を弾劾するかのように。
「おまえ、浮気してるんか?」
「1年の彼女がいながら今の子ともフタマタしとるん?ひどいやっちゃなぁ」
「あの子隣のクラスの遠野さんだろ?どうやって知り合った?」
黄谷、深緋、紺野が次々にジト目で白谷を尋問する。白谷は3人の目力に少し気圧されたが、
「違うそうじゃない。昨日迷子になった時に宿屋まで連れて行ってくれたんだよ」
事実と違うことを回答として3人に言うと、彼女について何も知らない彼らの羨望の声を背景にして、その場から離れて近づいてくる遠野と合流する。今の彼女の表情は般若ではなく、おもて面のかわいいアイドルの顔をしている…が、何かあればその裏の顔が出て来るに違いない。
「別に今じゃなくてもいいだろうに」
白谷の表情は義務感アリアリの渋い表情。彼女の裏の顔を知ってるだけに、笑顔を見せるサービスはない。
「もっと笑顔見せなさいよ。見られてる事を考えないと」
「ならこんな目立つところじゃなくて端っこに行くとかあるだろ」
「それならそういう所行きましょ」
彼女の表情はあくまで笑顔。所々にいる秋翠の制服を着ている生徒たちの少ない方へ彼女は歩くと、その後ろを白谷は笑顔の存在を忘れたような渋い表情でついてゆく。ただ、周囲に視線を配って黒瀬らのグループには見つからないようにはしていた。後でめんどくさくなるからだが…。
二人は火口から離れて観光バスが軒を連ねる駐車場へと歩いてゆく。続々と観光バスがやっては来るが、人は火口方向に向かってすぐ行ってしまうため、バス駐車場は基本、人は疎ら。
「もうこの辺りでいいだろ。で、何だ?」
自分らが乗ってきた観光バスの後部に白谷は立ち止まると、義務感とそれなりの不愉快さをミキサーにぶち込んだような渋い顔をして要件を急いだ。
「あの子、苦手なものってあるの?」
「…結構何でも知ってそうな割にはそういうこと訊いてくるのか?」
「何でもかんでも知ってる訳じゃないよ。情報集めるのって時間かかるし」
つとめて明るそうな口調と、気になる男の子に彼女の居るいないを訊いてきそうなにこやかな表情で言葉を投げ返す遠野。
それにつられたのか、
「苦手なものってそりゃあ…」
と言いかけた所で白谷の心はそれにストップを掛けた。何も馬鹿正直に黒瀬の事を言う必要はないんじゃ…?
「…水を怖がったりはしてた。泳ぎが苦手。ホントホント」
数拍の無言の後に続く白谷の言葉に、遠野は相対している男子の顔をじっと見つめていた。
表情は明るいが、その射貫くような視線に向こう側を見透かされてるような圧があった。わずかな違いも見逃さない、そう警告しているかのような。
「…白谷くん、もうちょっと人の話聞こうか。そう言うことじゃなくて、あの子の恋愛での失敗とかしでかしたことを訊いてるの。わたしが勇樹くんをモノにするのに有用なのを」
アイドルから般若に、その表情は切り替わった。視線に棘が混ざり始める。白谷は、苦手なものをって訊いてきたから(事実じゃないが)そう言ったのに何で…と言いたくなったがその視線が喉の奥にそれを引っ込めさせた。
白谷はやや大げさにため息をすると、
「すまんが…そういう時期って最近までただ幼馴染って言うだけであんまり交流はなかったから、よく知らない」
彼女の視線に負けないように、白谷も視線を投げ返す。しばらく互いの視線をぶつけ合ったあと、遠野は視線を外してやや不満げな表情を作る。
「…そう。なら仕方ないわ。何か隠してはないみたいだし…」
それを聞いて多少は安堵する白谷。しかしすぐ遠野が言葉を打ち込む。
「でも定期的に呼ぶわ。とにかく何でもいいから思い出して。いい?白谷くんの態度によっては、学校に居られなくしてやるから」
彼女はそう言うと、踵を返して観光バスが並ぶ壁のような隙間を通って火口の方へと一人で歩き出した。白谷は遠ざかる彼女の背中を見つめつつ、再び大きなため息をついた。
修学旅行最後の宿は阿蘇山にほど近い街のホテルだったが、前日の長崎とは打って変わって、周囲にはあんまり何もない場所だった。とはいえ、自由行動とかはない上に時間が夕食時に近かったのであまり生徒たちは困りはしなかったが。
夕食後、就寝迄の空いた時間を有用に生かそうと生徒たちは思い思いの行動をしはじめていた。友人たちとつるんでお風呂で長湯したり、部屋で簡易なゲームで遊んだり、中には写真部や地学部の連中のように共同で星の見える部屋のベランダにせっせと三脚を立て、カメラを設置し、ケーブルレリーズを取り付けて星を撮るなど、高校生活の思い出に刻もうとその時その時を大事に過ごしていた。
宿屋の公衆電話も、家族や大事な人と話す生徒で短いながらも列を作っていた。家族ならそんなに時間がかからないが、これが恋人になると…積もる話で占有時間が長くなるので待ってる人からの視線が時間の経過とともに早くしろとせかすようになってくる。
白谷は混雑してのんびり話しが出来ない本館の公衆電話とは全く反対の、たまたま見つけた別館の公衆電話で背後に待つ人を感じることもなくのんびりと電話機の上に100円玉と10円玉を積み上げて話していた。相手は赤城真由。長距離電話なので、100円玉を入れても気が付くと時間切れになりそうになって慌てて数枚入れる。
そこからほど近い、星空がさながらプラネタリウムのような広がりが見れるベランダには、白谷が電話機を見つけて話をしはじめる少々前に1組のカップルが入っていった。
秋翠の生徒が泊まっている本館からは多少離れてはいるが、ウイークデイで一般の宿泊客が少ないので生徒の何人かはこっちまで来てのんびりしていた。
「今日で修学旅行も終わりかぁ…なんだかまだもう少しあちこち見ていきたいなぁ」
「なら、お金貯めて数年後、二人だけの修学旅行…行きます?」
「こら、勇樹くん気が早い」
「いまから予約しとかないと」
結衣と勇樹は、ベランダで眼前に広がる星空を見上げながら言葉をかわす。欄干に手を置いて、そのうち結衣の右手の上に勇樹の左手が置かれていた。
標高がそこそこあるせいで、10月終わりというよりは、既に11月半ばくらいの緩やかだがやや肌寒い高原の風が吹いている。
結衣も勇樹も着ている服は制服のまま。そのためか、時折通る一般の宿泊客はベランダで並んで仲良く語り合う二人の姿を見て羨ましがったり昔を思い出して懐かしがったり。
「長崎の街、面白かったねぇ。二人で歩いて先生に見つからないかドキドキしながら」
「今まで何回かデートはしましたが、場所が変わるとこんなに楽しくなるとは…新鮮でしたね」
昨日の長崎の自由行動で、結衣と勇樹は互いの班から離れて二人で長崎の街を満喫していた。先生に見つからないように注意をしつつ、しかしそれが逆に楽しみを盛り上げるスパイスになっていた。ましてや、人に知られたくないことをしてる時ならなおさら。
「そう言えばもし見つかったら何て言う予定だった?」
「元生徒会長の永井先輩いわく、『はぐれてしまったと言え』って言われたので、もしそうなったらそう言うつもりでしたね」
「そっかぁ…こっちも班長からはぐれたと言えば先生は怒らないと聞いた、って言ってたから同じだなぁ」
結衣は限りなく黒に近い無限の深さを持つ空に瞬く星々を見つめた。そして顔を彼氏に向ける。勇樹も鏡を挟んだ像のように正反対の同じ格好をとる。
「そう言えばもう生徒会長なんだよね、勇樹くんは」
「ホントは結衣さんにも生徒会に居てほしかったですけど…」
「…ごめん。文化委員長があんなにきつかったとは」
「無理もないです。でも、おかげで上手く行きましたし。結衣さんがいなかったらどうなってたやら」
互いに見合ってはにかむ二人。
「そう言ってくれると嬉しい。勇樹くん、もし手伝えることがあったら声かけてね。いつもは無理でも時折なら」
「もちろんです。その時は引っ張っててでも連れて行きます」
「こら、無理やりはいかんでしょ」
彼の頭にそう言って手刀を落とすが、ソフトタッチの触るような優しい攻撃だった。二人はつい笑いをこぼす。
それが終わった後、勇樹は表情をやや硬くした。同時に制服のポケットから何かを取り出す。
それを見た結衣は、何が始まるんだろうと彼の動きを見ているだけだった。
「結衣さん、ちょっと厚かましいかもしれないけど…これ」
緩衝材入りのネックレスケースを取り出した勇樹は、小さな、しかしいい形でカットされた水晶を包み込むように優美で複雑な曲線を描く銀色に輝く金属で包まれたペンダントだった。
「勇樹くん、これ…」
「昨日、結衣さんとデートする前に買ったやつなんだけど…つけてほしい」
「うわ…きれい」
「で、お願いがあるんだけど…今付けてる水晶のペンダントの代わりに付けてくれたら、と思うんだが…」
…勇樹のその言葉を聞いて、結衣の表情に陰りが見え始めた。何か変な条件を入力されてプログラムが停止したコンピューターのように、さながら感情という動きを強制停止させられた彼女は、勇樹の言葉に反応するのにそれなりの時間がかかった。
反射的に彼女は胸のペンダントの場所を掌で抑え、やがて大事なものを取られまいと制服ごと水晶を握るような動きをした。
「…ごめん。それは…代わりは出来ない」
「…え?海で訊いた時にははずっとつけてなくてもいいって…」
勇樹は海で結衣にペンダントのことで訊いたあのシーンの事を思い出しながら、しかし彼女がその時とは違う言葉を口にしたことに多少の戸惑いを覚えていた。
結衣の方も、あの時はその場限りと思って言ったことを返されるとは思ってなかった。彼からの不意打ちのような答えに、彼女は返答に窮した。
かといって、本当の事はまだ言えない。
「ごめんなさい。あの時とは違うこと言って…。これは…本当はすごく大事なもので、ほとんどと言っていいほど外すことはないの。外したら、それは自分じゃなくなる…」
まるでそのペンダントを外したら、彼女がこの世から存在を消されてしまうかのような怯え方で結衣は訴えた。
勇樹にとっては、何処にでもあるような水晶の荒削りのペンダントにしか見えない。ましてや、海で見た白谷にもほぼ同じものが掛かっていたことを考えると。
しかし、結衣にとっては…"術者"としての証である水晶は、それこそ死ぬまで身に付けなければならない。水晶抜きの術者は、意味をなさない。水晶無しでは何もできない。
でも、そのことは彼には言えない。
小さかった頃、母親には『魔法の事は他の人に言っちゃだめだよ』と幾度となく釘を刺されたことを思い出す。
術者の結衣にとっては、まだ彼は魔法の事は何も知らない一般人。将来を一緒に生きてゆくことの確約が無ければ、おいそれとは言えない。
「…ごめんなさい。ちょっと…」
結衣はそう言うと、小走りで勇樹の前から立ち去って行った。彼は止める間もなく、一人ベランダに取り残される。彼女の名前を呼ぶ間もなく。
彼はバツが悪そうにケースをポケットにしまった。言うんじゃなかった、と言いたげな寂しげな表情。深いため息をつくと、両の手を組んだ形で欄干に乗せ、顔をその上に。彼の目は、墨を流したような漆黒に近い阿蘇の山々をぼんやりとただ見つめていた。
ベランダから駆け出してゆく黒瀬を、白谷は出入口の廊下から見ていた。数分前からベランダに黒瀬と緑川がいるのを見た白谷は、何気なしにその場にいて風と一緒に流れてくる会話の断片を聞いていた。そこへ…、
「白谷くん、盗み聞きはよくないなぁ」
小声で接近してきたのは白谷にとっての不愉快の元凶たる遠野だった。彼女はにやけ顔を振り撒き何かを企んでいるかのよう。
「遠野か。何しに来た」
「言うねぇ。たまたまこの辺り通ったら泥棒猫が泣きそうな顔をしてベランダから出るの見たからチャンスかと思ったんだけど」
「そういう言い方は…」
「幼馴染、慰めに行かないの?今がチャンスだと思うけど」
白谷の言葉を遮って遠野が低めの小声で選択を強いてきた。ほら男って単純なんだから、とでも言いたそうな、小馬鹿にするような視線と一緒に。
白谷は彼女を睨みつけるが、そんなのは全く意に介しませんと言う意志を含んだ遠野の目線で相殺される。根負けしたか、白谷は彼女から視線を外した。しばらく何か考えていたかのように動かなかったが、何をすべきかが判ったのか黒瀬が走っていった方向へと歩み始める。
遠野はそれを見送った。何をしてるんだか、と言いたげな視線を彼の背中に投げかけて。一旦出入り口からベランダの方を覗いて緑川がいるのを確認した彼女は、大きく深呼吸する。胸に手を当て、目を見開き、微かな声でよし、と呟く。
恋をしている乙女の顔を一瞬覗かせたが、すぐにアイドルの表情に切り替わる。そしてたまたま見かけたかのようにたそがれている緑川の方へと歩み始めた。
背後から近づいてくる気配を察したのか、緑川が油が切れかけた機械のようにややぎこちなく後ろから近づいてくるクラスメイトを見た。
「…遠野さんか。何でこんなところに?」
「たまたま通ったら緑川くんがいたので。どうしたのなんか淋しげな顔して」
ヨソ向きの甘い声で遠野は訊く。もし白谷が聞いていたら、さっきまでのマイナスの感情を隠さないしゃべり方からの変わり様に隠すことなく嫌悪感を増しただろう。
「…いや、ちょっと落ち込んでる」
顔を再び山々へと向けると、そのまま黙り込んだ。
「彼女に何か変な事言った?」
遠野はさりげなく緑川の隣…さっきまで黒瀬がいた場所を占有すると、依然として阿蘇の山々を半ば虚ろに眺めている緑川の横顔を見つめた。
「変なことは言ってないつもりだったんだけど…」
独り言のようにこぼれる緑川の言葉。それは微かな風に飛ばされて消えていくかのよう。
「ウソ言ってるかも…知れないよ?」
「…うん」
「彼女…黒瀬さんだっけ?女の子だもん。そりゃあ秘密にしたいことだってあるでしょ」
「…かもしれないなぁ…」
緑川の頭に浮かぶ、彼女と幼馴染の胸に掛かってる水晶のペンダント。そう言えば北川さんが指摘してたなぁ…彼の記憶にあの時のシーンがすりガラスの向こう側で見ているかのように霞んで見える。
「でも、わたしはそこまでウソつきたくないなぁ」
彼女は小さな宝石をまき散らかしているかのような星空を見上げた。時折、期待してるのか横目で彼を見る。
「…」
「女の子も正直でいたいよね」
「…そうだなぁ」
しみじみと、という言葉が似合うかのように緑川は嘆息して呟く。
「緑川くん、聞いてる?」
遠野は少し短絡的な感情になってきた。
彼の反応が鈍いとはいえ…状況的には仕方ないにしろ、受け答えは何処となく…いや、確実に彼女の方を向いてないように遠野には感じられた。漆黒の山影に、さっき出ていった彼女の幻影を見ているかのよう。そして、隣にいるのにまるで誰もいないかのような虚ろな言葉を繰り返す彼。
ただの話し相手。ただのクラスメイト。
十把一絡げの、その他の女子。
遠野は、緑川からしたら、そんな立場。
『奪ってしまえ!』彼女のアイドルの表情はそのままに、心の中の般若が遠野にそうささやきかけ、誘惑する。
意を決したとそう悟られないかのような自然な動きで遠野は緑川の方を向いた。彼はまだ視線は阿蘇の山へと向けているが、構わず遠野は、奥に秘めている決意を気取られないかのような自然さと自信で口を開く。
「…緑川くん、わたしと…付き合わない?」
彼女の中の彼は、その言葉にふらりと寄り添う。そういうイメージが現実を上描きしているように遠野からは見えた。
緑川は、一瞬彼女に誘導されたかのように遠野の方を見た。
しかし…一瞬だけだった。
ハイライトを失いかけている彼の瞳に、彼女の姿は映ってなかった。欄干の上で組んだ腕に顎を乗せ、視線は墨を流したかのような真っ暗の森へ注がれる。ややあって、
「…ごめん、それはちょっと…」
タイミングのせいもあるかもしれないが、遠野にはそれ以上の、拒絶に近いものを感じた。彼の口調も、あまりに平坦でまるで興味がないかのよう。
彼女は俯いて彼になにか言葉をかけようとしたが、思い浮かばない。感情が完全に混乱してしまい、言葉が切り刻まれて文にならない。その代わり、涙の水位が溢れそうになって…。
「…そんなにいいんだ。あの泥棒猫が…」
嗚咽を押さえている理性のダムから零れる本音。
「…遠野さん、そう言う言い方は…」
「おんなじクラスにいながら、何で…何でこうなっちゃったの!」
彼女の悪口を言われてさすがに反応した緑川の言葉を断ち切るかのような遠野の感情という名の刃。
「そりゃあ好きになったのは夏休みの直前かも知れないけど!夏休みの思い出なんて何にもなかったけど!でもあの女よりも同じクラスで一緒にいたのはわたしの方よ!」
「ちょっ、ちょっと待て。いきなりそう言うこと言われても僕は…」
欄干の上で組んでいた腕を解いて襲わんばかりの遠野を止めようとする緑川。遠野は反射的に彼の右腕を掴んで自分の方へと引っ張った。いきなりの事でバランスを崩し、彼女の方に倒れようとする…何とか踏みとどまった。そこは、遠野の泣き顔が目前。廊下からの灯りが、彼女の顔を半分照らし、半分闇色に染めていた。
彼女の顔が動いた…と思いきや、緑川の唇にやや強めの接触感と体温が。突然のことで思考が緊急停止し、頭の中が空白になる。
彼女の腕が緑川の体を抱きしめ、彼女の良好なプロポーションのカラダに服越しに彼のを受け止めさせた。
…感覚的なウラシマ効果のせいか、時間が物理的に引き延ばされたような異様な感覚の後、唇のぬくもりがふいに消えた。
「…と、遠野さんっ…」
「…わたし、必ずあなたを…勇樹くんをわたしのモノにして見せる」
泣き顔と笑い顔と、そしてわずかばかりの狂気がブレンドされた感情を彼に晒して、遠野はその場から立ち去って行く。さっきからの彼女の声に何事かと何人かの同校の生徒や一般客がたむろしているベランダ出口を、彼女は彼らが避けるのを当然のように悠然と通り過ぎた。
緑川は、彼女を見送るしかできなかった。というより、突然のことで何をしていいのか、判らなかった。
「…いまさらそんなことを言われても…」
緑川は彼女の体温がわずかに残っている唇を左手で拭うように覆い隠し、あの時言えなかった拒絶の言葉をつぶやいた。
「…何か用?ここは女子のエリアよ」
「ちょっと話したいことが」
「…手短に言って」
「緑川にさ、魔法のこと…もう話したらどうだ?」
「…教えたはずだよね、滅多なことで魔法の事を言わないって。まだそんな状況じゃないって判る?」
「そうだけど…」
「それに、あんたがそういうこと言ってくるってなんか変じゃない?まるで勇樹くんとずっとくっつけと言わんばかり。あれだけケンカしたのにどういうつもり?」
「遠野さん、っているだろ?隣のクラスの。あの子、お前と緑川を別れさせようとしてる」
「遠野さん…ああ、あの子。ひょっとしてそういう…」
「会ったのか?」
「会ったけどそれが?」
「彼女、表向きはかわいい子だけど裏はえげつない、っていうか…」
「…そんな風には思わなかったけど…あ、灰ちゃんは何か変っては言ってたなぁ」
「実は…あの子に脅されてる」
「…はぁ?何で」
「最後のライブの時に教室にいるのを見られた、というかその…何というか」
「あんたまさか…その1年生の彼女と一緒に居たんじゃないでしょうね?」
「…まあ、そんなところ…」
「…アホか、自業自得じゃない」
「だって……」
「…」
「…それはそれとして」
「なにがそれよ」
「お前、緑川とずっと一緒に居たいんだろ?」
「当り前じゃないの何言ってんの」
「だったら緑川のプレゼント、貰ってやりなよ」
「…はぁ?見てたのかよ!?」
「あんなところで痴話喧嘩してりゃ誰だって見るだろ。体育館の倉庫じゃねーんだぞ」
「痴話喧嘩じゃねーよそれに水晶の意味判って言ってるのか!?」
「両方掛けるか、どちらか片方をペンダント以外に作り直すとかすりゃいーじゃねーか。貰えるもんは貰っとけよ」
「…そりゃあそうだけど、まあ、確かに…」
「お前と緑川がちゃんとしてりゃ、俺と真由だってずっといられる。ずっといるためにはお前らもちゃんとしてくれないとこっちが困るんだよ」
「…あんたに説教されるとは思わなかったわ。まあ、でもマトモな事を言うようになったんだな…」
「何言ってんだ…とにかく遠野には気を付けろ。俺も気を付けるから」
「…わかった」
修学旅行最終日。今日は福井に帰るだけの日。
バスに乗る前に先生からの今日の行程と注意事項を伝える集まりが駐車場で行われる前、まだ生徒らが整列していない時に黒瀬は自分の恋人の姿を探していた。
「どこだろ…?」
クラスメイトで固まってることが多いので8組の生徒をさがしていると、ほどなく学校祭で見た、とても高校生とは思えないようなおっさん顔が秋翠の男子制服に身を包んだ姿を視界に引っかけた。そこから少しばかり目を移動すると…話し相手が彼氏だった。
「勇樹くん!」
結衣が声を上げると、2人はそれを聞いたのか、彼女の方向へとその表情を見せた。
勇樹は話し相手の天宮へ手を軽く上げると、話し相手はいいよ行っといでと言ったのか、彼は踵を返して彼女の方へと小走りに距離を詰めた。その表情はやや硬めだった。
「結衣さん、おはよう…」
「おはようございます…あのお、ちょっと人の少ないところへいいですか…?」
「ええ、構いません」
2人ともその表情に笑顔の成分は少なめだった。互いに昨日のことが引っかかっている状態ではそうならざるを得ない。
結衣も勇樹も、駐車場の端の人気が少ない場所へ歩くが、その間はどうやって昨日のことを切り出そうか、頭の中でのシミュレーションで思考が埋まっていた。
その2人を、冷ややかな目で見つめる人がいた。
友人と話している時に、目に映る範囲に2人を見つけてトレースしていた遠野は、さながら監視カメラのように追い続けていた。
結衣と勇樹はそれに気づかずに人気の少ないが、駐車場は粗方見える端の方にたどり着く。二人は向き合い、しばらくはどちらが切り出すか悩んでいたが、勇樹の方が何かを言い出しかねている彼女の方に向き直って切り出した。
「結衣さん、昨日はごめん…」
「勇樹くん、ごめんなさい…あんなこと言って」
結衣はややうつむき加減で彼に謝った。勇樹の方も似たような姿勢。
「いやそれはこっちもそう…ホントにごめん。よく考えたらお守りだもんなぁ…そりゃあ手放せないよ」
彼はそう言うと、昨日ポケットに忍ばせたケース入りのペンダントを結衣に手渡した。彼女はケースを持ってる彼の手の上から手のひらを被せる。気温のせいでやや冷たい感じはしたが、手を添えると二人の体温ですぐ暖かくなった。表情も、笑顔の比率が時間に比例して大きくなっていく。
「昨日のペンダント、ありがたくいただきます」
二人は暫くその状態で見つめ合うと、やや真顔になって同じタイミングで周囲を見回し始めた。
駐車場やそこに集まってる生徒らは見えるが、離れてるため豆粒くらいにしか見えない。
再び見つめ合うと、結衣は少し背伸びした。
再び見つめ合うと、勇樹は少し背を屈めた。
少しの間、二人の時間が止まった。
「…じゃあ、また後で」
唇に軽い感触を残したまま、結衣はもらったケース入りペンダントをポケットに入れながら生徒たちの方へと駆けていった。来たときより晴れやかな表情をして。
勇樹も彼女を暫く見つめて、
「じゃあ、戻りますか」
ゆっくりとクラスメイトの元へと歩き始めた。
…ただ、彼の方は彼女ほど表情は晴れていなかったが。
熊本から福岡までは観光バス、そこから新幹線で新大阪。今度は北陸線に乗り換えて特急雷鳥で福井へ。福井駅のコンコースで先生の簡単なお話を経て、解散。そうして秋翠高校の修学旅行は幕を閉じた。
三々五々に生徒らは楽しかった思い出とともに家路につく。駅裏にある京福電鉄の駅へ向かう生徒もソコソコいるが、その中に黒瀬と、やや離れて白谷の姿もあった。
駅裏へと向かう跨線橋を歩いてる時、何人かの人を置いて白谷の10mほど前を歩く黒瀬に、何処かで見たセミロングの髪にいいプロポーションの秋翠生が近づく姿が見えた。
「遠野…!?」
彼女は黒瀬に不意打ちのように何か言葉を掛けると、5番と6番ホームに降りる階段に飛び込むように離れていった。黒瀬が反応した時には既に手の届かない距離が開いていて、追いかけても捕まえられそうにない。
しばらく黒瀬は人波に抗うように立ちすくんでいたが、あきらめたのか乗り換えの流れに乗って駅裏へと向かう。白谷は黒瀬との距離が縮まったのを利用して小走りで黒瀬に追いつく。彼女は彼をちらっと見たが、京福線乗り換えの改札のせいもあって再び前を向く。
「…何言われたんだ?」
返答は、無視だった。
「なあ、結衣」
「…あんたに名前呼ぶ資格あるの?」
「何言われたんだよ!」
強めの語気で言ったせいか、周囲のサラリーマンなどが何人か振り向く。多少の気恥ずかしさで白谷は言葉をしばし押し込めた。
階段を無言で降りて行って京福線の改札広場に出た。白谷は、すぐ横で視線をそらし続けている彼女に訊く。
「遠野が何か言ったんだろ?」
「うるさい。あんたしつこい」
「遠野に気を付けろって言っただろ?気になるんだよ」
視線を合わさない黒瀬は観念したのか、軽くため息をついてそのままの状態で呟くように話し始める。
「…ドロボウ猫、ってだけ。それだけ」
白谷は敦賀行きのホームが見える改札広場の窓ガラスを見た。室内照明の反射の向こう側に、素知らぬ顔で電車を待っている遠野が見える…やがて、赤色にクリームの帯を纏った、食パンのような顔をした普通電車が彼女の姿を白谷から隠した。
しかし、見えなくなっても白谷はまるで電車の向こう側にいる遠野が見えるかのように、その視線を固定したまま立ち尽くしていた。