秋風のペイジェント
…長いと思っていた夏休みも、その残り日数に反比例してやることが次第に増えていく。主に『宿題』『課題』と言われてるものは初めにやってしまえば残りの日々をどうにでも過ごせるものなのだが、それを出来る人というのは案外少ない…。
「…来年こそはきちんと夏休みの課題は前半で終わらせるぞ…」
白谷駿が自室の机の前でぼやく。来年こそは、と言ってるが1年後の今頃は夏休みの課題に受験勉強が加わるので今ほどのんびりとは出来なくなる。
宿題や課題に関しては何とか終わる目途がつき始めている。とはいえ、少しでも気を抜くと確実に8月31日どころか8月32日や33日が必要になってくる可能性がまだ残っていた。
それに駿に関しては学校だけではない。夏休みが始まる前から、隣の黒瀬家で魔法を扱う"術者"としての練習を受けていた。講師は本来なら幼馴染の黒瀬結衣が行うはずだったが、恋のもつれで殴り合いの大ゲンカをして現在絶賛絶交中。代わりに結衣の母親から色々と術者として技術等の指導を受けている。
…海での出来事で年季の違いがあるとはいえ、もう少し何とかしたい…そう思いながらやってきた成果が出てるのか、結衣の母親からはそろそろ教えることが無くなって来たわねぇ、と言われてるし、白谷自身も結構やれてきてるなぁと思い始めている。
…電話が鳴った。呼び出しが2回で切れる。ふと電話機に目をやると、家族が通話している形跡はない。ということは…椅子から立ち上がり、電話機の所へ。
再び呼び出し。今度は鳴り出した瞬間に受話器を取る。
『もしもし、センパイちゃんと宿題やってます?』
「やってるよ~今追い込んでる最中」
受話器の向こうからは駿の彼女である赤城真由の声。彼女の方は1年生の中では成績はいい方なので、この件に関しては真由の方がちょっと偉ぶっている。
『宿題間に合います?』
「何とか間に合うとは思うけど…デートは出来ねぇな」
『それはもう2学期までお預けです』
言い方はさながらお姉さんのよう。
「2学期かぁ。となると学校祭か…真由のクラス何やるん?」
『私のクラスは喫茶店です…何かメイド服着られるみたいでちょっと楽しみ』
「俺のも似たようなものだなぁ…喫茶店で、タキシード着せられてウエイターやるそうだ」
『えーセンパイのタキシード姿見たい~。接客シフト終わったら必ず行きます~』
「そんなにいいもんじゃねーぞ」
『何言ってるんですか、センパイ元がいいから何着ても似合いますよ~』
「そんなんかなぁ」
と謙遜はしているがその顔はまんざらでは無さげな表情。なんだかんだで彼女から褒められるのは嬉しい。
「それなら真由のメイド服姿も見てみたいぞ。めちゃ似合うんじゃないか?」
『私身長あんまりないから似合わないと思うんですけど…』
「いやいや、真由くらいがちょうどいいんじゃないか?」
『でもなんか…ヴィクトリア期のメイド服って身長高くないと似合わなさそうな気がして…』
「そんなことはないと思うぞ。元がかわいいから何でも合う」
『あは、ありがとうございます~』
でも実際ものすごく似合ってそうな気がする。駿の頭の中では、黒地のワンピースロングスカートにフリル付きの白いエプロンの、ヴィクトリア朝のメイド服を着てくるくるとかわいらしく回る真由の姿が再現されている。
…うん、充分カワイイ。文句なし。
『あ、センパイのクラスの店ってウエイターだけなんですか?』
「いや、確か女子の方は何か都会のレストランでやってるという大正時代みたいな袴着てやるらしい。"はいからさんが通る"みたいな…実際は新学期始まらないと判らないけど」
『うーん、袴ですか…そっちもなんかいい感じですね』
「でも男はタキシードで女子は袴って何かチグハグな気がするんだが…」
『大正時代か昭和初期の華族経営のレストランと思えばいいんじゃないですかね?』
「それちょっと無理過ぎない?」
『無理ですかね?』
電話の向こうの真由がごまかそうと軽く舌を出してるイメージが駿の頭に浮かんだ。
「うーん、まあいいや。そっちの方の男は何着るん?」
『センパイと同じです。執事…ですかね。タキシード着るという話です』
「そっちの方がちゃんと男女の雰囲気整えられてていいなぁ。うちのクラスのも変えた方がいいような気がしてきたぞ」
『えー、私どっちかというと袴着たいです。はいからさんみたいで』
「ならこっちの方来る?」
『それは無理では…』
「…まあ、冗談だけど…」
クラスの出し物だからそれは出来ないなぁ、と駿が思ってると、
『それじゃ勉強の邪魔しちゃいけないのでこれまでにしますね~頑張って』
「ほい、ありがとね~」
『それじゃ~』
受話器を置く音がして、通話中を示す音が聞こえてくる。駿は受話器をゆっくりと置くと、机に向かって椅子に座る。背伸びをした後、
「…それじゃ追い込みますか」
9月…学校は2学期が始まり、校門には休み明けの生徒が次々と登校してきているが、まだ時間がやや早いせいか生徒の姿はまばら。
この月に行われる学校祭に向けてその指揮を執る文化委員長の黒瀬結衣は、その時間には校内に入っていた。教室にカバン等を置き、必要な書類等を持ってそのまま生徒会室へ。そこには会長を始めとした生徒会役員たちがすでに各々の場所を確保して必要な書類等に目を通していた。
「おはようございます」
「おはよう。元気で何より」
「おっはよー!いっしょにがんばろーねー」
「おはようございます」
黒瀬の挨拶に生徒会長の永井、副会長の芳賀、会計の北川がそれぞれの性格パターンで挨拶を返す。一人いない…と思いきや、やや遅れて隣の資料室兼会議室から、彼氏たる書紀の緑川勇樹がいくらかのバインダーを小脇に抱えつつ姿を表した。
「おはよう、結衣さん」
「おはよう、勇樹くん」
二人は挨拶をして…ほんの数秒間だが見つめ合ったまま互いの視線を交わしていた。自然な笑顔とともに。
…挨拶時に見つめ合ってるシーンはほんの数秒だが、それを見て、
「おっ、新学期から早速"キックオフ"ごっこ?見せるねぇ」
口元をにやけさせつつ芳賀が突っ込むと二人はやや照れたように俯いてそっと向きを改める。そこへ会長の永井がやや申し訳なさそうに言葉で突っ込んできた。
「えーとだ、お二人さんで世界作るのはそこまでとして…黒瀬さん、文化系部活会長の塚本との折衝、今日からだけどいい?」
「はい、構いません。それなりには資料は作ってありますので」
「さすがだな。じゃあ俺と芳賀とで運動会系部活会長の宗和と体育祭関係の話詰めて来るわ。後日摺合せしよう」
「わかりました。またその摺合わせの日にちお願いします」
会長の問いにすでに準備万端なことをさらりと告げる黒瀬。それを受けて会長は次いで緑川に視線を向ける。
「緑川、塚本との折衝のサポート頼むわ。彼女を支えてやってくれ」
「了解しました」
緑川からの返事も良好だった。もちろんです、と言いたげに彼の瞳は力を帯びていた。
「北川、すまんが学校祭や体育祭以外の通常業務をお願いしたい。無理だと思ったらこっち振っていいぞ。遠慮せんでいい」
「わかりました」
北川からの返事は簡潔そのものだった。
「よーし、それじゃ学校祭及び体育祭まで約1か月間、がんばって行くぞ!」
会長の激に他の面々もそれぞれの声で唱和した。生徒会室にみんなの声が満ちる。
…夏休みの後半くらいから少しづつ進められてきた各クラスの出し物や模擬店などの準備作業が、2学期の始業式が行われたこの日から本格的に始められた…とはいえ、授業を潰して準備に没頭するというのは学校祭の2、3日前くらいからなので放課後を中心として空いた時間等を有効に利用し、"帰宅部生"をメインに進められる。
2-7でも、9月が始まったころには教室の後ろには何もなかったのだが、日を追うごとにまず資材等が増え始め、やがてそれらを加工した設置物等が幅を利かせ始め、そして衣装等のハンガーなどが教室後方の腰壁を覆いつくすばかりに占領地を広げる。クラスの出し物は喫茶店なので、学校祭まで一週間を切り始めると今度は食器や調理器具等が増えると思われる。
生徒会の方も学校祭に向けての業務作業が日を追うごとに増加しており、他の教室の明かりが消えても生徒会室周辺はまだ点いている状態が続いている。
来る日も来る日も打ち合わせや許認可申請の処理、是正措置の確認等やることはいくらでもある。生徒会役員だけ授業免除と言うわけにもいかないので、当然放課後に集中してやらざるを得ないのだがそのしわ寄せは生徒会役員たちと文化委員長たる黒瀬に来る。遅くとも21時を過ぎると先生によって強制的に下校させられるので、いくらかの業務は家に帰ってやらざるを得ない。おまけに宿題もある。
…そして、いくら体力的に充実している10代後半とはいえ、それだけ毎日やっていると次第に疲れがたまってくる。
「…結衣、大丈夫?」
学校祭まで残り一週間くらいになったある日、黒瀬は後ろの席の灰屋から休み時間に声を掛けられた。いつの間にか舟をこいでいたらしく、声を掛けられて気づいたのか、やや反応が遅れて上半身起こしてから黒瀬が振り向いた。
「…大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
笑みはこぼれているが、眼鏡のレンズ越しの目には疲労が溜まってそうなのが友人にも判り始めているように見えた。その笑みも、たまってる疲れをごまかそうとして上書きしてるように見える。
「何時頃寝てるん?はよ寝りんよ…」
「うーん…最近は夜中超えてる」
「夜中って…そんな時間まで学校におるん?」
「いや、学校から帰るのは最近夜9時過ぎくらいで、そこから持って帰った業務の片付けとか勉強とかしてるといつの間にか12時超えてるけど…日曜日とかは寝溜めしてるから大丈夫」
「寝溜めは疲れ取れんよ…ケッタ使っとるら?事故でも起こしたら大変だに」
「うんそれは大丈夫。朝はちゃんと目が覚めてるから」
「ホント?」
「うん、大丈夫」
「で、今更だけんども…結衣の次の授業、化学だら?」
そう言われた黒瀬はしばらく何のこと?と考えるポーズを一瞬したあと、あっ!と声をあげて慌て始めた。
「言われてみたら次、実験だった。理科室行かないと」
次の授業は2階の化学実験室での実験だったのを思い出して慌てて準備する。カバンからバタバタと教科書やノートを取り出して席を立った。自然に前の席の主の方を見ると…もうその姿は椅子の上になかった。舟をこいでる時に移動していたらしい。
…前なら何か言ってくれたけど。同じ選択科目なんだし…と思いながら現在絶交中なのを改めて黒瀬は感じた。
歩いて行っても間に合うことは間に合うが、軽めに走って化学実験室に入る。やや息を切らせつつ、3列×3列で並んでる机の後列中央のグループに加わる。そこには既に着席している友人の青野と、そんなに話はしないが仲はいい女子…山吹さんと烏羽さんがいる。
「間に合った~」
「お疲れさん、先生はまだ来てないよ」
「よかったー遅れるかと」
同じグループにいる青野が駆け込んできた黒瀬をねぎらうと、授業に間に合った彼女の方は両手を広げてセーフのポーズしながら一瞬突っ伏す。再び上半身を起こしたときに白衣を纏った化学担当の立川先生が入って来た。
先生を見る視線の途中、黒板と自分との中間辺りには見慣れた男子の背中があった。ただ努めて意識はしないようにはしている。
今日の授業はガスバーナーを使う実験。誰がバーナーに火をつけるかで4人でじゃんけんをして…黒瀬が負けた。
「…火は苦手なんだが…」
自分が出したパーを恨めしそうに見ながらしぶしぶ準備し始めるが、すぐには実験が始まらず、今回の実験に関する先生の説明が始まった。
黒板にチョークで書きこんでゆく時の規則的な音に、始めはきちっとノートに書きこんでいたが、疲れている黒瀬の意識が次第に遠くなりかけた。チョークの音や先生の説明が脳内でだんだんエコーがかかり始め、眠気がやがて耳へ入る音を勝手に絞り始める。そうならないように色々と体を動かしたり、太ももを叩いたりして何とか遠くなりかけの意識を取り戻そうとするも次第に瞼が下がり始める。
「…、結衣っ!」
「…あ、あれ?」
机を挟んで向こう側の青野が黒瀬の名前を呼びつつ身を乗り出して肩をゆすった…どのくらいか判らないが黒瀬は目を閉じてた時間があったらしい。しかもその間意識が飛んでいる。数秒でも数十分飛んでた様な変な時間感覚。
「結衣、大丈夫?かなり疲れてるよ…替わろうか?」
「大丈夫。大丈夫…」
起こされたので意識ははっきりした。これなら大丈夫…。
器具とか薬品類は先生の説明前に準備は整っており、後はガスバーナーを付けるだけで実験開始。他のグループはすでに点けている所もある。
先生は実験後に別の準備があるらしく、教壇から離れて再び隣の準備室へ向かったのか、姿が見えない。
ガスバーナーのダイヤルをいじって火をつけて…しかし、黒瀬の視界が妙に霞み始めた。青野に起こされたにもかかわらずまた眠気が襲ってきて、周囲の音にエコーがかかり始める。
「…結衣っ!」
青野が悲鳴にも似た叫びをあげたのと同時に、夢遊病者みたいな感じで半ば眠りながらガスバーナーに火をつけようとライターの火を起こしたが、その直後に黒瀬の嗅覚は嫌な臭いを感じ取った。
「!」
炎が彼女の視界を埋め尽くした。
それと鈍い爆発音と、熱。
火が…服についてる!
でも、熱くない…?。
幼い駿が泣きそうな顔をして自分の袖についた火をはたいて消そうとする。
文字通り火が付いたかのように泣き叫んでいる幼い自分の姿が何故か第三者の視点で見ている。
封印していたはずの記憶が、しまい込んで鍵をかけていた場所から強制的に引き出されてきた。
眠気は完全に吹き飛んだ。代わりに彼女を支配したのは"あの時の恐怖"。
炎は消えたが、視線の向こう側には驚いて駆け寄る青野や友人の姿。しかしそれも一瞬で次第に窓から天井の模様に切り替わる。
母親が血相変えて水をかける姿がオーバーラップする。
「…何で学校なのに小学生の自分や駿や、お母さん居るの…?」
駿に背負われて玄関をくぐる景色と、倒れてゆく自分の視界が妙に合致していて違和感を感じない位リアル。
視界に天井の模様しか入らなくなったと思いきや、今度はその周囲に人影が映りこんできた。
…夢の時間のように感じた。無限に引き延ばされたように感じるほど彼女の中で時間が混乱して、過去が現在を、今が昔を侵食しているかのよう。
重力に従って床へと落ちてゆくはずの頭が一瞬、風が吹き込みブレーキがかかったかのようにその速度を和らげた。誰かの体にぶつかったわけではない。変な浮遊感がした後、軽く後頭部が床に接触して体が止まった。と同時に風が抜けて行く。
周りにクラスメイト達が集まって何か自分に言ってるように見えるのだが、黒瀬の中で、音が勝手に頭の中で消音されている変な状態。
黒瀬は自分の中で何かが次第にその存在が大きくなり、突然はじけたかのような感覚に襲われ…自分を覆いつくすかのようなものに怖さがこみあげて…
「いやああああああああああああああああああ!」
叫ぶと同時に体育座りをそのまま横倒しした形で体を抱え込んで震えだした。顔は誰が見ても真っ青で、目を見開いて涙を流し、口元は緩んでしまっている。こんな恐怖に震えている彼女を見るのは誰もが初めてだった…。
息も荒い。肩どころか体全体で呼吸してるかのようにうごめき、時折また恐怖感を感じたのか悲鳴をあげる。その声に周りのクラスメイト達は近寄りがたくなってしまっている。騒ぎを聞いたのか、立川先生も準備室からやって来たが彼女の状態に適切な言動とかが発せなくなっている。
そんな中、白谷は彼女を見つめて呆然としているクラスメイト達の間をかき分け、黒瀬の所にたどり着く。大丈夫、大丈夫と声をかけ、袖をはたくような仕草を見せて体を抱え込んでいる腕のロックを外して自分の肩へ回す。
「すまん、ちょっと結衣…黒瀬さんを俺の背中に」
白谷が他の人に助けを求める。始めは躊躇していた人も、やがて数人のクラスメイト共に、6月のケンカの時に口論になりかけてそれ以降口もきいてない青野も、彼女を白谷の背中におぶさるように手助けしてくれた。
「じゃあちょっと黒瀬さん保健室へ連れていく」
青野や友人たちが付いていくというのを断り、まだ震えている黒瀬を背負って理科室を出る白谷。彼女は時折発作のように暴れたり腕がさながら首を絞めるかのように動くので、そのせいでまっすぐに歩けない。階段も何度かコケそうになったが、何とか踏ん張って1階の保健室を目指す。
魔法を使ったせいでおなかが空いてきたが、今はそれどころじゃないと意思が欲求をねじ伏せる。
…殴り合いのケンカまでしたのに、何で俺、結衣を助けてるんだろう…。
海の時の借りを返す?そんなんじゃないような気がする。いやもっと違う何かが…。
白谷の中で答えが出ない。強いて言えば…体が勝手に動いた。
勝手に動くのは幼馴染だから?他人のように互いの関心が無くなっても"幼馴染"なのか?
…それとも、"今"はまやかしでホントは"昔"を今でも望んでいるからか…自分の意識の奥底で…!
白谷の思考は次第に動けなくなる蟻地獄に捕まったかのように感じた。
時折フラッシュバックするのか、黒瀬が悲鳴をあげる。自分の体にまだ火がついてるかのように。そして白谷ごと倒すかのように背中で暴れる。
一瞬、白谷は黒瀬がまだ昔の幻影に怯えてることに感謝した。自分の思考が泥沼にはまって動けなくなっているのを無理やりにでも救い出してくれる。
白谷は、何かを言おうとして一瞬躊躇したが、再び口を開けて彼女に言った。
「結衣、もう大丈夫だ。袖に付いた火は消えたぞ」
「ひが…きえたの?」
「うん、お母さんが消してくれた」
「おかあさん…」
「うちへ帰ろう」
「かえる…おうち…」
意識が昔と今とを行き来してるのか、幼さな子の言葉使いで話す黒瀬。『母親が火を消した』という言葉に反応して落ち着き始めたのか、白谷の背中におぶさっている彼女は、彼の胸の前で落ちないように組んでいる両腕に柔らかく力を入れた。白谷の背中に体温や感触、息遣いなどの彼女の存在が押し付けられる。
あの時みたいに。
自分で歩くよりも多少時間はかかったがそれでも保健室に着いた。バランスを崩さないように慎重に引き戸を開け、中にいるはずの愛知先生に声を掛ける。
「先生、ちょっと結衣休ませてください」
白谷はそう言うと、ちょうど奥の方にいたのかパタパタという足音と共に、Tシャツに白衣を引っ掛けてジーンズ履きの愛知先生が姿を表した。黒瀬を背負ってる白谷を見るにつけ、先生の表情がまず驚き、ちょっと待ってと言うとすぐに再び奥の方へと引っ込む。やがて準備が整ったのか、
「白谷君、連れてきて!」
ずり落ちそうな彼女の体を一回持ち上げるようにしてホールド。そのまま歩いてベッドの方へと向かった。
「彼女どうしたの?」
「何かガスバーナーの操作誤って爆発させたみたいで」
「爆発?」
「大したことはないんですけど、それ見てパニック起こして…しばらくここで結衣を休ませてください」
ゆっくりと黒瀬の体をベッドに横たえさせる。愛知先生が手早く彼女の体をベッドに沿わせるように整えて頭の下に枕をひいて掛けふとんを掛けた。今まで落ちてなかったことが不思議なくらいに何とか顔に引っかかっている彼女の眼鏡を先生は外し、枕の横に置く。そして手早く火傷した顔の所に軟膏を塗ってゆく。
パニック状態で体力を奪われたのか、またここ最近の疲れが出たのか、いつの間にか黒瀬は軽い寝息を立てて眠りに落ちていた。
一仕事終えて大きく息を吐く白谷。ベッドの傍の椅子に腰かける。
それを見て愛知は、
「ご苦労さん。なかなか大変だったでしょう」
「まあ…」
過去や現在に関わらず色々な事が頭な中をよぎったせいか、白谷は愛知先生の問いにマトモに答えられる状態ではなかった。一言言ったきり黙り込んでしまう。
「ひどい爆発ではなかったにせよ、これほどまでにショック状態になるって…彼女に何があったの?」
「それは…」
白谷はそう言いかけた。しかし、何者かがそれを阻んでるかのように彼の口はそれっきり言葉を発しなかった。目が明らかに"迷ってる"かのよう。
それを察したか、愛知はそれ以上訊こうとするのをあきらめた。
「…まあ、幼馴染の間だけで共有したいヒミツがあるよね…」
"幼馴染"という言葉に反応したのか、白谷の表情が苦笑いになる。
保健室のスピーカーから授業時間が終わったことを知らせるチャイムが鳴った。休み時間に入る。
「彼女の看病する?何なら担任の中島先生に言っておこうか?」
「いえ、俺は…」
いま彼女の横にいるべき人は俺じゃない、とでも言いたげな横顔。それを見た愛知は、少し彼との距離を縮めて話しかけた。
「…じゃあ何で彼女を助けたの?あれだけケンカしたのに」
「…判らないです。体が勝手に動いた…のかなぁ。ちょっと自分でも判らないです」
表情を崩さず、横から話しかけている愛知先生に視線を向けず、ただ訥々と言葉を紡ぐ白谷。
「"勝手に動く"って赤の他人に対しては普通は出来ないよ。何らかの"感情"を持ってないと。もちろん、マイナスの感情では動かない」
愛知にそう言われて、白谷は何かが引っかかったのか顔は向けずに視線を横にいる養護教諭に向ける。それに気づいた愛知は、何かの仕事が途中だったのか踵を返して部屋を仕切っているカーテンの向こうへと歩みだしながら、
「…言っちゃ何だけど、素直になったら?」
軽めの笑みの表情を浮かべつつ開けてあったカーテンを閉じる愛知先生。その姿が白いカーテンを介してシルエットになる。
白谷は目の前で寝息を立てている黒瀬の顔を見た。爆発した時の熱と炎のためか、髪のあちこちは焼けて縮れたようになっている。顔も軽いやけどを負ったのか部分的に赤くなっているが、彼女を寝かせた後に先生は軟膏類を塗ったのでその部分は艶が出ている。
「…素直、って俺には…」
もう遅いよ、と言おうとした。彼は声にはしなかった。
やがて保健室の廊下をこっちへ向けて走ってくる足音が聞こえてきた。音だけでも慌ててる気持ちが伝わってくる。その音の主を白谷は理解できた。
引き戸を開ける音と同時に、
「結衣さんが運ばれたって…先生!」
「ああ、今ベッドで休んでるよ」
現在の彼氏が保健室に来た。愛知先生がカーテンの向こう側で彼女の居場所を教えると白谷の方へ向かってくる。カーテンに写るシルエットが急激に大きくなって勢いよくめくられた。視線が合う。
「白谷…」
眼鏡越しのその視線は、『何故お前がそこにいる』とでもいいたげなものだった。詰るのではなく、少し理解できていない感じ。
「来たか。んじゃ交代」
お邪魔虫は退散しますか、とばかりに白谷は椅子から腰を上げた。
「結衣さんの看病してくれたのか…ありがとう」
緑川の横を過ぎようとした時にそう言われた白谷は立ち止まる。二人とも互いに視線は向けない。
「出来ることをしただけだよ」
「ガス爆発に巻き込まれた、って話聞いたが…」
「俺も細かいところまでは判らない。いきなり爆発が起きて彼女が巻き込まれて倒れて…それでここまで連れてきた」
「ケガとかは?」
「顔にやや火傷しただけだし軽い。あとは髪の毛が少し焼けたくらいか。まあ、見れば判る」
「かなりパニックになったと聞いたけど…何でそうなった?」
緑川の言葉は落ち着こうとはしているが、どうしてもいつもより強めな口調になってしまっていた。
彼の疑問に…白谷は言葉を紡ごうとしたが、すぐ黙り込んだ。数拍置いて、
「…目の前でガス爆発が起きたんだ。誰だってそうなると思う」
緑川が横にいる白谷へ横目を向ける。それだけなのか?と。視線を向けられた彼の表情はまるで無機質な何かのように変化がない。
「…それじゃ」
白谷はそう言うとやや足早に保健室を出た。緑川は暫くは彼の後ろ姿を目で追ったが、やがてベッドの上で眠る彼女の方に向き直り、椅子の上で腰を下ろした。
…20分ほど経っただろうか、ベッドで眠ってる結衣が目を覚まそうとしていた。しばし背伸びをするかのような動きをした後、ゆっくりと瞼が開き始めた。
「気がついた?」
「…あれ?ここ何処…?」
結衣の両目は自分の今いる場所が何処なのかを見ようとしたが、眼鏡を外しているせいでぼんやりとした情報しか得られない。視界の端でベッドのそばにいる人物が彼氏の勇樹だと判ると、顔を向けた。
「保健室。何でもガス爆発が起きて、それに巻き込まれたと聞いたから…とりあえずはひどい怪我でなくてよかった…」
「…そっか…」
まだ記憶が混乱しているのか、眼鏡をかけてないせいで焦点が合わないのか、何処か他人事の様でうつろな表情は変わらない。
しかし、次第に結衣は自分の状況が理解出来始めたのか、うつろな表情から少しづつ緊張の成分が増えていく。布団の中から手を出して眼鏡をまさぐろうとした。それを察した勇樹が枕元の眼鏡を手に取り、彼女の顔に掛ける。
「…じゃあどうやってここに来たんだろ…?」
「白谷君が連れてきたそうだ。僕がここに来たときにはここで看病してたから」
「しゅ…白谷が?」
「ちょ…結衣さん寝てなきゃ」
彼女の声が一瞬大きくなったと同時に上半身をベッドから起こそうとするのを慌てて止める勇樹。結衣は彼の言うことを聞き入れたのか、体を起こさず再びベッドの上に体を横たえる。しかし、白谷の名前を出したことによって表情に変化が出た…以前ほどの拒絶感はなかったが。
「…何であいつが…」
寝返りをうって勇樹に背を向ける方向に横たわる結衣は、自分にしか聞こえない小声で保健室に連れてきてくれた相手に文句をつぶやく。
表情は怒ってはいる。しかし、その言葉には相手を傷つけるかのような鋭い棘はなく、何処となく柔らかいような…そんな怒り。
「結衣さん、今日は生徒会はお休みにしておきますね」
勇樹からそう言われた結衣は、再び寝返りをして、仰向けになる。暫くの間考えてるような無言の時間が過ぎたあと、彼女は言葉を絞り出すかのように、
「…いや、やっぱり放課後の生徒会は出ます。あと一週間ちょっとだし、自分の失敗からこんなんなってるから出ないと勇樹くんも疲れてるのに…」
「いや休んでください。怪我人なんだし…僕でも1、2日位は疲れてても対処できます。結衣さんはその間しっかり休んでてください」
おとなしめの勇樹にしては強めの言葉で結衣の行動を思いとどまらせる。表情も初めて見るのでないかと思うくらいにやや怒ってるかのように、厳しいものに結衣の目には映った。
「…わかった…ごめん」
掛ふとんを両手で顔の真ん中辺りまで引き上げて恥ずかしそうに結衣は言った。
「…その代わり、早く治してくださいね」
「…うん」
返事を聞いた勇樹は、結衣の顔に近づいた。今までなら逆だったのが、今度は彼からそういう行動に出られて思わず目を見開く。そっと掛け布団を下げて顔を出した。
「…治るおまじないです」
唇に接触感。互いのレンズ越しの瞳は閉じられていた。
…この日の学校祭の陣頭指揮は生徒会長の永井が代行したが、黒瀬は翌日には復帰し、業務は再び回り始めた。
学校祭まで一週間を切ると、授業中ですら学校中が何か締め切りに追われた漫画家の様な慌ただしさと言うか慌てぶりと言うか、何処となく神が降りてきた巫女のように熱気を孕んだものとなる。放課後になったらなおさらだ。
学校祭まで残り2日になると授業は行われず、全日準備に追われることになる。たった1日のために、ありったけの情熱を注ぎ込む。
バカ騒ぎは、仕込みがキッチリしてるほど楽しい。
「…何か髪が重い…」
衣装合わせのため、短めの髪をポマード使って無理やりオールバックにされ借り物のタキシードを身に着けた白谷が、整髪料が放つ匂いと重さに辟易し始めた。普段そういうのとは縁がない生活をしているためだが…。
「でも似合っとるじゃん。ちょっとワイルドな感じでカッコエエ」
「学校祭終わってもその格好のままの方がお前もっとモテるぞ」
"お試し"が取れたらしくて正式に彼氏彼女の関係になった黒瀬の友人の灰屋と白谷の友達の紺野が立て続けに白谷を言葉で持ち上げる。その言葉を額面通りに受け取ってない白谷が二人をジト目で見た。
「…お前ら何かテキトーに言ってないか」
「ホントホント。実際似合ってるに」
やや真面目な顔をしながらおもちゃのようにぶるぶると首を振って灰屋が言いつつ手鏡を白谷に渡す。渡された白谷は半信半疑で鏡を覗き込んだ。
「…違和感しかねぇ」
鏡に映ってる自分の顔は、自分と言う名の誰か別人を映してるんじゃないかと一瞬思ったくらいだった。着ている服がタキシードと言うことで、こういうことが無ければ多分一生着ることがない服を着ているというのもあるし、襟元の蝶ネクタイもゴムバンドでつけてるせいで妙に首元に軽い締め付け感がある。
「まあ慣れるよ」
紺野からはそう言われたが、学校祭は1日だけだし慣れる頃には終わってるよ…と頭の中でツッコミを入れてると教室の入り口辺りからバックヤードを仕切る黒い布越しにちょっとしたざわめきが起こる。それに反応した白谷、灰谷、紺野が作業の手を休めていると、白谷には聞きなれた声が飛び込んできた。
「あのー、白谷センパイいますか?」
「いるよー」
「そっちいっていいですかー?」
「いいよー」
真由と駿の声が互いにバックヤードの黒い仕切り布越しに交わされる。ぱたぱたと足音がして仕切り布の前でぱたりと止まる。入り口の布がまくり上げられ、真由の姿が駿の視界に入って来た…思わず駿どころか灰屋も紺野も彼女の姿に釘付けになった。
「あ、センパイかっこいい~。すごーい!」
「真由の方もいい感じじゃねーか…って」
バックヤードに入るなり駿のウエイター姿を見ていかにも女の子らしい歓声を上げる真由。それを受けて駿が言葉を続けようとするが、彼女の姿の出来の良さに思わず言葉を失う。まるでアニメのキャラがそのまま画面から出てきたかのよう。
「えへへ、センパイどうですか?」
「…真由、お前袴着たいって言ってなかったか?」
「でもこれ着たらこれでいいんじゃないかと思っちゃいました~」
白いフリル付きのカチューシャを頭に付け、髪はいつものストレートを左右三つ編みにしてるせいで普段のイメージとはまた違ったかわいさが出ている。おまけに伊達ではあるがロイド眼鏡を掛けている。黒の、床に付きそうなくらい長いロングワンピースに白のフリル付きの前半分を確実に覆う大きなエプロンに白い短めのソックスと黒く鏡に見える位にきれいなローファーパンプス…この格好をした女子に惚れるなと言う方が難しい位な真由の出で立ちに紺野が少し鼻の下を伸ばした。それを見た灰屋が軽く彼氏の足を蹴飛ばす。
「いてっ!」
「どこ見てるんよ…」
ふくれっ面した灰屋が流しジト目でちょっと嫉妬気味に紺野に言う。ごめんと言いながら軽く謝る紺野。
駿の方と言えば、彼女をじっくりと眺めてまんざらでもない様子。それどころか…
「…やべえ、想像以上にかわいいぞ…」
口元を両手で抑えながら呟くように駿が口にする。以前電話した時に頭の中で構築したシミュレーションのイメージよりもこっちの方がなおさらいいじゃないか、と思ってしまう。
彼氏の顔が少し赤くなってるのを見た真由が少し顔を近づけて、
「かわいいでしょ?」
そう言われて駿は無言で口元を手で抑えつつ何度も首を上下に振った。というか、肯定する以外の選択肢が存在しない。するわけない!
よく見ると紺野まで一緒に首を上下に振っていて灰屋から今日2発目の蹴りを食らって悶絶していた。どうやら威力はさっきのより強めだったらしい。
そうしてるうちにくるくると駿の前で回転しながらお披露目したりして、いつの間にか黒い布で仕切られた狭いバックヤードには、クラスの野郎どもが準備の手を休めて彼女のメイド姿に見入っていた。
「真由、ひょっとしてメイド服見せるために来た…?」
「そうですけよー…じゃあ今度はセンパイがうちのクラスに来てくれます?」
「そ、それは…」
駿としては断ろうかと思った。しかし、
「白谷くん、行っとりん。せっかく彼女さん誘っとるんだに?」
灰屋がややニヤけながら彼女の肩を持った。多分紺野にこれ以上赤城を見させないようにする思慮遠望に違いない、と白谷は勝手に思ったが、これ以上バックヤードの空気が(雰囲気的に)悪くなるのを避けるためにも丁度いい提案かもしれない。
「…まあ、それなら真由、行こうか」
「ありがとうございますセンパイ!」
彼女はスカートを持ち上げて一礼すると、駿と腕を組んで教室を出ていく。野郎どもの羨望と怨嗟の声を背景にして。
学校祭当日。
一通りのことはやった。あとは半ば野となれ山となれだがそこは出たとこ勝負…と生徒会室に直行した黒瀬は疲れた体を机に突っ伏してそう思った。まあ細かい対処すべきトラブルは出るだろうけど…。
「トラブル出来るだけ少なくしてね…」
疲れとそれに付随する虚脱感のためか、眼鏡越しの目は虚ろで口は彼女にしてはだらしなく半開き。もう動きたくない!という感情を体で表現してるかのよう。
そこへ緑川が姿を現した。こちらも顔の表面に疲労感が結晶として析出してるかのような表情。
「結衣さん、お疲れさん」
「あ"ー勇樹くん、お疲れ…」
「なんだかんだで僕も疲れました。今日は一日中寝ていたいです」
「自分も…トラブル対処せにゃダメですけど…」
そう言いかけた時に生徒会室に会長の永井、副会長の芳賀、会計の北川の3人が入ってきた。引き戸を開けて2人の姿を見るなり、
「おはよう!残りは今日だけだ、気力で頑張っていこう!」
「おはようございます…」
「会長、おはようございます…」
黒瀬も緑川も返す挨拶には疲れがにじみ出ていた。
会長もなんだかんだでいつも21時辺りまで業務をしているはずだが、何処からこんな元気が出てくるのだろうと黒瀬も緑川も不思議に思わざるを得ない。
「おっはよー!がんばろーね!」
「おはようございます」
芳賀も北川も普段通りのテンション。この人らも同じくらい遅くまで業務していたので、黒瀬も緑川も、やはり何かしてるんじゃないと思ってしまう。
とは言え、いつまでもグダってるわけには行かない。黒瀬も緑川も背伸びをして筋肉に活を入れると、気合いを入れて直立する。
「さて、今日は学校祭当日。色々とまた動かなきゃいけないこともあるだろうが、頑張ってほしい。では、いくぞー!」
会長の激に続いて4人も一斉に、おーっ!と唱和する。その音は、生徒会室のガラスをも震わせた。
『生徒会よりお知らせします。ただ今より、学校祭を開催いたします。生徒のみなさま、今日一日楽しんでください!』
副会長の芳賀の声が校内放送に乗って学内に響く。
祭りが始まった。