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南風

 黒瀬結衣(くろせ ゆい)は、南風と戦っていた。

「んとに、何で午前中南風で午後が北風なのよ!」

 寝坊して急いで朝食をかきこんでいる時にちらっと見たTVの天気予報では、お昼を境に風向きが変わることを告げていた。

「一日中同じ風向きでもいいじゃないの!」そうすれば、少なくとも帰りは自転車を楽に漕げたのに。

「それに駿のやつ、弁当忘れてって…ちゃんと行く前に確認しとけよ!」

 急いで朝食をおなかに収めた後、学校までの時間との戦いを開始しようとした瞬間、隣の家から幼馴染のお母さんから呼び止められて忘れていった弁当渡してくれるように頼まれた。1分もないシーンだが遅刻するかしないかの瀬戸際であった彼女には惜しむべき時間だ。

 福井県の県庁所在地、福井市の市街地やや南を西へと流れる足羽川を渡る橋につながる、緩い右コーナーのスロープ。通勤のための自家用車が車道でひっきりなしに通過してゆく。その横に付けられた歩道を、登坂と向かい風の二重苦を受けながら自転車を登らせてゆく。

 川のたもとの交差点に出た。赤信号で止まる。目の前の橋を渡れば、風の影響は受けるが下り坂になる。

 ふと、魔法を使おうか…と思ったが、彼女が持っている水晶では、焼け石に水であることは明らか。

「…やめとこ。風よけに魔法使ったら、お昼になる前に空腹で倒れる」

 乱れていた呼吸を赤信号のうちに整えて、信号が青になるのを待つ。背中の中ほどくらいに伸びた髪が、赤信号の内には一度も背中に落ち着くことがない。

 青になった。あと少しと自分に気合を入れて自転車をこぎだす。

 下流に見える市街地に一瞥もくれず、ひたすら高校目指して橋を渡り、今度は重力の加護を受けて速度を上げてゆく。

 福井銀行がある三叉路を右に回り、しばらく行って南へ自転車を向けると…グラウンドの向こうに目的地の白い、しかしこれと言って特徴のないコンクリート3階建ての校舎が見えてきた。

 県立秋翠(しゅうすい)高校。昭和38年に開校されて22年経過した、何処にでもあるような普通の高校。秀才が集まるほどではなく、勉強が出来ない奴ばかりでもない。傍目にはまだちゃんとしているようには見えるが、校舎の中身はそろそろガタが来ているところがちらほらと見え始めてる頃。

 ゴールまではあと少し。時間的にはなんとか…。


「駿!」間に合った安堵と、幼馴染の弁当を運ぶという余計な仕事抱えた不運さとをないまぜにして黒瀬が叫ぶ「おめーな…弁当忘れるなよ!」

 あと少しでホームルームが始まる2年7組の教室に、凛とした、しかしややドスのきいた声が響く。おしゃべり中のクラスメイトが一斉に彼女の方を向いた。

「わりー、結衣。すまんなぁ」全然反省の色もないような気楽な声色で白谷駿(しろたに しゅん)が声を上げた「どーせ結衣が持ってきてくれると思ったから心配してなかったぞー」

 この野郎…と言いかけてここで口喧嘩してもどうしようもないと諦観したが、そこからあふれたちょっとした怒りが手に持った白谷の弁当箱を半ば叩きつけるように彼の机に置いた。

「んとに、こっちは遅刻するかしないかで冷や冷やしたんだから!」

「お、嫁が弁当持ってきたぞ」「うらやましいのぉ」「いいなぁ幼馴染は」と、クラスメイトからの冷やかしと笑い声をBGMに、オカンムリ状態の黒瀬からとばっちりを食らった弁当箱をいたわるようにカバンにしまい込む白谷。彼の母親の任務を無事遂行した彼女は、自分の席である白谷の後ろに着席して急いでHR、そのあとの授業の準備をする。

 幼馴染幼馴染ってただ単に隣の家だったっていうだけで何で嫁にならなきゃいかんのよ…幼馴染の苦労も知らないで…、と口元でクラスメイトの冷やかしにぶつぶつ文句を言いながら呼吸を整えてると、後ろの席の友人・灰屋美紀(はいや みき)からお手紙ですよ~といった感じに丸めた紙が飛んできた。

 紙を広げながら飛び込んできた文字は『前から思ってたけど名前で呼び合ってるということはオヌシ彼と何処までススんどるのじゃ?』

 幼馴染に幻想持ちすぎ、と声を上げたいが丁度クラス担任の中島先生がやって来たので後ろの友人をロイド眼鏡越しにふくれっ面の様な表情を返事とした。

 大きなため息を一つ。

 前の席では、隣の女子と二言三言話してる幼馴染の横顔が映る。

「…空気と同じだと思うんだけどなぁ」

「あん?なんか言うた?結衣」

 突然振り向く白谷。黒瀬の独り言に反応したその顔は笑顔以外の要素はなかった。

「何も言うてない。前向け前」

 …今日もまた、当たり前の一日が始まる。


「水晶?」

「なぜかこの前うちの中整理してたら出てきてさぁ。結衣、お前も持ってるだろ?」

「持ってるけど…」ブレザー風の女子制服の中に掛けてある水晶のペンダントを握るようなしぐさをして「これ、お守りみたいなものだからねぇ」

 視線をペンダントのある位置に向ける黒瀬。

 お昼の食事時。白谷が黒瀬の方を向いて彼女の机で二人お弁当を食べてる時に、白谷がぽつりと言葉を紡ぐ。

「ペンダントにしちゃあ水晶が大きめで。ほら、うちは姉とか妹とかいないから母親のかと思ったけど母親も親からもらったらしいんだわ。しまっててそのまま忘れてた、って言ってたなぁ」

「何かおめかししたときに付ければいいんじゃない?」

「そう言ったんだけどつけてみたら重いからいいや、って言ってた。またこれで仕舞ったこと忘れるぞ」

 しょうがねーなぁ、という表情で黒瀬が持ってきた大きめの自分の弁当を平らげる。黒瀬の方は女の子らしく小さめの弁当箱をゆっくりと食べてるので、もうしばらくは平らげるのに時間がかかる。

「…そもそも、何で家にあんなものがあるんだ…?」

「先祖から続くお守りじゃないの?」謎の物体に惑わされる白谷をやや冷めた目で見る黒瀬。「邪気払いとかの効果があるし、昔から珍重されてたし」

「そんなもんかねぇ…」つい、と天井を見つめる白谷「…そんなもんかなぁ」

「そんなもんよ」

 と黒瀬がつぶやく。ちょうど弁当を平らげて片付けるところ。

 白谷が、何かを受信したかのように急に席を立つ。その顔を目で追う黒瀬。

「…追加でパン買ってくるわ」

「…いってらっしゃい」

 ほれ、はよ行け。しかしあれだけ食べてもまだ食い足りんのか、と異性の食欲に黒瀬は不思議がる。

 昼休みの時間が少なくなってるためか、やや駆け足で白谷が机の間を縫って教室外へ出ていく。

 何気なしに彼の背中を目で追った。

「ちょっと~結衣~」

 背後から灰屋の声。黒瀬が振り向くと友人2人が灰屋の机に集まって3人とも彼女の方向を何か探りたげのような表情を浮かべている。その表情から何を言いたいかが判って黒瀬はやや渋い顔をする。

「ほんと、白谷くんとドコまで行っとるの?」

「どこまで、って…ただの幼馴染だって」幼馴染だからって毎日ヤツとえっちなことしてると思ってるのはやめて、弟みたいなものなんだから「隣に住んでるだけで、駿(あいつ)の部屋とか今は行ってないよ」

「昔はしょっちゅう行ってたの?」

 座ってる灰屋の隣で中腰になってる青野雅美(あおの まさみ)が訊いてくる。

「…小学校5年辺りの時までかな」

 視線を宙に泳がせて頭の記憶の断片を検索しながら答える。

「昔から白谷くん感じ変わんない?」

「そのまんまだなぁ…」

 青野の隣で立っている紫野絵里子(ゆかりの えりこ)の問いにそんなこと訊いてどうすんの?という言葉を顔に貼り付かせた表情の黒瀬が答える。

「いや、幼馴染の許可が出たら付き合おうかとおもったりして~」

「おおっ、出ました交際宣言!」

「やるー、泥棒猫じゃん」

 紫野、青野、灰屋がキャッキャうふふしてるのを、ホントに…と眉間にしわを寄せながら黒瀬は友人たちを眺める。

「あいつ、いつもどこか軽くて真面目になったのって自分でも見たことないくらいだよ…何処がいいの?駿(あいつ)の」

 意味わかんない、という表情で黒瀬が訊く。

「そのちょっと軽いところかなぁ…面白そう」

「顔は普通よりはちょっといいかも。それだけでもポイント高い!」

「顔は大事じゃんよね~」

「「「ね~♪」」」

 ハモるなよ、と頭の中でツッコミを入れる黒瀬。まあ、中学の時にはモテてたみたいだが…いやホント、幼馴染に幻想持ちすぎやろ…。

「そういえば幼馴染っていうけど、結衣、いつごろから?」

 紫野に言われて、はたとそういえば…と記憶の森を探し出す。小学校上がる前の景色にも駿が映りこんでるから、少なくとも幼稚園辺りから、か。

「うーん、幼稚園の時辺りにはもう駿(あいつ)の記憶はあるなぁ」ほかに幾つかエピソードがあるのか、黒瀬の口が何かを数え上げるかのように動く「…そういや泣き虫だったような気が…する」

「泣き虫!」「これはポイント更にドン!」「いーじゃんいーじゃん泣き虫」

 お前らその泣き虫に振り回された自分の身にもなってくれ…思ったが、まあ、この3人、2年生になってからの友達だからなぁ、あいつの昔知らんのは仕方ないと納得する。

 逆に小さい頃の自分と白谷を知ってる友人のほとんどは違う高校に行ってる。単に結果がそうなっただけだが。

「小学中学そして高校(ここ)と、大体は同じクラスだったなぁ。小学校5、6年の時だけか?クラス違ったの」

「おお、ほぼ完ぺきな幼馴染」「幼馴染というよりは腐れ縁!」「小説か漫画描けちゃう話じゃん」

「あれ?紫野も青野も灰屋も、そんな幼馴染いなかった?」

「同性はいたけど…自分らに近い男の子はねぇ」「いない!つか家の周り田んぼしかない!」「父親の転勤で豊橋から福井へ来たでいないなぁ」

 そうかそうか…こっちはずっといたから他の所も似たような感じだと思ってた…と自分の認識を改める黒瀬。そういや確かに先月、青野の家へ遊びに行ったときは確かに田んぼのど真ん中だったなぁ。

「ほら結衣、噂をすれば…」

 紫野に言われて後ろを振り向くと、どうやらパンの残り物争奪戦に負けた白谷がちょっとイライラした表情で教室へ戻って来た。

「結衣、何か食い物持ってねーか?」

「あるわけねーだろアホ。下校まで我慢せい」

 幼馴染に下校まで我慢しろと言われて、ええっそんなこと言う?そんな時間経ってたら腹減って死んどるわ、と軽くショックを受けた白谷だが、もう少しで午後の授業だし、購買のパンももうないことからしゃーねーか、と観念。自分の席へ腰を下ろす。

「…なんか最近、腹が減るのが早いんだよなぁ」

「成長期じゃないの?それか無駄なところで力出してるか」

「そうなんかなぁ。運動部でもないのに」

 直接目を合わさずに言葉を交わす。

「ほんと、夫婦みたいね」

 紫野に言われて渋い顔をする黒瀬。勘弁してくれよ…という言葉を表情に貼り付かせてる。

 学校全体にチャイムの音が広がった。午後の授業の開始、ということで生徒たちは三々五々自分の席へ戻ってゆく。

 午後の授業は、眠気との戦いだ。


 学校が終わって、黒瀬の姿は福井駅前の勝木書店本店の中にいた。福井では最大手の本屋で、県内各地に支店がある。その本屋のガラスの向こう側を、福井鉄道の郊外型電車が速度をかなり落としながら、横を通る車に注意を払いつつ線路端末の電留所へと向かう。

 今日辺り、新刊で出た本がこの県にも入ってくるはず…だが、

「…ない」

 さてどうしよう。ここにないということは少なくともこの県にはまだ来ていないということか…普通は1日遅れで来るはずなのに。時間返せー!と叫びたくなる。

「…帰るか」

 黒瀬は一人ごちると、路面電車が通る道路とは本屋を挟んで反対側の歩道に止めてあった自転車へ向かう。鍵を外して、乗らない。歩道は天井がアーケードになっており、自転車に乗ると違反になってしまうし、この時間は歩行者が多い。

 会社帰りらしきサラリーマンたちが歩道のあちこちで歩く中を、縫うようにゆっくり自転車を押しながら駅の方へと向かう。太平洋戦争後10年もしないうちに建てられたコンクリート製の福井駅は夕陽に照らされて一瞬美しく見えるが、しかし何となく、くたびれてるようにも見えた。

 ヤマシタカメラのある交差点を福井県庁方向に渡り、再び福井駅方向に歩いてまた交差点を渡る。地下道を通り、駅の真下を通って反対側へと出る。

 駅の東側…通称駅裏へ出ると、駅前とはいえ西口と比べてかなり静か。私鉄の京福電鉄の福井駅もあるが人通りはかなりと言っていいほど少ない。

 黒瀬は自転車のサドルにまたがって走り出す。5月半ばとはいえ、やや熱を帯びたような夕陽が彼女の背中を照らしていた。

 風は北風。予報通り。しかし、勢いは朝ほどではなかった。

「今日もいろいろあったねぇ」と誰に聞かせるでもなく呟いた黒瀬だが「…もう今度は弁当持ってってやらない」

 なーんてね、と女の子らしい口調でかわいく前言を撤回する。

「…そういえば女の子より男の子とよく遊んでたなぁ。まあ、そっちの方が面白かったし。こんな夕方」


 …誰かが泣いている。小さな子供。男の子だ。

「どうしたの…?」と声をかけようとしてその姿に伸びた手が止まった「…駿」

「しゅんおまえおとこのこだろ、しっかりしろよ、ないてばかりじゃつよくなれないぞ」

 え?自分?

 泣いた男の子は小さかった頃の『自分』を見つけると頼りなさげな歩みで寄りかかってきた。また泣く。

「またいじめられた?よし、おねえちゃんがかたきうってあげる」

「ほんと?ほんとに?」

「おねえちゃんはつよいから。おんなのこだけしかもってないちからがあるから」

 小さい『自分』はそういうと、胸元から不釣り合いなほどの大きなペンダントを取り出した。水晶…今の『自分』が持ってるのと同じ。

「このすいしょうのちからをかりて、わるいやつをやっつけるの!」

 小さい男の子は泣き止みつつ、小さい『自分』が持ってる水晶のペンダントを見つめる。

「…どうしてそのすいしょうはおとこのこのいうこときいてくれないの?」

 そう問いかけられた小さい『自分』は、えへんと胸を張るようなカッコをして男の子に

「だってすいしょうはおとこだから。おとこのこのいうことはきいてくれないんだよ。おんなのこのいうことしかきいてくれないんだよ」

 小さい男の子は判ったような、その反対のような微妙な表情を浮かべた。

「ふーん…」

「しゅん、もうかえろう。あしたおねえちゃんとそいつのところいってぶっとばしてあげる」

「…うん」

 既に泣き止んだ男の子と、彼のリベンジマッチをもくろむ小さい『自分』は、やや頼りなさげな歩みで自分の視界から消えていった。

「…おねえちゃん、か」

 そして、ペンダントを見る。

「水晶は"男"、かぁ」

 きらきらとただ輝く水晶の輝きは、当時と同じ。

「…水晶の中は、"男"じゃなくて"悪魔"が入ってるんだけど、ね…」

 それを知るのはもう少し知識が必要だぞ、と彼女は視界から消えた小さな『自分』にエールを送った。


「…何で今頃昔のことを」

 学校に向かって自転車を走らせる黒瀬。今朝方見た夢を何故見たか、の要因を探ろうとは思ったが思考がまとまらない。そのうちに後ろから黒瀬を呼ぶ声が聞こえてきた。通勤時間帯の交通量が多い騒音の中から声の主を直感的に理解したのか、黒瀬はやや不機嫌な表情を作る。

「おーい、結衣、一緒に行こうや」

「駿の家の前で呼んだのに遅い」

 一緒に行こうと呼んだのに白谷がやって来たのはそれから10分ほど学校側へ進んだところだった。4車線の道の向かう先は志比口の三叉路になっており、黒瀬と白谷はそこを左折する。あとは学校までほぼ一直線。

 この日も風は南からだった。

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