悟り
吉江は居酒屋の勝手口のドアを開けると、その先に置かれた、ビール瓶のケースへ腰を掛けた。表通りからは、帰宅途中の高校生たちのかん高い声も聞こえてくる。
「みのり、今度の日曜日は絶対に寝坊しないでね!」
「大丈夫よ。流石に、また丸一日寝坊したりしない」
「本当かしら?」
「もう、なずなったら――」
まるで春のヒバリだな。そんなことを考えながら、吉江はズボンの後ろポケットから、表紙に「妖怪事典」と書かれた本を取り出した。
吉江は煙草を片手にページをめくると、貧相な顔をした女の姿が描かれたページを開く。女の長い髪の先端には蛇の頭が、そして後頭部には大きな口が描かれている。説明には「二口女」とあった。
先妻の子供を餓死させて、頭の後ろに傷を負い、そこに食べ物を入れないと傷が痛むと書いてある。傘をさした自分に、「渇いている」と告げた、紫乃の顔が頭に浮かんだ。あの時見たのは、紫乃が人間だった時の記憶だ。紫乃は吉江に、いつかは自分と同じになると、伝えたかったのだろう。
思い返せば、吉江は紫乃に惹かれ続けていた。今はそれが何故か分かっている。紫乃の目は、自分の母の目と同じだった。いつも誰かの愛情に餓え、そして誰からも、自分の子供からも得られないことに絶望し、死んでいった女の目。
吉江は煙草を吹かすと、さらにページをめくった。最後のページの方に中国の妖怪とあり、ビール瓶のラベルを極彩色にした絵が描いてある。そこには「犭貪」と説明書きがあり、中国語の一文が添えられていた。
「据说犭貪是贪婪之兽,生性饕餮,贪得无厌。壁画上四周彩云中都是被其占有的宝物……」
孔子という、偉そうなやつが弟子に語った想像上の化け物で、ひたすらに貪欲。何を平らげても決して満足することなく、最後は己まで食い尽くした化け物らしい。吉江は、犭貪も、二口女も、それが決して想像上の化け物ではないことを知っている。
本から顔を上げると、吉江は目をつむった。伊藤の腕を砕いて咀嚼する紫乃の姿や、それを覆いつくす黒い影が、まざまざと浮かんでくる。砕け散った紫乃の体が、赤い光を浴びて、キラキラと輝いていたのも……。
夢の中でその場面に会うたびに、吉江は滝のような汗を流して飛び起きた。だが吉江の中の何かは、あの時の、心の奥底から震えるような刺激を求め続けている。まさに「犭貪」そのものだ。
吉江は肺から煙を吐き出しつつ、雑居ビルに囲まれた夜空を見上げた。猫の額ほどにしか見えない空には、表通りの看板のネオンのせいか、星一つ見えない暗闇が広がっている。
「闇か……」
吉江の口からつぶやきが漏れた。すぐにでもこの街を離れるべきなのだろうが、なぜか吉江は離れることが出来ずにいた。その一方で、組の者たちはもとより、警察すらも自分を探している様子はない。
もしかしたら、あの暗闇の向こうにある星たちのように、誰からも忘れさられているのかもしれない。いや、最初から存在していないのか……。
「よしさん、そろそろ交代の時間ですよ」
勝手口の向こうから、バイトが吉江を呼ぶ声が聞こえた。
「今いく」
吉江は煙草を手に立ち上がった。そして勝手口の扉に手を掛けた時だ。
ジャリ……。
誰かがこちらへ歩いて来る音に,吉江は背後を振り返った。そこにはスカジャンを着た男の影がある。だがその右腕は、ビルの隙間を吹き抜ける風に、ゆらゆらと揺れていた。
「吉江さん、探しましたよ。まさかこの街に留まっているなんて、思いもしませんでした。灯台下暗しとは、まさにこのことですね」
「伊藤か。生き残ったんだな」
吉江の問いかけに、影がゆっくりと首を横に振る。
「生き残ったんじゃありません。生き残っちまったんです」
そう告げると、伊藤は吉江が手にする本へ、視線を向けた。
「妖怪事典? 似合わないですよ。それに今更そんなものを読んで、どうするんですか?」
「確かに今更だな……」
吉江は伊藤に頷くと、自分へ向けられた銃を見つめた。わざとらしくメッキ加工したそれからは、工芸品としての何かは全く感じられない。
「伊藤、売人はそれをお前に試射させたか?」
無言の伊藤に、吉江は言葉を続ける。
「北朝鮮製のトカレフ、それも間違いなくやばいやつだ。弾が飛び出す前に、お前の手が吹き飛びかねない代物だぞ」
「かまいません。一発、いや二発。あんたの頭と俺の頭の分で十分です」
「そうか……」
吉江は手にした煙草を投げ捨てると、ここを狙えとばかりに、自分の胸を指さした。
「お互い、これでやっと眠れますよ。永遠にね――」
トリガーに掛けられた伊藤の指が動く。吉江はそれを、瞬きすることなく見つめた。
パン!
銃口から赤い光が漏れ、胸に太陽が飛び込んだみたいな熱さを感じる。同時に伊藤の手がはじけ、さらに伊藤の頭が飛び散るのが見えた。雑居ビルの間の狭い通路が、伊藤の脳漿でピンク色に染まる。ドンという感触と共に、吉江の背中も地面へ打ち付けられた。
『二発はいらなかったな……』
胸からあふれた血が、喉を、そして口を満たしていく。その温かさに、吉江は自分が何を欲していたのかを理解した。自分自身の血。全ての欲は犭貪に通じている。孔子とか言う偉そうなおっさんの言う通り、他人のものではだめだったのだ。
『もう……渇くこともない……』
薄れゆく意識の中で、吉江は満足そうにつぶやいた。だが視線の先にある夜空を何かが遮る。気づけば、地味な学生服を着た若い男が、吉江をじっと見つめていた。灰色に見える収まりの悪い髪。それと同じ色をした目。その瞳からは何の恐れも感じられない。
吉江はその妙に大人びた視線に、どこか見覚えがある気がした。学生が冷めた目で吉江を眺めつつ、首をひねって見せる。
「なんか懐かしい気配がすると思ったら、おじさん、ネリネにあったんだね」
「お、お前は……」
「口に出さなくても大丈夫。おじさんの言いたいことは分かるよ。どう、渇きは癒えた?」
血を吐く吉江を見つめながら、学生がにやりと顔を歪めて見せる。
「魂に刻まれているんだから、癒えることなんてないよね。でも大丈夫。向こうへ行ったら、げっぷが出るほど堪能できるさ」
学生が吉江を見つめる。だがその姿は次第にぼやけ、世界は真っ黒な闇に覆われていく。
「いっちゃったか……」
その学生、蛍は吉江のまぶたを閉じると、ゆっくりと立ち上がった。
「あっちで見飽きたら、そのうちこっちへ戻ってこれるかもしれないね」
蛍は吉江の遺体へそう告げると、血の広がる路地から去っていく。その向こうからは、救急車とパトカーのサイレンが鳴り響いていた。