渇き
紫乃の唇が触れた瞬間、吉江の頭の中に、映画でも見るみたいに景色が広がった。電信柱すら見当たらない田舎の景色だ。赤く染まった山々を背景に、かやぶき屋根の家が遠くに見える。
吉江はその手前にある掘っ立て小屋を眺めていた。真っ黒になったぼろ布をまとっただけの幼子が、小屋の前に座り込んでいる。地面に横たわり、全く動かない男の姿も見えた。そこからは、青蠅の羽音がブンブンと響いてくる。
「おっかあ……」
幼子は小さくつぶやくと、何も入っていない木の椀を、吉江に向かって差し出した。その腕や足は針金のように細く、皮がたるんでしまっている。目の前に女のやせこけた腕が差し出された。それが幼子の首へとかかる。
『何をしているんだ?』
吉江がそう思った瞬間、頭の中の場面が切り替わる。女はどこかの屋敷の土間に、裸同然で座らされていた。江戸時代だろうか? 渡世人らしい旅装束を着た男と、和服姿の中年女がこちらを見下ろしている。女の腕はやせこけていたが、前に見たよりは肉があった。
「こんなガリガリの体で、まともに稼げるもんかね?」
「顔も体も形は整っています。ちゃんと食べさせてやれば、元に戻りますよ。それに何と言っても、目に色気がございます」
「本当かい?」
「おかみ、私の目利きを信用できませんか?」
渡世人風の男が女をのぞき込む。女がその視線を避けようとしたところで、場面が切り替わった。どこかから、三味線の音が聞こえてくる。目の前ではちょんまげをした男が、女の持つお猪口へ、徳利で酒を注いでいた。
女の体は前に見た時と違い、女性らしさに満ちている。それに着ているものも、黒地に金の刺繍が入った上等な着物だ。男は女の胸元に手を入れながら、小首を傾げて見せた。
「紫乃、気分が乗らぬようだが、何か考え事か?」
「はい。あちきが生まれたところを、思い出しておりました」
「お前は北の出だったな。何年か前の飢饉の時には、さぞ酷かったことであろう?」
「それはもう、まるで地獄のようなありさまでした」
女は男の手から徳利を取ると、それを一気に喉の奥へ流し込む。
「ご政道に関わる者としては、心が痛む。だが上様とて、お天道様には敵わぬものよ」
「伊織様のせいではございません。でもそのお天道様のお陰で、あちきは伊織様のお側におります」
そう言うと、女は男の手を、さらに奥へと自分から引き込んだ。そして男の胸元へ体を寄せる。しかし吉江は、女が決して男を好いてなどいないのを感じとっていた。目の前の男だけじゃない。周りの全てを拒絶している。
再び目の前が暗くなり、どこかの部屋へと場面が変わった。まだ年ゆかぬあか抜けない少女と、中年の男が、女を必死にいさめようとしている。
「あちきは次の膳を持ってこいと、言っているんだよ!」
「もう五膳目でございます。いくらなんでも――」
「まだまだ足りないよ。持ってこないなら、あんたたちを食う!」
「花魁!」「おやめください!」
手に刃物を持った女から、二人は慌てて逃げようとした。女はその後を追いかけると、中年男の背中へ刃物を突き立てる。そこから流れる血へ指を浸すと、紅のように自分の唇へ差した。
吉江の頭の中で、次々と場面は変わっていく。その全てで、女は決して満たされることなく、常に何かを求め続ける。
『俺と同じだ……』
そう思った瞬間、紫乃の唇が吉江の唇から離れた。吉江の肺が空気を求めてあえぐ。
「お前は……」
「あなたはいずれ私と同じになるの」
そう答えると、紫乃は背後を振り返った。
「子豚ちゃん、そこにいるんでしょう? 隠れていないで、出てきてくれない?」
紫乃の言葉に、通路の奥の暗幕がわずかに揺れる。そこから、白いワンピースを着た少女が顔を出した。
「逃げろ!」
吉江は少女へ声を張り上げた。だが少女は逃げようとしない。それどころか、お化け屋敷の演出の一部と勘違いしているらしく、豚のアップリケがついたポシェットをぶらぶらと揺らしながら、吉江たち方へ近づいてくる。
「これはマジだ。逃げろ!」
再び声を張り上げたが、少女は吉江の足元に倒れる伊藤に、首を僅かに傾げただけで、逃げようとはしない。
「このクソガキが……」
焦る吉江に向かって、紫乃が指を横に振った。
「見かけはさておき、中身はガキなんかじゃないわ。あなたより余程に年上よ」
「人をおばあさんみたいに言わないでよね、おばさん!」
少女の台詞に、紫乃がさもおかしそうに笑って見せる。
「あんたから見たら、確かにおばさんかもね。あら、あと一人はどこに隠れているのかしら?」
「人質にでも取りたかったの? せこそうなおばさんの考えそうなことよね」
「一緒に食べてあげようと思っていたのに……」
「食い意地が張っているわね。向こうでも、余程にひもじい思いをしていたの?」
それを聞いた紫乃の顔色が変わった。鬼のような形相で、少女を睨みつける。だが少女はそれを一顧だにすることなく、言葉を続けた。
「それで、こちらで少しは腹が膨れた?」
「あんたに何が分かる! でも大王の娘のあんたを食らえば、私の渇きも癒える。ただのおばさんじゃなくて、スーパーおばさんよ」
「スーパーおばさん? なにそれ!? うける~~」
それを聞いたワンピースの少女、ネリネが腹を抱えて笑い出す。
「心臓を地獄に置いてきているあんたが、私に敵うと思っているの!」
紫乃はそう叫ぶと、ネリネへ向かって、狼の如く跳躍した。その頭の後ろには、大人が両腕を広げたよりも、さらに大きな闇が広がっている。ネリネはと言うと、未だに大笑いをしながら、手にしたポシェットを前へ突き出しただけだ。
闇がネリネを丸ごと飲み込もうとする。吉江は無駄だと知りつつも、手にしたガバメントを紫乃へ向けた。だがそのまま固まる。
「どこへ行った?」
銃を掲げた吉江の口から、つぶやきが漏れた。どう言うわけか、紫乃の姿はどこにもない。
「欲の成れ果ての向こう。真の闇よ」
吉江の問いに、ポシェットを手にしたネリネが、あっけらかんに答える。
「欲の成れ果て?」
「そう、私のペットのトンちゃん。漢字で書くと……、ちょっとめんどくさい奴よね」
ネリネが吉江に、ポンポンとポシェットに描かれた豚のアップリケを叩いて見せる。
「世の中、上には上がいるのよ。最後は自分自身も食らってしまうほどの、欲のなれ果て。その行きつく先がトンちゃん。おじさんも、そのたまごを飼っているじゃない?」
そう告げると、ネリネは吉江の胸を指さした。その指を見ながら、吉江は自分の奥で、何かが蠢くのを感じる。
『そうだ。俺もあの女と同じだ……』
心の中でつぶやいた吉江に、ネリネがニヤリと、口の端を持ち上げて見せる。
「それに、こっちの世界だと私は目立ち過ぎるの。だからトンちゃんの陰に隠れていると言う訳」
少女は傍らの亡者の人形にポシェットをひっかけると、床に転がる伊藤を眺めた。
「これはもうだめかな。一思いに殺してあげたら?」
少女が冷めた目で、吉江を上目遣いに眺める。
『こいつは一体何者なんだ?』
吉江がそう思った時だ。
ドン!
何かが床へ落ちる音がした。背後を振り返ったネリネが、驚いた顔をする。
「おばさんって、トンちゃんが吐き出すくらいまずいの?」
ネリネの視線の先では、半裸姿の紫乃が、ポシェットから這い出ようとしていた。その体はドロドロにとけ、一部は骨まで顔を出している。
「小娘、なめるな!」
そう叫ぶと、紫乃は両手を突き出しながら、こちらへ向かってきた。ネリネは片手を前に突き出すと、まるで吉江の真似でもするように、手を拳銃の形にする。その指先に小さな炎が灯った。それを見た紫乃が動きを止める。
「あんた、心臓を置いてきていないんだね。でもそれを使ったら、ここがどうなるかぐらい、分かっているんでしょう?」
「それがなに?」
ネリネの台詞を聞いた紫乃が、吉江たちに向かって跳躍する。
『殺られる……』
そう思った時だ。吉江の首元を冷たい風が通り抜けた。紫乃の体は、ネリネの前で、時が止まった如く固まっている。
キーン……。
吉江の耳に澄んだ鈴の音が聞こえた。次の瞬間、紫乃の体に小さな亀裂が入り、粉々に崩れ落ちていく。紫乃の体は、そのまま床一面に散らばると、ネリネの指先の光を受けて、まるでルビーみたいに輝いた。
「ネリネ様……」
暗幕の向こうから、真っ白な和服を着た、背の高い女性が歩み寄ってくる。髪は黒く、肌は雪の様に白い。その顔は、息をするのも忘れそうなぐらい美しかった。だが見る者を引き寄せると言うより、恐れさせる美しさだ。
「げっ、瑠璃!」
それを見たネリネが慌てた声を上げる。目の前にいるのは、ネリネの守役で、地獄に置いてきたはずの瑠璃だ。
「もう見つかっちゃったの!?」
ネリネの台詞に、瑠璃はその美しい顔を僅かにゆがめた。
「当たり前です」
「犭貪の陰に隠れていたのに!?」
「深すぎる闇は、天に輝く太陽と同じぐらいに目立つものです。それにこれだけ闇を抱えている者が集まれば、どんなに離れていても、その気配ぐらいすぐに分かります」
「過ぎたるは、及ばざるがごとしね……」
ネリネがさも悔しそうに、地団駄を踏んで見せる。
「それよりも、無事で何よりでした」
「瑠璃、私が二口女なんかを相手に、何かあるわけないじゃない」
「違います。この島国が無事でよかったと言ったんです。それよりもネリネ様、大王様には私も一緒に謝りますから、すぐにお戻りください」
「えー、まだパフェも食べていないのに?」
「えー、じゃありません!」
「蛍兄さんに、色々とたかってやろうと思っていたのに、仕方ないわね」
そうぼやいたネリネが、怪訝そうな顔をする。
「でもどうして私がこっちに来たのが、あのおばさんにバレたのかな。それに蛍兄さんはともかく、常国兄さんまで、なんでこんなのをほったらかしにしているのかしら?」
「決して、野放しにしているわけでは――」
そう答えた瑠璃へ、ネリネが肩をすくめて見せる。
「まあ、私の心配することじゃないわね」
「それよりも、三吉があちらへ戻る手配をしています。後始末は私の方で行いますので……」
瑠璃が吉江と、床に倒れる伊藤を指さす。その目はまるで瀕死の虫を眺めるみたいに冷たい。
「不要よ」
ネリネが瑠璃に首を横に振った。
「ですが、せめて記憶ぐらいは消さないと……」
吉江を見つめるネリネの目が、怪しい光を帯びる。
「それも不要よ。このおじさんには、自分が抱えている物と、その成れ果てが何なのかを、よく考えてもらわないと。それが罪と言うものでしょう?」
そう告げると、ネリネは小さくため息を漏らした。
「それに裁くのは私の仕事じゃない。父さんの仕事よ。逃げたやつらを捕まえるのもね」