結界
田島は屋台の売上金を懐にねじ込むと、慌てて従業員向けの出口へ足を向けた。あの娘がいると言う事は、兄の蛍も近くにいるはずだ。こんなところをうろうろしていたら、どんなやばいことに巻き込まれるか、分かったもんじゃない。
しかし、田島は数歩駆けだしたところで足を止めると、背後を振り返った。その視線の先には、ネリネとみのりが入って行ったお化け屋敷がある。そこからは、妖気としか言えないものが漂っていた。たとえ人間でも、感がいい者であれば、それと分かるくらいの濃さだ。
「あの娘か?」
田島は首をひねった。だが立ち上る黒い澱みは、人の魂を食らったものだけが持つ、邪悪さに満ちている。田島はこれと似た妖気を持つ者を知っていたが、その名前を出すことすら、はばかられる存在だ。お化け屋敷からは、それに近いほどの妖気が漂っている。
「こいつはやべえぞ……」
額から滴り落ちる汗を拭うと、田島は再び従業員出口へ向かって駆けだした。だがまたも足を止める。あの気配がネリネでないとしたら、間違いなくネリネを狙う者だ。
田島はかつて、ネリネの世話役の雪女の瑠璃に、言い寄ったことがあった。全く相手にされなかったが、その時の経験から、大王がネリネをいかに大事にしているかを知っている。もしその身に何かあったら、どうなるだろうか?
大王は自分も含めて、地獄から逃げた妖怪を捕まえるために、二人の息子、兄の常国と、弟の蛍を人間界へ送り出している。その程度で済むとは、とても思えなかった。人間界そのものを吹き飛ばして、一度リセットするぐらいの事はやりかねない。
それは既にいくども起きている。人がそれを覚えていないのは、その当事者がすべて死んでしまって、誰も伝えるものが居ないからだ。
「や、やべえ。これはマジでやべえ!」
田島は目の前にある出口と、背後のお化け屋敷を交互に見つめた。ともかく中から、あの娘を連れださないといけない。田島はよろめきながらも、黒く塗られたお化け屋敷へ歩み寄ると、入口の暗幕を持ち上げた。
だが指先が何かに触れ、そこから血が滴り落ちる。中にいる者が、ここに結界を張ったらしい。よく見ると、黒く細い何かが、建物を覆いつくしている。
「髪の毛? と言うと、中にいるやつは……」
田島は慌てて屋台へ駆け戻った。屋台の下へ潜り込むと、ガスバーナーを手に取る。そして今度は迷うことなく、一直線にお化け屋敷へ向かった。
建物へ近づくと、田島の体はまるで陽炎にでもなったみたいに、ゆらゆらとゆらめき始める。見かけはチャラい男で、中身もその通りだが、田島は人間ではない。「しょうけら」と呼ばれる妖怪だ。
しょうけらは、どんなに狭い隙間にでも、G並みに潜り込むことが出来る。それに身に着けている物なら、一緒に中へ持ち込むことが出来た。どんなに恐ろしい結界でも、それが髪の毛で出来ているなら、内部の隙間から燃やして、穴を開けられる。
『待てよ? 俺も一緒に燃えちまわないか?』
田島はそんなことを考えたが、その体はすでに、髪の毛で覆われた結界の隙間へと吸い込まれていた。
「フン!」
薄暗い通路の中で、ネリネは忌々し気に鼻を鳴らした。入った時から、何かがおかしいと思ってはいたが、妖気が刻一刻と強くなっていくのが感じられる。
兄の蛍におごらせて、人間界での買い物と食べ歩きを満喫しようと思っていたのに、どうしてこんなことになっているのだろう。どう考えても、兄たち二人がさぼっているせいだ。
二人とも逃亡した妖怪たちを捕まえる為に、閻魔大王に心臓を預けて、人間界へきている。ありとあらゆることに、全くやる気のない蛍はともかく、あのまじめ一辺倒な常国が、この程度の妖怪を、未だに捕まえられずにいる。
ネリネは腹を立てると同時に、いつも偉そうに澄ました顔をしている、常国の姿を思い出して、含み笑いを漏らした。
「大したことないわね」
「でも、すごい悲鳴だったわよ!」
ネリネの独り言を聞いたみのりが、不安げな声を上げた。
「ほら、あの岩の後ろにも、何か隠れている気がしない?」
そう言うと、これまでにも増して、ネリネの体にしがみついてくる。ネリネはみのりの手をうっとうしく思いながらも、意外といい感をしていると思った。確かにあの向こうに何かがいる。それよりも、面倒を避けるために、さっさとここから出ないといけない。
「それじゃ、ここから出て――」
入口へ戻るために、ネリネがみのりの手を振りほどこうとした時だ。
「きゃ!」
不意に、みのりが黄色い声を上げる。
「く、くすぐらないでよ!」
「何もさわっていませんけど?」
「だって、私のおしりを触ったでしょう?」
でもすぐに不思議そうな顔をした。自分が両手で抱きしめているネリネが、おしりを触れるわけがない。しかし今でも、何かがおしりや足を触り続けている。みのりは携帯を手にすると、恐る恐る足元へその明りを向けた。
「髪の毛?」
それが照らしだした物に、みのりが当惑の声を上げる。ネリネは慌てて辺りを見回した。気づけば、壁も天井も、いつの間にか髪の毛で覆われている。
「困ったな……」
ネリネの口からつぶやきが漏れた。ネリネは兄たちと違って、心臓を地獄に置いてきてはいない。なので、この程度の結界を吹き飛ばすのは、造作もないことだ。しかし、どんなに力を絞ったとしても、隣にいるみのりはもちろん、この遊園地全体を吹き飛ばすことになる。ネリネが思わず首をひねった時だ。
「お嬢さん方、こっちだ!」
背後から声が聞こえた。振り返ると、タオルでハチマキをしたおっさんが、手にガスバーナーを持って立っている。それで焼いたのか、前髪はチリチリだ。今度はそれを見たみのりが、首をかしげて見せた。
「焼きそば屋のおじさん? あれ、前にどこかで会った気もするけど……」
「そうだ。いや、それはどうでもいいから、さっさとここから逃げろ!」
「ネリネちゃんも逃げよう。なんか、とってもやばい気がするの」
そう言って、自分の手を引っ張ろうとしたみのりの口へ、ネリネは手にした小さな布を当てた。それを嗅いだ瞬間、みのりの体が崩れ落ちる。いたずらをするのに便利なので、ネリネがいつも持ち歩いているものだ。
「ぼけっと見ていないで、この子を支えてくれない?」
田島は慌ててガスバーナーの火を消すと、ネリネの元へ駆け寄った。ネリネが、みのりを抱きかかえる田島を、じっと眺める。
「あなた、しょうけらね。前にどこかで見た記憶があるけど、どこだったかしら?」
「あ、あの――」
ネリネの問いかけに、田島は口ごもった。ネリネに出会ったのは、瑠璃に振られて、思いっきりほほをぶたれた時だ。
「まあいいわ。それよりも、三途の川岸の蓮の香りをかがせたから、しばらくは眠ったままよ。それに、今日一日の記憶も消えるでしょう」
「三途の川岸の蓮? そんなものを、いつも持ち歩いているんですか?」
そう声を上げた田島を、ネリネがじろりと睨む。
「それがなに?」
「い、いえ、なんでもありません。それよりも、ここに結界を張ったやつの目的はお嬢さんです。さっさと逃げてください」
「そうでしょうね。そちらこそ、この子を連れて、さっさと逃げて。それと間違っても、いたずらなんかしちゃだめよ。そんなことをしたら……」
ネリネの指先に、小さな炎が灯る。それを見た田島は、思いっきり上体をのけぞらせた。目の前の小さな灯りは、ただの炎なんかではない。ありとあらゆるものを焼き尽くす、地獄の炎だ。
心臓を地獄に置いてきていないネリネは、父親である閻魔大王から受け継いだ、地獄そのものが宿っている。ある意味、地獄の一部とも言えた。
「返事は?」
「はい、絶対に手は出しません!」
田島は背筋を伸ばして答えると、意識のないみのりを抱いて、小屋の外へと飛び出した。