後悔
「遊園地って、ここですか?」
ネリネは思わず背後に立つみのりへ問いかけた。目の前にあるのは、かつては白だったと思うが、錆が浮いて、茶色く縁どられた入り口だ。上には「みつばち園」と書かれた看板があり、その両脇に棒を持った、間抜けな顔をしたミツバチが描かれている。
「私がまだ小さかった時は、人がそれなりに来ていたんだけどね。最近事故が続いたって話があって、人がほとんど来なくなったみたいなのよ」
みのりの言う通り、アーチの先に人の気配は感じられない。その向こうに見えるのは、いつの時代の物かも分からない、相当に古臭い遊具だ。これならいつ何時、事故が起きてもおかしくはなさそうに思える。
「事故と言っても、よく聞くと、途中で止まっちゃったとか、大したことが無い奴なんだけどね………」
みのりはそこで言葉を切ると、ネリネの耳元へ口を寄せた。
「何人かここで行方不明になった、という噂があってね」
その台詞に、ネリネはみのりの顔を見上げる。みのりはネリネを見ながら、ニヤニヤした笑いを浮かべた。どうやらネリネの呆れ顔を、自分の話を怖がっている表情だと、勘違いしているらしい。
「怖かった? でも安心して、都市伝説よ」
「都市伝説?」
「そうそう。私が子供の頃からあった話だからね」
「それに、今はこう言うのが流行っているじゃない。イクラじゃなくて、ウニじゃなくて……」
「レトロですか?」
「そう、レトロ。それよ!」
ネリネはさびれた遊園地へ視線を戻した。人間界から見ると、色々なものが遅れまくっている地獄界は、ある意味ではレトロのてんこ盛りだ。その手の古臭いものには、もう十分に飽きている。ネリネは速攻で回れ右をしようとしたが、みのりにその手を引っ張られた。
「ネリネちゃんみたいな、かわいい妹と遊ぶのって、昔から夢だったんだよね。何に乗ろうか? 今日は貸切みたいなものだから、何でも待たずに乗れるよ!」
「あ、あのー、今日はやめに――」
みのりはネリネの言葉を真っ向無視すると、その小柄な体を引きずるようにしながら、遊園地の中へと進んでいく。
「みつばちランドは、良い子のランド――」
全てをあきらめ、ため息をついたネリネの耳に、遊園地のテーマ曲らしい、怪しげな歌と音楽が聞こえてきた。
「何の儲けもないのに、こんなくそ熱いのなんて、やってられるか!」
田島は目の前の鉄板に向かって毒突いた。水を掛けた焼きそばの上からは、湯気がもうもうと上がっている。鉄板とその湯気の熱で、タオルで鉢巻きをしているにも関わらず、額からは汗がぽたぽたと流れ落ちていく。
「ちくしょう、人間界と言うのは、なんでこうもいけずな所なのかね……」
うんざりした顔をしながら、田島は着ているアロハシャッツの襟を、手でパタパタと仰いだ。
「もっとも、あの何の刺激もない所も、ごめんだけどね」
田島は再びぼやきつつ、鉄板の上の焼きそばにソースを振りかける。見かけはいかにも軽そうな人間の若者だが、実際のところは、「しょうけら」と呼ばれる妖怪だ。本来ならこの人間界ではなく、地獄界にいるはずなのだが、とある事件で地獄の門が開いたどさくさに紛れて、人間界へとやってきた。
なんの面白みもない地獄に比べれば、欲が凝り固まって出来ている人間界は、実に刺激に満ちている。田島はそれを楽しみまくるつもりだった。だが人間界で何かをするにはあるもの、「金」がいる。それに地獄からは追手もかかっており、とある件では、もう少しで地獄に送り返されそうにもなっていた。
それが何とかなったのは、色々な偶然と、何より自分を捕縛すべき相手にやる気がなかったからだ。ともかく、しばらくはおとなしくするに越したことはない。そんなこんなで、田島はこの古ぼけた遊園地で、焼きそばの屋台のバイトをやっていた。
「いくらなんでも、客が居なさすぎじゃないのか? 閑古鳥なんてもんじゃないぞ!」
最近事故があったとか無かったとかの噂のせいか、日曜日だと言うのに、人影がほとんどない。静まり返った遊園地は、それ自体が巨大なお化け屋敷みたいに思えてくる。
田島は子供のキンキンした声が大っ嫌いだったが、今ならそれの一つや二つぐらいは、特別に許してやってもいい気分だった。
「次は何に乗ろうか!」
不意に若い女性のかん高い声が、田島の耳に響いた。見ると、二人組の女の子が、屋台の方へと歩いてくるのが見える。田島は焼きそばをへらでつつきながら、二人組の女の子をぼんやりと眺めた。
姉妹だろうか? 一人はポニーテールに髪をまとめ、今どきの格好をした、高校生ぐらいの女の子だ。もう一人は背中までの長い髪の中学生、いや、小学生の高学年ぐらいの子で、レトロな感じの白いワンピースを着ている。
「ジェットコースターに、ウェーブスインガーはもう繰り返し乗ったから、次はバイキングかな」
ポニーテールの少女が話すのを聞いて、ワンピース姿の少女は、見えないところでうんざりした顔をしてみせた。色白でとてもかわいらしい顔をしているのに、その表情はとても年相応のものとは思えない。田島はなぜか、その顔に見覚えがある気がした。それが地獄で見た景色に重なる。
「えっ、まさか!」
手から金属製のヘラが滑り落ち、鉄板の上でけたたましい音を立てる。
「あちい!」
田島は慌ててヘラを拾ったが、鉄板の熱さに悲鳴を上げた。その声に気づいたのか、ポニーテールの子が屋台の方へ顔を向ける。驚いたことに、その顔にも田島は見覚えがあった。慌てて屋台の下に体を隠しつつ、鉄板に触れた指を、具材を入れた冷凍ボックスへ突っ込む。
「やべえ。あの時のJKだ……」
田島はポニーテールの少女、みのりとも面識があった。パパ活の紹介で小金稼ぎをしようとした時に、関わった女子高生の一人だ。田島はその事件に引き込んだ張本人そのものであり、あの時と姿かっこは違うとはいえ、面と向かって顔を合わせれば、間違いなくばれる。
だが所詮は人間の女子高生だ。やばいと言っても、たかがしれている。問題はワンピース姿の少女の方だった。
「ま、間違いない。あ、あれは……」
「乗り物はちょっと……」
身を隠す田島の耳に、二人の話し声が近づいて来る。
「そう言えば、お腹が空いてきたわよね。先にお昼ご飯にしようか!」
パタパタとこちらへ駆けてくる足音に、田島の額からはねっとりとした汗が噴き出す。今度のそれは暑さのせいではない。冷や汗だ。
「焼きそばを二つください」
そう声を掛けたみのりが、屋台の下にうずくまっている田島を見て、怪訝そうな顔をする。
「おじさん、大丈夫?」
「絶好調です!」
田島は額からずり下したタオルで目元を隠しつつ、みのりに向かって必死に親指を立てて見せた。
「信じられない!」
ネリネはそう呟くと、木陰のベンチの背もたれに身を預けて空を仰いだ。木の間からは黄金色の光が差し込み、初夏のさわやかな風が吹いている。だが今のネリネはそれを楽しむ気にはなれなかった。人が全くいないので、これでもかと言うほど、遊具に乗り続けたせいだ。
遊具の一つ一つは、決してハードなものではない。だがそれを続ければ、荒波の小舟に乗り続けるよりも、余程にひどい目にあっていることになる。
ネリネは屋台で焼きそばを買い求めるみのりへ、視線を向けた。その背中からは、疲れた様子などみじんも感じられない。それどころか、食欲まであるらしい。どう考えても、地獄の鬼たちなんかよりも、よほどに恐ろしい存在と言える。
数百年に一人ぐらい血の池地獄を見て、「とってもきれい!」とか、針の山を見て「楽しそう!」なんて台詞を吐く魂がいたりするが、みのりは間違いなくその類だ。地獄へ行っても、リゾート気分で鼻歌を歌うことだろう。
「それに、どこにもいないじゃないの!」
ネリネは兄の蛍の、陰気な顔を思い出しつつ毒づいた。もしかしたら、自分が来るのを察知して、みのりと言うとんでもない罠で、自分を待ち受けていたのではないだろうか? そんな妄想すら頭に浮かんでくる。
「お待たせ!」
上機嫌な声と共に、フタが締まらないほど山盛りに盛られた焼きそばが、目の前に現れた。
「すごい大盛よね。なんか知らないけど、屋台のおじさんがサービスしてくれたの。やっぱり、女子高生ってお得なのかしら?」
みのりはネリネの横へ腰を掛けると、大盛りの焼きそばを、おいしそうに頬張り始めた。
「遊園地で食べる焼きそばは特別よね。この後はどうしようか? 一通りは乗りつくしたけど、もう一週してみる?」
「いえ、遠慮します」
「大したことはないから、飽きちゃうよね。もうちょっと、演出と言うか、スリルがあればいいんだけど……」
みのりが少し不満げな顔をして見せる。その顔と、山盛りに盛られた焼きそばを見ながら、ネリネは再びうんざりした顔をした。兄の蛍はどこへ行ったか分からない上に、みのりはまだ何かに乗り続けるつもりらしい。
ネリネは肩からかけていた、豚の顔のアップリケがついたポシェットを開くと、みのりの見ていないところで、焼きそばを全部放り込んだ。焼きそばで口を一杯にしたみのりが、ネリネを見て驚いた顔をする。
「若いわね。私も小学校や中学校の時には、男子に負けないぐらいお代わりが食べられたんだけど、もう年ね」
「それよりも、兄たちを探しに行かなくていいんですか?」
どの口がと思いつつ、ネリネはみのりに問いかけた。
「まだ時間は十分にあるし……」
ゴミ箱へネリネの分のビニールパックを捨てながら、みのりがつぶやいて見せる。ネリネの言葉は全く耳に入っていないらしい。
「お腹も一杯になったことだし、少し涼し気な場所へ行かない?」
そう言うと、園の隅っこにある黒塗りの小屋を指さした。
「なにこれ?」
それを見たネリネの口から、思わず言葉が漏れた。黒塗りの小屋には、風雨にさらされて、だいぶ薄くなった看板がかかっている。そこには赤い冠を被り、手に笏を持ち、黒い逆立った髭と、真っ赤な目をした大男が描かれていた。よく見れば、禿げた金文字で「えんま大王」と書かれている。
閻魔大王はネリネの父親だ。確かに小うるさいし、怒りっぽいところはあるが、いつまでもこの姿で描かれているのは、少しかわいそうな気がした。
入口の上には、「恐怖の地獄めぐり。生きてあなたは帰ってこれない」との宣伝文句があり、死に装束を着た亡者達が、右往左往する姿が描かれている。ネリネは額に手を当てた。地獄は死人の行くところだから、このコピーを書いた人間は、地獄の定義から勉強をし直すべきだろう。
「それと、ネリネちゃんにお願いがあるの」
その目はこれまでと違って、やたら真剣だ。
「中では私の手を絶対に離さないでね。小さい時に、友達のなずなと入って以来なんだけど、その時はもらしちゃいそうになったぐらい、怖かったのよ!」
みのりがネリネに向かって、手を合わせて見せる。
「はあ……」
これのどこが怖いのだろう? 休むことなく遊具に乗り続けるみのりの方が、余程に恐ろしい存在だと思いながら、ネリネはあまりにも適当に書かれている地獄の絵を眺めた。
「約束よ!」
みのりがネリネの手をぎゅっと握り締める。その力はあまりに強く、いたいぐらいだ。
「あの、やっぱり兄を――」
「さあ、地獄にリベンジよ!」
みのりはネリネの台詞をまたも無視すると、今度は人気のない小屋の入り口へ、ネリネを引きずり込んだ。