疼き
吉江は夢を見ていた。これが夢だと言う事はよく分かっている。何度も、何度も繰り返し見た夢だ。夢の中で吉江は雀の鳴き声で目が覚める。だが吉江は目をつむり続けた。
とても暖かく、心地よいものに包まれていて、まだ起きたくはない。それでもうるさく鳴き続ける雀の声と、カーテンの隙間からもれてくる日差しに、吉江は目を開けた。そしてゆっくりと起き上がる。
夜明け前なのだろうか? まだ子供の自分の手が、真っ赤に染まって見える。それに手だけでなく、全身が赤く生暖かい。そして雀の鳴き声……。
ヒュ――、ヒュ――。
まだ幼い自分が、やっとその音が雀の鳴き声でないことに気づく。それは隣に寝ている、母親の喉が立てる音だ。そして自分を温かく包んでいたのは、そこから流れ出た血溜まりだった。
「ちょっと、遊びに行くって、まさかここなの!?」
若い女性の声に、吉江は目を覚ました。伊藤は地上げのしのぎの為に、とあるさびれた遊園地へ伊藤と、伊藤が連れて来た女と向かっていた。その途中、車の後部座席で揺られているうちに、いつの間にか寝てしまったらしい。一体どうしてしまったのだろう。吉江は頭を振った。しのぎに行く途中で転寝をするなど、これまではあり得なかったことだ。それにあの夢も、最近は頻繁に見るようになっている。
何かがおかしい。吉江はそれがいつ始まったのかは分かっていた。あの女に会ってからだ……。吉江の視線の先では、金髪に髪を染めた若い女性、伊藤の彼女の美咲が、同じような髪をした伊藤に向かって、呆れた顔をしている。
「まだおしめをしている、ガキの行くところじゃない。私、帰る!」
伊藤が助手席のドアを開けようとした美咲の手を、慌てて引っ張った。
「おい美咲、吉江の兄貴の前で、何をふざけた事を言っているんだ!」
「だって、TDLならまだしも、ここよ!」
そう伊東に叫ぶと、美咲はフロントガラスの向こうを指さす。そこには色褪せた看板がかかっていて、まぬけな顔をしたミツバチが描かれていた。
「それに最近は、行方不明者まで出ているらしいじゃない!」
「そんなの、昔から言われている質の悪い噂だろう?」
伊藤の答えに、美咲が首を横に振って見せる。
「私の知り合いの知り合いが、ここへ行った後で、行方が分からなくなっているらしいのよ!」
「知り合いの知り合いって、もう赤の他人だろうが。それに単に、相手に逃げられただけだろう?」
「違うわよ。ぞっこんだったんだから」
「知り合いの知り合いなのに、よく分かるな」
「店で巴から聞いたの!」
「お嬢さん」
吉江の声に、前の席に座る二人が口を閉じた。
「ここはガキの頃に、何度か母親に連れてきてもらったことがあってね。懐かしくて、中を覗いてみたくなったんだが、一人ではちょっと目立ち過ぎる」
そう告げると、吉江は真っ黒なシャツの上の赤いネクタイを指さした。その出で立ちは、とても堅気には見えない。
「それで、伊藤に付き合ってもらうことにしたんだが、お嬢さんは、そのとばっちりと言ったところだな」
「そうなんですね」
美咲が納得したようにうなずく。
「まあ、そんなに長居するつもりもない。ここを跳ねたら、二人で何かうまいものでも食べてくれ」
吉江は懐から長財布を取り出すと、何枚かの万札を、前に座る伊藤へと差し出した。そして車から出ると、助手席のドアを開けてやる。美咲は驚いた顔をしたが、慌てて車から降りてきた。
「お嬢さんは、これでチケットを買ってきてもらえないか?」
金を受け取った美咲が、誰もいないチケット売り場へと駆けていく。
「兄貴、すいません!」
車から出てきた伊藤が、吉江へ直角に頭を下げる。吉江はその肩を軽く叩いてやった。
「お前の彼女の言う通り、まだおしめをしたガキがお似合いの場所だ。だが俺達のしのぎにとっては、とても大事な場所でもある」
「はい。すぐに車を止めてきます」
吉江は伊藤に片手を振ると、ポケットから煙草を取り出した。伊藤がすぐに火をつける。
「中は禁煙らしいからな。これを吸ってからいく。お前は先に入っていろ」
「車はどうします?」
「俺が止めておく。それよりも、分かっているな?」
「はい。警察が呼ばれない程度に、うまくやりますよ」
「それでいい」
伊藤は道の向こうで待つ美咲へ手を振ると、青信号に変わった横断歩道を渡っていく。二人は何だかんだで仲がいい。いや、そうだからこそ、伊藤はホストもキャッチも務まらない男と言える。
二人を見送りつつ、吉江は車へと戻った。それを裏手にある駐車場へと走らせる。アスファルトの割れ目から草が生えている、手狭な駐車場に人影はいない。吉江はそれを満足そうに眺めると、フロントガラスへ向かって、ゆっくりと煙を吐き出した。
「みつばちランドは良い子のランド〜♪」
風に乗って、はるか昔に聞いた歌が流れて来る。地上げなんてのは、今どき流行らないしのぎだが、裏手にある雑居ビルと合わせると、かなりの土地だ。それに口では非難しながらも、未だに吉江たちの手を必要とする、自称堅気たちは山ほどいる。
ガチャ!
吉江が灰皿に煙草を押し付けて、車から出ようとした時だ。背後で扉が開く音がした。しかも何者かが車へと乗りこんでくる。先ほどミラーで確認した時には、周囲に誰もいなかったはずだ。吉江はとっさに、車の座席の下に張り付けてあるガバメントへ手を伸ばすと、安全装置を外しつつ、それを後部座席へと向けた。
「慌てないで頂戴」
後部座席に座る人物が、ニヤリと笑って見せる。
「姐さん?」
座っている人物が誰か分かると、吉江は安全装置を戻したガバメントを、背中のベルトへと差し込んだ。
「紫乃って、名前で呼んでもらえないかしら? 姐さんなんて呼ばれると、とっても年をとった気分になるの」
「紫乃さん、お一人ですか?」
吉江は車の周りを見回した。辺りに人影はない。この女にはいつも宗像がひっついていたはずだ。吉江は心の中で首を傾げつつ、ポケットからライターを取り出すと、女が取り出した煙草へ火をつけた。
「そうよ。あなたがここに来ると聞いて、私も遊びに来たの」
紫乃は妖艶な笑みを浮かべながら、吉江をじっと見つめる。その黒い瞳に、魂が吸い込まれてしまう気がして、吉江は慌てて視線を前へ戻した。
「一人じゃ目立ち過ぎるでしょう?」
バックミラーに映る紫乃が、煙を吐きつつ告げる。
「伊藤が女を連れてきていますので――」
「あの坊やはどうでもいいわ。私はあなたと回ってみたいのよ」
そうつぶやくと、紫乃は吉江の首筋へそっと指を這わせた。