プロローグ
「随分と遅いですけど、なんか揉めているんですかね?」
運転席に座る伊藤の言葉に、助手席に座る吉江は、サングラスを持ち上げると、その横顔を眺めた。髪を金髪に染めて、耳には大きなピアスをいくつもぶら下げている。
女や弱い奴にはイキがって、上の物にはへこへこする。ちゃらい男の典型だ。キャッチをやらせていたが、ろくに女の面倒もみれないので、今は運転手をやらされていた。
一方の吉江はと言うと、とある組に所属しているが、フロント企業を巡るいざこざに巻き込まれて、今はとある半グレのケツ持ち、実際はボディーカードをやらされている。世のサラリーマンたちは、これを出向と呼ぶのかもしれない。
こうして半グレのリーダーである宗像が、とある会合へ出るのに付き合って、伊藤と一緒に、車の中でそれが終わるのを待っている。
「宗像さんも、ちょっと前までは俺と大して変わらなかったのに、今では大したもんですよ。モシモシでちゃんと演技が出来るやつは、俺なんかと違って、やっぱり頭がいいんでしょうね」
フロントガラスを流れる雨粒を眺めながら、伊藤がぼやいた。そして助手席に座る、吉江の方へ顔を向ける。
「やっぱり、福マンと言うのはあるんですかね?」
「福マン?」
「ええ、うちの連中がみんな言っています。宗像さんがここまで来れたのは、姐さんのお陰だって」
そう言って、伊藤は薄ら笑いを浮かべて見せたが、無言の吉江を見て、やばいと言う顔をした。
「ほ、他の連中が噂しているだけです。い、今のは宗像さんには内緒にしておいてください。ばれたら、えらい事になるんで……」
頭をかく伊藤を横目で見ながら、吉江は心の中で嘆息した。聞かれてもいないことを口にすることが、この稼業ではどんなに危険なことか、伊藤は未だに理解していないらしい。
「そんな事より、やっと終わったようだ。エンジンをかけろ」
伊藤が慌てて、エンジンのスタートボタンを押す。吉江はバックミラーの中に誰もいないことを確認すると、傘を手にして、助手席のドアを開けた。
奥には狭い路地があり、窓や入口がべニア板で塞がれた、薄汚れた雑居ビルが並んでいる。その一つ、まだ入り口が塞がれていない建物から、男女がこちらへと歩いて来るのが見えた。
一人はブランド物のスーツに身を固めた細身の男で、まだ年は40台半ば。精いっぱい虚勢を張ってはいるが、どこかから小物感が漂っている。だがその背後に続く女は別物だった。
紫のラメが入った生地のドレスに、皮のレインコート。ストレートの腰元まである長い髪。まるで昭和の女優か、銀座のホステスみたいな姿だ。大した高さのヒールを履いていないのに、背の高さは前を歩く宗像と同じか、それよりも高い。
吉江は傘を宗像へ向けて差し出した。宗像が首を僅かに後ろへ向ける。傘を自分ではなく、背後に続く女へさせという事らしい。吉江は後部座席のドアを開けると、素直に手にした傘を女の頭の上へ掲げた。
「ありがとう」
女が吉江の目を見つめながら、口元へ笑みを浮かべて見せる。だが吉江の鼻は、女の体から香水ではない、別の何かをかぎつけた。生臭く、そして吐き気を催したくなるにおい。血が乾くときに放たれる、独特のやつだ。
「いつの間にか降っていたのね」
ビルの隙間から降ってくる雨を見上げながら、女がつぶやく。この女に出会って以来、女が見せるこの顔に吉江はどこか見覚えがあった。だがそれをどこで見たのかを、吉江はずっと思い出せずにいる。
「渇いているわね」
「乾いているですか?」
その言葉に、吉江は我に返った。気づけば、宗像はすでに車の中に座っている。吉江は頭の上の黒い雲を見上げた。そこからは止むことなく、雨が降り続いている。
「吉江、あなたは私に似ている。満たされない何かに、いつも渇いているの」
そう告げると、女は白くなまめかしい太ももを露にしつつ、クルマの後部座席へと乗り込んだ。