8.それぞれの夜
湯浴みを終えた私が部屋に戻り、ソファーの背もたれに寄り掛かると、髪を拭きながらジャイナが話しかけてきた。
「今日はお疲れになりましたでしょう」
「ええ、ものすごく」
強がりを言う余裕はなかった。
アンネとナナに連れられ、子どもたちの輪に入った私は、嵐の中に放り込まれた木の葉のような心地だった。
「すごいのね、子どもって。走っても走っても、すぐにまた走れるのよ」
「子どもたちの遊びへの情熱はすさまじいものですから」
私が入ると追いかけっこは子どもたちの圧勝で終わる。数人組をつくって競う遊びも、私のいる組はいつも負けてしまう。それでも子どもたちは私を輪から外そうとしなかった。
「私がいると負けてしまうのに、どうして懲りずに私を加えようとするのかしら」
「みな、ヒルダ様の事を知りたかったのでしょう」
「私のこと、ね……」
その言葉にジークの言葉を思い出す。
『――私はもっと君を、君の育った国のことを知りたい。そして君にもこの国の事をもっと知って欲しい。好きにならずともいいんだ。どんな人間が生きている国なのかを君に見てもらいたい』
(この国のこと……。私の育った国のこと……。そして、私のこと……)
ふかふかのパン、そして土のついた木の実。
私は目の前のテーブルに視線を向けた。そこにはアンネから手渡された木の実が乗っている。
この国に生まれ育ち、今を生きる人々の息遣いを近くに感じた一日だった。それこそウェリンズで過ごした十六年間と同じくらいの密度で。
「子どもたちの相手をしてくださったこと、母親たちが本当に感謝しておりましたよ。おかげで仕事がはかどったようです」
ジャイナが私の背後で、髪を丁寧に拭きながら口を開く。顔を見ずともジャイナが微笑んでいるのがわかる声色だった。
「……初めて遊んだわ」
私は子どもたちの笑い声を思い出しながら答えた。
「私の国ではね、貴族は行儀よく座って遊ぶように教えられてきたの。ずっと本を読んだり、ボードゲームをしたり……あんなふうに走り回って遊ぶことはマナー違反だったの」
記憶の中の子ども時代は、いつも机に向かっていた。遊び相手はいつも大人。年の近い貴族の子どもたちも同じように過ごしていたのだろう。顔を合わせることはあっても、どう誘っていいのかわからなかった。
屋敷の中ですら、祖父や祖母の目がある以上走り回ることも許されなかった。二言目には『庶民の子とは違うのだから』と言われ――。
(そういえば、いつだったか馬車から見えた子どもたちが走って遊んでいたのよね。あの時は気づかなかったけれど、私たぶん羨ましく思っていたんだわ)
本当ならこんなこと思ってはいけないのだろう。
でも、どうしても口に出さずにはいられなかった。
「今日はとても楽しかったわ……」
「さようでございましたか」
ジャイナは静かに頷き、ポンポンと布で挟むように私の長い髪を拭き続ける。
そしてもう一つ。
「あの方は、本当にカラザス王なのね……」
「……はい。私たちの誇りです」
私の中の疑いが完全に晴れたわけではない。けれど、人々を見る彼の眼差しは力強く、人々の彼に向ける眼差しもまた、尊敬の念で溢れていた。
(私が彼の隣に立つことは決まっている――彼の『妻』として。でも私はあの人を……)
木の実の乗ったテーブルの上には、昨夜と同じように守り袋を預けた小箱も乗っている。
(それでも私が愛するのはレスター様だけ。彼の思いを託されたからには、最後までやり遂げなければ――)
迷いはない。
彼の死によって悲しむ者が生まれようとも、私が望むのはレスター様との未来……。
きっと、幸せな未来が訪れるはずだ。
「……私、それまでこの国をどれくらい知ることが出来るかしら」
ぽつりとこぼれた独り言はジャイナに届くことは無かった。その証拠にジャイナの私の髪を拭くリズムは変わらない。それを確認し、私はそっと目を閉じた。
◇
「重鎮たちの評判は上々っす。なにより奥方様たちの好感を得たのは大きかったっすね。いやぁ、まさかまさかっすよ」
ルインが感心しているのは、今日の農場での彼女の振る舞いだ。まさか潔癖といえるほど庶民を拒絶していた彼女が、子どもたちと一緒に遊ぶなど予想もしていなかった。
「ジャイナがうまいことナナに話してくれたらしい。二人の功績だ」
どうもジャイナがナナにヒルダの立場を説明したらしい。アンネとナナの父親は城の高官として働いていることもあり、ナナは幼いながらに賢い。きっとナナが気を利かせて、アンネを誘導してくれたのだろう。
「へえ~。でも逆に考えたら怖すぎますね。一気に周りが敵だらけになっちゃいそうで」
ルインはソファーに座ったまま耳をほじり、全く興味なさそうに返事をする。この男、また俺の部屋に来てくつろぐだけのつもりなのだろうか。
「それで? お前は何か報告があってここに来たんじゃないのか?」
「あ。そうでした」
耐え切れずに切り出すと、ルインは悪びれもせずポンと手を打った。ごそごそと胸元から一枚の紙を取り出すと、俺に手渡した。
「……なるほど。かの国ではそんな状況になっているのか」
「ええ、相変わらず呑気なもんっすよ。本当に今の状況わかってんすかね?」
ルインから渡された書面には、ウェリンズ国の最近の債務状況が記されていた。
「カラザスと争っていたせいで軍事費がかかっているとはいえ、これはあまりにもひどいな……。国家予算の何年分を使っているんだ?」
「例の王太子殿下が調子に乗り始めてから特にひどいらしいっすね」
「はぁ……この様子じゃこちらが渡した物資や金は使い果たしているんだろうな」
現ウェリンズ王太子レスターの周辺国からの評判は最悪だ。カラザスを悪し様に言い、同情を買って支援を受けては踏み倒す。仇で返すような真似をしている男だ。
「それにようやくウェリンズの本性が広まってきましたからね。他の国々から返済を迫られ始めると、相当きっついんじゃないんすか?」
「そうか……。ということは、じきに彼女がらみで何か言いがかりをつけてくる可能性も――」
「ありありのありっすよ!」
ルインが声を張り上げた。
「恩返しだかなんだか知らないっすけど、どうしてこんな面倒くさい人選をしたんだか。このせいでカラザスが無くなったら、俺一生恨みますからね」
「ま、まあまあ……。それにお前たちを面倒なことには巻き込まないさ」
「違いますよ。あんたに何かあったら困るって言ってるんですよ」
その言葉に顔を上げると、ルインの顔は全く笑っていなかった。
「その目だってそうっすよ……。あんたは良かれと思って俺を守ったかもしれないけれど、少し間違っていれば死んでいたかもしれない」
「ルイン、それはもう――」
俺の眼帯の奥がズキンと痛んだ気がした。
この傷は戦地でルインをかばって出来た傷だった。もう気にするなとは言ったものの、ルインからしてみれば自分のせいで主君を傷つけたも同然だ。普段は明るく振舞っているルインだが、その出来事を深く悔やんでいるのは知っている。
「もしあの子絡みであんたに何かあったら、俺はたとえ戦争が再開したとしてもあの子をぶっ殺します。ウェリンズだってぶっ潰してやる」
「おい、言い過ぎだ」
「俺にとってはそんくらい大事な人なんすよ、あんたは」
ルインの焦茶色の瞳が俺を見据える。
「……とりあえず油断だけはしないでくださいよ」
「ああ、わかった……。いつもすまない」
ガタっと音を立ててルインが席を立った。
「んじゃ、とりあえず向こうの国には『ヒルダ様は農作業をさせられました』って報告させときます」
「頼んだ」
「は~い。かしこまりました」
カラザスに忍びこんでいるウェリンズの諜報員はすでにこちら側についている。いわゆる二重スパイというやつだ。
豊かな国に送り出した彼女が、何不自由なく生活していると知れば、ウェリンズの人々は妬み、攻撃してくるだろう。そこで彼女が庶民と同じことをさせられていると伝えることで、ひとまず彼らの溜飲が下がると予想しての報告だ。
ルインはヒラヒラと手を振って、俺の部屋を後にした。
態度はふざけているが、俺が最も信頼している男だ。彼の思いを裏切る訳にはいかない。
「このまま、人々が安心して暮らせる国を保たねば……」
俺は彼女がパンを頬張る姿を思い出していた。パンにかぶりついた途端、目をきらきらと輝かせ「おいしい」と呟いていた。
「うまそうに食っていたな……」
あの時、もっと彼女のことを知りたいと思ってしまった。自分の命を狙っているというのに……。
「せめてこの国にいる間は、彼女が少しでも幸せに過ごせれば――」
俺はカラザスの夜空に密かに願ったのだった。