7.君を知りたい
カラザスの歴史は浅い。
周辺国が見捨てた痩せた土地を約100年ほど前にニブレット一族が統一し、カラザス王国が建国された。恐るべきカリスマ性の持ち主だった初代カラザス王は、その地に住む人々の心をあっという間に掴み、カラザス王国の基礎を作り上げた――というのが、歴史書に書かれている内容だ。
(けれど『ウェリンズ王国には到底及ばない、下等な文化の国』だとも書いてあったわ……。それは間違ってなかったわね。だって今だって無理矢理私をレスター様から引き離したにも関わらず、王の名を騙り、私を嘲笑っているのですもの)
そこでようやく現国王ジーク・ニブレットは睨みつける私の視線に気づいたのだろう。人々に向けていた目を私に向けた途端、ハッとした表情をみせた。
「え、っと……夜はよく眠れたか?」
「……」
ジークは唯一見える右目を泳がせ、慌てて取り繕うように問いかけてきたが、私は頷くのみで答えた。
「……そうか、それは良かった。本当によくここまでよく来てくれたな」
「……」
「あ、はは……。今日は天気もよくて、外仕事にはぴったりの日だな」
「……」
「は、はは……」
そう言いながらジークはポリポリと頭をかいた。きっと困った時の彼のくせなのだろう。
再び遠くに視線を向けたジークを見ていると灰青の長い髪が風に揺れた。私の白金の髪も同じように、風に撫でられふわりと揺れる。
そういえばウェリンズでは髪が風になびくことがなかった。洗うことを控えているせいで、じっとりと重くなった髪の毛はきつく結い上げるのが基本だったからだ。
(風……思ったよりも、気持ちのいいものだわ)
ジークの視線の先には小屋に向かうジャイナたちの背があった。もうだいぶ小さくなり、小屋の影に曲がっていく所だ。
「――すまない、たまたまさっきの話を聞いてしまったんだ」
ジークが口を開いた。だが私は遠くをみつめたまま聞いていた。
「私は間違いなくこの国の王だ。君を騙すつもりなどない。ただ『証拠を』と言われたら少々困ってしまうが」
またジークが頭をかく気配がした。
「それなら――」
こんな男と話すつもりなんかなかった。けれど私の唇は自然と動き出していた。
「それならなぜあなたは庶民とともに仕事を? 王は庶民に混ざり、泥に汚れたりなどしないでしょう? それにその目の傷も。王が戦場に出るわけないじゃないですか」
そう言いながら顔を向けると、困ったように眉を下げたジークと目が合う。
「それも『この国ではこうなんだ』としか言いようがないな」
「なんてこと……」
身も蓋もない答えだ。怒りを通り越し、呆れて絶句する私にジークは情けない笑顔を向けた。
「すまない。なぜ一緒に働くのか、戦地に赴くのか……そんなこと考えたことがなかったから、全然答え方がわからないんだ」
「まぁ……」
(一国の王がこれでは、この国がいつまでたっても野蛮なままなのは当然だわ。どうしてこんな国に私たちの生活が脅かされていたのかしら……)
話を聞けば聞くほどウェリンズの崇高さが際立つ。
(私には一生かかっても理解できない国だわ。早くレスター様の元に戻らなくては……)
私は胸元に手を当てた。あの守り袋は肌身離さず持ち歩いている。
「――でも、しいて言うなら……」
「――っ?」
ジークの声に私はハッと顔を上げると、透き通る琥珀色の瞳が私をまっすぐに見つめていた。
「君の問いへの答えは『この国の中心は私じゃないから』かな。この国の中心は、ここに住む民だ。私はその民の住む土地を守る盾にしかすぎない。民のために汚れることも、傷つくことも……それが王としての私の役割だと思っている」
「王の役割……」
「そうだ。民の喜びや苦しみを知らずして王を名乗るなど、おこがましいと思っている」
私が呆れている間、ジークは私の投げかけた問いへの答えを考えていたらしい。ジークはきっぱりと断言した。
「――そして君のことも」
「え……?」
私が声をあげると、それまで固かった表情がフッと緩んだ。
「私は君を知りたい。君の育った国は近くて遠い国だった。それが今、君のおかげで距離が縮まろうとしているんだ。停戦したことで無意味に傷つく民も、失われる命もなくなった。君には感謝してもしきれない」
「私のおかげで?」
「そうだ、君が成し遂げた偉業だ」
「私が、成し遂げた……」
思いもよらぬ言葉に私は理解が追い付かず、オウム返しにジークの言葉を繰り返した。
(そんなこと考えたことなかった。私はただ、レスター様が望むからと……)
「私は君が危険を顧みずこの国に来てくれた勇気に、心から感謝しているんだ。私はもっと君を、君の育った国のことを知りたい。そして君にもこの国の事をもっと知って欲しい。好きにならずともいいんだ。どんな人間が生きている国なのかを君に見てもらいたい」
ジークはそこまで言うと、私に手を差し伸べた。
「改めまして――ようこそ、カラザスへ。君が来てくれて嬉しいよ」
「……っ!」
私に笑いかけるジークは眩しかった。それはけして明るい陽射しのせいだけではない。踏みにじられたと思っていた私の自尊心に、光を当ててくれたのだ――。
(この男は私からウェリンズを、レスター様を奪った憎い男。でも……)
私の手は無意識に動いていた。ジークの伸ばす手にあとわずかで触れる――
「ヒルダさまーっ! かあさまがパンをやいてくれたのー!」
「ひゃぁっ!?」
突然聞こえた少女の大きな声に、私は心臓が飛び出しそうになる。思わず伸ばしかけていた手を引っ込め、声の主を探すと栗色の髪を揺らしてアンネがこちらに駆けてくるところだった。
「あっ、こらアンネ! お二人の邪魔をしたらだめじゃない!」
次いで元気なナナの声が追いかけてくる。あっという間に私の足元にたどり着いたアンネは、手にきつね色をした塊を持っていた。
「はい、これヒルダさまのぶん」
「え……これ……」
アンネの小さな手が差し出した塊はパンだった。思わず受け取ると予想以上にふかふかで、まだ温かい。香ばしい香りが鼻先をくすぐる。香水の匂いが漂うウェリンズでは嗅ぐことのない香りだ。
「食べてみるといい。焼きたてのパンなど食べる機会はなかっただろう?」
「で、でも……」
アンネはなぜ私が食べないのか不思議そうな顔をしている。だが朝から何も口にしていない私のお腹だって、反応しないわけがない。
(どうしよう。このままではお腹が鳴ってしまいそう。空腹には慣れていたのに、昨日スープを食べたせいでこのパンが美味しそうにみえて仕方ないわ……)
アンネだって良かれと思って持って来てくれたのだ。だけど……。
周りを見回せばアンネとジークだけではない。ナナも、二人を追って来たジャイナもいる。
(人前で食べるなんてはしたない真似したら、私は庶民と同類になってしまう。でもここはもうウェリンズではないし、さっきの彼の話も……)
頭の中をぐるぐると言い訳がましいあれこれが回る。パンをジイッと睨みながら葛藤する私の耳元で、そっと囁く声があった。
「……心配はいらない。ここでは食べるのが上に立つ者としての礼儀だ」
「――えっ!」
弾かれたように横を見ると、いたずらそうに私を覗き込むジークの顔がすぐそばにあった。
「ガブっと行くのが一番うまいぞ」
「~~~っ! い、いただくわ!」
(もうこうなったら勢いでいくしかない!)
断じて照れ隠しではない。私は慌てて手元のパンに視線を戻し、勢いよくかぶりついた。
ふかふかのパンはすぐにちぎれ、口の中は香ばしさで満たされる。すぐにほんのりとした甘みが口いっぱいに広がり、目の前に星屑が広がるような気分になる。
「……おいひいっ」
「それは良かった。アンネとナナのお母上に後でお礼を言っておこう」
「うん! ナナねえさま、よかったわねぇ」
「お口にあってよかったです」
ジークの眼差しは温かく、私は思わず「おいしい」と口走ってしまったこと誤魔化すように二口目を口にした。
そんな私の様子を見て満足そうなアンネの姿に、ナナも嬉しそうに笑っている。
私が食べ物を口にしても、口いっぱいに頬張っても、庶民のようではしたないと見下す人間はここにはいなかった。私の周りで笑い合い、私に微笑みかけてくれる人がいる。私がその事に気づけるようになるには、まだもう少し時間がかかる。
「アンネちゃん、あそぼー」
パンを三分の一ほど食べ、私のお腹が限界に近づいた頃、不意にアンネを呼ぶ声が聞こえた。見れば数人の子どもたちが駆け寄ってくる。
「うん、いいよ! ヒルダさまもいっしょにあそぼー」
「えっ?」
思わぬ誘いに戸惑う私の横から手が伸ばされ、ジークが食べかけのパンを奪っていった。
「パンは私が持っていてあげよう。存分に遊んでやってくれ」
「わ、私遊んだことが――」
「だいじょうぶよ。わたしがおしえてあげるわ」
「はわわわ……」
「まったく……私も一緒に行くわ! さあ、ヒルダ様」
アンネは手が空いた私の隙を見逃さず、ぐいぐいと引っ張って行く。止めてくれるかと思ったナナも、同じように手を取り、私は二人に引っ張られるように子どもたちの輪の中に連れ込まれた。
「ちょ、ちょっと私――」
「心配いらない。ここで見ているから」
助けを求め振り返った私に、ジークは笑顔でひらひらと手を振るだけだった。
青い空の下に子どもたちの笑い声が響く。
土の匂いと人々の間を吹き抜けるカラザスの風は、私の髪を巻き上げ広い空に抜けて行った。