6.近くて遠い隣国
アンネとナナが向かうのはジークがいた小屋の方向。だがまっすぐ向かうわけではなかった。
「ほら、ヒルダさま。大きいでしょう?」
「え、ええ。すごいわね」
「ちょっとアンネ。拾ったらすぐに袋に入れなさい、落とすわよ」
二人は地面に落ちている木の実を拾いながら進んでいた。一歩進んではしゃがみ、と繰り返しているせいでなかなか先に進まない。アンネもナナもためらわず地面に落ちている木の実を拾っている。賑やかな二人のやり取りは微笑ましく、進まない足取りにうんざりしながらも思わず口元が緩む。
周りにも親子らしき組み合わせが何組か、二人と同じように笑い合いながら木の実を拾っている。
(何も気づかないって幸せなことね。貴族の生活を知らない庶民たちは、土に触れてもこんな風に笑い合えるのだから……)
「良い光景ですね」
「え?」
ジャイナがぼんやりと二人の姿を見ていた私に声をかけた。ジャイナは目を細め、木の実を拾う二人を見つめていた。
「こうやって穏やかに木の実拾いができるのは幸せです。自然の尊さを感じますね」
「尊い? ふん、また私を騙すつもりね。そうやって私を混乱させて、今度は何を期待しているのかしら」
地面に近づき、手を土に汚さねばならない行為の何が尊いというのだろうか。
ジークが国王を騙っていることを誤魔化せたつもりだろうが、私はまだ彼の事を疑っている。それにジャイナの同じ手はもう食わない。
「正直に言って良いわよ。私に土を触らせて、庶民扱いして楽しんでいたのでしょう?」
「そんな、庶民扱いなど――」
それまで二人を眺めていたジャイナが驚いたようにヒルダに目を向けた。しらじらしいにも程がある。
「馬鹿にするのもいい加減にして。土に足を下ろすのも触るのも、すべて庶民のすることでしょう。昨日の湯浴みも食事も、私を辱めるためのものだったのよね?」
一度口をついて出た思いは止まらない。だが案の定というべきか、ジャイナは私の言葉を否定した。
「そのような意図はございませんよ」
「嘘よ! 私を嘲笑っていたのでしょう?」
「なぜ笑う必要があるのでしょう」
「私が敵国の者だからでしょう?!」
無意識に大きな声が出てしまった。ウェリンズでは恥とされる行為だが、ここはカラザスだ。私に対する態度が許されるのなら、私のマナー違反も許されるだろう。
だが興奮する私をよそに、ジャイナの表情はスッと冷えたものになった。
「それでは逆にお伺いしますが、あなた様の仰る貴族にどれほどの価値があるのですか?」
「は……?」
問われている意味がわからない。
(『貴族』に『どれほどの価値』ですって? 貴族であるというだけで、それは大きな価値を持つものでしょう。何を言っているの?)
そういえば、と私は思い出した。
この国には貴族は存在しない。「国王」と「それ以外」から成り立つ国なのだ。貴族の価値にジャイナがピンとこないのも当然だった。
「なるほど、あなたたちには『貴族』という階級が存在しないからわからないのね。教えてあげるわ、貴族がいるからウェリンズのような立派な国が成り立っているのよ」
「なら貴族の方々は何をなさっているのです? 自らの暮らしを庶民が支えていることは無視なさるのですか?」
「だって貴族は存在するだけで尊ばれるものでしょう――」
「どうして国のために働く庶民よりも、美しく着飾るだけの貴族が尊ばれるのです?」
「どうしてって……」
ジャイナの顔は真剣だ。
言葉に詰まった私に、ジャイナは畳みかけるように続けた。
「カラザスの国民に貴賤はありません。国民はすべからく尊いものです。そして国に生きる全ての民を守る者を、国王と呼んでいるだけにすぎません。もちろんウェリンズも素晴らしい国でしょうが、人々が笑顔で過ごせるカラザスも立派な国だと思いませんか?」
「国民が、すべからく尊い?」
次々投げかけられるジャイナの言葉に、私は混乱するしかなかった。
『――貴族は何よりも尊い。庶民とは異なる存在なのだ』
幼い頃から祖父母にそう教えられ、私はウェリンズで生きてきた。
庶民と異なる世界で生きる貴族として、私は自分の欲求を押さえ貴族らしく気高く、美しくあるようにと教えられた。そして尊い貴族の頂点に君臨する王族。私は王太子レスターの妻として、最も尊ばれる存在の一人になるはずだった。
カラザスに嫁ぐよう求められなければ――。
(何が国民よ。土にまみれ、地べたを這いつくばって生きる者のどこが尊いのよ……)
でも――。
私の目は木の実を拾うナナとアンネを追っていた。何やら言い合っては、すぐに朗らかな笑顔を見せる。
(ウェリンズでは人があんなふうに笑うことなんて考えられなかった。そういえば私、誰かの笑顔を覚えている……?)
私は愕然とした。誰の笑顔も思い浮かばない。レスターはもちろん、亡くなった祖父は優しかったものの厳格だったし、祖母は礼儀作法にうるさかった。声を出して笑うことは庶民の行いだ。貴族は礼儀としての笑顔を誰しもが顔に貼り付けているが、心から楽しみ笑い合うことなどない。
(貴族は庶民のように笑い合うなんてはしたない真似しない。でも、もしおじい様やおばあ様、そしてレスター様と笑い合えていたとしたら、どんな思い出を作れたのかしら……)
心が揺れる。ジャイナの真剣な表情に、何か言葉を返そうとするも全く口が動いてくれない。ジャイナは反応のない私にわずかに戸惑いながら、さらに何か言おうと口を開いた。
「ヒルダ様、あなたは――」
「ジャイナ、そこまでで良い」
突然、私たちの間に低い声が割って入った。
(この声は――)
背後から聞こえた声に、弾かれたように振り向くとそこにいたのはジークだった。頬には泥がつき、服にも藁のかすがついている。私と目が合うと、琥珀色の隻眼がフッと細められた。
「あ、ジークさま!」
「ごきげんよう、ジーク様」
彼を見つけたナナとアンネの声が響く。二人は嬉しそうに近づいてきた。
「みて、ジークさま! こんなにとれたのよ」
「アンネはすごいな。今日一番の働き者かもしれないぞ」
「またアンネは自慢ばっかり。いつもすみません、ジーク様」
「ナナもお疲れ様。そういえば小屋の向こうでお父上とお母上が呼んでいた、すぐ向かうといい」
「はい、ありがとうございます! アンネ行くわよ」
「はーい。じゃあね、ジークさま、『はなよめ』さま」
そう言うと二人はあっという間に駆け出した。走りながらも何やら言い合っているが、その声も段々と小さくなっていった。
二人の小さくなる背中を見ながら、ジークはジャイナにも声をかけた。
「ジャイナも人々を集め、二人について行ってくれ」
「……はい、かしこまりました」
ジャイナは私に一瞬気づかわしげな視線を向けたものの、ジークの言葉通り、周囲で木の実を拾っている親子連れに声をかけ始めた。ジャイナに声をかけられた人々は、嬉しそうに顔を見合わせながらアンネとナナが向かった方へ歩き出す。
(ということは、ここに残るのは私とこの男の二人……。いったい何を考えているの?)
怪訝に思いながらも、私は人々を見つめるジークの横顔をただ睨みつけることしかできなかった。