閑話 敵国の花嫁
「寝たか?」
「はい、ぐっすりと。相当お疲れだったのでしょう」
ジャイナは丸い顔をさらに丸くして、心からホッとしたように答えた。
隣国ウェリンズから俺の「妻」として嫁いできたヒルダ・スワン侯爵令嬢。緑色の瞳が印象的な美しい少女だった。ほぼ全ての旅程を窓のない馬車に閉じこもったままやって来たと、護衛をしてきたルインから聞いた時は耳を疑った。
「疲れているのは当たり前だ。ろくに休んでいないのだろう」
「ほんとっすよ。何回声をかけても絶対に動かなかったんですから」
「まあ、ルイン様! またサボっているのですね」
「でへへ。内緒で頼んまっす!」
それまで部屋のソファーに寝転がっていたルインが、ひょいっと赤毛の頭を上げて口を挟んだ。幼い頃からの付き合いのルインは、今は俺の側近として近衛兵の団長を担っている。だがたまにこうして俺の部屋にきては「王と情報交換」という名目で、仕事をサボるためだけにやってくる。
「でもルイン様の仰る通りです。本当に頑なで、かわいそうなお嬢様でいらっしゃいます」
ジャイナは嘯くルインに呆れた顔をしながらも話を続けた。
「なぜ湯浴みを悪とするのでしょう……。年頃のお嬢様ですのに垢が溜まり、髪も固く脂で固まっておりました」
「それほどだったか……」
「どんなにきれいなご令嬢でも、ちょっとあれは異常っすよ。なんなんすか、あの国は」
ルインが疑問に思うのももっともだ。
戦争が始まる前からウェリンズ王国の保守的、そして王侯貴族が絶対的な存在である文化は周辺国でも有名だった。
「かの国では貴族は絶対的な存在。庶民と同じ行動をとるのは恥だとされているそうだ」
食事の考え方も衛生観念もカラザスとは全く異なる。綺麗に着飾り、上辺をいかに美しく取り繕うかのみが重要だとされている。
「そうは言いましても、ジーク様。ヒルダ様の腕は細すぎて枯れ枝のようだったのですよ。何とか口にしてくださった食事も赤ん坊のおやつ程度。この状態が続けばいずれ体を壊します」
「そうそう。持ち物もほとんど虫が卵を産みつけてたんで、残念だけど馬車ごと焼却処分っすわ。馬車を引き取った従僕たちが、いくら香水でごまかしてても浸み込んだ臭いが全く消えないって困ってましたしね」
「ううむ……」
二人の話に俺は唸るしかできなかった。
二人が言いたいことはわかる。数年前にウェリンズを襲った流行り病の原因も、その文化にあるのではと睨んでいたのだから。
「だが、国にはそれぞれの文化がある。人々が培ってきた歴史を蔑ろにすることは許されない」
彼女たちの文化を頭から否定するのは間違っていると思っている。そしてそれが綺麗事だということも――。
「……だとしても、俺はちょっと理解できないっすね。今回だって向こうの要求通りにそれなりの金と相当量の物資を交換条件で渡してるんすよね? なのにあの態度……信じられねぇっす。頭んなかヤバい国だとしか思えないっすよ」
案の定ルインが噛みついてきた。
「ルイン、口のきき方に気をつけろ」
「いや、十分気をつけてますけど。てか忘れてないっすか? 元はと言えば向こうが勝手にカラザスに入り込んで、好き勝手踏み荒らして行ったんっすよ?」
それまで朗らかにしていたルインの顔から表情が消えた。ジャイナも神妙な顔をして口をつぐんでいる。
二国間で起こっている戦争は、ウェリンズが突然侵攻してきたことから始まった。宣戦布告もせず、突然攻め込まれたカラザスは壊滅するかに思われた。しかしまだ若い王だった父が指揮を執り、すんでのところで防衛できたのだ。
(目的は我が国の資源、作物……。兵士は何の訓練もされていない平民たちで、攻め込もうと画策したウェリンズの王侯貴族たちは高みの見物を決め込んでいた)
泥臭い仕事は平民にさせ、上澄みだけを王侯貴族が掬っていくようなカラザスのやり方には俺だって反吐が出そうだ。
(だが、あの子だって利用されているだけじゃないか……)
俺は執務机の上に置かれた小箱を見つめた。ジャイナがヒルダから湯浴みの際に預かったという、守り袋が入れられた箱だ。
(毒の入った小瓶。それを預けたまま寝入ってしまうなんて……)
これはきっと俺を殺すために持たされた毒だ。
初めて声をかけた時の気の強そうな彼女の眼差し。あの瞳には俺への憎悪がこめられていた。気づかないふりをしたが、婚約者から引き離された恨みは相当深いのだろう。
(だけど彼女はその役目に向かなすぎる。それゆえに選ばれたのだろうが……)
きっとずさんな計画で俺を毒殺させ、彼女だけに罪をかぶせるつもりなのだろう。
「……すまない。それでもなるべく彼女の意思を尊重したい」
「はあぁ……。全く、義理固いにも程がありますよ」
俺の言葉にルインは大きなため息をついた。本当は納得していないのだろう。しかしここで引いてくれるルインにはいつも助けられてばかりだ。
「こっちでの名前は何でしたっけ? 忘れちゃいましたけど、あの人たちへの恩返しなんすよね」
「ああ……父の病も重なって手を回すのが遅くなってしまった」
俺の記憶によみがえるのは、痩せこけたカラザスの大地をよみがえらせてくれた一組の夫婦の姿。
「ウェリンズ国が長い歴史の中で育てた知識を、惜しげもなくこの国に与えてくれたんだ。父と共に、彼らの願いを叶えたいと告げたが、夫妻の願いはただ一つだった……」
夫妻の名はリック・スワンとカルディナ・スワン――ヒルダ・スワンの両親だ。
「詳しい事情は子どもの俺は教えてもらえなかった。しかし夫妻が何らかの事情で生まれたばかりの子どもを奪われ、この国に追放されたということは聞いていた。その後すぐにウェリンズの侵攻が始まり、国交は断絶した」
「なんということ。じゃあお二人は……」
「ああ。子どもを取り戻す手段を失ってしまった」
ジャイナが気づかわしげに眉を寄せる。
「この国に尽力してくれた彼らに恩返しがしたかった。今回、停戦と物資、そして金をちらつかせたらウェリンズはすぐに条件を飲んだよ。だが戦乱の中、再び彼らの居場所がわからなくなってしまっていた」
「……え。それってもしかして、もしかしてっすか?」
興味がなさそうにしていたルインが反応した。
「ああ、その『もしかして』だ。ルイン、近衛団団長の職務を免除する。その間、スワン夫妻を探してきてくれ」
「ちょっとぉ~! 俺、国境から帰って来たばっかっすよ! そういうのばっかりじゃないっすか!」
「お前にしか頼めないんだ」
「勘弁してくださいよぉ……」
そういいながらルインはいつもきっちりと任務を果たしてくれる。だらけた態度のせいで普段は目立たないが、この国でも群を抜いて優秀な人物なのだ。
「――なら私は」
口を開いたのはジャイナだ。
「ヒルダ様がこの国になじめるよう、策を練らねばなりませんね」
小鼻を膨らますジャイナの顔はやる気に溢れている。
「生まれて初めて祖国を離れ、顔も知らない相手に嫁ぐことになったのです。ご不安でしょうが、お迎えしたからにはしっかりとカラザスの王妃になってもらわねば」
「それは俺もそう思うが、彼女が嫌がるのなら無理にとは言わない……」
俺はそう言いながら机の上の小箱を見つめた。
恩返しとは言え、自分を殺そうと思っている人物をすんなり妻として受け入れられるかと問われれば、答えは否だ。
俺の逡巡に気づいたのだろう。ジャイナは自信たっぷりに一本指を立てた。
「心配いりません。嫌われ役なら私が買いましょう。まずはしっかりお食事をとり、清潔を保っていただきます。そして――」
ジャイナは立てていた指を、静かに俺の前に置かれた小箱に向けた。
「ヒルダ様に気づいていただかねば。自らがすべきことに……」
ひとまずこの部分まで一気に投稿します。続きは明後日投稿予定です。