弥生の散歩 〜猫柳
三月弥生、この辺りではまだ名残ではない冬の雪が降る日もある。雛祭りは旧暦、四月の方が風も春めいていて良い。
その頃にはまだ枯れ草ばかりの地面も芽吹いていて、オオイヌノフグリの小さなお椀の様な蒼、白い星の様なひよこ草は柔らかにすっくすっくと伸びていて。
柔らかい青が広がる空に鳴くのは雀に雲雀、山に入れはミソサザイ。冬場だと烏の声が、温かい日に聞こえたら良い方で、寒すぎるとそれさえもない、風が空を鳴らす音と雪を踏みしめ歩く音だけ。
橋の欄干から見下ろすのが年中通し好きだ。子どもの頃から橋の下を流れる水を見るのが好きだった。どんぶらこっこ、ゆらゆらとぷとぷ。動いて進むのが面白い。
気ままに生えているのか、その昔に植えられたのか。柳の新芽が艶っぽく陽の光を浴びている。私が住む集落の渓流沿いには柳の木が多い。ぷくぷくとした新芽は可愛くて、日が経つに連れふこふこと黄色く開くと、三毛猫の様に見える。
そういえば。君と一緒に行ったホームセンターで、ピンク系の猫柳の苗が売っていたな、なんの変哲もない銀の猫柳を眺めながら、ふと思い出した。吸い込めば涼やかな甘さが広がる苗売り場、半額のシールが貼られたプリムラが、少しばかりくたびれ顔をしていた。
「猫柳だわ、何でも売ってるのねぇ」
ピンク系の猫柳の苗は、小さな新芽をもこもこと顔を出していた。
「こんな色もあるの、誰が何処に植えるのかしら」
田舎産まれ田舎育ちの自分たちにとっては、猫柳を庭木にしようとは、夢にも思わない。だからそこから出てきた、君の言葉。
「あ。でも考えたら……、ちょこっと浪漫があるわね」
猫柳に浪漫? 何処がと聞けば。
「私が先に逝ったら、庭に植えてみる? 貴方は知らないけれど、どうして庭木にしちゃ駄目なのか、私は知ってんもんね、うふふ」
夏を見ることなく終える花達に囲まれ、得意げに笑う君の遺した言葉を思い出す。
眼下に流れる雪解け水は轟々と音立て、力強く進んでいる。欄干から見下ろす銀色の猫柳。ここいらの風習で庭木にしてはいけないかわいい猫柳。
庭木としては凶木の中の凶らしい。造園屋をしている幼なじみがそう言っていた。
「麓の町でな、街から越してきた客がから、柳の木を植えてほしいって言われてよぉ、やめとけって言ったんだ、凶木の中の凶だからよって」
どうしても植えたきゃ、屋敷内からうんと外して植えろと。茫々に伸びた松を小綺麗にし、はしごから猿のようにひょいと身軽に降りた休憩時間。
「凶木の中の凶とは、それはまた大層な、そういや何でだろう、縁起が悪いとしか知らねえや」
爺さんが遺した庭木の剪定を去年の盆前に頼んだ折に、出てきた柳の話。
「最近出てきたピンクのは知らんが、銀色の猫柳はだめだ。ほれ、幽霊画も柳の木だろう?」
男やもめになり、ようやく程々に美味しい麦茶を沸かせる様になった。よく冷やした琥珀色のそれを飲めと出したら、タオルで汗を拭いつつ、旨そうにごくごくと空にしたあとそう言う。
「ああ、そういやそうだな」
トポトポとグラスに注ぎながら、相づち。
「お精霊さんも川に流すし、ここいら川辺は柳の木ばかり。確か猫柳を植えた場は、あの世とこの世の門になると、親父から聞いた」
庭に面する表縁側、仏間から白檀香の香りが仄かに流れ出ている。そちらにちろりと視線を送る幼なじみは、初盆には来るから、ビールを冷やしておけやと、お代わりを飲み干し、水滴が落ちるグラスを盆に置いた。
ミーンミンミン……、ミン。とろける様な暑さ、白い日差しの中で半分眠りそうな蝉の声が、しゅるりと流れていた。
「浪漫があるわね」
ホームセンターのやり取り。銀色の猫柳を眺めながら君を思い出す。黄色く弾けるように膨らむのは雄、雌の木は白く弾けるので目立たないらしい。じゃぼじゃぼと流れる渓流。山の雪が解けている。
柳の木。銀色仔猫がしがみつくよな猫柳。
緑の色を開いたら、一枝手折って帰ろうか。
柳の木は直ぐに根付くらしいから、植木鉢にでも挿し木をしてみよう。大切に育てて庭に植えてみよう、大きくなれば、多分君に逢えると思うんだ。
「柳の下って、美人のイメージがあるわねぇ、私、ずんぐりむっくりのオカメだからムリムリ」
変なもの植えないでよね。そう戒める君の声が聴こえるよ。轟々と流れる眼下の猫柳、盆に岸に近い場所に石を集めて台を設え、供物を供え鐘を叩く。精霊流し、帰る君、まだ逝けぬ自分。それを見下ろす柳の木は青々と葉を広げている。
あの世とこの世を繋ぐ門になるのなら。凶木の中の凶と云われる、その木を。植えてみたいと切に願う。広い田舎屋での寡夫暮らしも板について……。ここそこに残っていた君の気配が次第に薄らいで、このままだと忘れてしまいそうだから。
もう少し、暖かくなって緑の葉が小さく開いたら、長靴を履いて川に降りよう、一枝手折って帰ろう。欄干から見下ろす猫柳。銀色ツヤツヤ小さな猫が、枝にちょんちょこ。
轟々と流れる川の水も、もうひと月もすれば大人しくなり、雨でも降らない限りは水かさも低いから。欄干から見下ろすと、アマゴの魚影がぬるりと見える四月に入ったら、ポキリと手折ろう。
弥生の散歩、君に逢いたい、猫柳。