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髑髏と私

作者: 歪瑞叶

 部屋の中はコレクションたちで満ちている。

何故だか、昔から泡沫の様な儚く美しいものや、簡単に壊れそうな綺麗なものに強く惹きつけられたのを覚えている。風景にしても、完璧に整えられた平穏な街並みより、震災や津波なんかで一度破壊され、そこから一歩ずつ前へ進もうとする街並みの方が好きだ。人だってそうだ。以前こんなことがあった。彼女から私に告白し彼女から別れを告げ他の男のもとに行った。そんな受動的な交際しかせず、今に至っては絶縁に近くここ半年は碌に話したことはおろか、声すら聞いていなかった彼女の事が不意に可憐に思え愛しくなる。それは、ひとえに、彼女が彼氏の不義を目の前にしてなおも、その諦めを踏破しようとしているからだろう。以前は喫茶店のレコード程度にしか聞こえていなかった、彼女の口から漏れだす嗚咽も彼への陰口も心地よく感じる、別れる以前より私は彼女が断然好きになっていた。(もちろん知人としてだが)。私が桜が散る頃に風に舞い踊る淡い色彩の花弁に、一種の神秘的な雰囲気を見出し美しいと思うのも、ウスバカゲロウの数の知れないおびただしい命の重ね火が小さな水たまりの水面を覆って、石油を流した様な光彩が一面に浮いているのを綺麗だと思うのも、源流は同じものだ。…美しいもの……と言っても決して私に対して媚びず、悲劇の中で儚く雄々しく在ろうとするもの。常に美しく、強く寄る辺が無くとも立ち続ける。その凍てつく青い炎のように美しく、悲しいまでに儚い姿。そういった言うなれば悲壮の美が私は好きだ。人ならば好きなものに囲まれたいと思うのは誰しも思うことだ。故に私に蒐集癖が生まれるのもごく自然なことだった。しかし、私は自分が本当にコレクションの好きな人間だとは更々思っていない。寝食を忘れてコレクションにのめりこむには、あまりにも自分が熱意や執着の無さを常々痛感しているからだ。それに一般にいうコレクションとは違い私の蒐集物は、切手や栞、王冠に鉱石などの括りはなく、ただ無頓着に見た目の雅さや希少さ、概念の悲壮的美しさだけを基準に集めたものたちだ。蒐集癖があるから、物が集まるのか。好きな物を集めてたら蒐集癖がついたのか。ある種の鶏卵問題が頭に浮かぶが、大した問題ではないだろう。しかして、私は意図せず集めたコレクションの中で溺れて、息苦しいくらいに心酔していたかったのも事実だと思う。

 その中でもお気に入りの一つを今回は紹介しようと思う。


……私の部屋の飾り棚には、一つの髑髏が安置している。

傷一つない完璧な髑髏である。ぽっかりと暗い眼窩といい、かのイエス・キリストの茨の冠の様な冠状縫合といい、嫌に綺麗に並んだ歯といい、象牙色を帯びた白い色艶を持つ髑髏は正に迫真の表情で棚の端に座っている。初めて私の部屋に入る客は、この髑髏を見ると必ずと言っても差し支えない程に、部屋の主である私の顔をまじまじと見つめてくる。私はそれに必ず微笑で返す。そうすると

「この髑髏は本物か」と勇敢にも尋ねてくる者たちがいる。私は相手によって

「本物ならどうします」と真面目な顔をしたり「手に取ってみれば分かりますよ」とニヤニヤと笑うときもあれば「安心してください、偽物ですよ。よく出来ているでしょう」と無表情に告げることもある。それは、あらゆるものに無頓着な私にも気の弱いお客を怖がらせない当然の配慮が少しばかりあるからだ。

 無論、私の持っているドクロは偽物だ。中学で理科を教えてもらった恩師の伝手で使わなくなった人骨の模型の頭蓋骨を貰ったのだ。元々、大学の研究用で実物を原型にして作られた模型らしく素人目には見分けは付かない。

 私がドクロを手元に置きたいと考えるようになったのは、何も私が物好きだからというだけではない。私はある言葉に惹かれドクロを欲したのだ。メメント・モリ(memento mori)ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味である。初めてこの言葉を知ったのは田邊元の『死の哲学』を読んだ時だ。その中に自身の哲学の概略を示すための論文が「メメント モリ」と題され収録されていた。

これは中世ヨーロッパの学者たちのある種の合言葉の様なのもだったという。ヨーロッパの中世時代の木版画で、机の上や手元にある頭蓋骨をじっと眺めている学者の構図がよくあるのは、この為だろう。つまり、絵に描かれるほど、当時の学者たちは死の象徴である髑髏を好んで身近なところに置いていたということだ。

 現代に生きる人は死を恐れ、自分とは無関係のものとし考えないようにしている。しかし、私はこう思う。人は死を惧れ、そして同時に死に惹きつけられている。人は死を忘れては生きられない。故に、テレビや文学、漫画や芸術の中で日々死は繰り返され、消費されている。しかし、多くの人は上辺だけの死を見て、本質から目を背け、対岸の火事のように死を眺めているが、私はその篝火で命の熱を感じたいのだ。忘れがちだが死こそ生への活力の源だ。私はそれを忘れたくはない。死に嫌われたくはないのだ。故に、私が中世の学者たちに倣い、手元に死の象徴たる髑髏を置いておきたいと思うのは詮無きことだと思う。

 さて、しかして髑髏に宛があるわけもなく、もし何かの手違いで、或いは幸運によって本物の髑髏を手に入れたとしても、そこには法の壁が高く立ちはだかる事になる。というのも刑法一九〇条に「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する。」とあるからだ。つまり、法を犯すことなく私が本物の頭蓋骨を手に入れることは不可能というわけだ。しかし、ドクロを手に入れる方法が無いわけではない。いつの時代にも同じようなことを考えたりする人はいるようで、彼の小説家、澁澤龍彦も頭蓋骨を欲し手に入れたことが、彼の作品である『髑髏』に記されている事を思い出した。しかし、困ったことに、一介の学生の身分である自分に新品のドクロを注文することは、いささか金銭的に現実的ではなく、考えを巡らした挙句、中学の恩師が大学の教授と仲が良かったことを思い出し、一年ぶりに恩師に電話をしたのだ。


 ドクロが手元に来たのは、アジア系のもっと言えば日本の成人男性の頭蓋骨模型だった。そのドクロの冷たさはたとえようもなくよかった。私は元々体温が低く、事実友達と手の握り合いなどをしてみると、私の手が誰のよりも冷たかった。しかし、手に取ったドクロの冷たさは、私の生者の冷たさではない、所謂死の冷たさが確かにあった。そうして、宝石やガラス玉を眺めるように死を覗き込んでいた。するとふとある考えと一冊の本が頭に浮かんだ。私は本棚から、多くの本を床に引き抜き、本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて出来上がった玉座にドクロを置いてみた。白い色艶に仄かな本の色彩が映り込み、しかして白は極彩色の中で冴え渡っていた。そこからは、子供に戻ったように意味もなく、手当たり次第に本を積みあげ、また潰し、また築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。夢現の幻想的の城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。ふと、編籠の中の林檎を取り出して、また、その横にあったフルーツナイフまで巻き込んで、梶井基次郎が描いた『檸檬』でやったことを私もドクロで試してみたのだ。小一時間ほど、死を彩ることを愉しんで、最後に私の部屋に残ったのは、生の林檎と死の髑髏が等しく、美しいまでに静かに佇んだ二つの城だった。いつか私もこの林檎から髑髏へと座る椅子が移ろうのだなと思うと、やはり、人は死を抱えている方が生を謳歌できる。そう確信できた、あの悲壮な美が自分の中にも流れているのが、当然のように思え最早、それを切り離して自身を捉えなれなくなる。そうするとあの私が望んだ、窒息するような心酔がくる。…あの髑髏は自分の未来だという錯覚が成功しはじめると、私はそれへ想像のインクを綴り始める。なんのことはない、私の錯覚と目の前の死との二重写しだ。そして私はその中で現実の私自身の死を楽しんだ。私が死んで私が生きるその永劫の回帰が儚く美しく楽しかった。

 意識が虚ろに混濁し始めた頃、みゃーと猫の声がした途端二つの城が崩れ落ちた。それは私の意識を簡単に掬い取り、現実に引き戻した。見てみれば、飼い猫の柘榴が悠々と体を伸ばし一つあくびをした。髑髏と林檎は寄り添うように私の足元に転がってきた。私は今、確かに生きている。その実感が痛いほどに私に歓喜の声を上げさせた。

 死を覗き込む事で、生きるとは何と素晴らしいのだと理解できるのなら、きっと人は自分を救済するために生きている。死に触れた間際にそれがわかるだろう。

 

 最後に念のために明言しておくが、私に自殺願望は無いのであしからず。




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