第四話 疑惑が確信に
一度だけ、わたしは魔法をこの目で見たことがある。領主様のもとで婚約をした時だ。
魔法紙で作られた誓約書にサインをした途端、ポワンと不思議な紋様が空中に浮かび上がってきた。よく見るとその紋様は古代文字の羅列で、ぐるぐる渦を巻きながら上昇していく。その様は鳥の群れのように規則的で、不気味ですらあった。天井まで上昇してから急降下すると、二手に分かれ、わたしと相手の左手に流れ込んできた。予想もしない展開に、わたしは左手に消えていく文字を呆然と見つめることしかできなかった。
すべての文字が消えた後、左手中指が燃えるように熱くなった。それも一瞬で治まり、最後に残ったのは、ぐるりと中指に巻きつく蔦模様。ゴシゴシこすっても消えない。誓約が成立したのだ。
魔法による誓約は非常に強固である。婚約なんてただの口約束だと思っていたのに。こうなった以上、お互いの合意がなければ解消できない。カーラさんが「家族も同然」と言ったのは、決してオーバーではなかったのだ。
よく考えずに同意してしまったことを反省している。そのおかげで、わたしは誰ともお付き合いできなくなってしまった。花盛りの乙女なのに。
ベッドの上でのそりと起き上がり、指に巻き付く蔦模様を眺めた。不安のせいか、今日は目覚めが悪い。天気もパッとしないらしく、いつもと変わらない時刻に起きたはずなのに、辺りはまだ暗かった。
今日は、おじさんに「帳簿を返して」と言わなければ。朝食後に言ってみよう。だが、何と理由をつけようか。おじさんはきっと不機嫌になるだろうな。気が重い。
15歳の時に助けてもらった恩に報いたくて、今までできるだけお隣さんには文句を言わないようにしてきた。けれど、さすがに今回のことは知らんぷりできない。
……わたしのお金が使い込まれているかもしれないのだから。
それに、得体のしれない手伝いも不気味だ。
グチグチ悩んだって仕方がない。今日も忙しいのだ! わたしはベッドから飛び降り、いつも通りに仕事を始めた。
落ち込むわたしの気持ちを察したのか、今日は家畜たちも元気がない。「コケ?」と、脱走鶏がわたしの側をうろちょろする。心配してくれているらしい。
「心配してくれるの? ありがとう」
「グェ!!」
わたしは思いっきり脱走鶏を抱きしめた。あったかい体温とふわふわの羽に癒され、少しだけ元気が出た。そう、わたしにはこの子達がいる。しっかりしなければ。
うちの仕事を終えて隣に向かうと、カーラおばさんが出てきた。いつもより早起きである。どうしたのだろう?
朝早いのに、今日もお化粧はバッチリだ。唇の色は紫に近い赤。昨日とは違う色だと気づき、鉛を飲み込んだかのように気分が重くなった。それに、服装もいつもと違う。アララ村ではめったに見ないシルク地のワンピースを着ているのだ。こんなに高そうなものばかり身につけているのは、確かにおかしい。どうしてもっと早く気付かなかったのか。
「おはよう、カーラさん。今日は早いね」
「ジル、今日からちょっと出かけるの。これ、パンを焼いておいたわ」
籠にたっぷりのパンが入っている。こんなに? 3日分はありそうだ。
「ありがとう。こんなに用意してくれるなんて、すごいね。そんなに遠くへ行くの?」
「ええ。ファルクの所へ」
ファルク? 一瞬何のことか分からなかったが、すぐに思い出した。バカ息子の名前だ。「どこ?」って聞き返さなくてよかった。
奴に何かあったのだろうか。いや、それより、奴の所へ行くということは、王都へ行くということじゃないか。3日どころの話ではない。片道一週間以上かかる。
「王都へ行くの? 急に? 子牛が生まれるのに……その間、みんなの世話はどうするの!?」
「だって、ジルがやってくれるじゃない」
「そんな! 全部わたし一人にやれっていうの? それより、餌代は? 畑の肥料代だってかかるんだよ!!」
思わず大きな声で怒鳴ってしまった。カーラさんはビクッと体を震わせ、悲しそうに俯く。わたしの声が聞こえたのか、おじさんが家から出てきた。
「なんだ、ジル。金のことで大騒ぎしてみっともない。不在の間の収入は自由に使っていい。それで賄えるだろう」
「お金が入ってくるのは来月じゃない」
「……じゃあ、少し用立てていく」
ぶっきらぼうに言い捨て、足早に戻ろうとするのを慌てて呼び止めた。
「待って、おじさん。うちの帳簿と通帳をちょうだい」
「……通帳だけでいいだろう」
「だって、おじさんが不在の間は自分で帳簿をつけなくちゃいけないじゃない」
「帰ってからまとめてやってやる。間違えたら直すのが大変だ」
「大丈夫だよ。ナテラに教えてもらうから」
わたしの言葉に、おじさんのこめかみがピクピクと動いた。すごく怒っている。やだな。この様子じゃ、帰ってきてももう今まで通りにはいきそうにない。
「他人に見せるものじゃない」
「それを言うなら、お前さんだって他人じゃないか」
おじさんの言葉に返事をしたのは、ドラトル先生だった。ちょうど牛を見に来てくれたのだ。
「ジルは息子の婚約者だから、家族も同然だ」
「家族同然だけど、家族じゃない。ジルに全部仕事を押し付けるために婚約させただけだろう? 他に嫁に行かれたら、こき使えなくなるからな」
「な、なにを……」
二人が睨み合いをしている。これは、あの夢のシチュエーションか? わたしのために二人の男が争うという……
ちょっとだけ飛びかけた思考を元に戻し、わたしはなんとか穏便に場を収めようとした。
「やだなあ、先生! いいんだよ。わたしはおじさん達に感謝してるから、その恩返しで手伝ってただけだもん」
「そうだ。他人にとやかく言われる筋合いはない」
「うん。でも、帳簿は返して」
にこにこしながらも、じとっとおじさんの目を見つめる。ここで負けては駄目だ。
わたしの本気が伝わったのか、おじさんは諦めたように溜息をつき、しぶしぶ帳簿と通帳を持ってきてくれた。
そして、迎えの馬車がちょうど来たのを幸いとばかりに、二人はろくに挨拶もせず出発してしまった。
「あ! エサ代もらうの忘れたー」
「逃げるように出て行ったな。後ろめたいことがあるのかもしれん」
「さあー? 先生が丁度いてくれて、助かったよ。おかげで帳簿を返してもらえた」
「ああ。ちゃんと調べるといい」
その日は、いつも以上に全力で仕事を片付けた。今日も大きなお世話の手伝いがあったが、気にしている暇などない。早く終わらせて、ナテラと帳簿の点検をしなくては。
夜になり、もらったパンをかじっていると、ナテラがやってきた。昼と違って、カーキ色のスカートを履く彼女は、素敵な女性だ。おしゃれだな。
一歩家に入るなり、ナテラは残念そうに私を見つめた。
「金髪、長いまつげ、翠の瞳、バラ色の頬……めったに見ないほどの美少女なのに、あんたは何やってるの。その姿はいくらなんでも引くわ。せめて切って食べなさいよ」
「だってめんどくさい」
今度はキュウリをポリポリかじりかじる。
「まったく! まあいいわ。帳簿見せて」
わたしの向かい側に座り、ナテラは帳簿をめくり始めた。反対側からのぞきこむと、おじさんの几帳面な字が並ぶ帳簿はまるで芸術品のように見える。日付順に項目と金額がきちんと書かれていて、予想に反して不審な点はない。計算も合っている。苦手だけれど、わたしだってできないわけじゃないのだ。
けれど、ナテラは腕を組んでうーんと難しい顔をした。
「ずいぶん小賢しいことをしているわね」
「何が? おかしいように見えないけど」
「帳簿自体はね。わたしが見なきゃ、バレなかったと思うわ。これ……入金そのものをごまかしてるの」
「うん?」
よく分からない。
「ここ見て。先月の分。うちはこの倍の金額を渡してる。その前も」
「え、じゃあその差額って……」
「そうよ。アビントン家に使いこまれてるのよ。うちの帳簿と突き合わせれば、もっとはっきりする。きっと他の業者でも同じことをやってるだろうね」
「そんな……」
ナテラはさらに渋い顔になった。水色の瞳には怒りが滲んでいる。
「あんたが、もらったお金に無頓着だったからだよ」
「うぅ……図星すぎて、何も反論できない。でも、ちょと使いこまれたぐらいなら大丈夫だよ」
「あんたはそうだろうけどね。問題なのは、使い込みなんかじゃないよ」
なんだろう。妙に怖い顔をしている。母親に叱られた子供の気分だ。
でも、続くナテラの言葉に、そんな呑気な考えは吹っ飛んだ。
「この帳簿の不正が明るみになったら……あんた、罪人だよ」