第二話 家族同然のお隣さん
隣といっても、田舎の家は敷地が広い。ニワトリより足の速い私が全力で走っても10分はかかる。疲れるからちょっと手を抜くと、片道15分の距離だ。
隣の家の家畜たちも同じように世話を終えた所で、隣の奥さん……カーラさんが顔を出した。今日もきれいにお化粧をしている。瞳と同じブラウンの髪をきちんと編み込み、紅をさした唇は艶やかだ。40歳近いとは思えないほど若々しい。
「ジル、おはよう。もうすぐご飯できるわよ。手を洗ってらっしゃい」
カーラさんは、いつもわたしに朝ごはんを作ってくれる。15歳で両親が亡くなった時、隣家のアビントン夫妻がわたしの後見人になってくれた。そのおかげで、叔父夫婦に家を取られずに済んだのだ。
ついでに言えば、同じ年の息子がわたしの婚約者。
「おれは王都で騎士になる! おれほど腕の立つ者がこんな田舎に埋もれるなんて、もったいないだろ!!」
そんな戯言を言って出ていったバカ息子。弱っちいくせに。ずっとわたしに勝てなかったのだ。勝負を挑まれ続けるのが面倒で、15歳の時、わたしはわざと負けた。それだけで調子こいた男は、王都で身を立てたいと言いだしたのだ。
行くのは勝手だけどよ。この家の家畜や畑はどうするんだ。おじさんが怪我しているのに。
……いや、こいつはここにいたって、ろくに手伝いもしないのだが。いつも剣をぶんぶん振って、鍛錬という名の遊びばかりやっていた。顔に自信があったのか、鏡を見る時間もやたら長かったっけ。
役立たずのバカ息子を無視して手伝ううちに、いつの間にか隣家の仕事はわたしの仕事になった。
そして、王都に行くと言い出したバカ息子に、カーラさんが変な提案をした。
「ねえ! 婚約だけでもしていったら? そうすればもう家族同然だもの。離れていても安心でしょ?」
その時初めて知ったが、わたしとバカ息子は村中から付き合ってると思われていたらしい。いつも奴が勝負を挑んできたせいか。まったく迷惑な話だ。奴だってそんなの迷惑だろう。
だが、予想とは裏腹に、奴は顔を赤くしながら頷いた。
かくして、わたしに婚約者ができあがった。その婚約者は王都に行ったきり何の音沙汰もない。カーラさんが落ち着いているのを見れば、まだ生きているのだとは思うが。
隣家の卵を籠に入れ、お家にお邪魔した。今日は8個だ。
「今日は卵がたくさん獲れたのね」
「ああ、うちの鶏は元気がいいな」
グレーの髪をきれいに撫でつけたギムおじさんが、うれしそうに卵をのぞき込む。……わたしが世話してるから元気なんだけどね。まあ、カーラさんの食事がおいしいから、ちょっとのことでは文句なんか言わない。朝だけとはいえ、食事を用意してくれるのは素直にありがたかった。
「いただきます。あ、そうだ。ギムおじさん、牛がそろそろ出産だよ。獣医師のドラトル先生に頼んでおかないと」
「そうなのか。なあ、ジル、やっぱりドラトル先生には頼まないとダメか? お前なら出産の面倒も見られるだろう?」
……またか。先生に払うお金をケチって、出産の度にそんなことを言う。
細面に青い瞳のせいか、ちょっと神経質に見えるギムおじさんは、ケガをして以来ほとんど外の仕事をしていない。代わりに、うちの分の帳簿つけをやってくれている。背はわたしより頭一つ高いけど、腕は私のより細い。
すっかり力仕事から遠ざかっているとはいえ、牛の出産が重労働だってことぐらい分かってるだろうに。出産の世話をしていては、わたしは他の仕事ができなくなってしまう。わたしの体は一つなんだよ。
「できないよー。やることいっぱいだし。それに、難産になったら母牛まで危なくなっちゃうよ」
その一言でしぶしぶ頷いた。母牛を死なせては大損になってしまうから。
まったく、とんだけちんぼだ。
「ごちそうさまー! カーラさん、今日もおいしかった。じゃあ、畑に水をやってから帰るね。トマトが赤くなってるから、後で収穫しておいて」
我が家もアビントン家もけっこうな広さの畑を持っているから、水撒きも大変だ。井戸から水を汲み上げ、両手にバケツを2個ずつぶら下げて往復する。毎日これを繰り返しているおかげで、わたしの二の腕はしっかり筋肉がついていた。並の男には負けない腕っぷしだ。
最後の一回を運ぼうと井戸に着いたところで、ドラトル先生の白髪頭が見えた。
「せんせー! おはよ。こっちこっち!!」
「おう、ジルは今日も元気だな。近くまで来たら、アビントンの牛が出産だって聞いてな。ちょっと様子を見せてもらうよ」
「案内するよ」
先生の前に立って歩き出せば、人の好さそうな眉尻を下げて、先生がわたしをじっと見る。
「ジルはいつまでアビントンの家畜を世話をしてるんだ? もういい加減、手を引いてもいいだろう。どうせ婚約者は帰ってこないぞ」
「あのバカ息子なんてアテにしてないよ」
「はは、バカ息子ね。ぴったりだ」
「うん。だって、名前忘れちゃったんだもん。なんだっけなー?」
「ジル……婚約者の名前を忘れたのか」
「会ってないし、手紙もないし。あ、でも顔は覚えてるよ。たぶん、会えば分かる」
残念そうな先生の視線が痛い。
「じゃあ、なおさら隣の面倒を見る義理はないだろう。アビントン夫妻はお前を利用してるだけだ。このままじゃ行き遅れになる」
「うーん。ま、そうなんだけど。でも、おじさん達がいたから、叔父に家を取られずに済んだわけだし。ま、あのコ達のこと放っておけないしね」
「ジルが心配してるのは家畜たちか」
先生が大きな溜息をつく。幸せが逃げちゃうよ。
「あ、あの子だよ! 尻のブチが可愛いやつ」
「それじゃあ、どの牛か分からん。……いや、腹がでかいから分かるけどな」
「一週間以内には産まれると思う」
「分かった。……ジル、お人好しもほどほどにしとけよ」
先生の言っていることは、たぶん正しい。優しいな。あと二十歳若ければ惚れてるところだ。
少しだけうれしくなってにやにやしながら井戸に戻ると、バケツがきらきら光っていた。
「なんだー?」
よく見ればなんてことはない。中の水が反射していただけだ。
でも、待てよ。ここを離れる時は空だったはず。
「お前がやってくれたの?」
足元にいた蛙に聞いてみるが、「ゲコ?」と首を傾げられた。
どういうことだろう。辺りに人の気配はない。飼い葉桶のことといい、絶対に気のせいではないのだけど。
……本当に小人さんか妖精さんでもいるのかな。