第十七話 借り物の淑女
何枚のドレスを試着したのか、もう覚えていない。会話を楽しむ余裕があったのは最初の方だけで、段々わたしはぐったりしてきた。立っているだけなのに。畑仕事の方が楽だな……なんて考えていると、いつの間にか二人がかりでコルセットをぎゅうぎゅうに締め上げられていた。
「グエッ」
中身がでちゃうよ! 少しだけ脱走鶏の気持ちが分かったような気がする。
最後にさらさらシルクのドレスを着た。着心地はいいけれど、薄い布地で心元ない。ちょっと大股に歩いたら破けちゃいそうだ。鏡を見ると、ライムグリーンのスカートに、濃いグリーンのレースがふんわりと重ねられた、可愛らしいドレスだった。
なかなか似合っている。この色合いは……キュウリだけど。
お団子ちゃんが茄子色のベルベッドに金糸をあしらったチョーカーを首に結んでくれると、少し大人っぽく見える。なるほど、小物だけでこんなに印象が変わるとは。侮れないな。
「さ、次はこちらへ」
大きな化粧鏡の前に座ると、三人がかりで髪をとかし、禿げるかと思うほど引っ張りながらきつく結いはじめた。器用に編み込む娘さん達の指先を見て、これはどうやってほどくのかと、後のことが心配になる。
マダムは壁塗り職人レベルの技でわたしの顔におしろいを塗り込んだ。仕上がりを見て満足げに頷いているが、皮膚呼吸できなくて苦しい……
最後に取り出したのは人参色の口紅。これを塗ってくれるの? 初めての口紅に、わたしは気分が少し浮上した。
だが、唇に筆をのせられた瞬間……気持ち悪くなった。
この油臭い物体は何!? 唇がねちょねちょする。こんなものを塗ってしまっては、おいしくご飯が食べられないではないか。
苦しい・臭い・気持ち悪い。三重苦で辛いが、みなさんの歓声に励まされて、なんとか口角を上げた。ここで文句を言ってはいけない。それぐらいの空気はわたしにも読める。
「絶世の美女に変身ですね~!」
お団子ちゃんが手を叩きながら褒めてくれた。
「本当に。こんなに美しい方は見たことがございません」
マダムも太鼓判を押してくれる。だが、鏡の中の自分を見ても、不自然な借りもの姿の女性が案山子のように突っ立っているだけだった。違和感しかない。
踵の高い靴を履いてよろよろと部屋を出ると、そこにはセドがいた。
戻ってきてたんだ!
胸のもやもやが一気に消えた。不思議なことに、彼がいるだけで店内が明るく見える。
彼も今までとは全く違うしゃれた装いをしていた。
白いシャツの上に銀糸をあしらった紺のジャケットを羽織り、すっきり細い同色のズボンを穿いている。靴は黒光りする牛革だ。わたしとは違い、彼はこんな装いにもしっくりなじんでいた。
「ああ、ジルの瞳の色のドレスか。偶然揃ったな」
そう言われて、タイとチーフがドレスと同じ色だと気付いた。そうか、このドレスはわたしの瞳の色なのか。てっきりわたしがキュウリ好きだから選んでくれたのかと……いや、マダム達はわたしの正体を知らない。ということは、わたしの瞳の色はキュウリ色だったということか。ずっと両親から翠だと言われていたけれど……
セドが素敵すぎて、思考が変な方向に飛んでいる自覚はある。何も返事できないまま、近づいてくるセドを見上げた。
「どこに出しても恥ずかしくない淑女だ」
わたしの手を取り、優しく声をかけてくれる。
その時、やっとわたしの頭は動き出した。どんなにお化粧をしてもらっても、荒れた手は隠せないと気付いたのだ。
「手がガサガサだから……」
そう言って引っ込めようとした手を握りしめられた。
「働いている手だ。何を恥じることがある?」
「恥ずかしいとは思わないけど……こういう恰好には似合わない……」
「そんなことはない。この手も含めてジルだ。君のすべてに誇りを持っていい」
優しさの中に甘さまで含んだ声音に、わたしの心臓はまた加速しはじめた。荒れた手を認めてくれるなんて思ってもみなかった。
うれしい。すっごくうれしい。
セドは握りこんだわたしの手を持ち上げ……なんと、手の平にキスをした!!
な、なにをするの! 手の甲にだってされたことがないのに。
背後から「きゃああ!!」と悲鳴が上がる。
「見繕った商品はここへ届けておいてくれ」
マダムにメモを渡すと、そのままわたしの手を引いて店を後にした。
店の外には、どこから来たの? と思うぐらい大きな馬車が停まっていた。
「こんなに大きな馬車で、どこまで行くの?」
「海鮮料理を食べようって言ったじゃないか。」
「ご飯を食べるためだけに、こんな馬車を用意したの!?」
キスの余韻が残る手を握りしめ、わたしは呆然と馬車に揺られていた。
すべてが凄すぎて、いちいち反応するのも億劫になってしまった。もう、なるようになれ!
馬車に揺られて着いたのは、大きな大きな食堂。いや、食堂と言っては失礼だな。村の定食屋とは比較にならないほど大きな建物で、明かりがきらきらと灯っているレストランだ。
セドにつかまりながら歩いたので、なんとか転ばずに済んだ。エスコートはこういう意味があるのだと、初めて知った。
奥まった個室に案内されてドアを開けると、一人の男性がいた。金髪碧眼の王子様みたいな人だ。誰だろう?
「なんでお前がいるんだよ」
「ひどいな。人に用事を言い付けておいて」
「通信だけでいいじゃないか」
「冗談! せっかくだもの、ファルクの婚約者を見たいじゃないか」
どうやら、セドも想定外だったようだ。いきなり来るとは、ずいぶんセドと気安い関係である。わたしのことを知っているのは、例の噂でも聞いたからだろうか。
その人は立ち上がり、そばまで歩み寄ってきた。近くで見ても、きれいな男の人である。
セドにつかまっているのと反対の手を取り、丁寧にゆっくりと挨拶をしてきた。
「初めまして、ジル。私の名はアンドリュー。王太子という名の中間管理職をしている」
おーたいし? 聞いたことのないお仕事だ。何をしている人だろう?