疑問
私は古い人種であるかも知れない事を予め断って置く。
私は小説を読む。又た必要が有れば雑誌も読むし、論文や日記、或いは解説も読む。即ち文章を読むと言いたいのであると同時に、良い文章と云う物は領分を問わないのであるとも言いたい。然う為て、此の文章と云う範疇にはインターネットに掲載為れる他者の小説も、当然と含まれる訳である。
然し乍ら、其れの見難い事。文章が酷く短かったり、奇抜な箇所で改行為て居たり、読点や句点や不明の効力を持って居たり、擬音が多かったり、表現を擲ったり、列挙為れば長いから省かせて頂くけれども、読み難いか然うではないかの問題に非ず、純然と見難いのである。全体が羸痩の気配に包まれて居る。著者や読者の諸氏は彼れで見易いのであろうかと疑問を抱く。
私と為ては文字が多く纏まって居る方が見易い。構成を把握為易く、視界に入る情報も多いのであるから、必然と理解が進む。数多の文章も然様に書かれて居るであろうから、私は巧く説明出来ないけれども、実際の効果が有るのだろうとも思う。比べてインターネットに上がる小説の一隅は其の効果を全く否定為、新たな仕様を生み出し、育んで居る。育まれたと云う事は支持為れたと換言為得るけれども、其れが復た分からない。何者に支持為れて居らっしゃるのであろう。謂う所のジュブナイル・ノヴェルと云う物が強いて挙げるならば近いのであろうけれども、ジュブナイルも見難い物は見難いのでは無いだろうか。
然う思うなら然う思って居れば良いだろう、要らん感覚を振り翳すなと思われる諸氏へ宛て、私は敵愾を以て斯う述べて居るのでは無い事を分かって頂きたい。私は純乎と知りたいのである。何故にインターネットに在る一部の小説を謳う文章は彼の様な体裁を取る。混迷である。