月をみる
高校生の頃から月を見るのが好きだった。都市部のよくある高校によくいる普通の生徒だった僕は、自分の部屋を暗くして窓から月を見ていた。あえて象徴的なことを言うつもりはない。ただその明るさに、見蕩れていた。何が正解なのかわからない世の中で、月が悠然とあるというそのことだけがある種救いのように。そんな風に当時の僕は安らいでいた。
随分と月日が流れたように思う。また同時に、その月日は一瞬だったともいえるのかもしれない。僕はまた、月を見ている。夜を照らす大きな月。
平安貴族は、やはりこの月を同じように見ていたのだろうか。ふと思考を巡らす。いや。僕は思う。今と昔とでは夜の趣が違う。かつて、夜空には星があった。燦然と煌めく星々は地へは届かないほどの光で、それでもなお主張していたのだろう。もちろん月も今と同じように地面を明るく照らしたのかもしれない。それでも、と僕は思う。
都市の明かりは人を幸せにしたかと聞かれると首を傾げる。街灯は夜道を騒がしく照らしてくれるが、その騒がしさは星の可能性を、声をかき消したから。街灯は最も大きな声、月だけを正当と認めるオーソリティのようだ。小さな声は薄闇に溶かす。
何が正解だなんて言う権利も頭も僕にはない。そもそも正解なんて無いんじゃないかと思う。けれど高校生の時、私が月の明かりに求めた安らぎは、マジョリティへの迎合だったのだと。そんなことをマイノリティになった1人の夜に、考えている。