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 最後に言いたい事としては、こうして「対話」の側面として文学、というか小説作品を考えていくと、小説ー文学というもの自体が一つの思想であるように思えてくる。つまり、そこではそれぞれの生き生きした実在は、単一の真理では捉えられない、捉えられてはならない、という思想である。そしてこの思想は語られず、実行される必要がある。この思想は当然、語られた途端に一元的な真理に結晶してしまう類の真理だからである。


 作家からすると楽なのは、一元的な作品である。自分一人が夜郎自大であって、自分一人、自分の国、自分のグループのみが正しく、その他は愚か者か取るに足りない連中であるという単純な構造というのが、クリエイターにとっては楽な事である。そしてこういう単純な構造は実は受けが良い。なぜなら人は、そんな風に自分をみなしたいという無意識的欲求を持っていて、その欲求を刺激する作品は、大きくヒットしたりする。(今頭に思い浮かべているのは「シン・ゴジラ」だ)


 しかし、実はこれとは正反対の作品も同様に楽だったりする。「世界に一つだけの花」に代表される、表面的な多様性礼賛作品である。これもまた、クリエイターにとっては安易で楽であり、しかも受けが良かったりする。ここでは多様性が肯定されてはいるものの、実は表面的な論理を世界に対して一面的に行使し、その部分を、部分として認めているに過ぎない。皆同じで皆いい、あるいは皆違って皆いい、というその皆の顔つきはどうしてこうもふやけて、似通っているのだろう。多分、世界が終わる時、人は深刻な顔をしているのではなく、どこか幸福そうな、ふやけた微笑をしているのだろう。


 優れた小説ーー文学作品は、そのどちらをも排除し、世界を理性的に洞察しなければならない。そして真のクリエイターは自分が最も撃滅したい相手すらも自分と同じ地平線上において眺め、何故彼がそうであるのかを徹底的に理解しなければならない。ドストエフスキーは「未成年」のラストにおいて彼の作家技法を独特な言い方で語っている。それは「洞察し、間違える事」である。美しい、整備された形式が失われた今、混沌の現在に、混沌の方法を持ってドストエフスキーは入っていったのだった。


 文学作品は、個々のキャラクターが何であるかを解明する義務を負っているように思う。現在ではこの義務を遂行するのは難しい。ある時期から文学は現実と接着した健全な、穏やかな日常を描くものになり、危機や暴力を描くにしても、金持ちのお坊ちゃんが一時ぐれてみせるような、そんな甘さしか感じさせない。僕達は何かに柔らかく包み取られているのだが、それがなにかわからない。心の深層には絶えず無意識的なストレスが溜まり続けているが、その原因がどうしても特定できない。そこで、安易な子守唄が聞こえてくるが、それは僕達の表層のみを慰撫し、深層は無視する。なにかがズレているのだが、そのズレはどうしても感知できない。


 文学作品において人間とはそもそも生き生きした存在であらなければならないが、現に生きている僕達は生き生きしているとはとても言えない。小説という形式において、個々の人物は自己を言葉によって開示しなければならないし、その開示の仕方は相互依存形式ーー対話という形式が望ましい。そう考えても良いだろう。この時、人間を一義的に決定できないか、決定してはならないという態度が作家の態度となる。更にドストエフスキーにおいては、それはキャラクターの態度にすらなる。ドストエフスキーのキャラクターは(バフチンの言うように)他人の定義を打ち破ろうともがいている。彼は生きた存在であろうとするから、他人の、死に似た定義を我慢できない。例え間違っていても、彼らは自らを生きたいから他人の定義が我慢できない。また、他人の定義が正しければ、その「正しさ」にこそ、彼らは噛み付くのである。つまり、人間は論理ではないと彼らは身を持って証明しようとする。その為に何を失ってもかまわないのである。


 こうしてドストエフスキーのような作家の作品には独特のポリフォニー空間が現出する事となった。普通の作家においてキャラクターは静的な存在だとすれば、ドストエフスキーのキャラクターは動的だと言えるだろう。宮崎駿の作るキャラクターが、一々自分自身に反抗していたら、安心して見る事ができない。多分、宮崎駿作品とかワンピースのような大衆ヒット作品というのは、一様にしてキャラクターが自分の定義を覆さないからこそ安心して見られるという性質を持っているのだろう。彼らは作者が与えた定義の範囲内でドラマを作る。キャラクターそのものが自らの定義を食い破ろうとする劇はそこには決して作られ得ない。そしてそれが現れると、例えば、社会におけるある役割を安心して享受している「普通の人」はまるで不可解なものでも見るかのようにそれを見る。そこでは、自分を疑い、その本質を露わにさせる事は社会の根底を破壊する事につながると彼らは本能的に知っているに違いない。自分そのもののあり方を疑い、本質を露出させようとする事は、根本的に不可解な、社会の掟を破る何事かを含んでいる。しかし例えそうであっても人間は自由に生きたいのである。ここに劇がある。そこには人間の生き生きした姿がある。彼はそこで、客体的な視線を脅かす何かを始める。つまり、自己との対話であり、他人との対話である。彼は自分とは何かと考え、その本質を露出させていく。そこで、彼は自らの本質と世界の本質に対して、他者を通じて深く問いかけていく。この時同時に、それを見ている安定した視線も一度は脅かされざるを得ない。人々、というのは何かに対して目を瞑る事から可能なある恒常状態である。本質を求める事は、これに揺さぶりをかける事でもある。


 「対話」は、言葉によって他人との関係を決め、自分との関係を発露させる道具である。これによってキャラクターは自分が何かを読者に開示させていく。この「対話」は我々が通常行う「会話」とは全く違うものである。僕達はおそらく、そもそも自分の事を全然知らないのだ。だから、僕らの理性は僕らの深層に届かない。三島由紀夫の右翼的思想は三島の魂の深くまで洞察しきった故に出てきたものではなかった、と僕は考えている。そこでは、本格的な対話がまだ本質にまで至っていない。この対話を出現させ、その各々の存在を生き生きした姿として、ポリフォニー的空間を表すのが真の作家だと、言えるように思う。そしてそういう作家は現在ではいない。現在は人間そのものの捉え方がまだはっきりと決まっていないし、どの捉え方が正しいのか全くといっていいほどわかっていない。しかし遺伝子学や脳科学、経済的価値によって人間は計られると信じる人間も多い。僕はーー自分の立場からはーー文学にはもう少しは可能性はあるように思う。しかし、その為には今いる位置から膨大な努力が必要となるだろう。自分を知るという事はとかく難しい。漱石が、ドストエフスキーが描くべきものをはっきり定めたのは四十過ぎてからだった。しかも、彼らがそれにようやくたどりつく事ができたのは、おそらく非常に長い間に渡って自己との対話を繰り広げたからであろう。僕はそんな風に考える。そしてその対話は、やがて文学作品という形で花開いたのだった。彼らの作品は相互対話的であり、それぞれが互いを理解しようとする事が、彼らの世界理解の答えなのだった。つまり、答えよりも答えを求める態度の方が、文学という未完成なジャンルにはふさわしい。世界は未だ閉ざされておらず、そしてこれまで一度も、閉ざされた事はないのだ。ここに確定的答えを与えようとすると対話は止み、「演説」が始まる事になるだろう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 小説における対話の役割、意義。 物凄く勉強になりました。
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