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では、このドストエフスキー・シェイクスピア的原理(シェイクスピアも含めるが)は、タイトルの「対話」とはどういう関係にあるのだろうか。その場合、「対話」は関係性として規定される。また、ドストエフスキーが個人に与える「思想」の定義は、「対話」を成立させる為の諸元素として位置づけられるだろう。
この場合、僕は、ドストエフスキー・シェイクスピア的原理を仏教的な『関係主義』として捉えたい。関係主義とは、個々の物事のあり方は、それ独自なものとして捉える事は不可能であり、それらは常に関係の側面としてしか捉えられない、として考えるものだ。これと反対なのは『存在論』『存在主義』で、ある真理や物事を単独で、その全てを捉えきれるというものだ。
この『関係論』『存在論』を大雑把に二つに区切った時点で、先に述べていた、文学と学問との関連性に気付く事ができるだろう。つまり、文学は『関係論』であり、学問は『存在論』である。…もちろん、この分け方というのはとてつもなく大雑把かつアバウトなものなので、本格的に学問の問題を指摘しているわけではない。区分するのに便利だから使っているだけの話である。
さて、学問ー存在論の系譜から考えていくと、世界は単一の真理で把握可能という事になる。それらは単一の存在の様相を取っており、ある視点を取れば、世界の様相は確実に捉えられる。物理法則には世界各地、宇宙のどこでも通用される事が要求される。この時、物理法則各々が相互の存在を持って葛藤しうるというのは奇妙な話だろう。そんな葛藤は解消され、科学は単一の真理を目指す。学問はこのように世界に大きな網の目を投げかけ、世界を一つに溶かそうとする。
一方で文学はーーというか、ごく一部の特異な文学者はーーそうはしない。バフチンはドストエフスキーについて鋭い指摘をしていた。ドストエフスキーは「罪と罰」において、ラスコーリニコフの殺人正当化の思想を語らせる時も、決して単一のモノローグ的な観点から語らせなかった。それはポルフィーリィの口をついて出てくるのであり、したがって、元のニュアンス、原型をとどめていない形でラスコーリニコフの思想は現れてきた。これをもっと突き詰めていくと、そもそも人間には追い詰めるべき原型などないという事になる。人間は種々の関係の中でのみ自らを開示してく存在であり、だからこそ、肯定するにしろ、否定するにしろ『他者』が必要となる。より強烈に言えば、そもそも「自己」とは「他者」との関係の中で規定される動的な存在であるから、唯一絶対な自分を他者に開示したり、閉却したりという事自体がそもそも存在しないのである。
この時、注意しておきたい事が一つある。それは自分との対話も、「他者との対話」の中の一つに繰り入れられるという事である。ドストエフスキーにしろ、シェイクスピアにしろ、キャラクターの自己との対話は完璧な水準に達している。そこでは、理性が自らを振り返って自らと応答しているようだ。ドストエフスキー、シェイクスピアの偉大さはこのように自己を完全に客体化した個人を作中に描き出している事にあると言ってもいいだろう。そしてこの時、やはりこの自己対話は非常に生き生きしたものである。彼は自分と語り、自分に問いかけ、その存在を自分に対しても開示しようとする。そしてその事により、その存在が読者である私達にも開かれるのだ。一つ、例をあげよう。
(シェイクスピア「ジュリアス・シーザー」 ブルータスの妻ポーシャの言葉)
「もう家にはいらなければ……情けない、意気地がなさすぎる、どうしてこうなのだろう、女の心は! ああ、ブルータス、運良く本望をお遂げになるように!」
ブルータスの妻のポーシャはこのように語る。この時、妻ポーシャは自分の女としての意気地のなさを嘆いている。しかし、だからといって、彼女自身の女らしさを嘆く彼女の理性は、彼女を純粋に客体的に眺めている。普通の現実において、僕達はそれぞれの立場、例えば「男」や「女」やといったものにとらわれている場合が多いわけだが、この時、ポーシャもそれにとらわれてはいる。しかしながら、それに捉えられている自分を純粋に見つめる理性の目は、それには囚われてはいない。つまり、ポーシャは女であり、女ゆえの弱点を晒したわけだが、しかし、それを見つめる彼女の理性は女でも男でもなく、純粋に「人間的」と呼ぶ代物である。
シェイクスピア作品に見られる人間造形の偉大さは僕はまずこの点に認められるのではないかと思う。そこでは悪人も善人も己が何者であるかという事を世界に開示される事が要求される。そしてそこでは、上記のように自己への痛烈な対話として示される場合もあるし、演説や他者との対話という形を取って示される事もある。しかしいずれにせよ、これらの人は男であり女であり、ローマ人であったりキリスト教徒であったりするのだが、どっちにしろ彼らは理性の偉大な目が差している限り、どこまでも「人間」なのである。彼らは理性によって自己をえぐり、世界に開示する点において、徹底的に平等であり、なおかつ自由なのだ。ここでポーシャは、女としての弱さをさらけ出しているからといってそれが女を非難するものでも肯定するものでもない事は見て取れるように思う。ポーシャはとにかく「そのような人間」なのである。そしてポーシャという、劇の中ではそれほど重大ではない人物もシェイクスピアの手によって、とにかく自分を開示する一人の偉大な人間として、我々には指し示されるのである。
さて、このようにして、「自己との対話」も「文学内の対話」の一つとして重要な事が分かった。長くなったのでまとめていくと
① 文学作品におけるキャラクターは言葉によって自らを指し示す。そこでは「対話」が重要な位置を占める。
② 対話はそれぞれの生き生きした実在を示す。対話は関係的である。それは一元的な真理を行使しない。というより、一元的な真理は行使できないと考えるから、人は対話的に自らを示さなければならない
③ 対話は自己との対話も含む。
という辺りになる。
本当はここからもっと先の事を考えていかなくてはならないのだが、これ以上やるともっと長くなるので、この論はここらあたりで辞めておく事にしたい。(続く)