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文学作品にとって「対話」というのは非常に重要な要素として存在する。そしてこう考える際、僕は「対話」と「会話」を一応区別しようかと思う。僕が「対話」という事で言いたいのは、文学作品内部の個々のキャラクターがそれぞれ自分の本質を言語表現するという意味での「対話」であり、それは具体的にはシェイクスピアとドストエフスキーの作品内部における「対話」を指す。だから僕が「対話」をイメージする際は、かなり狭い範囲の話になる。
…とはいえ、そうしたイメージにだけ縛られる事なく、漠然と話を進めていこう。優れた批評家であるハワード・ホークス氏はミハイル・バフチンの議論を前提にしつつ、小説における「会話」とはどんなものかという優れた論考を書いている。こうした事は非常に参考になったので、最初に書いておこうと思う。
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さて、文学作品で「対話」、あるいは「会話」はどんな意味を持つだろうか。人は普段、『普通に』会話する。しかし、我々の普段の会話というのは大抵、内容に乏しい。「昨日、〇〇行ってきたんだよね」「あ、あそこ、こないだ私も行ったよ」「えー、うそ? ××いたでしょ?」「いたいた、でさー」 みたいな感じで、活字で現しても、ほとんど意味内容が感じられないようなものである。もちろん、そうは言っても、それを話している僕達自身が空虚である訳ではない。僕らの普段の会話というのはほとんど、会話外の情報が多いように思う。相手の顔色や雰囲気、服装や身振り手振りによって僕達はなんとなく会話している。そこでは、言葉の意味概念で捉えられない情報で僕達は話している。さりげない日常会話の中でも「あ、あの人は私に好意を持っている」とか「あの人は私を嫌いらしい」とか、人は様々に日々感じるだろう。では、これを文学作品において活字に表すとどうなるのか、という事が問題になってくる。
文学の面倒な問題というのはこの辺りにある。言葉の羅列によって、世界は抽象化される。僕達は過去の古い書物を読む事が可能だが、それは言葉が様々なものを抽象化する、その作用のおかげである。しかし、その作用は現実のあり方の非常に多くの部分を捨象してしまう。これら捨てられたものの中に、本当の僕達の生き生きした姿はあるのではないか。…もちろん、答えはそれで正しいのだが、しかし、言葉によってもう一度、生きた現実、生きた人間を取り戻す事に文学の本懐があると言っていいだろう。言葉は世界を抽象化し、やせ細ったものにするが、それを再び、世界以上の大きさに、豊かなものにする過程において文学の技術というものがある。そんな風に考える事ができるだろう。
さて、この時、言葉はどのように人間を現していくだろうか。
例えば、バフチンが教えてくれた事だが、全く同じ言葉でも、話者が違えば、全く違う意味を持つ事になる。例を出すと、
A「昨日、マクドナルド行ってきたよ」
B「昨日、マクドナルド行ってきたよ」
という『会話』があれば、Bの言葉は嘲弄の意味を持つ事になる。これは当たり前の事だが、非常に重要な事に思える。AとBの言葉の意味内容自体は全く一緒だが、話者が違うという事で違う世界が開けてくる。例えば、これが言語学であるなら
「昨日、マクドナルド行ってきたよ」
という語は単一の意味として捉えられるはずだ。言語学における言葉の意味は、話者の変化を考慮に入れていない。それは単一にして全体的な意味作用であり、だからこそ『辞書』というものが成立する。言語学、科学のような学問はこうした一元的な体系によって世界を俯瞰視する。だからそこに体系的な真理が生まれるのだが、文学作品においては、そうした一元的な真理は行使されえない。何故なら、単一の真理を握っているものが仮にいても、それは登場人物の一人として作中に埋め込まれるやいなや、一つの関係の網の目に組み込まれた一元素となるからだ。
もちろん、そうは言っても、小説の作者が、自らが正しいと考える思想を、自らが正しいと信じる登場人物にべらべら喋らせるというパターンは存在する。この時、おそらく、こうしたパターンを使う人物はそもそも小説というものが何故そんな形式を保っているのかというのを徹底的に思考していないのではないか、と思う。(もし徹底的に思考している者なら、単に僕とは違う考えの持ち主だという事になるが) もし、そういう事がしたいのであれば、別に小説という形式を使わず、単なる「演説」つまる所、「エッセイ」「批評」という形式で充分だろう。そしてこの場合は作者から読者に対して「作者→読者」という一本の線が引かれており、それを何かの理由で薄める為だけに小説という形式が採用されているにすぎない。しかし、小説の真の能力は作者の思考、哲学を主要な登場人物に語らせる事にあるのではない。そうではなく、小説の構造と機能は、そのような作者の思考や哲学すら相対化して作品の中に折りたためるという事にある。
ミハイル・バフチンにしろ、ハワード・ホークス氏にしろ、彼らは小説というものを構造的に、関係性として捉えている。その際、問題となっているのはそれぞれのキャラクターの独立性である。しかしながら、もちろん、それぞれのキャラクターの独立性を成り立たせているのは作者である。では、それぞれのキャラクターを成り立たせている作者の個性とはどんなものだろうか、と考えるとこれが難しい。特に大作家においては圧倒的に難しい。なぜなら、普通に考えれば、作者と言えども、現実世界では無数の人間の中の個性の一つに過ぎないからである。シェイクスピアにしろ、ドストエフスキーにしろ、彼らは多くの人間の中の一人に過ぎないはずである。彼らは単に、一つの個性として現実の世界を生きていたはずなのに、何故、彼らの作品にかくも無限の個性が集積し、そこでそれぞれが自己を主張する事が可能になったのだろうか。ここに非常に難しい問題がある。
僕の見方ではこの難しい問題に対して、多くの知識人はつまづいているように思う。例えば、ドストエフスキーに影響を受けたと称する作家が、自分のキャラクターに思想めいたものを語らせる。そこで「自分はドストエフスキーの影響を受けた」と信じるのだが、実際の所には似ても似つかない。では、何故、似ても似つかないのだろうか。
これに関しては割に明瞭に答える事ができるように思う。既にバフチンの指摘している事だが、ドストエフスキーは思想というものを単に主人公に語らせているわけではない。ドストエフスキーにとって思想とは生きた人格であり、何よりも生きた人間そのものの事だった。これがシェイクスピアにおいては情念と理性というような項によって、人間が括られるがドストエフスキーにとっては「思想」というものが人間に対する定義として当てはまった。もちろん、これは現代社会を写したものである。
例えば「罪と罰」をよく読んでみて欲しい。そこでは、ラスコーリニコフの情熱に浮かれた言葉に釣られて、つい作者も舞い上がって文章を書いていると思いがちだが、実際、背後にいるドストエフスキーは案外冷静、冷淡である。ラスコーリニコフにしろソーニャにしろ、ポルフィーリィにしろ、それらの人物は自分の存在と自分の主張を融合させて生きているものの、ドストエフスキーは安易にそれに与したりしない。つまり、ドストエフスキーは思想というものをキャラクターに語らせているのではなく、むしろ、思想というものが生きた存在として社会の中を通行している現代世界を客観的な位相から描いている。
だから、ドストエフスキーはあくまでも思想を描写していると言える。この時、ドストエフスキーのキャラクターの誰彼の思想が浅はかであるとかないとか、そのような批判は微妙に的はずれな批判だ。なぜなら、現実世界においては浅はかな思想に捉えられてとんでもない事をしでかす人間だって存在するからである。問題は、僕達が(バフチンの言うように)、まるで一人の作家の作品について批評するかのように、ドストエフスキーの小説の中のキャラクターの一人について語る、という事にある。この時、僕達はドストエフスキーが思想を「描写」しているのではなく、むしろ、ドストエフスキーが思想を語っている、と無意識的に見てしまっている。だから、そこでドストエフスキーの作家としての位相が見逃される事になる。